雷と子供と







まだ遊びたいと駄々を捏ねるかと思ったが、悟空は思ったより素直に寝床に入った。
最後に部屋を出る時、身動ぎして丸くなった姿を覚えている。

きっとこういう日でさえ、あの保護者は傍にいるのだろう。
雨の日は苦手な癖に、どうしても子供の事が放っておけない。
それは自分も同じなんだろうな、と八戒は小さな笑みを浮かべた。


悟浄は「ちょっと飲んでくる」と言ってこの雨の中を行ってしまった。
正直ではない彼の優しさは、八戒に取って酷く気が楽だった。
その傍らで、やっぱり彼に悪役は向かないのだろうなと不意に思う。

ジープだけは自分の傍で寝酒に付き合っていたけれど、程なく潰れてしまった。
ザルの八戒と同じペースで飲むのだから、まぁ当たり前だろう。



一人になって、切り取られた外の世界を覗き見る。


雨は朝まで止む事はないだろう。
天気予報を見た訳ではないけれど、多分、この勘は外れない。

早く止んで欲しいと思わない訳ではなかったが、半分は諦めてもいる。
空を覆う暗雲は今しばらく退いてはくれないだろう。


窓辺の上。
セロハンテープと凧糸で吊るしてある、白い物体が目に付いた。

八戒が風呂に入っている間に、悟空が作ったらしい。
風呂上りの八戒に嬉しそうに見せてきた、それ。
晴れるおまじない。
こんなものを作るなんて可愛いな、と思いながら頭を撫でていた。

けれども空はその願いも虚しく、しばらくは空の涙を見続けなければならないようだ。


そう思った直後、遠い一点が光ったのが見えた。



「……雷ですかね……」



それ以外にないだろう。
空の雲に光が反射したから、間違いない。

動物(と言って良いのかは少し微妙だが)であるジープは、気付いていないようだ。
八戒が思っているよりも深酒しているので、それも無理はないだろう。



「悟空は、喜びそうですねぇ」



雨の日だって外に出たがる子供なのだ。
雷なんて、光ってきれい、なんて言い出すだろう。

雷はお臍を取っちゃうんですよ、と言ったらどんな反応を返してくれるだろう。
やっぱり慌てて臍の辺りを手で隠して、真意を問い詰めてくるのか。
三蔵がそういう幼稚な事を教えるとは思えないから、きっと知らないと思う。


暢気にこんな事を考えている辺り。
多分ほんのりと、酒が回っているのかも知れない。







コンコン、と。
控え目なノックが一瞬誰の物なのか、判別する事が出来なかった。

起き上がって蛍光になっている時計を見れば、既に夜半になっている。
悟浄が帰ったのだろうかと思ったが、外の雨は寝る前よりも激しくなっている。
これだと誰か女性の家に泊まってくるのではないか。


ならばこのノックの主は誰か。
自分以外にこの家にいるものは、たった一人しかいない。


ジープを起こさないように起き上がって、部屋の扉を開ければ、やはり。



「どうしたんですか? 悟空」



枕を抱きかかえて、俯き加減で立ち尽くしている子供。

膝を少し折って、身長の低い悟空と目線の高さを合わせてみる。
光源がないので俯いている悟空の表情は伺えなかった。


けれども。



「……悟空?」



ぽすん、とそんな軽い音を立てて、抱きついてきた小さな身体。
邪魔になるだろう枕は、こちらもまた軽い音を立てて床に落ちてしまった。
サイズの合わない寝巻きに身を包んで、悟空はぐりぐりと八戒の胸に頭を押し付ける。

少々戸惑いつつも、八戒は悟空の頭をくしゃくしゃと撫でてやった。



「怖い夢でも見たんですか?」
「…………うぅん」



頭を押し付けたままで、悟空はふるふると首を横に振った。
零れた言葉は小さくて、静寂の中でなければ聞き取れなかっただろう。

のろのろと持ち上げられた顔は、何処か不安に揺れているように見える。
暗がりの中で見るから、余計にそう思うのかも知れない。
だがしがみ付いて来る小さな手は震えていて、確かに心細さを表していた。


