雪と呼び声








……いつからこうなのかと言われると、自分でもよく判らない。

気付いた時にはこうなっていて、自分ではどうしようもなかった。
判らぬ内に、心の中に巣食ったこの感情は、日に日に肥大化していく。
どうして良いかも判らず、ただ毎日を蹲ってやり過ごしていた。


何故だか、怖かった。
自覚したら、もっと怖くなった。

目を背けていれば消える訳ではないけれど、見ている事も出来なかった。
耳を塞いで、眼も閉じて、口を開けたら叫びそうだったから、それも必死で噤んで堪えた。
布団に包まって蹲って、そうしていても、やっぱり脳裏に浮かんでくる、それ。

“それがある”と言うだけで、酷く恐ろしくなった。



別に、それが何をする訳でもないのに怖いのだ。



何をする訳でもない。
ただ音を消すだけだ。
ただ世界を白で覆うだけだ。

他に何をする訳でもない。



けれども、それらが怖かった。

全てを覆い尽くしてしまう癖に、自分だけは隠してくれない。
隔絶されている事を余計に感じさせられる。


その頃は、呼べる名前なんてなかった。
自分の名前以外は何もなかった。




寒いし、
冷たいし、
音はなくなる。

大地も白に覆われ、空も白に隠され、自分の周りだけが取り残されているようで。
それは暖かい場所にいても同じで、ふとそれを見た瞬間に思い出す。



それらはあっという間に心の中へ滑り込み、蹂躙し、支配し、蘇らせる。






だから、せめて。

確かな温もりが欲しくて。
確かな音が欲しくて。
確かな、光が欲しくて。











捕まえている事しか、今は術を知らない。


























はらり、と。
視界の端で何かが揺らめいたのを、三蔵は見た。

何気なく振り返り、肩越しに窓向こうの外界を見る。



「………降り出したな」



きっと昨晩も降っていたのだろうけれど。
改めて呟くと、悟空は益々、三蔵にしがみついて来た。


逃げないように、逃がさないように。
縋り付いて来る悟空の腕は、そんな力が篭められている。

震えるその手は、怯えている事を伝えて来る。
それに気付かぬ三蔵ではないけれど、敢えて何も言わなかった。



「……悟空」



この手を離したら、消えてしまうんじゃないのか。
悟空はそんな事を考えているのだろう。
そんなにか弱い存在ではないと言うのに。

思い込みの激しさは随一だと、三蔵は思う。
一度そうであると思い込んだら、誰が何を言っても聞かないのだから。



「……顔上げろ、悟空」



言えば悟空は、三蔵の胸に顔を埋める。



「話をする時は、相手の目を見ろ」



低い声音で、三蔵は言った。
悟空が緊張したように、空気を一瞬固まらせる。

三蔵とて、それを律儀に守っている訳ではない。
それでも一応の礼儀として、悟空に教えている。
今のところ、それが効果を発揮した事は一度もないのだけれど。


おずおずと上げられる顔。

またそれが引っ込んでしまう前に、頬に手を添えて固定した。
珍しく悟空は嫌がったけれど、三蔵も離すつもりはない。





金色の瞳は、涙で滲んでいた。








「……ゆき……」





掠れた声で紡がれた言葉。
一瞬何の事か判らなかったが、ああ雪か、と理解できた。

溜まっていた雫が、それを皮切りにしたようにして溢れ出した。
それは目尻から落ちて、頬を伝い、三蔵の手まで濡らしている。
身体は三蔵に密着しているから、顎から落ちた雫は、法衣に落ちた。


雪がどうした、とは聞かない。
聞かなくても、判る。




─────……去年であっただろうか。



雪が怖い。
雪が齎す静寂が怖い。
雪によって隠された白だけの世界が怖い。


雪が。

雪が。




そう言ったのを、三蔵はまだ覚えている。
言った事を、悟空が覚えているかは定かではないけれど。



「……まだ、嫌いか」
「………ぅあ………」



怖いのか、とは聞かなかった。
似たニュアンスの言葉を選んだのは、なんとなくだ。

500年の間に培ったものが、そう簡単に消えるとは思えない。
拾ったばかりの頃に三蔵と一緒の時間の方が一杯だと、悟空は確かに言った。
言ったけれど、気持ちだけで全てを片付けられるものではないだろう。


