いつかの日まで



翌朝、三蔵の執務室に置いてあったカレンダーを見て、悟空は思い出した。
四日前が、自分の誕生日であった事を。

けれども同時に、まぁどうでも良かったか、という結論に至る。


四日前と言ったら三蔵は長期不在の真っ只中で、自分は相変わらず山で駆け回って遊んでいた。
気付いたところで如何したいとも思わなかったし、三蔵はやはり今年も急がしそうで、自分の誕生日など覚えていないだろう。
最初に一度だけ我侭を言ってから、誕生日プレゼントだけは毎年貰っていたけれど、今年はそんな暇もなさそうだった。

今まで貰ったプレゼントと言ったら、悟空が欲しがった絵本だとか小さな宝石の類だとか、そんなもの。
それでもちゃんと悟空が欲しいと言ったものだったから、悟空はとても嬉しかった。


けれど。


今朝早くから三蔵はやはり仕事に出ていて、おはようの挨拶も出来なかった。
一週間以上も離れていたのだから、傍にいたくてこうして執務室で何をするでもなく時間を過ごしているのだけれど、
執務机に乗った書類の数はようと知れない程の量で、欲しいものを一緒に探しに行く、なんて事も出来そうにない。

少しだけその現実に淋しさを覚えつつも、もう四日も前の話なのだし、とドライに考えてみる。
その時三蔵が帰ってきているならともかく、こんなにも間が開いてしまったのだから、今更騒いでも鬱陶しいだけだろう。



髪の毛を手繰り寄せて弄りながら、悟空はせめて、三蔵の仕事が早く終わってくれないかと願ってみる。
苛々しながら書類と格闘しているのを見ると、流石に口に出す気にはなれない。
三蔵だってさっさと済ませたいと思っているのだから、それを急かせばきっとハリセンを喰らう羽目になる。

先程から追加の書類を持ってくる坊主に対して、これでもかと言う程の不機嫌な面を見せているのは、気の所為ではない。
さっきはこれ以上はもう受け付ける気はない、と殺気だった目をしていたぐらいだ。


書類整理なんて、誰がやっても同じだ、と前に三蔵が言っていた。
中には確かに重要なものもあるらしいが、そんなものはごく一部だ。
今見ている書類の中の十分の一あるかないか、その程度。

誰がやっても同じなら、どうして三蔵が引き受けなければならないのか、悟空にはよく判らない。
ただ、最高僧って面倒臭いんだな、と思うぐらいしかなかった。



カチ、と音がして顔をあげると、三蔵が煙草に火をつけていた。
書類整理の間は灰が落ちると面倒だからと、一応控えているらしい。
それを止めたと言うことは、ついにこの作業に嫌気が差したと言う事で。



「……終わった?」



どう見ても終わったようには見えないけれど、問いかけてみる。
三蔵はたっぷり煙を吸い込んで、それを全て吐き出してから応えた。



「今日はな」



そう言って三蔵が立ち上がるから、悟空も一緒に立ち上がった。



「どっか行くの?」
「ああ。お前も来い」



肯定の次に続いた言葉に、悟空は瞠目した。


煙草の買い置きがなくなったとか、寺院にいるとまた仕事を押し付けられるからとか、そういう理由で三蔵が出て行くのは判る。
けれども悟空が一緒に行っていいか、と訪ねる前に“来い”と言われることは滅多になかった。
子供を街を歩けばアレコレが欲しいと騒ぐし、仕事休みになるかと言われると、そうでもないからだ。



「……いいの?」
「いいから言ってる」



言われた言葉に半信半疑で確認すれば、間髪いれず帰った返事。
その帰ってきた台詞に、それもそうだ、と納得する。

一週間の不在の穴埋めなのか、それとも一人放置すると何を仕出かすか判らないという懸念からか。
どちらか判らなかったが、一緒に行っていいと言うのなら嬉しいことだった。



部屋を後にする三蔵を追い駆ける子供の足取りは、この一週間の中で何より明るいものだった。


























法衣では目立つからと、私用や仕事をサボって街に出る時、三蔵はいつも私服を着る。
それほど種類を持っている訳ではないから、大抵は黒のカッターシャツとジーンズだ。
だが整った容姿にこの国で滅多に見られない金糸は、やはり否応なく人目につく。

