flare








奪われるのは、嫌だから。
ずっと傍にいたいから。

だから守りたかった。
だから隣にいたいと願った。
他の何を捨てる時が来ても、この光だけは、もう。


だから強くなりたかった。
守られる必要なんてないように。
守りたいと願った光を守れるように。

誰が相手でも、何が相手でも、一番大切なものだけは守り抜きたくて。



思い出せない記憶の中、遠い日の底の方で眠っているものがある。
それは時々顔を出してきて、単純だけれど酷く複雑な信号を出す。

単純だと思うのは、自分の中でその信号が何を示しているのか判っているからで。
複雑だと思うのは、判っている筈なのに思い出してはならないと言う何かが邪魔をするから。
矛盾し相反するそれを理解するには、まだ何かが足りないのだと直感で感じた。


足りない“何か”が何なのか。
悟空にはまた、それも判らなかった。



眠っているそれは大抵唐突に覚醒し、悟空の正常な思考回路を根こそぎ剥ぎ取る。
理論や理性と呼ばれる回路を剥ぎ取って遮断し、残るのは本能的な部分だけ。

その本能が、目覚める途端にいつも言う。



奪われる。
奪われる。

駄目だ。
奪われたら駄目だ。
もう失ったら駄目だ。


手を離したら駄目だ。
目を離したら駄目だ。

奪われる。
奪われる。
奪われる。



誰がそれを奪うのか。
何がそれを奪おうとするのか。

そんな事はまるで関係ない。
誰が何処で何を如何するかなんて関係ない。
ただ誰かが奪おうとすることだけが明白で。


守らなければいけない。
繋ぎ止めなければいけない。

それは自分自身を形成するものとしてでもあり。
目の前の光を追いかける動物の本能としてでもあり。


何故そんなにもと問われたなら、導き出される答えは単純。









だってまた失ったら、今度こそ息が出来ない。



















































ぼんやりと、見るからに無防備に立ち尽くす子供。
それを狙わぬ者などいない。

咆哮を上げて襲い掛かる妖怪を、追うように悟浄は錫杖を振り下ろす。
金属音を立てて伸びる鎖は、それでも妖怪に追いつくことはなかった。
八戒が続こうとするが、目の前に壁を作る妖怪達の所為でそれ以上前に進めない。


二人に背中を向けたまま、悟空の瞳に映っているのは紅に染まった三蔵の姿だけ。
他の事などまるで意識の中から追い出してしまった悟空は、白い法衣が紅に染められていくのをただ見ていた。

悟空の顔は無表情ではないだろうに、けれども其処に感情の波は伺えない。
目の前で何が起きているのか、今自分がどんな状況下にいるのか、それさえも判っていないようで。



────その奥底で、まるで別物のように動く頭があるのを悟空は感じていた。






守り抜くためには何をすればいい?
繋ぎ止めるためには何をすればいい?






頭の中で繰り返し問う声は、他の誰でもない悟空自身のもの。
何故かそれが自分の中で眠るもう一つの魂のものだという気はしなかった。

だからこれは、自分自身が持つもので。





……簡単だ。












奪おうとするものを根こそぎ葬ればいい。















「───────うぅあああぁぁぁああああぁぁぁっっっっ!!!!!!」















慟哭。


それにぎくり、と動きを止めたのは悟浄と八戒だけではなかった。
膨張しきった何かが大きな音を立てて破裂したような声は、酷く悲痛の色を抱いていた。

その慟哭の叫びを、悟浄と八戒は過去にも数回、聞いた事があった。
それは決まって金糸が紅に染まった瞬間の事で、直後に訪れるのは崩壊にも似た巨大な力の渦。
全てが片付いた後にあるのはいつも子供の泣き顔で。



「悟空っ!!」



悟浄と八戒の呼ぶ声は、ほぼ同時だった。

だが、思っていたような光景は其処にはない。
あるのは地に伏した金糸の男の傍で、感情のない顔で立ち尽くす少年の姿。


額の金鈷はいつも通り其処にある。
旅に出る前に切ってしまった大地色の髪の長さもそのまま。

けれど纏う空気だけが違う。



「……な……なんだ……? なんなんだ、このガキはッ!!」



無邪気にまるで遊んでいるかのように、戦闘を繰り広げていた子供。
すばしこく駆け回っていた小猿のような子供の表情は其処にはない。

陽だまりのようだった子供の顔は、今は絶対零度の冷たさを持って立ち尽くす。
三蔵の血で汚れてしまった服が、酷く背徳的なものを醸し出すような気がした。


悟空が一歩前に出ると、土を踏む音がいやに響いたような気がした。

無意識であったのか、周囲の妖怪達が一歩後ずさる。
此処にいるのが刺客の類であるなら、それでも果敢に飛び掛ってきたことだろう。
だが幸か不幸かただのならず者でしかない妖怪達は、震え上がったまま動けない。