事実、こうして悟空は怯えている。



「……しばらくは止まねぇぞ」



今年の寒波は長く続く。
何処かでふと、そんな事を聞いたのを思い出した。

今年は悟空にとっては、静か過ぎる冬になるだろう。

頬に添えた手に、悟空の小さな手が重なった。
それから、その小さな手は、今度は三蔵の金糸へと伸ばされる。

金糸に指を絡めた後、悟空の手が下ろされる事はない。
形を確認するように、三蔵の頬に触れたり、耳に触ったり。
背伸びをして、額にも触れる。


そして時折、視線は遠くへ泳ぐ。



「……いつまでも甘えてんじゃねぇよ」



言う三蔵だけれど、幼いその手を振り払おうとはしなかった。

三蔵がしゃがむと、悟空の方が目線が高くなる。
顔の位置が近くなって、互いの顔が先刻以上によく見えた。


甘やかしている自覚は、あった。
それなりに、程度ではあるけれど。



「おら、嫌なら見るんじゃねぇ」



唐突に腕を引っ張って引き寄せると、悟空は呆気なくバランスを崩す。
そのままへたりと床に落ちるかと思えば、そうではない。

しっかりと、三蔵の腕の中に、悟空は閉じ込められていた。



「俺は相手の目を見ろって言ったんだ。余所見してんじゃねぇ」



言いながら三蔵が悟空を見下ろす。
すると、悟空の視界は三蔵だけで埋まってしまった。

その向こう側には、窓がある。
けれども悟空には三蔵しか見えていない。
金瞳が捉えているのは、強い強い紫闇だけだ。


小さく頼りない肩は、まだ震えている。
震えてはいるけれど、先刻よりも落ち着いたのではないだろうか。



音を聞いて。
声を聞いて。

色を見て。
金色を見て。






その温もりを捕まえて、ようやく。








「……悟空」



うん、と今度は蚊の鳴くような声で、悟空が返事をする。



「悟空」



もう一度。




「悟空」




何度も、呼んで。







「悟空」









呼ばれる名前も、
呼ぶ聲も、
掴む手も、


全てあるのだと、



そして。










「………さんぞぉ………」













呼ぶ名前も、持っていると。


気付かせて。



















「……もう、寝ろ」



目元を隠すと、小さな手が三蔵の肩に触れる。
次にこの手を離したら、瞼はまた閉じられているだろう。

閉じている間は、白い世界など其処にはない。
代わりに闇があるけれど、夢路に誘われればそれもない。
三蔵が傍にいる間は、恐らく目覚める事もないだろう。


この温もりを、手放さない間は、きっと。



「……三蔵」
「あ?」



ぼんやりとした声で、悟空は三蔵を呼ぶ。



「……呼んでて…いい?」
「……仕方ねぇからな」



どうせ止めても無駄なのだから、と。
素っ気無い態度を崩さないまま、三蔵は言った。



「…三蔵も……呼んでてね」



誰を、何を、とは言わない。
声なき聲で通ずるのは、他にない。

呼べばそれは、真っ直ぐに相手に繋がる。
他に邪魔するものなどない、それが喧騒であれ静寂であれ同じ事。
呼んだ聲は確かに相手の心に届く。







どうせ呼ばなかったら、呼ぶまで煩く呼ぶのだ。








……仕方ねぇから、呼んでやるよ。

お前が外に出る日が来るまでは。



























あなたと繋がる呼び声が




どうかいつまでも途切れてしまわないように














例えばこの手を離しても




心はどうか繋がるように




















この白がすべてを覆い尽くしてしまっても







あなただけは見つけられるから





















FIN.




後書き