Trifolium









「やるよ、孫悟空」






告げた言葉と行動に、少年は目を丸くしてこちらを見ていた。
一体どうして、とか言う前に、訳が判らない、そんな表情をしている。

昔とは立場が逆になったのだと思うと、喉の奥から笑いがこみ上げてくる。
けれど此処で笑えば明らかに馬鹿にされたと思い込むと知っていたから、噛み殺した。


焔の手の中にあったのは、一輪の白い花。



「……え? 何??」



敵である筈の相手を目の前にして、悟空はぽかんとして其処に立ち尽くす。
構えていた筈の如意棒も其処に戦う意志を失くしてしまったように居所がなかった。



「やる、と言ってるんだ」



端的で主語も何もない言葉に、悟空は眉根を寄せた。
焔の顔と、彼の手の中にある一輪の花を交互に見比べている。


ダーク色を纏った焔が持っている、白い花。
なんとも不似合いだろうな、と焔は思う。
穢れのない白は、自分とは到底縁のないものだから。

白は白に還るのが良い。
それを口に出さずに、焔はただ花を差し出していた。



しばらく茫然としていた悟空だったが、はっと我に返ると如意棒を握りなおした。



「何ふざけてんだよ!」
「別にふざけてなどいない。お前に渡したいから、やる、と言っただけだ」
「意味判んねぇ!」



それはお互い様だと、焔はその言葉をどうにか飲み込んだ。

意味の判らない行動を取っていたのは、いつも幼い日の彼だったのだ。
彼なりの行動理念があるのだと判っても、他人にしてみれば意味不明な行動が多かった。
今でもそういう所は変わっていない。



毛を逆立てた猫のように警戒する悟空に、焔は小さく嘆息した。
こういう反応をするのは当たり前だし、目に見えていたが、やはり少しだけ寂しい。

あれだけ無心に伸ばされていた手は、今は決して焔に向かって伸ばされる事はないのだ。
敵だから、倒すべき相手だから、超えるべき人物だから。
……自分が慕う三蔵法師を傷付けようとするから、だから伸ばされる事はない。


全く、あの金糸の男は狡い。
遥か昔に出会って子供の心を捉えて離さず、それは今も続いている。
少しぐらい手を離してくれたって良いだろうに。

傍目にはどうでもいいような顔を見せながら、決してあれは手を離そうとはしないのだ。
そして悟空も、何があってもその手を離そうとはしない。


─────……自分ばかり、ずるい。



「……今日はもう、戦う気もないしな……」



白い花をゆらゆらと指で揺らしながら言えば、悟空は不可解そうに眉を潜める。
ついさっきまで全力で戦い合っていた相手がそんな事では、悟空がそんな顔をするのも無理はないだろう。



「こんな所で、無粋だろう」













一面の、花。
黄色の絨毯の中に、白と青と紅の刺繍が所々。


……あそこと、よく似た。














あのまま全力で勝負を続けていれば、此処の花々も散りと化していただろう。
何故だかそれは憚られて、焔は予告もなく刀を退いた。
瞠目していた悟空を見て苦笑した後、足元に咲いていた小さな白い花を見つけた。

そして、今に至る。
悟空にしてみれば、焔の気まぐれ以外の何でもないだろう。


花を悼むような健気な心など持ち合わせていないけれど、この風景を瓦礫と土埃で汚したくはなかった。


ぽかんとした表情をしつつも、少しずつ悟空の不満げな色は消えつつある。
目は口ほどにものを言うと言うが、それ以上に悟空は顔、体全体で己の感情を表してくる。
周囲の花々から伝染したように穏やかになりつつある空気が何よりの証拠。

手にしていた如意棒は形をなくし、握るものがなくなった小さな手は無沙汰になって後頭部を掻いている。
見上げる金瞳は相変わらず大きく零れそうで、ふとすれば本当に其処から落ちてしまいそうにも思えた。



「……なんなんだよ」
「…さぁ、なんだろうな」



不機嫌が消えた代わりに僅かに浮かんでくる、当惑の色。
それを目にしながら、焔は肩を竦めて返した。

それから改めたように、未だ手の中にある花を差し出した。



「………だから、意味判んねぇって……」
「お前にやりたいだけだよ」



それ以外の意味など、其処にはない。
渡したいだけだ。


悟空はまた、焔と白い花とを交互に見る。
それで焔の手の中にある一輪が変わるわけでもないのに。

幼い頃なら、きっと躊躇いなく手を伸ばしてきただろうに。
今はこうやって戸惑い、躊躇わなければ、この少年の手が伸びてくることはない。
戦った後だから、警戒心が先立っているだけのようにも思えたけれど。



おずおずと伸ばされた手が、一瞬だけ焔のものと重なった。
白い花はそのまま、焔が望んだ人物のもとへ誘われる。


太陽のような金色に映し出される、小さな白。
幼い日も、こんな風に白を探していたのだろうか。

眉尻を下げて困ったような顔をしてはいるけれど、花が好きなのは変わっていないらしい。
じっと見つめる金瞳は穏やかで、まるで慈しんでいるかのようにも見えた。
遥か昔の子供らしさが幾分抜け落ちた分だけ、補って余りある暖かさが其処にはあった。