斉天大聖の姿の時とはまた違う。

あれは酷く無邪気な気質で、それ故に酷く残酷だ。
今悟浄と八戒の目に映る悟空は、それとは違う毛色を持っている。


瀕死の親を庇う動物の子供のようで、それが放つ敵意や殺意は時に子を守ろうとする親を超える。
唯一無二の絶対的な存在を守ろうとするものは、目に映るもの全てを力の限りで排除しようとする。
幼いその身の全てを以て、己の絶対の存在を守る為だけに。

噛み付かれれば小さな体に不似合いなほどの力で牙を食い込ませ、相手が息絶えるまで放す事はないだろう。
目の前のそれがいる限り、傍らの存在が死の危機に晒されるというのなら。



ひゅっという風を切る音が聞こえた時には、もう遅かった。
一番近くにいた妖怪達の一列は吹き飛んで、地面に落ちるともんどりうって事切れた。

囲む妖怪達を睨む子供の瞳は、猫科の猛獣のものとよく似ている。
瞳孔の開いた瞳は其処に映り込むもの全てを排除すべきものだと認識しているのだろう。
敵味方の判別がろくにつかなくなった悟空を相手にするのは初めてではなかったが、
いつもよりも性質が悪いかも知れない、と悟浄は思った。



「クソガキィィィイ!!!」
「寄せ、死ぬぞ!!」



一人、眼光の呪縛を振り切って踊りかかった男がいた。
それを止めるように叫んだ仲間の声は、精一杯の自尊心を持って立ち向かった男には届かなかった。

悟空が一度地面を蹴ると、小さな体は一瞬の間に男の目の前に存在していた。
男が声を出すのを間もなく、悟空はその妖怪の横面を蹴ると、ぐらりと体勢を崩した妖怪の胴を拳で打った。
勢いよく後方に弾かれたその妖怪を受け止めれるものはおらず、妖怪は木に激突するとそのまま動かなくなる。


妖怪達の円の中から一つ外れた場所にいた悟浄と八戒は、その容赦の無さに無自覚に身震いした。



「……悟浄」
「…あによ?」
「今の悟空を、止められますか?」



八戒の視線は、悟空の姿の向こう側────地に伏したまま動かない三蔵へ向けられている。
幾ら三蔵の生命力が並大抵でないといっても、それは一般とされる人間と比べての事。

かなりの出血をしている。
これ以上放っておけば、最悪の場面しか残らない。
その先にあるのは、間違いなく破滅しかない。



「………ちょっと、きついな」



けれども悟浄の返答は酷く自信の無いものだった。


金鈷が外れていたなら全力を持って止める事が出来ただろう。
けれど悟浄も無事では済まないし、過去に二度正面からぶつかった時にそれは証明された。
それはまた、金鈷が外れた状態ならば全力で相手が出来るという事にもなる。
突出した力を持つからこそ、大なり小なりの無茶をしても大丈夫だと言う証明にもなったから。

けれど、今の悟空は違う。
欠落しているのは己と絶対の存在以外の認識能力だけで、それ以外はごく普通なのだ。



────やり辛い。



悟浄の頭を占めるのはそれだった。

それから、寝てんじゃねえよ、と地に伏す金糸の男を見ながら呟いた。
認識能力が欠落してしまった子供に、泣くなと伝えられるのは彼だけだから。



また飛ばされてきた妖怪の体躯を避けて、八戒はちらりと地面に転がったそれを見遣る。
まるでこの世で最たる恐怖を味わってしまったかのように、妖怪の顔は酷く引き攣ったものになっていた。

刺客のような覚悟もなかったのだろうに、まさかこんな事になるなんて夢にも思わなかっただろう。
旅途中の人間四人を見つけてこれはいい鴨だと、ただそれだけだった筈だ。
相手の方が恐怖を感じこそすれ、己がそれを味わう側になろうとは。


同情する気はない。
彼らは、してはならない事をした。

絶対の禁忌を侵してしまった。


「やべぇ、逃げろ! 逃げろっ!!」
「殺される……!!」


蜘蛛の子を散らすように、という言葉がよく似合う気がした。
隊列も足並みもばらばらに逃げ出す妖怪達は、もう体裁も何も無い。

子供はそれを追い駆けようとするように一歩踏み出した。
けれども殆どの影が遠くなっていく中に、二つだけ微動だにしない者がいる。


二人の青年を見据えた金色の瞳は、やはり何処までも深く冷たく、痛々しかった。



「じゃ、任せますよ」
「……おうよ」



ほんの少しの間、動きを封じることが出来ればいい。
それさえ暴走しかけた悟空相手では難しい事でもあるのだが、それ以外に方法はない。

一端押さえ込んで目の前がどんな状態であるのか、認識させる為の時間が要る。
もう排除すべき者はないのだと、それだけを教えてやらなければならない。


力で対抗できるのは悟浄だけだ。
ぱんっと拳と手を打ち合わせると、悟浄がやる気である事を察したらしい。
また土を踏む音が聞こえて、悟浄は流れる汗は自分でも誤魔化すことは出来ないと思った。

