For me, only you






女々しい。
そう思いつつも、溜息ばかりが漏れる。




こんな気分で授業に集中出来る筈もなく、悟浄は二限目から既にボイコットを敢行していた。

今更の事なので誰が探しに来る事もない。
サボる場所は屋上で、昼休憩の時間になったら弁当を食べに上がってくる生徒も出て来るだろう。
しかし授業時間の真っ最中に此処に来る人物など普通はいない為、今はとても閑古だった。


縁のフェンスからグラウンドを覗いてみれば、何処の学年から知らないが、駆け回っている生徒達。
汗を流して青春真っ只中のその最中に、悟浄は少しだけ羨ましささえ感じた。
ボールを必死になって追い回すのは、今の自分には到底無理な話だろう。

体育の授業は嫌いではないのだが、今はやりたくない。
かと言って、他の授業はやる気があるのかと問われると、迷わず答えは否なのだけど。



制服の内ポケットから取り出したのは、いつの頃からか慣れ親しんでしまったハイライトの煙草。
しかしその箱の中身は残り一本しか残っていなくて、悟浄は小さくした打ちした。

これを今吸い終わってしまったら、後で余計に苛々するような気がした。


ハイライトをポケットに戻すと、今度はズボンのポケットを探った。
指に引っ掛かって取り出したのは、いつもは絶対に吸わない銘柄の煙草。

─────マルボロ赤ソフト、三蔵が愛用しているものだった。
三蔵が先生に呼ばれたかで席を立っていた時、机の中にあったそれを失敬した。
まさかそのまま盗むなんて命知らずなまねは出来ないので、中身を一本だけ。


(……何やってんだかな)


手の中で弄びながら、悟浄はまた長い溜息を吐いた。

こんなものを盗んでどうするつもりだったのか。
全く、恋に落ちた男のなんと愚かな事か。



自分が何を思ってこれを盗んだのか、それは判らない。
ただ行動の動機は間違いなく、あの無邪気な恋人の事なのだ。




煙草の匂いの何がいいのか、悟浄はよく判らない。
喫煙者ならともかく、それをしない悟空が言うから余計に判らないのだ。
普通、吸わない者は煙草の匂いを嫌がると思うのだが。

けれども悟空がいう事に基本的に嘘はない。
思ったままに口にするから、それが偽りを音にする事は滅多になかった。


でも、判らないのだ。
何故こんなものの匂いが好きだと言うのか。



(……まぁ、あいつだしなぁ……)



悟空は、一度懐に入れた者に対して酷く寛容的だ。
だから度々、あまりにも無防備すぎる感があって悟浄が気が気でなくなるのである。

お気に入りの先輩のまとう匂いを好きだと思うのは、悟空の中の方程式ではごく普通なのかも知れない。



(俺が煙草吸ってるって知った時はあれこれ煩かった癖によ)



家の自室で吸っていたら、前触れもなしに突入された事があった。
バレたのはその時で、悟空は身体に悪いとか背が伸びなくなるとか(既に今更の話だったが)、とにかく騒いだ。
悟浄が幾ら言っても止めないと諦めてからも、やはり悟浄が煙草を吸っていると顔を顰めていた。

悟浄の煙草の煙を、悟空は嫌がっていた。
自分の成長の妨げにもなるからかも知れない(何せチビがコンプレックスだし)。


それを、三蔵相手だとあっさりと容認した。
挙句、その匂いが好きだなんて。



「あーあ………」



漏れた溜息の出所はようとして知れない。
知れないけれど、陰鬱とした気分が晴れないことだけは変わらない。


弄んでいたマルボロの煙草を咥えて、ライターで火をつける。
吸い込めば広がるのは慣れない味ばかりで、悟浄は顔を顰めた。

当たり前と言えば当たり前。
これは他人が愛用しているもので、悟浄のものではない。
まして、恋人がお気に入りにしている三蔵のもので。



(……どれの所為で不味いんだか判りゃしねぇ)



