絶対不可侵領域




それが誰であるかなど、考える必要はない。
夜間の訪問自体はあまり歓迎することではないが、目の前の子供は喜ぶだろう。

保護者のご帰還だ。


けれども悟空は八戒と話に夢中になっていて、珍しくもそれに気付いていない。
明日の朝食に食べたいものをつらつらと饒舌に並べていって、八戒も色々と提案している。

だけれどあれが一歩でも敷居を跨いできたら、悟空はぱっと身を翻し、待ち続けた保護者に抱きつくのだろう。
それは悟空を預かるようになってから常にあった光景で、例外と言ったら悟空が待ちきれずに眠りに落ちた時ぐらい。
最も、それを部屋に運んで寝かせてやっても、彼が着いたらのそのそと起きて出迎えたりはしていたけど。



扉が開かれたら、子供は帰る。
いつも自分がいる場所へ、大好きな保護者がいる場所へ。

あの閉鎖された空間へ。



「………なぁ、悟空」
「なに?」



一通りの要望を言って気が済んだ悟空が振り返る。
スキンシップが好きな子供は悟浄に駆け寄ると、話を促すように服の裾を掴んだ。

小さな手、まだ発展途上の手だ。
この手がいつもあの不機嫌な最高僧の機嫌を、更に上昇させるか、下降させるかしているのである。
いつも真っ直ぐ伸ばされているだろう手は、やはり捕まえることに躊躇いはない。


だから、こんな事を聞くのは愚問というもので。



「お前、三蔵が来たら帰るよな?」



言われた言葉に、悟空はきょとんとして首を傾げる。
台詞を聞いた八戒は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに判ったらしい。
聞こえなかった振りを装って、部屋を出て行った。

悟浄の発言の意味を汲み取ってくれそうな人物が退席し、悟空は戸惑ったように見上げてきた。
頭の中はクェスチョンマークで一杯になっている事だろう。



「うん。だって、いつもそうしてるじゃん」
「それなんだけどな……あいつ、最近やけに忙しそうだろ?」
「んー……」



此処数ヶ月の間で、悟空が悟浄宅に泊まる日数は随分な数になった。
時には一月の大半を過ごすこともあり、三蔵と一緒に寺院にいる時間の方が少ないかもしれない。

今日帰ったと思ったら、次の日にまた預けに来る。
どういう経緯であの最高僧が面倒だろうに遠出の仕事を請け負っているのかは知らない。
だが当面この忙しさが終わらないであろう事は、なんとなく予想がついた。


三蔵の仕事が一段落つくまで、悟空は何度も寺院と悟浄の家を往復するだろう。
仕事が入るたびに一々預けに送り迎えするのも、三蔵は面倒だろうと言うと、悟空は表情を曇らせた。

言っていることは少し可哀想だとは思う。
悟空はほんの少しの時間だけでも、三蔵と一緒に過ごすことを望んでいる。



だけど。
きっと気の所為だと思い込もうとした幻が、脳裏に焼きついて離れない。






「折角だからよ。お前、このまま俺らと一緒に暮らさねぇか?」






それは、彼と離れて暮らすこと。
唯一無二の、ただ一人傍にいたいと望む人から離れること。

悟空が決して、それを望んでいないことは判っている。
いや、それを望むか望まないか以前に、悟空の中にそういった選択肢は存在しなかったのだ。
ただ大好きな人と一緒にいたいと願う想いしか、子供の中には最初からなかったから。


狂気にも似たものに成長した想いは、いつか子供を破滅に導くような気がした。
どうか、この子供にだけはそんな事にならないで欲しかった。
太陽のように笑う子供を失いたくないのは、悟浄だけでなく、きっと八戒や三蔵も同じことだと悟浄は思う。

まだ回りの感情を伺うようなことを知らない子供は、自分の思いに酷く真っ直ぐだ。
時としてそれが、我が身に崩壊を招くものだとは知らずに。



今なら間に合う気がした。


二度と会えない距離ではないし、三蔵からの依頼を受けて悟浄達も生計を立てている部分がある。
依頼の報告や物品の返品に寺院に赴くこともあるから、逢おうと思えば逢える筈。

その距離で十分だ。
きっと悟空は三蔵との距離が近過ぎて、周りが見てなくなっている。
だから少しの間だけでも広い世界を見てくれたら、無邪気な子供は前と変わらず笑ってくれる。