その目立つ青年の隣を、小さな少年がちょこまかとしていれば尚更目立った。
兄弟と言うには似ていないし、親子と言うには年が近い印象で、けれどもそんな陳腐な言葉では括れない雰囲気がある。


三蔵が真っ直ぐに街を歩いて行くから、悟空もそれに倣って進んで行った。
歩幅の違いで置いて行かれそうなって、早足になって。

悟空は久しぶりに下りた街のあちこちを見ていたい気持ちはあったが、それよりも三蔵に置いて行かれる方が嫌だ。
道行く人の邪魔にならないように、尻尾のように揺れる髪を気にしながら保護者を追い駆ける。



「三蔵、待ってよ」



人ごみに手間取っていると、直ぐに置いて行かれてしまう。
見失わないようにしても、自分の身長が低い所為で直ぐに埋もれて判らなくなった。

辛うじて判る独特の気配を辿って追い付くけれど、程無くしてまた距離が開く。


三蔵がこんな人ごみの中を歩くのも珍しい。
基本的に接触嫌悪の気があるから、出来る限り人気のない場所を選ぶのが常だ。
そんな三蔵が眉間に皺を寄せつつも、こんな大通りを通ろうとするなんて。



「三蔵、待って……いてっ!」



ようやく手が届く距離に戻って、掴まえようと手を伸ばす。
が、それが届くよりも髪の毛が何かに引っ掛かったらしく、がくんと不自然に頭だけが後部へ引っ張られた。

痛んだ頭部を擦りながら振り返ると、店の柵に髪の毛先が引っ掛かっていた。
慌てて引っ張れば然程絡まっていなかったのが幸いして、直ぐに解ける。
また引っ掛かるのは御免だと後ろ髪を前に持ってきて束ね、握ったまま人ごみを掻き分けて走った。


悟空が足を止めていたと気付いていたのか、三蔵は立ち止まっていた。
追いついて服の裾を掴むと、呆れて溜息を吐く。



「だから切っちまえって言っただろうが」
「……それはヤなんだってば」



昨日も同じ遣り取りをした、と思い出しながら、また同じ答えを返す。



「外で動き回るたびに引っ掛かってんだろ」
「そうだけど……でも、切るのヤだ」
「…判った判った」



追いついたのだからもう逸れないように、と三蔵の服を掴んで悟空は言う。
三蔵はそれに根負けしたような返事をして、また歩き出す。

進んだ先は道ではなく、滅多に来ないブティックの入り口。
また目をまん丸にしてぽかんとしている悟空を無視し、手を引っ張って中に入っていく。
戸惑いつつも引っ張られるので、それに従って悟空も敷居を跨いだ。


服でも買うのかと思ったが、三蔵は並べられた商品に目もくれずに店の奥に進んでいく。


前にブティックに来たのは、半年も前だっただろうか。
拾われた頃に買って貰った服が窮屈になってきて、一通りのものを買い直して以来だ。
成長の遅いことを揶揄されたのもその時だったから、よく覚えていた。

普通の成長期なら半年でも背が伸びるのかも知れないが、悟空は相変わらず小さいままだ。
着ている服に不満はないし、三蔵が買うには此処の商品はサイズが合わない……と考えて悟空は益々戸惑っていた。



「三蔵? 何か買うの?」



靴だって別に小さくない。
買い換える必要のあるものは特にない筈だ。


やっぱり何も言おうとしない三蔵に、せめて説明ぐらいしてよ、と思うのも無理はない。
面倒な説明を省いて端的にしか喋らない人だから、仕方がないのかも知れないけれど。

手を掴んで引っ張る力は意外と強くて、振り解くことは出来そうにない。


全く、今日は不思議な事ばかりだ。
三蔵が仕事をサボるのはいつもの事ではあるけれど、街に出るのに自分を連れて行くなんて。
しかも人で埋められた大通りを通って、ブティックなんかに入るなんて本当に珍しい。

