繋ぎ糸







手持ちの包帯だけでは足りないだろうが、しないよりはマシだ。

少し進んだ先にあった川岸で、悟空の服を脱がせた。
露になった其処には不自然な穴があり、波が引いていたはず何かがまた湧き上がるのを感じた。
けれど、今はそれに気を揉んでいるような暇はない。


血に染まった服は、流れの緩い川岸に重石をして、せせらぎに泳がせておいた。

濡らした布で傷の周りを拭いてやると、時折痛みがあるのだろう、僅かに反応する。
小さな手が抗議のように三蔵の胸元を掴んだけれど、その力は酷く頼りなく弱かった。
それでも、反応するだけまだ良い方だろう。



「……悟空」



名を呼ぶと、小さな身体がふるりと震える。
出血した所為で寒さを感じるのだろうか、悟空は暖を求めるように三蔵に縋ろうとする。



「動くな」



胸元を掴む手を握って呟けば、夢で聞こえてでもいるのだろうか。
それ以上動く事はなく、そのまま落ち着いたようだ。

瞼が何度か揺れたけれど、開かれる様子はない。



「………バカが」



何に対しての呟きなのかは、三蔵にもよく判らなかった。

情けをかけたのか否か知らないが、迂闊な隙を見せた悟空に対してか。
それとも、あの妖怪が動く事に気付けなかった己に対してか。


どちらでもいいのだ、そんな事は。
あの妖怪は三蔵が殺したし、逃げた輩もそう簡単に戻って来る事はないだろう。




だから今は、そんな下らない者よりも、子供の方が大事だ。







(─────大事?)





ふと、過ぎった考えに三蔵は手を止めた。



(………何が?)



手当てを止めた手を見下ろし、それから小さな手が視界に入った。
その手はどちらも、同じ色に染まっている。


出血はとうに止まっているが、失われたそれは戻る事はない。
このまま容態が悪くなり、雑菌でも入れば、目覚めることはなくなるかも知れない。
この紅が流れることさえも、二度となくなるのかも知れない。

…何故だろうか。
それを一瞬でも考えるだけで、酷く自分の血が冷えるような気がした。



「……さ…んぞ………」



うわ言のように呼ぶ、声。
繰り返し止まない、聲。

どちらも呼ぶ名前は、一つしかない。



「……さんぞぉ……」



捕まえるように握る、小さな手。
ついさっきまで、駆け回っていた小さな身体。



(………何が、何を)



“大事”だと。

そんなものは、そういう“守りたい”ものは。
所詮誰も救うことなど出来ないのだから、必要ない筈で。





ならば今、自分は何を考えた?















「あ、ぅ……!」



悲痛な声に、意識が現実に返ったのが判った。

空は何時の間にか暗い色に覆われ、明かりも殆どない。
夜になって気掛かりなのは、妖怪よりも夜行性の動物の方だった。
特に今は、血の匂いに誘われて寄ってくる可能性が高い。


傷口を包帯で覆って、三蔵は薄い布で悟空の身体を包む。
そうまでしても、やはり悟空は三蔵から離れようとしなかった。
篝火を焚きたかったのだが、これでは枯れ木を集めることも出来ない。

しかし、三蔵は動く気にもならなかった。

生来の面倒臭がりの所為ではない。
腕の中に抱いた子供が離さないから────…それもあるが、それだけではない。



「……悟空」



このまま離れたら、いつだって子供は息を止める事が出来るだろう。
三蔵に縋る小さな手だけが、唯一の繋ぎ糸。



「………水…飲ませた方がいいか……」



水筒は、手を伸ばせば届く所にあった。



「う…ん………」



けれど、悟空はそれを飲もうとしない。
飲み下すだけの気力さえも、血と一緒に流れ出てしまったのか。

仕方なく口に含んでから、口移しでそれを飲ませる。
不思議と、そうする事に抵抗は感じなかった。
少し強引に歯を割らせ、頭を仰け反らせると、ようやく飲み込む。



「…ふ、ぁ……」



くいを離すと、もっと、と言うように小さな手が引っ張った。


それに応じるままに、もう一度口付ける。
悟空の口内は僅かに鉄の味がしたが、それだって不快にはならなかった。

あの時妖怪を殺して腕に浴びたものは、それだけで酷く気持ちが悪かったのに。
何故か、悟空のそれだけは。



小さな身体を抱いたままで、三蔵は適当な木に背を預けた。
意識のない子供の身体は、思った以上に軽い。
確か、気を失ったものの身体というものは、目覚めている時より重いのではなかったか。

