rational collapse






扉を開ければ、思いの他暗い事に少し驚いた。
あの子供は暗闇がどうにも苦手らしいから。

外界は何時の間にか夕闇に覆われていたらしく、窓から差し込む光は酷く頼りない。
南向きだから、まだ僅かに西に残った夕の灯りが滑り込んでいるに過ぎない。


ベッドの上がこんもりと盛り上がっているのが見えた。
ごそごそと身動ぎしているから、どうやら眠っている訳ではないらしい。
ひょっとしたら扉を開ける音で起こしてしまったのかも知れないけれど。


ゆっくりと歩み寄れば、思いの他足音が響いた。
辺に緊張させてしまうかと思いつつも、歩みを止めることなど出来る筈がない。
此処で足を止めてしまったら、きっと元には戻れない。

扉を閉める音がして、布団の盛り上がりが一瞬跳ねた。
どうやら、意識の方はしっかり覚醒しているようだ。



ベッドサイドまで来て、その横に置いていた椅子に腰を下ろす。

使われていない枕には、それでも凹んで使用した跡が残っていた。
こうやって丸く蹲ったのは、いつからなのだろう。


そっと手を伸ばして、温もりに触れる。




「………悟空」




名前を呼んだところで、いつものように返事があるとは思わなかった。
期待していなかったといえば嘘になるけれど、返る言葉がなくても無理はない。

それでも、返事をしてくれるまで名前を呼ぶ。



「悟空」



このまま話をしても良いのだけれど、やっぱり顔が見たい。



「悟空……」



まるで恋人に愛を囁くように呼ぶ。
まだ幼い子供に、それが判るかどうかは、八戒は知らない。
過保護な保護者のお陰で、どうにもそういう事には疎い子だから。

けれど人の感情の変化には、誰よりも聡い。
理屈ではなく本能で感じ取るそれは、時に当人よりも鋭敏になるのかも知れない。



「…悟空……顔、見せて……」



怪我はしていないと、悟浄は言った。
何もされてはいないと。

だけれど、あの金瞳が見たい。


それが伝わったのかどうかは判らないが、ごそごそと布団の盛り上がりが動いた。
起き上がれば包まっていたシーツがするすると落ちる。

窓から差し込んでくる仄かな陽の光。
それは辛うじて、視力の弱い八戒の視界の手助けをし、悟空の爛漫とした金の瞳に反射する。
こんな昏い場所にいてもこの輝きは失われないのだと、改めて思った。





「…は……っかぃ………」





確かめるように呼ぶ声に頷いて、そっとまろい頬に手を当てた。
涙の後が残った其処は、いつもの温もりはない。


乱雑に破られていた服は、もうゴミ箱行きになったのだろうか。
今は悟浄が貸したのだろう、サイズの違う服を着ている。

悟空の手が、頬に当てられた八戒の手と重なった。
細い手首に薄らと残った青痣にまた黒い感情が渦巻くけれど、今はそれよりも目の前の子供が先。
重ねられたまだ小さな手が僅かに震えているのに気付かないほど、鈍くはない。



「はっかい……」



泣きそうな顔で呼ぶ声は、やはり泣き出す一歩手前のものだった。
ギリギリのところで我慢しているのだろう、少しでも気を抜いたら溢れ出してしまうに違いない。




「はっかいぃ……!」




重ねた手を握って、悟空は繰り返し呼ぶ。



あの時も、繰り返し何度も名を呼ばれていた。
いつもはこの声に呼ばれたらすぐに気付くのに、あの時だけは振り返ることもしなかった。
“名前”を殊更特殊なものと感じている子供にとって、あの瞬間、どれだけ不安だったのだろう。


自分の頭が沸騰していたから聞こえなかったわけではない。
実際に鼓膜には届いていたし、脳にもちゃんと情報は伝達された。
その上で振り返らなかったのは、それよりも目の前の事を片付けるのが先だと思ったからだ。

けれど本来ならばあの時、真っ先に振り返って駆け寄り、抱き締めてやらなければいけなかった。
それを最後まで出来なかったのは、己の中に渦巻くどす黒い感情と、それを制御できない自分の所為だ。


……それを言ったら、きっとこの優しい子供は違うと言うのだろうけれど。



「悟空……」
「ふぇ……八戒ぃ……」



そっと抱き締めれば、悟空も八戒の胸に顔を埋める。

本当はいつだってこうしていたい。
傷付く事のないように、怖がる事のないように。


きっとあれだけの惨状を見たのは、初めてだったと思う。
三蔵に連れられて遠出する時、山賊だの妖怪だのに襲われる事はあるだろう。
けれど、あそこまで惨たらしい事にはならないだろうから。


もしも悟空がこのままの状態で、保護者が迎えに来たりしたら、撃ち殺されるのは自分だったりするのだろうか。
それは自業自得だと、思う。



「すみません…怖がらせて……」



いつだって悟空には笑っていて欲しいと思うのに。
そう願えば願うほど、己の中で渦巻く、狂気にもにたこの感情。

持て余すばかりのそれは、ふとした瞬間に枷を己の意思で放り投げる。



「もうしません…もうしませんから……だから……」



八戒の胸に顔を埋めたままで、しゃくり上げ始めた肩。
それでも、其処から先の言葉が言えなかった。

だってそうさせたのは自分で、そんな己が言うには余りにもおこがましいではないか。
唯我独尊の最高僧とか、軽薄な顔をして他人に甘い同居人とかなら、こんな時でも言えるのだろうか。