その時、窓向こうが目映い光に包まれた。
暗闇に慣れた目にそれは強すぎる光で、八戒は目を細める。

それと同時に、再び押し付けられて伏せられてしまった、子供の頭。



「……雷、怖いんですか?」



小さな頭が、ほんの僅かに頷いた。


悟空が雷を怖いと言った事に、然程の違和感はない。
悟浄が言い出すよりも、ずっとずっとまともに見えるだろう。

部屋に招き入れられてから、悟空はずっと小さく背を丸めている。
まるで怖いものから隠れるようにして、きっと雷が過ぎ去るのを待っているのだ。
毛布を与えてみれば、やっぱり隠れ蓑にするように包まってしまった。


悟空をベッドに上らせて、八戒はベッドサイドに腰掛けた。
位置的に悟空に背を向けてしまう格好になるのだが、肩越しに振り向けば子供の顔が見える。



「いつ起きたんですか?」
「……さっき……」



雷の音で目が覚めたんだと、悟空は言う。


最初は布団に包まっていれば眠れると思ったが、雷の音が考えていたよりも近くて驚いた。
光も強くて、ひょっとして真上で光っているんじゃないかと思うほど。

布団に包まって別の事を考えて、頭の中から雷の事を追い出そうともしてみた。
けれども大きな雷の音は、幾ら何をした所で、防げるものではなかったのだ。
刹那的に光る雷光は瞼の裏でも煌くから、起きているのか寝ているのか、判らなくなる。


それでも、最初のうちは我慢できたのだ。
最初のうちは。


眠れない時間が長くなると、やはり頭から追い出すことも諦める。
諦めた後に気疲れの睡魔はやって来なかった。
羊の数を数えてみたけど、音と光が鳴る度に全部の意識が覚醒する。

耳を塞いでも眼を閉じても、頭の中に流れてくる音と光。
光は嫌いじゃないけれど、雷だけはどうしてか苦手なのだ。


……そして限界が来てからの行動は早かった。



「我慢したんですね」



偉い偉い、と大地色の癖っ毛をくしゃくしゃと撫でてやる。
その感触に、ようやく悟空の身体の強張りが解けてくれた。

けれど窓の外がまた光ると、たちまち身を固くしてしまう。



「ほら、もう寝ちゃいましょう」
「……悟浄は?」
「雨が弱いうちに出掛けちゃってそのままです」



毛布に包まって芋虫状態になっている悟空をベッドに横にさせる。
八戒はその隣に身を滑り込ませて、掛け布団を掻けた。
その掛け布団も手繰り寄せる悟空は、よほど不安なのだろう。

それにしても、雷が苦手だったとは。
普段怖いものなんてないんだと言い張っているのに、これは悟浄に知られたら揶揄いの種だろう。




「……八戒」
「はい?」



ごろごろと音が鳴る度に、悟空は身を縮ませている。
いつもは見せないだろう姿に可愛いなぁと思いつつ、やっぱり可哀想だとも思う。



「…寄っていい?」



言った悟空だったが、二人は既に随分近い距離に位置している。
ベッドはシングルだからそれも無理のない事で、これ以上離れたら八戒が落ちてしまう。
悟空は一応壁際にいるのだが、何せ八戒は成人男子だ、無理もない。

だからこの“寄っていいか”は距離の事だけではないだろう。


八戒は小さく笑って、まだ発展途上な子供の身体を抱き込んだ。



「…ありがと」
「はい、どう致しまして」



遠慮しなくて良いですからね、と小さな声で囁いた。
腕の中に閉じ込めた悟空の身体は、やはりと言おうか、温かかった。

人の温もりを感じて、ようやく安堵したのだろう。
悟空は長い呼吸を一つして、また八戒に擦り寄った。
その様は丸きり仔犬か何か小動物のようで、少し笑みを誘う。



「……なんか八戒、酒の匂いするね」
「…ああ、ちょっと飲みましたから」
「ジープも飲んだの?」
「ちょっとだけ」



実際はちょっとではなく、かなり付き合わせてしまったのだが。
勿論、その時分はまだ眠っていたのであろう悟空に判る由もない。



「酒って美味いの?」
「飲んだことありませんか?」
「三蔵がダメって」



…あった方が可笑しいとは考えない八戒だ。


自分たち大人組と来たら、未成年から飲酒喫煙しているのだ。
かく言う八戒がいつ飲むようになったかと言えば、あまり記憶にないのである。
いつの間にか酒の味を覚えていて───ただ予想を立てれば、やっぱり未成年の時であった気がするのだ。

