優しい毒











小さな寝息が聞こえる。
ベッドに腰掛けた焔の膝の上で、心地良さそうに眠る悟空。

是音と紫鳶は椅子に座って、雑談をしている。
けれども、その二対の瞳が時折こちらを見ているのが判った。


「……よく寝るよな」
「そうですね」
「寝る子は育つってか?」


チビだけど、と。
起きていたなら、間違いなく抗議の言葉が飛んでくる事だろう。
しかしその当人は、すっかり夢の世界の住人だ。

事実眠った分だけ成長するというのなら、悟空は明らかに発育不良だ。
余計な肉がついていないと言えば聞こえはいいが、華奢だと言ってしまえばそういう事になる。


「それにしても……」


是音の隻眼が、はっきりとこちらを捕らえる。





………壊してしまうには優しすぎる、その静かな風景。





ずっと待ち望んでいた、温もりと。
手を伸ばしても届かなかった、光。

壊してしまうには、その間にあるものは、余りにも細い糸。







それでも、いつかは。









「…いつまで続ける気だい? 大将」




告げられた言葉は、一つのカウントダウン。
────恐らく、二度目の。

最初のカウントダウンのリミットは、とっくの昔にゼロを切っていた。
それでも無様に足掻いて、全部落ち切った砂時計をもう一度ひっくり返した。




「判ってんだろ? いい加減に潮時だ」
「彼らも……ね」




どんなに壊しがたい時間でも。
どんなに手放しがたいものでも。

最初から赦されていなかった。
その理を振り切って、手を伸ばした。
後の壊れる瞬間を、判っていながら。







だって。
このてのひらを、一度でも掴みたかったから。








一度でも触れた温もりは、二度と手放す事が出来なくなる。
知らなかった───無かった状態には戻れなくなる。

判っていても、手を伸ばした。
判っていても、望まずにはいられなかった。
……光を求めずにはいられなかったのだ。


闇だけが傍にあった。
冷たさしか知らなかった。

……最初は、それだけで十分だった。
知らなかったのだから。
望む事さえ、なかったのだから。




知ってしまったから。
出逢ってしまったから。
気付いたから。

忘れていた筈のそれが、欲しくなった。
自分に無いものを求める、幼い子供のように。





光が。

熱が。


……全て、欲しくて。




















腕の中で眠っていた悟空が、ゆっくりと目を開ける。
見下ろせばすぐに、今だまどろんでいる金瞳とかちあった。

窓辺から差し込むのは、紅い陽光。
是音と紫鳶は随分前に部屋を出て行った。
それからじっと二人、音の無い空間。


衣擦れの音がして、悟空が焔に抱き付く。


「……お腹減った……」


お決まりとなったその言葉に、自然と笑みが零れる。
もう少しだから我慢しような、まるで子供に言い聞かせるようなその台詞。
悟空は少し愚図ったけれど、甘えさせて貰って満足なのか、特に何も言わなかった。


「オレ、いつから寝てたの?」
「さぁな……」


この部屋には、時計はない。
時間を知らせるものは、傾いていく太陽しかない。
けれども、それについて悟空が何かしら不満を言った事は無かった。

時計があると、時間の流れがはっきりと判ってしまう。
特に定刻など決めている訳ではないから、どうせなくたって構わないのだ。
だから、此処には時間を知らせる人工物は何一つ置いていなかった。





だって、いらないから。

終わりに近付く時間など。




強く抱き締めると、髪の毛先が当たってくすぐったいのか、悟空は小さく笑う。
その無邪気さが何よりも愛しい。



「カード、結局焔にも負けちゃった」
「偶然だろう。ビギナーズラックとか言ったな」
「オレにはそんなの全然ないんだけど」



拗ねて唇を尖らせながら、悟空は言う。



「誰が一番勝ったんだっけ」
「是音だな」



悔しいな、と。
腕の中の存在は、丸きり子供の顔だ。

赤子をあやすように大地色の髪を撫ぜる。
金鈷の上に口付けると、ほんのりと頬を朱色に染めた。
その初々しさが、また子供らしさと愛しさを誘う。


いつか勝つ! と意気込んでいる悟空。
そのいつかが来るのは、随分遠い日のことになるだろう。
けれどもそれを口にする事は赦されないのだ。

カウントのリミットはもうゼロに近い。
砂時計は、もう罅が入っていて、ひっくり返そうとすればきっと粉々になって散るだろう。




悟空は今の生活を気に入っているし、是音や紫鳶に構って貰えていつでも笑っている。
焔が遠出から戻ってくれば、いの一番に迎えに出てくる。
それだけでも、十分なのだ。






……なのに、もっとと望んでしまうのは、人としての性なのか。





欠伸を漏らすのが聞こえて、起きたばかりだというのに、悟空はまた目を擦る。
甘えるように擦り寄るのは、まるで子猫のようだ。

そのまま眠りを促すように、腕の中に閉じ込めて。
太陽の匂いのする大地の髪を撫ぜて。



「悟空」
「……なに?」



もう夢半分なのだろう。
温もりに抱かれていると、この子供は酷く大人しい。

眠っている時に見る夢は、どんなものだろう。
この子供は自由だから、判らない。





「此処に、いたいか?」





突然の問いかけに、悟空は頭が回らないらしく。
ぼんやりとした金瞳で、こちらを見上げて来る。



此処。
この場所に。
緩やかな時間に。

この傍に。
焔の、傍に。












「うん」













そのまま悟空は、眠りに身を任せて。
焔はその唇に、触れるだけのキスを落とす。


判っている。
判っている。

それが本音でない事ぐらい。
歪められた心の言葉である事ぐらい。
奥底で眠る本音が、泣いている事ぐらい。


だから。





「……すまない……悟空……」





愛しているのは、本当だから。












優しくて甘い毒は


もう戻れない所まで、身体の中を蝕んでいる。



























暗い水の向こうに揺れる知らない街の灯り
とても近くに見えたまほろばの花の頃




……あの時もう一つだけ遠い波を超えたら
貴方のいる岸辺まで辿り着いたの?










黄昏の海に出て
二人は二度ともう巡り会えないの


淋しい眼差しを重ねて眠った夜も消えて………


















FIN.




後書き