first hand






“あ”から順番に始まって、最後は“ん”。





途中で疲れて投げ出すかとも思ったが、思いの他、悟空の集中力は長く続いた。
やはり気になるものに対しての観察力と集中力は息を巻くものがある。

“あ”や“ぬ”などの曲線が多い字は手間取ったものの、それでも悟空は止めるとは言い出さなかった。
半ばにかかった頃に部屋を捲簾が覗いていったのだけれど、きっと気付いていなかっただろう。
教科書代わりの本と、天蓬の手順をじっと見つめていた瞳は、天蓬の記憶に焼き付くように残った。


いつも本を読んでやっている子供が、字を勉強している。
それを見た捲簾は、一体何を思っただろうか。

彼が悟空に絵本を読み聞かせることを密かに楽しみにしていると、天蓬は知っている。
一度聞いた話も、初めて聞く話も、目を輝かせて聞いてくれるから、読んでいる方もなんだか嬉しくなるのだ。
少し難しい話になると夢の世界に落ちてしまうのだけど、そんな姿さえ愛おしい。

その楽しみが一つ減ってしまうことに、天蓬とて少し残念だと思わない事はなかった。
だけど、真っ直ぐ見つめる瞳がお願いしてくるものだから、これはもうこちらの負け確定だ。





曲線が多い字と同様、ぐねぐね曲がる文字はまた苦手らしい。
“え”もそうだったし、“そ”も曲がる部分が一つ多かったりした。
最後の最後で手間取っている悟空を、天蓬は隣でじっと見守る。

大人の自分たちから見れば、子供特有の、ミミズがのたくった様な文字。
けれどもそれが、愛しいこの子が頑張って書いたのだと思うと、心なしか輝いているようにも見えてしまう。




(末期ですね、僕)




何時の間にか自分達の中心が子供になっている事は判っていた。
判っていたけれど、此処までだとは流石に思っていなかったのだ。

なんでもない事でも、この子がいるから。
そう思うだけで、全てに色がついて、意味があるような気がする。
今まで面倒臭かった本の方付けだって、悟空が手伝ってくれると思えば、作業も進むのだから。


悟空の鉛筆の持ち方は、やはり天蓬の真似だったのだろうか。
書いていくうちに色々と持ち方を変えて、今は普通の鉛筆の持ち方になっている。
それでも握るように持っているのは相変わらずだが、手のひらで握るよりは書き易そうだ。
実際、それに気付いてからは、少しだけれど字を書く早さが上がっていると思う。




「天ちゃん、見て見て!」




悟空が突然名を呼んで、天蓬の白衣を引っ張った。
紙の一部を指差すから、そこに視線を持って行って見れば。



「ああ、綺麗に書けましたね」
「へへー」



褒められて嬉しそうな悟空の髪を、くしゃりと優しく掻き撫ぜる。



「じゃあ復習に、“あ”から順番に書いていってみましょうか」
「はーい!」



すっかり先生と生徒のような遣り取りになっている。

悟空は天蓬の言葉に元気よく返事すると、傍に束ねてあったまだ真っ白な紙の一枚を手元に寄せた。
筆圧が強い所為で直ぐに磨り減って平らになってしまう鉛筆の為に、鉛筆削りも一緒に。



この鉛筆削りが、悟空は少々気に入ったらしい。
鉛筆を差し込んで回すと芯が尖っていくのを、悟空は凄い凄いと言っていた。

こんな事ではしゃぐ人がいるなんて、天蓬は思ってもいなかった。
だってこれはそういう役目で作られたものなんだから、それが出来なかったら不良品。
……でも悟空にとっては、そうじゃない。




「天ちゃん、“か”の次ってなんだっけ?」
「“き”ですね。これですよ」




こうして字を勉強している時間だって、悟空にとっては凄い事になるのだろうか。
教えてくれるのが天蓬である事も、悟空にとっては意味がある事なのだろうか。


この変化のない天界でも、悟空の目に映るものは目まぐるしく変わっていっているのかも知れない。

天蓬の部屋に今までなかった置物が増えている事にもよく気付いてくれる。
捲簾が部下との訓練なのか、それとも何処かでまた何か仕出かしたのか、生傷が増えている事にも。
保護者の事だって、長年付き合いのある天蓬よりも、色んなことを見つけてくる。

