形にない贈り物






──────たった一枚の扉が、こんなにも重いと感じたことは嘗てなかった。


東の空には既に太陽が昇り、悟空はすっかり疲れ切っていた。

けれども悟空が今一番申し訳ないと思うのは、一晩ずっと付き合ってくれた悟浄に対してだ。
帰路を進む間も、落ち込む悟空を宥めるように頭を撫でてくれていたのだ。


言われた通り南部には行かず、昨日の昼の間に一通り街を歩いた悟浄に先導される形で、悟空は目的のものを探した。
けれども、どれもピンと来る事がなく、時間が過ぎていくばかりで結局夜は明けた。
付き合わせた悟浄への申し訳なさと、見つけられなかった落胆から、悟空はベコベコに凹んでいる。

それでも夜が明ければ流石に宿に帰らなければ、と思った。
泣き出しそうになるのを我慢しながら歩く悟空を、悟浄は揶揄おうとはしなかった。



帰ろうと踵を返してから、約一時間。
距離としては大したものではなかったが、何せ悟空の足取りは酷く重たいものとなっていた。

そして宿に帰り着いて、不意に感じた気配。
それがまたしても悟空の落ち込みに拍車をかけたものだから、悟浄としては最早お手上げ。
取り合えず自分の明日が見れること、それから子供がこれ以上泣かないでくれることを祈った。


宿の出入り口近くで立ち止まってしまった悟空を、悟浄が動き出すのを待ってから約10分。
しゃくり上げたままで、悟空が一歩踏み出したので、悟浄は宿の扉を開けた。


かくして待っていたのは、やはり。





「お帰りなさい、お二人とも」





…………その笑顔を見た時は、悟空も思わず涙が引っ込んだ。

引き攣る悲鳴さえも掻き消したその笑顔は、明らかに“怒”の感情を持っている。
反射のように悟空は悟浄の後ろに隠れ、悟浄はそのまま固まっていた。


そして八戒の向こう側、宿屋の二階へと続く階段の傍に立っている最高僧。
こちらも不機嫌は絶好調で、何事もないかのように煙草を吹かす姿が逆に空恐ろしい。


予想はしていた。
悟空も、悟浄も。
自分たちが仕出かした事に対して、どんな事が後々待ち受けているか。

しかしやはり目の当たりにすると、思っていた以上にそれが恐ろしいものであった事を改めて認識する。



「取り合えず、先ずは事情聴取ですかね」



八戒の言葉を皮切りにしたように、三蔵が背中を預けていた壁から離れる。
にこにこと完璧な笑顔を浮かべる八戒と、無言で歩み寄ってくる三蔵。
それを真正面から見受けなければならない悟浄の血の気は、あっという間に引いていく。

悟浄の陰に隠れた悟空の視線は、ゆっくりと歩み寄ってくる自分の保護者へと向けられている。
宿に入る前とは違った理由の涙が浮かんできて、悟浄の服を背中から強く握る。


宿の玄関でなんとも邪魔なものであるが、幸か不幸か、宿を出入りしようとする人影はない。
まだ太陽が昇り始めて間もない時間だから、これも無理はないだろう。



ガシッ、と三蔵の腕が、悟浄の服を握る悟空の手を捕まえる。




「来い、バカ猿。躾のやり直しだ」



少し高い位置から見下ろす紫闇に漂うのは、確かな怒気。
言い付けを破ったこと、そのまま朝まで戻らなかったこと────……悟空はいつまでも気付かないが、
一緒にいたのが自分ではなく悟浄であったと言うことも、彼の怒りの要因の一つであった。

口端を僅かに上げて、楽しそうに薄らと笑みを浮かべる三蔵。
悟空のいつも子供らしくほんのりと紅潮している頬が、この時ばかりは真っ青になった。



「やだあああぁぁ!!!」
「逃がすか」
「やだ! ちょ、悟浄っ助けてっ!!」
「………無理。あと頑張れ」



引き摺られるように階段を上っていく悟空は、絶対無理!! と叫ぶ。


そして、残された悟浄はと言えば。



「こっちも逃がしませんからね、悟浄」



せめて弁明させてくれ、と悟浄が思ったのも無理はない。






























悟空の目尻からはまた涙が溢れていた。
手を引っ張って前を歩く三蔵に、それを見られずにいるのが幸いかも知れない。
部屋に着くまでにどうにかして引っ込めればいいのだから。