素直に自分の煙草を吸えば良かったか。


煙草を口から離して、そのまま消してやろうかとも思った。
けれどもまだ十分残っているそれを潰してしまうのを勿体無いと思うのは、生来の貧乏性の所為。

美味くもなんともないそれを延々吸い続けたってなんの得がある訳でもないのに。




「……ダセェ」



ぽつりと呟いた言葉は、誰に向けたつもりもなかった。

が。







「なにが?」






空で一杯だった視界を、突然太陽の色に埋められて悟浄は固まった。

眩しいほどのその色の持ち主が誰であるか、考えなくても判る。
悟浄の身長から頭二つも下にある筈のそれは、何故か今は悟浄が見上げた先にあった。
わざわざフェンスによじ登って、それから悟浄を見下ろしてくれているのである。


小猿のように身軽な悟空は、フェンスの上に完全に登ってしまっている。
両手をフェンスの天辺にかけて、足は金目に先端だけを引っ掛けて、
その上で更に背伸びするように背を伸ばして悟浄の顔を見下ろしているのだから、その身軽さには恐れ入る。


そろそろと悟浄が空を仰いでいた首を前方へと戻せば、悟空もそれに合わせるようにフェンスから降りた。



「……何やってんの、お前」
「悟浄の真似」
「あ?」
「サボリ!」



間違ってもそれは嬉しそうに言うことではないだろうに。
が、先にサボっている自分が言える立場ではないので、悟浄はそれについては黙った。



「いいのかよ、親父さんにバレたら拳骨じゃすまねえぞ」
「悟浄の所為って言うからいい」
「……お前、最近八戒の影響受けてねぇか…」



さらりと酷い発言をしてくれる恋人に、悟浄はがっくりと肩を落とす。
まさか本気ではないだろうし、いざという時悟空がそういう嘘も言えないことは知っているけど。



「でも、サボんのも意外と悪くないな」
「…そうか?」
「だって屋上独り占めだもん」



屋上は悟空のお気に入りのスポットの一つだ。
広くて空が近い、そんな場所。

昼休憩ぐらいにしか上がってきた事のない悟空は、誰もいない屋上は初めてだったようだ。
気持ち良さそうに笑う悟空に、なんとなく悟浄も沈んでいた気分が幾らか治ったような気がした。



「そういやね、伝言あるんだ」
「あ?」
「覚悟しとけって。三蔵から」
「………」



どうやら、煙草を失敬したのはバレていたらしい。
失敬して直ぐに悟浄は教室を出たから、制裁を加え損ねたと言うのだろう。
今日はこのまま教室には戻らないほうが良いかも知れない。

クスクスと面白そうに笑う悟空に、悟浄は口を屁の字に曲げた。
治ったと思った先からまた浮かんできた感情を誤魔化すように、癖になった煙草を口に咥える。
が、味がいつもと違う事を今更思い出して、また顔を顰めた。


何もかもが上手くいっていない。
そんな気がする。

何か一つ上手くいかないことがあると、後も全部駄目になっているような気がした。


「悟浄?」


覗き込んでくる子供の瞳に映っているのは、悟浄だけ。
空さえ映していないほど、その金瞳には紅が広がっていた。

ずっとそうでありたいと思うようになったのは、そんなに前の話ではなかったと思う。
それがごく当たり前に、そうなるだろうと思っていたのも。


けれど悪友二人と悟空が知り合ってから、それが打ち崩されたような気がした。


悟空は悟浄を好きだと言うし、時々だけれどキスもしたけれど、それでもまだ自信が湧かない。
悟空の幼さと無邪気がそうさせる。

手を繋ぐのも、キスも、小さな子供のスキンシップのようなもの。
そこに恋慕の情が絡むのかと言われると、悟浄は自信を持って応とは言えなかった。

彼らと会って、余計にそれが強くなった。
悟空が自分を見る時間が減っていくばかりのような気がして。
ネガティブな思考は似合わないと思っても、一向に止まってくれなかった。



「悟浄、変な顔」



言って、悟空が手を伸ばす。
宥めるようにポンポンと頭を撫でられるけれど、それにも今の悟浄は笑えない。
いつもならお前と一緒にするなよ、と言えるのに。

それがないから本格的に悟浄が可笑しいと、鈍い鈍いと言われる悟空も気付いたらしい。
眉尻を下げて心配そうに見上げてくる瞳は、一歩間違えれば悟空の方が泣き出しそうだった。