その癖、誰も悟空に酒を飲ませることを良しとしない。
悟浄は面白がって飲ませようとしている事もあるが、その都度、弾丸か気功が飛んで行くのである。

だから悟空は保護者達と違って、酒の味を知らない。
飲めても下戸ですぐに潰れてしまうんじゃないか、と八戒は思った。


悟空自身は飲み物であるから気になるようだが、保護者が駄目と言えば我慢するしかないのだろう。
不満そうな顔をしつつも、大人しくそれを守っているらしい。


何度目か知れない稲妻の音が響いた。
腕の中に閉じ込めた子供の肩が、大仰ではないかと思うほどに跳ね上がる。

逃げるようにすがり付いてくる子供の頭をくしゃくしゃと撫でてやった。



「も、やだぁ」
「大丈夫ですよ、ね?」



半泣きの声で漏れた言葉に、苦笑が隠せない。
けれど悟空は八戒の胸に顔を埋めているから、それに気付けなかった。

うー、と意味を成さない篭った声。
此処まで雷が苦手だったとは、やはり動物だからだろうか。
この心の声が当人に聞こえれば、間違いなく憤慨するだろう。



「やー!」



またも大きな音が響いて、悟空は声を上げた。
そんな幼い子供に、八戒はクスクスと笑ってしまう。
幸いにも、それは雷の音が誤魔化してくれた。

すがり付いてくる手は思っているよりもずっと小さいものだ。
今年で16になるとは、到底思えない。


でも悟空には小さいままでいて欲しいなぁ、と八戒は思う。
この縋り付いてくる手が、擦り寄る暖かい身体が、このままだったらいいと思う。



「悟空、ちょっと痛いです」
「だってだって! だってヤなんだもん!」



痛いと言っても、悟空の馬鹿力を思えば可愛いものだ。
耐えられない訳ではないし、骨が軋むなんてものでもない。

離れちゃ嫌だと言うように、悟空はぐりぐりと頭を押し付ける。
それに押されてベッドから落ちるなんて失態をしないように、八戒は少し中寄りに移動した。
落ち着く場所を見つけてから、もう一度悟空を抱き締める。



「もうオレ雷嫌い〜っ!」
「おやおや」



光る一閃に喜ぶかと思えば、これだ。
珍しく子供について予想が外れて、八戒は笑みが漏れた。



「大丈夫ですよ、此処にいれば。安全ですから」
「うん」
「何も怖いものはないですからね」
「…うん」



悟浄がいたら、こんな風に甘えてきてくれただろうか。
今は同居人の不在と、不謹慎だが雷に感謝した。

ああ、そうだ、と。
八戒にしては珍しい悪戯心が芽生えたのは、この時である。



「悟空、知ってますか?」



身を縮めている悟空に、優しく語り掛けてやる。
雷の光を見ないように眼を閉じていた悟空だったが、そう言われては気になるのも無理はない。
そっと持ち上げられた顔は、窓から差し込む一閃でまた強張ってしまった。