今日はいつもと違う事をしてみようと思った、なんて柄ではないだろう。
それに、だったら尚更悟空を連れて行く理由が見当たらない。



頭の中にクエスチョンマークを沢山浮かべつつ、悟空は三蔵について行く。


やがて店の一番奥まった一角で、三蔵が立ち止まる。
前を見ていなかった所為で、悟空はその背中に軽く衝突した。

打った鼻先を軽く押さえながら、横合いから三蔵の見ているものを覗き込んでみる。


と、其処にあったのは。




「……紐?」



髪結の紐だ。
様々な色と形の紐が、棚に並んでいる。



「どれでもいいから、お前が選べ。買ってやる」



横合いから覗いていた悟空の背を押して、棚の前に出して三蔵が言う。
しかし、唐突にそんな事を言われても、当惑したままの悟空の混乱が増すだけだった。

選べと突然言われて、何をどう選べばいいかも判らない。
困惑した表情で三蔵を見遣ると、三蔵は明後日の方向を向いてこちらを見ようともしない。



「三蔵、選べって……何選ぶの?」
「其処にあるモンで好きなの選べって言ってんだ」
「だから、なんで?」



正直、自分の理解力が人より劣っていると悟空は自覚していた。
でもそれ以前に、三蔵の説明不足も十分な理由になるとも思っている。

元々口数の多い方ではないが、言葉にしていない部分まで瞬時に理解しろなんて無理な話だ。
せめて自分が理解できる程度の最低限でも言って欲しい。


少しの間二人して何をするでもなく立ち尽くしていたが、三蔵の方が先に、溜息でもって沈黙を破る。



「髪、切るのが嫌なんだろ」



その言葉に、悟空はこっくりと頷いた。



遊びまわって何処かに引っ掛けようが、寝起きに絡まって解けなかろうが、切りたくない。
まだ寒くて淋しくて、少しでも温もりが欲しいと思う時があると、短くしてしまうと寒いばかりになりそうで。
いつか切ってしまうものだとしても、今はまだ。

これから暖かい春を過ごし、暑い夏がくれば必要なくなるかも知れなくても、
それが過ぎると秋が来て、また寒い冬が来て、その時束の間でもいいから温もりを求めてしまうだろうから。


……“あそこ”にいた頃みたいに、小さく丸くなって待ち続ける癖が抜けるまで。
音がなくなって、色がなくなって、温もりさえもなくなってしまいそうな時、僅かな温もりの錯覚を覚えることがなくなるまで。
長い髪だけを拠り所にする事がなくなる日が来るまでは、もう少しだけ今のままでいたかった。

自分が思うほど此処は暗くて冷たい場所じゃないんだと、自信を持って言えるまでは、まだ。



「だったらせめて束にしてろ。その方がまだすっきりする」



────どうしても嫌だと言うなら、今は切らなくてもいいから、と。
これが三蔵のなりの譲歩であると、悟空はちゃんと判っている。


適当に、その辺りにある如何でもいい紐でも構わないだろうに。
括れるのならばそれで用は足りるのだから、わざわざこんな場所に来なくたっていい筈だ。
好きなものを選べなんて言わないで、安いものを勝手に選べばいい筈だ。

それでも悟空が気に入ったものを買ってやる、と言う。


何も言わずに連れて来たのが、実は照れているのだと気付いたら、後は嬉しいばかりだった。



「……なんでもいいの?」



嬉しくて跳ね出した胸に手を当てて問えば、少しの間を置いてから答え。








「誕生日、だっただろうが」







誕生日プレゼントは、欲しいと思ったものを一つだけ。
値段がどうのと言われた事はないし、一度だけ三蔵の私物を貰ったことだってある。

悟空が“これがいい”と言ったら、なんでも。


四日も前に過ぎた誕生日───当日は仕事に追われていただろうに、ちゃんと覚えていてくれた。
その事の方が悟空にとっては余程嬉しいプレゼントのように思えた。

嬉しくて顔が赤くなっていくのが判って、悟空は慌てて三蔵から顔を背けた。
目尻にじわりと雫が滲んで、嬉しくても涙は出るものだと判っていたけれど、気付かれるのが恥ずかしくて、
下の棚に並んでいる商品を選ぶ振りをして、その場にしゃがんで膝頭に顔を押し付けた。