ぽすん、と小さな身体が悟浄に抱き付いた。
背中に廻された腕がぎゅうぎゅうと締め付けてきて、けれど悟浄はそれを厭と思った事はない。

小さな子供が甘えているようなそれを、悟浄は上から覆いかぶさるように抱き締めた。



「ん……」



もぞもぞと身じろぐ悟空に、息苦しかったかと少し力を緩める。
すると、悟空はそうっと緩やかな動作で顔を上げた。



「…悟浄」
「あ?」
「なんかヘンな匂いするよ」



変な匂い。
そんなものあったか、と考えてから、手に残っている火のついた煙草に気付いた。
危ない、もう少しで悟空の長い髪を焦がすところだった。

匂いのもとと言ったら今はこれしかないだろう。
コロンだとかいうものはつけていないし、それがつく程女の傍にもいなかったから。



「……煙草だろ」
「悟浄の煙草、こんなヘンな匂いしたっけ?」
「ヘンってなあ…三蔵と同じ匂いだぜ」



朝は三蔵の匂いが好きだと言ったくせに、今は変な匂いだと言う。

全く、悟空のこういう判断基準はいつも曖昧だ。
何を基本として好き嫌いを分けているのだろうか。


悟空はもう一度悟浄の胸に顔を埋めると、くんくんと犬のように鼻を鳴らす。



「一緒だろ」
「……違う」
「はぁ?」



悟空の言葉に、悟浄は眉根を寄せた。


同じ筈だ、これは三蔵の煙草から失敬したのだから。

けれども、悟空は違うと言う。
いつも吸っているハイライトの匂いと混じっているのだろうか、と悟浄は頭を掻いた。



ぎゅ、と背中に廻された小さな手に力が篭る。





「なんか、ヤダ」






悟浄の胸に顔を埋めたままで呟かれた言葉は、はっきりとしたものだった。


好きだと言ったくせに、今は嫌だと言う。
コロコロ変わる悟空の意見にどうしたものかと溜息を吐いて、取り合えず悟浄は手に残っていた煙草を捨てた。
まだ半分以上も残っていたのに勿体無い気もしたが、悟空が嫌だと言うから仕方がない。

コンクリートに落ちたそれを足で揉み消すと、少しの間紫煙が揺れて直に消えた。
それでも残る匂いに悟空は不満げな瞳で見上げてくる。



「これ、悟浄の匂いじゃないじゃん」
「俺の匂いって何だよ」
「悟浄の匂いは悟浄の匂い。いつものがいい」



それを言ったら、ハイライトの匂いだろうか。
多分、悟浄が日頃まとわせている匂いと言ったらそれしかない。



「でもお前、煙草嫌いって言ってたろ」
「嫌い。煙嫌い」



どうやら、匂いではなくて煙の方が嫌いらしい。
煙草自体にはそれほど厭という程でもないのだろうか。

なんとも子供の勝手な我がまま。
煙草を吸えば匂いも煙もついてくるものだ。
その片方はいいけれど、もう片方は嫌だなんて。



「なんで三蔵の煙草吸ってたの?」
「んー……気紛れ?」
「……なんだよ、それ」



また不満そうに悟空が唇を尖らせる。
ぎゅ、と背中を抓られて、それが結構痛くて、仕返しに悟空の耳に息を吹きかけた。
びくっと素直すぎる反応を返した悟空に、悟浄はククッと笑う。

真っ赤になるも腕の中から逃げ出そうとしないのをいい事に、悟浄はそのまま悟空を抱き締める。
悟空は悟浄のそれを甘んじて受け入れていて、また頭を悟浄の胸に摺り寄せた。



「悟浄のバーカ」
「あんだよ、急に」
「バカじゃん。三蔵の匂いは三蔵の匂いだから好きなの。悟浄と比べて好きとか、そんなんじゃねーの」
「耳赤ぇぞ、お前」
「うっさいバ河童、黙って聞けよっ!」



顔を埋めたままでは迫力も何もない。
けれども言われたものは大人しく、続く言葉を待った。






「悟浄は、悟浄の匂いだから好きなの。悟浄だから、一番好き」







それは、誰と比べてあるものではなくて。


“あなた”が一番好きだと。



その言葉が嬉しくて、気が付いたらキスしていた。





















ちょっとだけ成長してみたい

歩幅は今のままでいい

風がカレンダーをめくった



君だけに気づいてほしいな

新しい僕の匂いを








ちょっとだけ変わってみようよ

ジーンズは今のままでいい

何度も見た映画をまた見よう


君だけに感じてほしいな

優しい今の響きを


in my mind 自分に約束しよう……












FIN.



後書き