けれど、悟空の思いに反して涙は次から次へと溢れてきて、いい加減に瞬きなしでも零れ落ちそうだった。


涙の理由は色々あって、どれが一番の要因になっているのか、悟空にもよく判らない。
数時間歩き回って疲れたのもあるし、言い付けを破った後ろめたさもあったし、探していたものを見つけられなかったことも。
考えてみれば幾らでも湧いてきそうな理由に、涙腺が緩む。

手を掴む三蔵の手を、強い力で握り返す。
それで三蔵が振り返ることはなかったけれど、悟空が今どんな顔をしているのか、多分彼は判っている。
何故か悟空以上に悟空の事に機敏な人だから、きっと。





最悪の日になった。
悟空はそう思う。

だって、一番に彼を怒らせた。




三蔵に宛がわれた部屋に入って直ぐに、悟空は掴まれていた手を解放された。
強く掴まれていたとばかり思っていたのに、不思議と悟空の手には三蔵が掴んでいた痕が残っていない。
逃がすことは赦さなかった三蔵だが、無為に傷付けようとはしないのである。

そんな優しさが余計に悟空の涙腺を緩ませる。



「……泣いてんじゃねえよ」



振り返った三蔵の顔が見れなくて、悟空は俯く。
耐え切れなかった涙が床に落ちて、小さな水溜りを作った。



「落ち着け、悟空」



でなきゃ話も出来ない、と三蔵の手がくしゃっと悟空の頭を撫でる。
それから手が後頭部に回されて、胸板に顔を押し付けられた。

一晩外を歩き回った悟空の体温は、いつもの子供体温が嘘かと思うほどに冷たい。
其れ程までに一体何を欲していたのか、と三蔵は呆れた風に溜息を吐くと、赤ん坊をあやすように背中をぽんぽんと叩く。
泣き止ます為にそうしてくれているのだろうに、悟空のしゃくり上げは余計に酷くなっていた。



数時間ぶりの温もりに、悟空は三蔵の胸に頬を寄せた。
涙の所為で三蔵の法衣が濡れてしまうとも思ったが、それより温もりを感じていたかった。


煙草の匂い。
寺院にいた頃と何も変わらない。
泣いたら、こうやって抱きしめてくれることも。

だから、だから。
だから、どうしても。



………言いたかったのに。



余計に泣き出し始めた悟空に、三蔵は溜息を一つ。
このまま待っても埒が明かないと思ってか、もう一度悟空の頭を撫でてから、



「……ちゃんと答えろよ」



悟空の頭を自分の胸に押し付けたまま、三蔵が呟いた。
顔を上げずに悟空が頷く。



「一人で外に出るな、大人しくしてろ。俺はそう言ったな」
「……ん……っく…ぅ……」
「悟浄が一緒にいたなら一人じゃない、なんて言い訳は聞かねぇぞ。夜中に出歩く方が問題なんだ」



もう一度、悟空は頷いた。
改めて言われると余計に居た堪れなくなって、悟空は三蔵の胸に益々顔を埋めてしまう。



「判ってんなら話は早い。何故、外に出た?」



問いながら三蔵はベッドに腰掛けると、膝の上に悟空を乗せてやる。
19歳になったとは思えない程、その体は小さくて軽い。



悟空はしばらくの間しゃくり上げてばかりで、喉が引き攣って声も出なかった。
漏れるのは嗚咽しかなく、それでも悟空が何か言おうとしている事は三蔵も判るらしい。
しがみついてどうにか涙を止めようとする悟空に、三蔵にしては珍しく待ってやる。


一晩探し続けた目的のものが此処にあったら、それを切っ掛けにもっと容易く言えたかも知れない。
けれど、散々悟浄も引っ張りまわして探し続けたものは、結局見つからず仕舞い。

付き合わせた悟浄には悪いと思ったし、心配をかけた八戒にも謝らなければいけないし。
これだけ騒がせて置いて目当てのものが見つからなくて、悔しいったらなくて。



「さぁ…ぞぉ………」



名前を呼ぶだけでも、酷く声が引き攣っていた。
それでも呼んだ声になんだ、と少し不機嫌交じりに答えてくれるのが好きで。





呼んでくれるのが好きで。
呼んだら振り返ってくれるのが好きで。

それは、今日と言う日がなかったら一生来なかったかも知れないもの。
あの春の日に出会ってさえいなかったかも知れないもの。


三蔵にとっては何気ない一日であるとしても。
三蔵がいる事で此処に在ることの出来る悟空にしてみれば、それは思う以上に大きな事で。
今日と言う日に三蔵の師だと言う人が、この人の存在に気付く事がなければ、悟空は今もあの暗い場所にいただろうから。