「…ほんとに、なんでも…いいの?」
「だからそう言ってる」



涙を堪えるのに声が震えそうで、一所懸命、我慢しながら問うた。
溜息混じりに、早く選べという返事が降って来る。


赤、青、黄色、緑、白、黒────……形も色も沢山並んでいる。
ラメの入ったもの、レースつき、動物のプリント、何処かの民族模様、他にも色々。
糸のように細いもの、リボン、ゴム紐、こんなに一杯あるなんて知らなかった。

三蔵も時々髪を結っている事があるが、その時使っているのは地味な輪ゴムだった。
それも一緒でいいな、と思った悟空だったが、手に取ったのは違うもの。


こちらに背中を向けたままの三蔵は、待っている間に煙草が吸えないのが苛々させるのだろうか。
腕組をしたまま立ち尽くす姿をちらりと盗み見て、悟空はその耳が僅かに紅潮しているのを見てしまった。

照れてる。
あの三蔵が。

不似合いなことをしたと自分でも思っているのか。
四日も経っているのだから、忘れたものとして流しても良かった筈なのに、しっかり覚えていて、
遅くなってもこうしてプレゼントを渡そうとしているなんて、確かに彼のキャラじゃないか。



でも、だから悟空にとっては余計に嬉しくて。



当日に祝って貰えないのが淋しかっただなんて、とんだ贅沢だ。
こんなに遅くなってもちゃんと覚えていてくれるのだから、今より嬉しいことなんてない。



「決まったか」



背中を向けたまま問う三蔵に、応えの代わりに立ち上がって振り返る。
選んだものは背中に隠して。



「決まったけど……ね、三蔵」
「あ?」
「あんね、オレね…」



紐を後ろ手で持ったまま、空いていた手で三蔵の手を握る。
年の差5つと言うのは意外と大きいものなのか、三蔵の手は悟空に比べると既に大人の領域になっていた。

その手に触れてもらうのが好きで、絡まった髪を解いてもらうのが好きで。
髪を切るのもこの手じゃないと嫌で、他の誰かが触れるのは嫌。
この手が優しく触れてくれる瞬間が、何よりも大好きで。


だから、やっぱり。
我慢しようと思っていた我侭を、もう少しだけ。



「欲しいもの、ってかね……お願い、あるんだけど」
「……なんだよ」



大体予想がついたのかも知れない。
三蔵は一瞬眉間に皺を寄せたが、直ぐに止めた。

繋いだ手を握り返されて、気が変わらない内に言え、と言外に告げる紫闇に見下ろされる。


「オレね、髪結べない」


やった事もないのだから、断定的に言うのは間違いかも知れない。
けれど普通に蝶結びするのだって上手く出来ないのに、見えない後ろ髪をちゃんと結うなんて出来るとは思えない。

選んだものは輪ゴムじゃなくて、一本の結い紐。
輪になっているもので纏めるよりも難しいだろうそれを、悟空は多分、一人で纏める事は出来ないだろう。
頑張ってみようという気が全くない訳ではないけれど、甘えていいなら甘えたい。





「だから三蔵、結んでよ」






いつか、必要なくなる日が来る。
それは自分で出来るようになった時かも知れないし、髪を短くした時かも知れない。

でもそれまでは、もう少し。
この長く伸ばした髪が運んできてくれるのが、束の間の温もりであるとしても。
ほんの少しの間だけでも、優しい手が触れてくれる時間が増えるのなら。


誕生日にかまけて保護者の手間を増やして、“迷惑かけたくない”と思うのと随分矛盾していると思う。
けれど、それでもこの繋いだ優しい手が触れてくれる事の方が嬉しかった。



毎日じゃなくてもいい。
仕事でいない時は仕方がない。

でも、この手が届く距離にいる時は、ほんの少しの間だけ。



くしゃ、と優しい手が頭を撫でる。









「誕生祝い、遅れたからな……」












小さな手には、金の刺繍の入った紫闇の結い紐。

それから、何より大好きな優しい手。



それと、覚えていてくれたのが、何より嬉しいプレゼント。


























暗くて冷たい寒い場所で

一人ぼっちで丸くなってた


此処はあそこと違うけど

暖かい手が届かない時はどうしてもやっぱり淋しくて





長い髪に、それを少しだけ忘れさせて欲しくって











今はまだ、寒さにさよなら出来ないけど

その日が来るまで、もう少しだけ甘えさせて



いつか、“そんなに寒くないみたい”と思える日まで










FIN.



後書き