「八戒もさ…反対はしねぇし、寧ろ喜ぶだろうしさ」



三蔵には、前ほど頻繁に逢えなくなるけれど。
でも最近の悟空は悟浄の家で過ごす時間が増えていたし、今更生活状況が変わることもないだろう。
増えるエンゲル係数が不安にならない訳ではないけど、今その事は考えないようにした。


ふと、一枚壁の向こうに気配を感じた。
姿は見えないけれど、きっと直ぐ其処まで来ているのだ。
入って来ないのは、多分、この話が聞こえているから。

彼が入って来たら、悟空はこの話のことなど一切忘れて飛びついて行くだろう。
それなのに入ってこないという事は、あの最高僧も気になっているのだろうか。


それにまた知らない振りをして、悟浄は続ける。



「三蔵とは今より逢えなくなるけど。またすぐ逢えるから。今と……あんまり変わらねぇと思うけど」



面倒を嫌う三蔵が、用もないのに此処に来ることはないだろう。
迎えに来てもらうことがなくなれば、二人が顔を合わせる回数は随分と減る。

その方がいい。
子供が崩壊するところなんて、きっと誰も見たくない。
ずっと笑っていて欲しかった。



「お前もさ、もう15なんだろ。ちっとは外見て良いんだぜ」
「……外って?」
「知らない事を知れって事だよ」



世界は三蔵だけではないことを。
世界はもっと広いということを。

知ればきっと、好奇心旺盛な子供は飛び出して行く筈だ。


悟浄と八戒に出会ったように、もっと世界は広がっていく。
けれど、籠の中に入った状態じゃ何も変わることはない。
籠の中が当たり前だった悟空だから、そんな簡単なことも判らない。



閉じこもっている姿より、羽ばたいている姿が見たい。





─────けれど、望んで入った籠の中の鳥は、もう外へ行く理由を失った。








「いらない」








はっきりとした言葉で紡がれたのは、短いけれど、確かな拒絶を持っていた。

必要ない、と言い切った子供を見下ろせば、真っ直ぐに見上げてくる金瞳とぶつかった。
いつも何もかも、潜在意識にさえ沈んでいる感情さえも語りかけてくる零れ落ちそうな程大きな瞳。
また今回も例に漏れずに、全ての感情は其処に浮かんでいた。


だから先の言葉が誰に触発された訳でもなく、自分で導き出した答えなのだと、否応なく思い知らされた。


狭い鳥籠のケージを開けても、望んで其処にいるから出て行かない。
ケージを全て壊してみても、飛び立とうとはしない。

望んだ世界が全て、完全な世界となって構成されているから、他に望むものなどない。



くるりと背中を向けた子供の背中に手を伸ばそうとして、出来なかった。
家の扉が開けられて、金糸の男が姿を見せる。

途端に、悟空が明るい声を上げて駆け寄っていった。



「さんぞー、おかえりー!」



遠慮も何もなく飛びついてきた子供を、三蔵は鬱陶しそうな表情をしながら好きにさせている。
ついさっきまで話を聞いていたのだろうに、顔色一つ変えていない男。
まるで返事を判り切っていたかのようで、悟浄は何故か腸が煮えくり返る気分だった。



……気付いていない訳がない。
悟空に関しては誰よりも知っている──恐らく、悟空本人よりも──三蔵が、悟空を侵食する狂気を知らない筈がなかった。

今までは好きにさせておくしかなかったと言われても判る、他に頼れるものなどなかったのだから。
けれども悟浄と八戒に出会ってから、ほんの僅かではあるが、悟空の世界の新しい扉は開かれた筈。
保護者であるなら、その背中を押してやれば良い。