「…正直、貰っても…どうにもなんないんだけど」



悟空は呟いて、目線だけを焔に向ける。

何せ急ぎの西行きの道中だ。
花など摘んだところで直ぐに枯れてしまうのは目に見えている事。
命の駆け引きが毎日行われている場所で、小さな生命が息絶えるのまで時間はない。



「オレが持ってても、枯らしちゃうだけだし…」
「なら、それまで持っていてくれればいい」
「だから、枯らすのがイヤなんだってば!」



話を聞けよ、と子供のように癇癪を起こした悟空に、焔は笑みが零れた。





「なら、枯れる頃には新しい花を持ってこよう」





微笑んで言う焔に、悟空は呆気に取られた顔になった。
いや、そういう訳じゃないんだけど、と言うけれど、焔の笑みは崩れない。



「その花は、お前によく似合う」



大地色の髪をくしゃりと撫でて見下ろせば、金色の瞳は逸らす事無くそれを受け入れる。


いつだって真っ直ぐに何かを見つめるこの瞳は、自分を拒む事はなかった。
幼い頃と違って手を伸ばされる事はないけれど、この綺麗な瞳はいつだって同じまま。
同じ色を宿した自分とは違う光を持つ、金色の瞳。

この瞳に最初に囚われたのはいつだっただろうか。
500年の時を越えた今も変わらぬ、この輝きに魅せられたのは……



「お前が花を抱いている姿を見るのは好きだ」



幼い頃に、無邪気に花を摘んで、悼んで、冠を作っていた姿も。
今こうして、少し所在無さげな顔で花を持っている姿も。

惚れた欲目か。
嘗て愛しい彼女にさえ、こんな感情は感じなかったように思う。
彼女も自分と同じように、花に触れようとはしなかったから。



「…そりゃ…ありがと……だけど、やっぱ貰えない……」



枯らしちゃったら可哀想だ、と小さな唇が呟いた。



「何故だ? 花は好きだろう」
「好きだけど……」



一面の花畑の真ん中に立ち尽くして、どれ程の時間が流れただろう。
下界は天界と違って時間は急速に流れていく。
けれども此処は、珍しく感傷になど浸っている所為なのか、上ほどではないが緩やかに流れていくような気がした。
















その時間の中に、何処か置いてけぼりにされたような自分達。
500年の刻を閉ざされ続けた幼子と、500年の刻を流れても想いを抱いたままの自分。


こうして穏やかな時を過ごすことが焔も好きだった。
まるで人目を偲ぶように───否、事実そうであった───、館から離れたこんな花畑で逢瀬を繰り返した。
最初はただ離れ難く感じるだけだった花畑を、尚も離れたくないと思うようになったのは、この子供と出会ってからだ。

傍らに座って花冠作りに夢中になっている姿を何度も何度も見つめていた。



全てが壊れる、あの日まで。



危ないところで保たれていた均衡が崩された日、彼らは咎人としてその生を閉じた。
まだ生きる理由はあったのだろうに、終わらされてしまった。

その傍らで壊れた操り人形のように立ち尽くしていた子供を今でも覚えている。
其処に先日まで無邪気に花を摘み、蝶を追い駆けていた姿はなかった。
あの日、あの時、あの瞬間に、きっと子供の心は一度崩壊してしまったのだ。


幼子が地上に封印されてからも、焔は花畑から離れなかった。
もう子供は此処に来ないと知っていても。






『な、摘んでよ、それ』





覚えているのは、無邪気な笑顔と、綺麗な瞳。

いつも触れるか触れないかの所で手を止めていた焔に、大丈夫だよと笑った。
そしてそれを摘んで欲しいと言って、その後は。








『そんで、それ、オレにちょうだい』








いつも誰かに花をあげるばかりだった子供。
怪我をしている友達のお見舞いに、文字を教えてくれるお礼に、遊んでくれるお礼に。
一緒にいてくれると約束した、大好きな保護者に。

そして、たった一人の同胞に。


悟空にしてみれば大した深い意味はなくて、ただ仲の良い者に綺麗な花を見せたかっただけ。
そして受け取ってもらった瞬間が嬉しくて、もっと相手にも喜んで欲しくて繰り返していた行為。
幼い子供の拙い好意。

だけれど確かに、子供の好意は伝わっていたのだろう。
変わり者と名高い元帥や、破天荒な軍大将、偏屈で無愛想な男────もしも渡っていたなら、最初から全てを奪われていた子供にも。