────……泣かないで







けれど自分は言の葉にする度胸がないから、音に出さずに呟くだけ。


ふわふわとした大地色の髪を撫でる。
赤子をあやすように背中を叩いて、収まるのをじっと待った。

悟空が顔を上げてくれるまで。
悟空が声を出してくれるまで。
悟空が呼んでくれるまで。

じっと待って、抱き締めたままでいる。
そうしている間も渦巻く劣情を知られないように、押さえ込みながら。




……本当はこのままでいたい。
この昏い部屋の中でも構わない。
愛しい存在をこの腕の中に閉じ込めて、痛みも悲しみも感じることのないように。

そんな事を悟空が望んでいないと知っているし、この子供が暗闇を嫌いな事も知っている。
眠る時に暗い部屋で一人でいるのは、16になった今でも慣れないのだと。
けれども渦巻く狂気は、悟空が何を望んでいるかも構わず、勝手に生まれてくるものだ。


泣かないで欲しいのは確かだし、悲しんで欲しくないのも本当。
痛みに苦しむ所なんて、一度だって見たくはなかった。

けれど感受性の豊かな子供は、ふとした事で傷つき、悲しみ、涙する。
どう考えても相手が悪いのに自分が怪我をさせてしまったり、可愛いワガママで保護者を困らせてしまった時。
きっと他者から見れば些細な事でも、悟空にとっては心に残り、雨を降らせるものになる。



閉じ込めてしまったら、そんな雨から守れると思う。
だけど。

守れる代わりに、きっとこの子は笑顔を失う。







傷付けたくない。
悲しませたくない。
泣き顔なんて見たくない。

笑って欲しい。
ずっとずっと。



似て対なる感情は、ぐるぐると八戒の中で狂気を絶えず生み出していく。











「も……なぃ……?」




ぽつりと呟いた声に、意識は現実へと戻る。
顔を埋めている所為で聞き取れなかった言葉を、今一度問い直す。

悟空はゆるゆると顔を上げて、金の瞳と翡翠が交差する。






「もう……しない……?」






あんな怖いことをしないか。
問いだしてくる瞳は、やはり涙で濡れている。

自分が泣かせた。
泣き顔なんて見たくないのに。




「ええ、しませんよ」
「絶対……?」
「はい」




疑う訳ではないけれど、やはり不安なのだろう。
あれだけの惨いものを見た後だから、子供が怖がるのは当たり前だ。

寧ろ、あれだけの事をした男に躊躇いもなく触れてくれる事の方が不思議だった。


ふと、悟空が小さく首を横に振る。



「違うよ……」



それじゃない、と続けて小さな声が聞こえた。

悟空の言う“それ”が何を指し示しているのか、八戒には判らなかった。
この子供が主語を抜いて喋るのは今にして始まった事ではない。
それでも次の言葉をじっと待つ。


片手で八戒を捕まえたまま、空いた手で悟空は目を擦る。
赤くなりますよ、と言うと、へいき、と呟いた。


少しの間を置いて、悟空は二、三度大きな呼吸をした。
泣いた所為で詰まってしまった酸素がようやく正常な出入りをする。

ぎゅ、と八戒の服を握る手に一層の力が篭る。











「もう、自分が痛いことしないでよ………」















……相手を殴ると言う事は、それ相応の痛みを伴うという事。
殴る側も殴られる側も痛いのは、事実だ。

壁を殴って痛くなるのは自分の方で、それは対象が何であっても同じこと。
痛覚が麻痺していてもそれは判らないだけで、決して痛みが其処にない訳じゃない。
だから人間と言うものは理性が働いて、己の体を壊すことを危惧し、力は自然とセーブされる。


それなら、その理性と言う境界を取り払ってしまった人間はどうなるか。


壊すことを危惧するものは既にないし、また対象が壊れることも気にならない。
その為に理性を捨てる訳だから、代わりのストッパーなど何処にもない。

結果齎されるものは惨たらしいものだけだ。
相手はただの塊となり、凶器になった己の体も壊される。




不意に、右手が痛んだ気がした。
白い布に幾重にも覆われた、壊れかけた右腕が。












「もう……こんな事しないでよ………」











八戒のした事が怖くなかった訳ではないけれど。
あそこまで八戒が憤る所を初めて見て、驚かなかった訳ではないけれど。

でも、悟空は判っている。
結果目の前に広がった惨状がなんであれ、助けてくれようとした事。
凶器に身を窶した八戒の、根底にある感情。




「こんなに手、痛いことするなよ……」




八戒の右手を優しい力で掴んで、引き寄せる。
両手でその手を覆えば、綺麗な金の瞳から零れ落ちていく雫。

……その顔が、見たくないのに。



「オレ、八戒の手、好きなのに……」



その大好きな手を、こんなになるまで痛めつけるなんて。
そんなのは嫌だと、見上げる金瞳が訴える。




「……ごめんなさい……」




見つめる瞳を逸らさずに受け止めて、小さな声で謝った。

零れる涙は留まる事を知らず、白布に覆われた八戒の手にも落ちて染みていく。
こんな風に、一体どれほどの時間を泣いて過ごしていたのだろうか。
己がどれ程眠っていたかも知らない八戒には、到底見当もつかない。




悟空が泣き止んでくれるまで、いつまでも謝り続けている。








だって。















ごめんなさい


ごめんなさい





だってやっぱり、あなたを守るには

あなたを暗闇から守るには、きっとこうするしかなくて











だってあなたの為なら、僕は壊れてしまったって構わない。













































ただあなたの笑った顔が見たいだけで


それだけなのに、何故こうも神とは意地悪なのだろう











あなたの笑った顔が見たいだけで















どうしてこんなにもあなたの願いを破って生きていくのだろう
























FIN.




後書き