それとも、それらも全部血液と一緒に流れたとでも言うのか。
ならば、あのまま流していたら、全てなくなったのだろうか。


例えば、この子供の命さえ。



(………沸いてんな………)



血を流しすぎれば、失血死する。
そんな事は知っている。

当たり前の事を考えている自分は、思った以上に疲れているらしい。



(…なんで疲れる必要がある…)



子供の手当てをしてやっただけだ。
腕の中に抱いているだけだ。

ただそれだけ。
それなのに、何故。
何故こんなにも、疲れているのか。


子供はまだか細い呼吸をしているが、やはり抱かれていると大人しくなる。


ふと、自分の足元が見えた。
そう言えば、自分の法衣も随分と紅に汚れていたのだったか。
悟空が目覚めてこれを見たら何を思うか。

時間が経ったから、そう簡単には落ちないだろう。
このまま仕事先の寺に向かう訳にも行かないとは思うが、かと言って替えの法衣なんて用意して来なかった。



(……まぁ、いいか)



眠気が酷い。
疲労の所為だけではないような気がした。

腕の中の子供の体温は、常と違って随分低いように感じる。
無理もないだろうが、それがまた酷く三蔵の胸の内を冷やす。


吹き抜けていく風を、寒いとは思わなかった。
その代わりに、腕の中に閉じ込めた存在が身を震わせる。
絹に包まれて赤ん坊のように蹲っているけれど、感じる寒さから逃れられないようだ。

この場合、無理はないだろう。
体内にある熱を循環させるものが碌に足りていないのだから。



「──────バカ猿が……」





明日には目的地に着かなければならない。
本当なら、今日のうちに到着する予定だったのだから。

けれど着いた所で、仕事をする気にもならない。
腕の中の子供を離すつもりはないし、大して信用の置けない者に預ける気にもならない。


それに。



(………死にそうだな……)



この手を離したら、それだけで。
容易く、逝ってしまいそうな気がするのだ。

どちらが、とは考えなかった。



(……大事…か……)



ついさっき、自ずと考えた事を思い出した。

そういうものは必要ないと、持つつもりはないと思っていたし、決めていた。
いつかの日に誰も救えはしないのだと知った時から、ずっと。


それなのに、考えてしまった。

“大事”だと。



「………あ……ぅ……」



縋るように伸ばされる手も、一つ覚えのように名を呼ぶ声も、己にしか聞こえない聲も。
それらはこの子供を拾った時から当たり前にあったものだった。
聲にしてみれば、拾う前からずっとずっと続いていたものだったのだ。

例えば、このまま悟空が目覚める事がなくなったら、それさえも消えてしまう。
当たり前に側にある温もりや空気さえ、消えて二度と戻らない。


一瞬でもそれらを考えるだけで、酷く眩暈がする。
在り得ない事だと思っても。



「……悟空」
「ぅ…う……」



伸ばされる手を掴んで、触れるだけの口づけを落とした。
ぴくっと小さな手は震え、それから緩い力で三蔵の手を握る。



……返す力に、少しだけ安堵した自分がいた。






見下ろした顔は、いつもに比べて随分蒼いように見えたのは、夜の暗闇の所為だけではない。



「……さん…ぞ…ぉ……」



自分の手に比べて、随分と小さな悟空の手。
それでも捕まえる力だけは、いつも確かなものだった。

今はいつものような力強さはないけれど、離す意志だけはやはり其処には存在しないらしい。
その代わりに三蔵が握り返すと、僅かに悟空が笑んだようにも見えた。



「…笑ってる場合じゃねぇだろ、今のお前は……」



死にかけてるんだぞ、と。
言おうとして、止めた。

口にするだけ、どうせ無駄な事だ。


死ぬ訳が、ないから。
逝かせる筈が、ないから。



「……悟空………」



いつもいつも名前を呼ぶ悟空のように、呼んだ。
聞こえていたのか、それとも偶然なのかは判らない。
それでも、確かに反応があった。


この小さな手は、繋ぎ糸。

握る手が離れる事はないし、離すつもりも三蔵にはなかった。
否、少し違うと、今だけ思う。


───…離せるはずがない、と。









きっとそれは、

金色が煌いてからも、同じ。



“離さない”し、

“離れない”し、






───────“離せない”。































一度光を知ったものは



光の中で在る事を覚えた生き物は












二度と暗闇には戻れはしない
















知らずにいた日々には還れない



















FIN.




後書き