凍て付いた心に臆す事無く触れることが出来るほど、この子供は氷の奥底に眠るものを見通せるから。



あげる、と言って子供はよく花を差し出してきた。
それは一輪であったり、束であったり、冠の形をしていたり様々で。

受け取った時に嬉しそうに笑っていたのを覚えている。


自分が摘んだ花など、誰が欲しがるものか。
だけど、子供は欲しいと言った。

断る理由など何処にもない。
いや、それどころか。
















「お前が望むなら、俺は世界中の花をお前に捧げよう」
















こんな男が摘んだ花でも喜んでくれるなら。
生さえ望まれなかった男が見つけた花でも良いのなら。

全ての均衡を壊そうとする己が、ただ一人、お前の為だけに。

















一輪の花をその手に抱いたまま、悟空は瞠目していた。
一体何を言っているのだろう────そんな表情にも見える。

無理もない。
500年昔ならともかく、今は間違いなく敵同士と言う立場にいるのだ。
それならば今こうして緩やかな時間を過ごしている事が可笑しいのだが。


倒すべき相手から受け取った白い花を、綺麗な金色の瞳が見下ろした。
吹き抜けていく風に揺れるその花は、決して儚くなどはない。



「………変なこと、言うな」



戸惑うような声音でようやく漏れた言葉は、そんなもの。



「本気だ」
「変だよ、お前」
「普通だ」
「何処が」
「普通だろう」






だって。







「惚れた奴に全て捧げたいと思うのは、ごく自然なことだろう」







また何か言おうとする唇を、自分のそれと重ねて塞いだ。
幼い故に知らないかとも思ったが、どうやら全くの無知ではなかったらしい。
けれども抵抗してこない所を見ると初めてなのか……それとも、期待して良いのか。

特に拘束している訳でもないし、悟空の手には一輪の花があるだけだ。
それを手放してしまえば抵抗など容易いだろうに、まるで大事なもののように花は悟空の手の中に納まっている。


期待、するぞ。
そんな事をしていると。


まろい頬に手を添えて上向かせ、一度解放した。
不足した酸素を取り込んだと確認して、また口付ける。
今度は角度を変えながら何度も、深く。

膝が崩折れそうに震えているのが見えたから、背中に腕を回して抱き寄せた。
息苦しさで固く閉じられた目尻から、薄らと透明な液体が零れていくのが見えた。



「……っは……」



一分の事の様にも思えたし、十分の事のようにも感じた。
どちらが正しかったのかは、焔には判らない。

力をなくしてしまった体を支えて、ゆっくりその場に座らせた。
そうしている間にも悟空の手の中に納まった花だけはそのままだ。



「初めてだったか?」
「……っ言うか、バカ!」



揶揄うように問えば、真っ赤な顔で飛んでくる罵声。



「最悪だよ、お前!」
「なら次から断わってからにしよう」
「そういう問題じゃ……!」



焔が立ち上がっても、追い駆けてくることはしなかった。
どうやら腰砕けになっているようで、全く可愛い子供だと思う。

花畑の中に座り込んでいる姿が、少しだけ幼い日の光景に重なって見えた。
向けられるのは笑顔ではなくて怒った表情だったけれど、髪は短くなっていたけれど。
やはり、本質は何も変わってはいなかったのだ。



「そう怒るな。ふざけていた訳じゃない」



焔だけが立っているから、悟空の頭は随分下の位置にあった。
手を伸ばして大地色の髪を撫でれば、やはり見上げてくる金瞳とぶつかった。


悟空の手の中にあった白い花を取る。
あ、という声がして、悟空の手がそれを追い駆けるように彷徨った。

こんな男が渡した花でも、そうして求めてくれるのが嬉しい。
もう幼い日のように無邪気に笑いかけてはくれないけれど、決して拒んでいる訳ではないのだ。
こうして、手渡した花を手放したくないと思ってくれるぐらいには。



それに小さく笑んだ後、大地色の髪の差し込むように飾ってやった。





「よく似合う」





まるで大地に咲いた花のよう。
勿論、悟空本人からは見えないけれど。

悟空はきょとんとした顔で、自分の頭で揺れている花に手を伸ばした。



「オレ、女じゃない」
「女じゃなくても、似合うんだから良いだろう」



確かに男に対してやる事ではなかった、けれど。
大地と、太陽と、花と────其処に小さな世界が出来上がっているような気がした。

悟空は自分の頭にあるものが気になるようではあったが、取り払おうとはしなかった。
男なのに、と小さな声でブツブツ言っているものの、それだけだ。


敷き詰められた黄色い絨毯の中、ぽつりぽつりと刺繍されたように咲いている赤、青、白────……
そしてその真ん中に、大地の子供が座っている。

花々がまるで喜ぶように揺れているように見えた。
悟空は未だに赤い顔をしたままで、足元の花に手を伸ばす。
摘まれる事こそなかったが、触れた指先は愛でるように花弁を滑っていった。





「枯れる頃にはまた来るよ」




身を屈めて、悟空の金瞳のすぐ上にキスを落とした。
突然の事だったからか、悟空は茫然として見上げてくる。





「またな」













いつも争う為にしか出会えないけれど。
顔を合わせば刃を交える合図になるけど。

傍にいたい人が他にいるのは判っている、つもりだけど。








せめて、その花がお前の傍にある間だけは。
































絶え間ない時の流れさえ 越えていけるさ きっと

熱い思いが軌跡起こし 時代をかえるよ いつか




この地球(ほし)に住む者たちの 最後の力は

天(そら)に向かって解き放つ 愛の力だけさ












全てここから生まれたと……今なら解かるよ



果てない旅を見つめてる道標のように………──────





















FIN.




後書き