湧き上がるのは生か死かの緊張感ではない。
失敗すれば、泣かせてしまうという一つの責任感にも似たような感情だった。





「来いよ、バカ猿………目ぇ覚ましてやる」





荒療治だが、この場合は勘弁して貰おう。
そうでもしなければ、自分たちの手で子供が目を覚ますことはないから。









けれど、子供の視界で金糸が光る。








それまで地に伏していた三蔵が、前に進もうとした悟空の体を捕まえた。
後ろから抱き込んで寄りかかるような姿勢であったが、その腕は確かに悟空の前進を阻む意図を持っていた。

前に在るものだけを映し出していた金色の瞳の端で、太陽に煌く金の糸が煌く。
途端に動きを止めた悟空は、誰もいない世界からゆっくりと現実へ引き戻されていく。
猫科の猛獣のように尖りを持っていた瞳は、見慣れた光に溢れ出す。


土踏みの音の一切も無く、時折風鳴りが耳に届いた。
けれどきっと子供の耳には、それよりももっとはっきりとしたものが聞こえている筈だ。

……自分を捕まえる太陽の、鼓動が。



まろい頬を雫が辿る。
冴え冴えとした、その濡れた金は太陽ではなく月のように見えた。


迷子になって置いて行かれて、一人ぼっちになった子が、
真っ暗な中で歩き疲れてだけど泣いても何も変わらないから歩こう歩こうとしてでも歩けなくなった子が、
空に浮かんだ月の光に気付いて目の前に道がある事を知って、それが家路に続くと知って。

だけど疲れ切ってそれ以上歩きたくても歩けなくて、ただ呼び続けて。
真っ暗だった道の先にいる人に届いて欲しいと願いながら。


「─────うるせぇよ」


囁きのようなその声が、確かに子供の心を揺さぶった。
何者の声も音も届かなかった子供に、届いた。






「置いてかねえよ。置いてかねえから……泣くんじゃねえ」





置いていかないと約束するから、迷子になったら迎えに行くから、呼んでいるなら応えるから。
だからいつまでも失う恐怖に取り付かれないで、傍に在る温もりに気付けばいい。




背中から抱き締められたまま、悟空の足が力をなくした。
すとんと憑き物が落ちたように座り込んだ悟空を、三蔵が支えられる訳もなく、同様にその場に膝を折る。


悟浄と八戒が駆け寄ると、悟空はぼんやりとした瞳で二人を見上げた。
寝惚けていたようにも見えるそれに悟浄は苦笑すると、悟空の右足を掴む。
其処には爪で貫かれた細い穴が開いたままになって、血は未だに止まっていなかった。

八戒が三蔵と悟空を離そうとすると、三蔵がそれを拒む。
どうやら、意識ははっきりしているらしく、向けられた紫闇も常の眼光を抱いていた。



悟空が口を噤んでいられたのは、それまでだった。


「う…ふ…ぇ…………」


既に零れていた涙の粒が大きくなって、ぽろぽろと悟空の頬を滑り落ちていく。

ずっと黙っていた子供が嗚咽でも声を漏らした事に、悟浄は少しだけ安堵した。
まるで息を止めているかのように────出来なくなったかのように切羽詰った顔をしていたから、尚更。


くしゃっと三蔵の手が子供の頭を撫でる。
同じ事を悟浄や八戒がしてやったとしても、きっと其処に在る意味や言葉は大きく違っていただろう。

小さく震える悟空の頭を抱え込むように、三蔵は悟空の頭を自分の肩口に押し付けた。
その顔が誰にも見えないように、悟浄にも八戒にも、自分にさえも見えないように。
滲んだ手が悟空の体をまた汚したけれど、誰も三蔵を咎めようとはしなかった。



「ふぁ…っひ…う………わぁあぁぁあああん……!」



何も遮るものがないから。
子供の泣き声は遠くまで響いていく。

がむしゃらになってしがみ付いてくる子供の力は、決して強くはない。
けれど震える手が何を必死に望んでいるのか、判らないほど誰も鈍くは無かった。


此処にいることを、其処に存在することを確かめようとするように、悟空は血塗れの手で、自分を捕まえる三蔵の手を握る。
三蔵は相変わらずの無表情ではあったけれど、少しだけ纏う空気が柔らかい。
泣きじゃくる子供の頭を撫でる手は、子供と同じく血塗れであったけれど、優しいものだった。

喉が割れてしまうんじゃないかと言うぐらい声を上げて、子供は泣いた。
金糸の男はそれを好きにさせて、自分の傷の事なんてまるで忘れたようで。








─────やっと、息が出来た。





























─────あげない

───………誰にも、あげない





だってあの光がないと、息が出来ない










だから、もしも奪うというのなら

そう言うヒトは皆要らないんだ











だって、怖くて息が出来なくなる















FIN.



後書き