けれど、三蔵は悟空の好きにさせている。
羽ばたくことも、留まることも、ただ悟空が望むままに。

その羽根が狂気に侵食されて飛ぶことを忘れることさえも。



「ね、お土産は?」
「ある訳ねぇだろ。こっちは仕事で行ったんだ」
「饅頭ぐらい貰ってきてもいいじゃんか」
「ほざけ」



じゃれつく悟空をあしらいながら、三蔵は立ち尽くしている悟浄に目を向ける。
紅と交錯した紫闇は、特になんの感慨も浮かべてはいなかった。

そのままくるりと背を向けた三蔵の背中に、部屋に戻ってきた八戒の声が投げかけられた。



「おや、おかえりなさい、三蔵。もうお帰りですか?」
「ああ」
「もう夜遅いですよ。折角ですから、泊まっていったらどうです?」



コーヒーありますけど、と良いながら誘ってみれば、三蔵はしばし沈黙している。
背を向けているのでこちらからは見えない顔を、悟空が正面に回ってじっと見上げていた。


八戒も、今までの話を聞いていたはずだ。
少しでも悟空をあの閉鎖的な空間から離して置きたいのだろう。

けれどそんな願いも虚しく、三蔵は外界へと続く扉を押し開けた。
開けた三蔵よりも一足早く、悟空の方が外へと飛び出していった。
明りのない暗い外界へ、きっと他の誰かが扉を開けても身動き一つしないのだろうに。


対して、三蔵の方は扉を開けた姿勢のまま、こちらに背を向けて動かなかった。
不審に思って悟浄と八戒が顔を合わせると、直後、肩越しに振り返る。





「余計な事をすんじゃねえよ」




確固たる殺意を含んだ視線。
常ならそれに睨まれても応える二人ではないのに、何故か今回だけは背筋に薄ら寒いものが走った。

悟空が抱いた昏い瞳とよく似ている。
違うのはそれがぼんやりとしたものではなく、彼自身も自覚して其処に抱いているということ。
そしてそれを受け入れて、侵食する感情を持て余すこともなく、あるがまま其処に在るということ。


今銃口を向けられたら、躊躇いなく、逸らされることなく心臓を打ち抜かれる気がした。



「……言っておく。あいつがああなったのは、お前らと逢ってからだ」
「………んだ、と?」



告げられた言葉に、悟浄が上ずった声を漏らした。

二人と出会ってから、悟空は歪み始めたというのか。
向けられる紫闇は偽りなど口にしてはいないのだろうけど、信じられなかった、信じたくなかった。
あの無邪気な子供を歪める原因が自分たちだなどと、誰が信じられるものか。


ショックを受けた表情を浮かべる二人に構わず、三蔵は続ける。



「あいつにとって世界に俺しかいなかったように、あいつにとっての俺も世界に自分しか存在しない筈だった」



悟空に比べれば世界を知っている三蔵だけれど、子供の視点ではそれは判らなかった。
そして三蔵もそれを否定しなかったから、悟空の世界は完全に確立した形で外界から閉ざされた。

三蔵に触れて良いのは自分だけ、自分に触れるのは三蔵だけ。
単純な公式で埋められた悟空の心は、それ以外のものを必要ないと答えを導き出した。
他の何かでは意味をなさない、世界に存在する彼だけが在ればそれで良いのだと。


それで、安定していた。
閉ざされた世界でも、悟空は笑っていたし、望んだ人物が目の前にいるから幸せだった。



「それが、お前らに逢ったことで変化し始めた」



三蔵しかいなかった世界に、他の誰かがいる。
他の誰かが閉じていた筈の扉を開けて、連れ出そうとする。

なら、今まで自分しかいないと思っていた三蔵の世界はどうなってる?


世界に人が増えたら、捨てられるかも知れない。
他に触れる人が出来たら、もう触れることを許されなくなるかも。

今まで誰もいなかった世界に、悟浄と八戒が踏み込むようになって、悟空は無意識に怯えていた。
最初はただの戸惑いから始まって、少しずつそれは大きくなり、いつしか狂気に似たものに変化した。
自分が誰も望まなければ、ただ一人だけ追い駆けていれば───……そんな風に。



子供の屁理屈ばかりの考えだけれど、悟空にとっては何より大事なことだった。



「まぁ、別に………」


扉を押し開き、自分が通れるだけの幅を作ると、三蔵は一歩外へ踏み出した。
支えていた手が離れれば、扉は嫌な音を立てて幅を狭めていく。







「俺は、それで満足してるがな」











閉じられた扉。
その向こうには、絶対不可侵領域。


狂気を抱いた子供と、それを愛した男だけの世界。



少しでも手を伸ばせば、待っているのは────────………




















僕の世界にあなたしかいないなら


あなたの世界に僕しかないなら









………僕は外の世界が壊れたって構わない








僕らの世界を壊すものは、全部なくなってしまったって構わない












FIN.



後書き