寺院にいた頃でさえ悟空以外誰も知らなかった、今日と言う日。
どういう流れで教えて貰ったかはよく覚えていないけれど、それでも毎年今日と言う日が来るのが嬉しかった。



───この日、大好きなこの人は生まれた。


それが自分と同じように、正確な生誕な日でないと言われても。
この日が持つ意味は、悟空が三蔵に拾われた日ときっと同じもの。

誰かの目に映るようになって、誰かの温もりを知って。
きっと、人は生まれるものだと。
目の前の太陽の時間が最初に動き出したのは、今日と言う日なのだから。






繰り返し名を呼ばれる名前に、三蔵は律儀に返事をしてやった。
それもおざなりなものであったけれど、悟空を落ち着かせるにはそれが一番効果的だ。

それから次の言葉が出るのを待ってから、数分。



「……今日っ…・さん、ぞ……ぃ……ふぇっ……」
「…深呼吸してからにしろ。その方が判る」
「ひ……うぇっ……ふ…ぅー……」



寺院にいた頃となんら変わらない顔で泣く悟空に、三蔵が漏らすのは苦笑。
何も成長していない、と。
けれど、そんな悟空が愛しいのも確かだった。

金鈷に口付けて、瞼の上にも落とす。
それは、触れるだけの子供のようなものだった、けれど。



「さ、んぞ…さんぞ…の、きょうっ……今日、っび……」



抱き締めてもらって、キスをくれて。
これじゃどっちがどっちの日だか判ったものじゃない、と頭の隅で悟空は思う。

やっぱり最悪の日だ、と。


折角の、今日なのに。






「さんぞっ……たんじょー、び……なの、にぃ……っ…!」





────祝うどころか、散々で。

言葉と一緒に贈りたかったささやかでもいい小さな形も見つからず。
夜明けまでに戻れていたら、もう少しマシだったかも知れないのに。


小さな子供と同じように泣きじゃくって告げる悟空を、三蔵がどんな表情で見下ろしているのか。
涙の膜で歪んでしまった悟空の目にそれはまともに映らなくて、よく判らなかった。

ただ聞こえた溜息が、呆れたもののようにも聞こえた気がした。
それに浮かんでくるのは、無理もない、ということ。
だって今までただの一度だって、三蔵が今日と言う日を喜んだ所など見たことがなかった。


三蔵にしてみれば、今日と言う日は悟空が何も言わなければ通常通りに過ぎていく一日というだけのこと。
寺院にいた頃、この日に仕事が入ったとしても文句を言うのは悟空の方で、三蔵は常と変わりなかった。
今はその頃とは違うけれど、日付の感覚も曖昧になってしまう日常である事は間違いないだろう。

昨日の昼間、悟空がジープの中で何を指折り数えていたのか、誰も気付かなかった。
悟空もあの時思い出さなければ、後日何処かの宿のカレンダーを見て遅れた事を知るだけで。



でも気付いたから、思い出したら。

ささやかでもいい、何か贈るものがあれば、と思って。



「なんも…なんにもっ…! なくって…ごめっ……」
「お前な……」
「ひくっ…う、ふえ……っん…う…」



収まりかけていたと思ったらまた派手に泣き出した悟空に、三蔵は呆れる。
けれども、その呆れは決して悟空が思っているようなものではなかった。



「泣くなっつってんだろ、テメェは……」



憮然とした言葉遣いなのに、声は珍しく優しかった。

キスが頬に下りてきて、零れた涙を舐め取られた。
それに驚いて顔を上げると、見下ろす紫闇と間近でぶつかる。



「だからって一晩も外をウロウロすんじゃねえよ」
「……って……だってぇ……」



どうしても、何かあげたかった。
何か、三蔵が喜びそうなもの。
三蔵に似合いそうなもの。

だからずっと探し回った。


けれど悟空の手持ちの金銭は、本当に小さな子供のお小遣い程度のものだ。
八戒と一緒に買い物に行ったりした時に、僅かな釣銭を溜め込んだだけの。

そんな小さな子供が持つようなお金で買えるものなんて幾らもない。
悟浄は何度も妥協してもいいんじゃないかと言ったけれど、納得できなかった。
結果、こんな事になってしまって。



「っく…ひっ…ふぇっ………うぇえ……」



悟浄の言うとおりにすれば良かったか。
それとも、急いたりしなければ。

何も今日じゃなきゃ駄目、なんて誰が決めた訳でもない。
昨日街に着けなかったらプレゼントなんて探しようもなかったし、いつも通り時間は過ぎていただろう。
そうなったって別に誰も悟空を責めたりなんてしなかった筈だ。