大人の自分たちとは違う視点で見ているから、気付くのだろうか。
遠くを見渡してばかりの大人と違って、足元の花に気付くこの子供は。




「たー、ちー、つー…て、………と」
「はい、正解」




何も知らないから、じゃなくて。
見た事がないから、だけじゃなくて。
些細な事でも、悟空にとっては大きな発見。

天蓬と捲簾の吸っている煙草の銘柄が違うとか。
金蝉は煙草が嫌いで、目の前で吸うと仏頂面がいつもの二割り増しだとか。




「“な”ってこうだよね?」
「あってますよ。偉いですね、覚えるのが早いですよ」
「へへー……」



褒められてほんのりを頬を染める悟空。
そのまま、悟空は鉛筆削りに鉛筆を差し込んだ。

紙面を彩る拙い文字は、見返してみると所々間違っていたりもする。
“さ”と“ち”が逆になっていたり、書いたばかりの“な”はパーツが離れ過ぎていたり。
でも書いている今は言わないで、後で採点すれば良いだろう。



「“な”の次って“に”であってるよね」



悟空の質問に頷くと、悟空は鉛筆削りから鉛筆を引き抜いて、再び紙面に向かい合う。

そんな悟空を見つめていた天蓬だが、ふと。



「そう言えば、悟空」
「んー?」
「どうして急に字を覚えたいなんて思ったんですか?」



字を知らなくても、別に誰も何も言わなかった。
天蓬や捲簾は絵本を読んでやるのが楽しみの一つだったし、金蝉なんかはあまり興味がない。
そして悟空が絵本に興味を持っているとさえ保護者は知らないようだし。

だから悟空が字を知らなくても、特筆すべきような問題はなかったのだ。
…今のところは、だけど。


悟空は“の”まで書いてから、天蓬の顔を見上げた。



「……オレが字覚えるの、ヘン?」
「そういう訳じゃないですよ。ただ、今まで本は僕らが読んであげてたでしょう? それが嫌になったんですか?」
「ううん。オレ、天ちゃん達に本読んでもらうの、好きだよ」



きっぱりと首を横に振って、悟空は真っ直ぐ見つめながら言った。



「でも、天ちゃん達忙しいんでしょ。いっつも読んで貰ってたら、なんか悪いもん」
「そんな事ないですよ。僕も捲簾も、楽しんでますから」



悟空の為なら、きっとなんだって苦にならない。
そういう自信が天蓬にはあった。

けれど、悟空はしばし黙った後、再び紙面に鉛筆を押し付けて。




「……でも、オレ読みたいんだよ」




ゆっくり“は”の字を書きながら、悟空は呟いた。









「いっつも読んでもらってるから。今度は、オレが読んであげたいの」








読んでもらって面白かった話も。
自分で読んで面白かった話も。

今まで呼んでもらったから、今度は自分で読んで、聞かせてあげたい。
自分げして貰って嬉しかったことを、お返しにしてあげたい。



紙と、文字と睨めっこしたままの悟空。
だから見下ろす位置にある天蓬からは、子供の表情は見えなかった。
だけれどそれは同時に、悟空からも天蓬の顔は見えない。

今だけ、それに少しだけ良かったと思った。
だって絶対、だらしない顔をしていると思うから。



「あとさぁ、金蝉、ちっとも本読んでないし」
「彼の場合は興味がないようですからね」
「それってなんか勿体無いじゃん」



保護者よりも一足先に、本を読むという楽しさを知った悟空。
自分が感じた事は大好きな人にも感じて欲しいと、子供らしい思いやりだ。



「あと……天ちゃん達、本読んで貰った事ってある?」
「それは……どうでしょうねぇ。随分昔の話になりそうですし」



読んでもらうとなれば、悟空と同じくらいの子供の頃の話になる。
この天界での時間の流れを考えると、かなり遡らなければならない。
捲簾なんかはじっとしている性質ではないし、生憎、其処までの事は覚えていない。





「だからね、オレが読んであげるの」





見上げて来る瞳は真っ直ぐで輝いていて、楽しそうで。



「天ちゃんは部屋の本ぜーんぶ読んでると思うけど、読んでもらった事ないよね」
「そうですねぇ……まぁ、まず僕のコレに付き合ってくれる人がいませんからね」



この本だらけの部屋に入って来る人物は限られている。
なんとなく出逢った頃から入り浸るようになっている捲簾や、収集命令の連絡に来る部下。
金蝉はこういう雑然とした場所は好まないから、あまりやって来ない。