話があるなら早く、と金色の瞳が揺れている。
なるべく安堵させるように、八戒は赤子をあやすように悟空の背中を撫でてやる。



「雷ってね……お臍を取っちゃうんですよ」
「え!?」



想像した通り、悟空は目を丸くして驚いている。



「そういう言い伝えがあるんです。悟空は大丈夫ですか?」
「え、え、ちょっと待って……ある! まだある!」



ごそごそと布団の中に包まっている自分の腹を確認する悟空。
こうも予想通りになってくれると、本当に可笑しい。

声を上げて笑いたい八戒だったが、今は必死に耐える。
それでも幾らか笑みは零れているのだが、常に笑顔を浮かべているので、傍目には違いは判らないだろう。



「雷って、ヘソ取るの!?」
「迷信だという人もいますが、本当かも知れませんね」
「えーっ!!」



敢えて曖昧な言い方をすれば、悟空はやっぱり真に受ける。
相手が悟浄であるならまた違うかも知れないが、話しているのは八戒だ。



「取られたらどうなるの!?」
「そうですねぇ…それについては、僕も詳しくはないんですが…」



ひょっとしたら、と怖いことを言ってみる。
暗がりにも判るほど、悟空の顔面が蒼白になって行った。

ちょっと脅かし過ぎだろうかとも思うのだが、やはり止める人間がいないとエスカレートしてしまうものだ。
悟浄がある事ない事ごちゃごちゃにして悟空に色々と聞かせている気持ちが、今だけ判る気がする。
あんまり素直に信じ切ってしまうものだから、返って清々しい程だ。

事の後処理(質問攻め)に合うだろう三蔵は、溜まったものではないのだろうが。



「そんなのやだぁ〜っ!」



また光った稲妻から逃げるように、悟空は八戒にしがみついた。




「大丈夫ですよ、悟空」
「だって! だって八戒、ヘソ取るって!」
「ちょっと大袈裟でしたかねぇ」



主に最後の一言が。

だが縋り付いてくる子供は、見事に信じているらしい。
大仰だとかインチキ臭いとか考えない辺りが子供扱いされる要因なのだが。

それも三蔵が過保護に育てる所為なんだろうな、と責任転嫁してみる八戒である。



「なぁ、なんとかなんないの!? どしたら取られない!?」



詰め寄る悟空を、八戒は一先ず落ち着けさせる。


そもそも雷なんかが臍を取るなんて。
非科学的すぎる話だと思うのだが、悟空は微塵も疑っていない。

雷が臍を取ると言うのが文字通りの事なら、きっと大人は皆臍がないだろう。
雷を見るのは生きている間に何度もある事だから、本当の話なら殆どの人間が早いうちから取られてしまう。
が、そんな事を考える余裕は、悟空には微塵もないのだ。


此処までパニックにさせてしまったのだから、宥めなければ可哀想だろう。



「もともと言い伝えのものですから、おまじないでなんとかなるかも知れませんね」



傍から聞けば、なんとも無責任な台詞だ。
けれど悟空は、何すればいいの、とまた問うて来る。

最初はその辺りまで考えていなかった八戒だが、頭の回転は早い方だ。
そうですね、としばしの間を置いてから、考える素振り──思い出す素振りをしてみる。
悟空は鳴り響く雷を警戒しつつ、早く早くと急かす。


思いついたのは、まだ抜け切らない悪戯心から。



「悟空、ちょっと眼を閉じて下さいね」



言われた悟空は、素直に瞼を下ろした。

爛々とした金瞳が隠れると、悟空の印象は随分変わる。
幼さは変わらないのだが、無邪気な雰囲気が消えてしまう気がするのだ。


前髪を掻き揚げて、それでも金鈷をずらさないように気をつける。






それから、額に口付けた。







予想していなかった感触に驚いたらしく、悟空の眼がぱちっと開かれた。
大きな金瞳に、八戒の顔が反射して見える。



「これでいいですよ」
「……もう取られない?」
「はい」



後で三蔵に知られたらやっぱり殺されるのかなぁ、と思いつつ。
八戒はもう一度小さな身体を抱き締めて、くしゃくしゃと頭を撫でてやった。



「……ホントだ、怖くないもん」



悟空が言ったのは、もう何度目か知れない光が閃いた時だ。

そういう要素があったのか、と驚くのは八戒だった。
湧き上がった想いを悪戯心に触発されての事だったが、悟空はすっかり落ち着いたらしい。
八戒の胸に顔を埋める悟空の身体からは、先刻まであった緊張が欠片もない。



「じゃ、もうお休みしましょうね」
「うん……あ、八戒!」



眠る体勢に入ろうとすると、悟空が慌てて名を呼んだ。

そしてはい、と返事をする前に。




額に触れた、柔らかい何か。







「おやすみっ!」












………雷の音も光も、雨も。



今は酷く、遠い。

























傍にあなたがいてくれたら





きっと怖いものはなくなるんだって思うんだ



















あなたの温もりがあったなら























FIN.




後書き