でも。



「三蔵、ごめ…ごめんっ……ごめんなさいぃ……」



渡したかった。
言いたかった。

“おめでとう”も、“ありがとう”も。
生まれた日を迎えて“おめでとう”、生まれてきてくれて“ありがとう”。
どっちも伝えたくて、言葉だけじゃ自分が物足りなかったから、ちゃんと形になるもので。



「バカ猿………」
「ふえ……っん……」



一向に泣き止まない悟空に苦笑して、三蔵は尚も嗚咽を漏らす唇を塞いだ。

驚いて瞠目した悟空だったが、呼吸を塞ぐそれが何であるのか判ると、頬を染める。
そのまま滑り込んできた舌に応えて、悟空は目を閉じる。


間近で見た金糸が眩しくて、見つめてきた紫闇に全部が吸い込まれそうで。
見ていたかったけれど、あんまり近いそれがなんだか恥ずかしくて、だから目を閉じてしまった。

悟空が抵抗しなければ、咥内を貪るそれが容易く離れる事はない。
角度を変えながら深く口付けていると、悟空の鼓膜に粘着質な音が届く。
それが自分の口の中からのものだと気付くと、余計に恥ずかしくなった。


それでも、離れていくと淋しくなる。



「さ…ぁんぞ………」



飛び掛けた理性をどうにか捕まえて、自分を抱く男の名前を呼ぶ。
男は悟空を抱く腕にまた力を込めて、逃がすまいと檻の中に囲うようだった。



「別になんも欲しかねぇよ」
「…う、ん……でも……」
「喋んな、聞いてろ」



言い募ろうとする悟空の言葉を遮って、言う。
三蔵の言葉に、悟空は素直に口を噤んだ───泣きそうな顔のままで。



「お前が買えるようなモンなんて早々ねぇだろうし。料理なんて出来る訳ねぇしな」
「……八戒に…教えてもらったら…出来る、けど…多分……」
「それじゃ嫌だったんだろ」
「………ぅん……」



買うなら、自分の目で見て選んで、自分のお金で買いたかった。
作るなら、自分の力だけでやりたかった。

自分で。
自分で、ちゃんと。
選んで、贈りたかったから。


意地にならなきゃ良かったのかな、と悟空は小さく呟いた。
けれど、三蔵から帰ってくる台詞は、いつもの素っ気無さを思えば驚くようなもので。









「お前が此処にいるなら、後は何もいらねぇよ」








金鈷のすぐ下、前髪の隙間。
口付けられて、悟空はきょとんとして三蔵を見上げた。

見上げた先にあったのは、三蔵の笑み。


途端に恥ずかしさと嬉しさと一緒になって、顔が紅潮する。
浮かんできた涙は悲しいからじゃなくて、淋しいからじゃなくて、言われた言葉が嬉しくて。
こんな時にそんな言葉を言って貰えるなんて思ってもみなかった。

何かあげたい、渡したい、という思いは消えていないけれど、そう言われると悟空は死ぬかと思うぐらいに嬉しくなった。
────やっぱり、どっちの誕生日なんだかこれじゃ判ったものじゃない。



「結局泣くんじゃねえか、お前」
「……だってぇ……」
「ったく……」



ぽんぽん、と悟空の頭を叩く三蔵の手。


保護者の手。
恋人の手。

それが、大好きで。
それが、此処に在るのが嬉しくて。
それの、隣にいられる事が死にそうなくらい嬉しくて。




「そんなにプレゼントしたいってんなら、お前がなれ」




……そんな台詞も、いつもは恥ずかしいだけなのに、今は嬉しいばっかりで。


「────ん……い、よ…いーよ、あげる…!」
「言ったな」
「言ったもん。全部全部、全部あげる…! ぜーんぶ…!」


もうあげたものも。
まだあげてないものも。

全部ひっくるめて、今この時に全部捧げる。


「躾も兼ねるぞ」
「いじわる…」
「笑って泣きながら言ってんじゃねえよ」
「だって……むり、顔戻んない…」
「フン……」



意地の悪い台詞も。
呆れたように頭を撫でる手も。
抱き締めるように背中に廻された手も。

組み敷いてくる体も、口付ける唇も、指先を絡めて重なる手も。



全部、全部、全部好きで。

だから。










「もう全部、持ってって」











“おめでとう”と“ありがとう”と一緒に。



































“おめでとう”



“ありがとう”







僕は、どっちを言ったらいいのかなんて



考えなくたってすぐ判る









嬉しいのは本当だから、どっちもちゃんと伝えたかった
















FIN.


後書き