好きでこの部屋にやって来るのは、悟空と捲簾ぐらいのものだ。
ちなみに二人が本の波に流されるのも、最早慣れた光景になっている。

そんな部屋の主に付き合う人物など、早々いる筈もないのである。



「あんね、多分ね。読むのと、読んでもらうの、違うと思うんだ」



まだ自分で呼んだ事がないからか、悟空は少し考えながら言った。

確かに、自分で読むのとは少し違うだろう。
人それぞれのテンポがあるし、捲簾のように一行一行に煩いぐらい感情を篭める事もあるだろうし。





「それ知ったら、きっともっと本読むのが楽しくなると思うんだ」





笑って言う悟空に、釣られたように頬が緩む。
それをどう受け取ったのか、悟空はまた嬉しそうに笑って、鉛筆を動かした。







ああ、もう。
本当に可愛い子だ。

なんだってこの子は、こんなに嬉しいことばかり言ってくれるのだろう。







緩んだ頬がそのままだらしなくなりそうで、天蓬は手で覆い隠した。

こんな可愛い子を、今はあの不機嫌な男が独占しているのか。
きっと金蝉も自分と同じように、不意打ちを食らいながら、顔に出さずに嬉しかったりするのだ。
少しだけ金蝉が羨ましくて、妬ましい。



「でーきた!」



悟空の声を聞いて、口元を隠したままで紙面に目をやる。
其処には拙い平仮名で“あ”から“ん”まで順番に書かれている。



「なぁなぁ、オレ上手?」



紙を手に持って天蓬に見せながら、悟空はうきうきと聞いてくる。

紙を受け取って順番に眺めていく。
“さ”と“ち”が逆なのは相変わらずで、“も”はまったく反対。
“り”は“い”と区別がつきにくい────などなど、間違っていたりはするのだけれど。



「そうですねぇ……80点ってトコですね」
「えー……」
「間違えてるんですよ。でも、これ位の間違いはあって当たり前ですからね」



天蓬の採点に残念そうな悟空だが、天蓬の付け足した言葉に表情を明るくした。

子供を育てるのは飴と鞭だとか言うけれど、きっと自分たちに鞭は無理だと思う。
肝心な所で叱るのはきっと保護者がしてくれるだろうから、自分はとにかく甘やかすことに決めた天蓬だ。



「間違えてこそ、ちゃんとした形になるものですよ」



間違えた、イコールこれは正しい形ではない。
それが判れば、次はもっと綺麗に書ける筈だ。

悟空の頭を撫でて言うと、くすぐったそうに子供は目を細めた。



「オレ頑張ったよー」
「偉い偉い」
「へへっ」



頭を撫でる手を離すと、悟空はたっと軽い足音を立てて、本棚に駆け寄った。
悟空が駆け寄った場所は、最近、悟空専用スペースになっている。
絵本や漫画ばかりが揃っている其処は、捲簾が念入りに掃除していたりする。

早速何かの絵本を読みたくなったのだろう。
まだまだスムーズに読むには行かないだろうが、やはり知った事は試したいのだろうか。


じっと背表紙に書かれてあるタイトルを見ながら、読みたい本を探している。
内容は天蓬や捲簾が何度も読んでいるから、覚えているだろう。

これにしよ、と言って悟空が手に取ったのは、お気に入りの戦隊モノ。
食べ物がモチーフになっているから、というのもあるからだろうか。



もといた場所に戻って、悟空は本の表紙を眺めている。
視線がタイトルを負っているから、きっと読めることを実感しているのだろう。
カタカナはまだ教えていないけれど、文字の上にルビが振ってあるから問題ない。

其処を眺めて気が済んだのか、悟空は天蓬を見上げてにっこり笑った。
読めるようになったのが嬉しいようだ。





ああ、そうだ。




「ねぇ、悟空」
「なに?」



呼ぶと、悟空はひょいっと天蓬に目を向けた。








「僕に、読んで聞かせてくれませんか?」











読めるようになって、初めて読んで聞かせてあげる相手。
きっと悟空は、大好きな保護者が良かったのかも知れないけれど。
だって悔しいじゃないか、何もかも彼に一番を取られるなんて。

自分だってこの子の事は好きで、一つぐらい“初めて”を貰いたい。
綺麗だと思う事も、大好きだと思われる事も、そういう事は全部先を越されたから、これぐらい良いじゃないか。


字を教える“初めて”は貰った。
でも、金蝉はもっと沢山の“初めて”を貰っている。

……これは対抗意識なんだろうか。















「──────うん!」

































だから

僕の“初めて”をあげるから







………今日だけ、あなたの“初めて”を下さいね

































FIN.




後書き