「おう、生きてたか」
「貴方こそ」
「ひでぇザマ」
「貴方こそ」
曲がり角でばったりと出くわしたのは、互いによく知る友人で。
生存を確認して出て来た言葉は、案外に軽い色だった。
お互いそんな自分と相手を見て、笑いが漏れる。
「また後でって、言ったでしょう」
「ああ、言った」
─────別れ際。
そんな言葉を交わしての、多分あれは、“さようなら”だった。
でもそれを明確に言った訳でもなければ、そういう形で受け取った訳でもなくて。
“また後で”は“また後で”で“さようなら”じゃなかったから、こうして再会したのは何も驚くような事じゃない。
第一、お互いがそんなに柔な作りじゃないのだし。
でも、多分あの子と彼はそうじゃないから。
早く行って追い着かないと。
向かう場所は一つだけだから、迷わず進む────と、思ったのだけど。
「………?」
「─────?」
どちらともなく目に入った、奥まった場所にあった、一つの扉。
多分、きっと、間違いなく……開ける必要なんてない扉。
でもどうしてか、二対の瞳は其処から意識を逸らせない。
互いが互いに早く行こうと促す事も、腕を取って行こうと引っ張っていく事も出来ず。
何故だか足はどちらともなく、扉の方へと向かって進んだ。
開ける必要なんてないから、近付く必要だってない。
それより早く先に進んで、手のかかる親子の所に行かないと。
だって本当に手がかかるんだから。
でも、本当に、どうしてか。
この扉は今開けないと、いけないような気がしてならなくて。
一枚板の向こうにに誰がいるのか、何があるのかなんて、知らない。
こうしている間にも親子はどんどん離れていって、後ろはどんどん詰まってくるから、早く前に進まないと。
此処で何かに構いつけているような暇なんてない筈だ。
もう見納めになる世界でも、未練は殆ど残ってない。
あの本読んでなかったなとか、あの酒まだ残ってたよなとか、次の焼肉は20人前だっけなぁとか、思うことはあるけれど。
やりたいようにやって来たし、やれるようにやって来た。
気に入らない事は気に入らないと言い切ったし、それで降りかかる火の粉は全部打ち払ってやった。
だから後悔なんて残ってなくて、大体後悔したって今からじゃもう遅いのだし。
あの子に見せてあげたくて、結局見せられなかったものもあるけど、
これからもっと沢山のものを見せる事が出来るんだって考えたら、もうなんて事はないものばかりだったように思えるし。
だから、ほら。
こんな所でこんな事してないで、早く前に行かないと。
思いながら開けた扉の向こうの世界に、言葉を失くす。
「──────これは……」
思わず、と言った風に漏れた片割れの言の葉は、ともすればもう片方の唇からも漏れそうだった。
無機質な壁。
沢山のパイプ。
其処から伸びる細い管。
見慣れない機械的な箱は、電子音を鳴らしている。
それはあまりにも仰々しくて、酷く不快な光景で。
何故なら────それを見た彼らの脳裏に浮かんだのは、いつか聞いた、あの噂。
科学と妖術の、合成。
それを一つの技術と言うには、今はまだあまりにも不安定で。
それを手にしたものが第一に思うことは、その強大な力を我が物にしようという事で。
それに振り回される罪のない命達の事など、今は誰も考えようとしない。
「……あいつは、此処で……」
「……恐らく」
呟き漏れた言葉に、肯定の言葉が返り。
先に呟いた男は、既に血の気の失せていた拳を更に強く握る。
もう一人も唇を噛み、黙祷するように目を閉じた。
命は、もっと温かな場所から生まれて、光の世界に送り出される筈なのに。
あの自由も愛も知らない打ち捨てられた子供達は、こんな冷たい場所に生まれて、暗い世界に置き去りにされた。
雁字搦めの鎖に絡め奪られて、偽りの愛を注ぎ込まれた泣けない子供も、それは同じ。
選ばれなかった子供達と、選ばれて繋がれた子供のどちらが幸せだったかなんて─────比べちゃいけない、比べられるものじゃない。
だってどちらも、痛くて暗くて苦しくて、淋しくて辛かった筈だから。
もっと笑えた筈なのに。
もっと走り回れた筈なのに。
もっともっと、愛されて光の中で生きていけた筈なのに。
勝手な大人に振り回されて、涙を流す事さえ赦されないなんて、間違ってる。
壁に埋め込まれた大きな機械の傍に立って、蹴り飛ばす。
ガンと硬い音が響いたけれど、電子音は相変わらず鳴っていた。
こんな事をしたって無駄なのは判っている。
だけど、そうせずにはいられなかった。
これがあるから、子供達は生まれる事が出来て、あの子は光を見つけることが出来たのだけど。
これがあるから、あの子は友達を作る事が出来たのだけど。
生まれる場所は、此処じゃなくても良かった筈だ。
ぎりぎり歯を噛み締める片割れを、白衣の男は無言で見詰めて、やがて逸らす。
その逸らした先に、それはあったのだ。
「ちょっと」
「ンだよ」
「あれを」
そう言って指差された先を、黒衣の男は倣って見遣る。
大きなプールのような箱の中。
沢山のパイプと管が繋がって、其処に張られた水の中に伸びている。
その中に、パイプや管じゃない、もっと違う形をしたものが横たわり。
「──────!!!」
駆け寄ってプールに噛り付けば、横たわるものが何であるのか、今度こそはっきりと見えた。
白衣の男が機械の電子音を見る。
ピ、ピ、ピ、と鼓動と同じリズムを刻む音がした。
ばしゃんと音がして、黒衣の男がプールの中に飛び込んでいた。
水の深さはほんの数センチ、仰向けになった人が辛うじて息が出来るギリギリ程度。
けれども水は、水のようでいて水でないらしく、重たく足に纏わりつく。
重い足。
重い水。
それでも、行かずにはいられない。
白衣の男も水の中に降りた。
纏わりつく重みで歩き難くたって、構わず進む。
判っている。
判っている。
どんな思いで、あの時あんな事をしたのかも。
どんな覚悟で、あの決断をしたのかも。
判っている。
判っている。
判っているつもりだけれど。
やっぱり笑って欲しかった。
あの子にも、この子にも、笑って欲しかった。
二人で手を繋いで、眩しい空の下で笑って欲しかった。
判っている。
判っている。
目覚めたこの子が、望むこの子でいるかどうか。
あの時、初めて呼んだ子供の名前を、覚えていてくれているのか。
判らないのも、判っているつもりなのだけど。
賭けてみても良いじゃないか。
それ位の事、それ位の悪あがきをしても良いじゃないか。
だって笑っていて欲しいんだ。
自由に駆け回って欲しいんだ。
名前を呼び合って欲しいんだ。
だって友達なんだから。
重い水の中で、何度も何度も、繰り返し。
其処に横たわる命の名前を呼び続ける。
本当は、自分達より、大好きな友達に呼んで欲しいのだろうけど。
それはちゃんと判ってるから。
だから目覚めて、そして。
一緒に行こう。
───────約束の地へ。
丸くて大きな金色が、捲簾と天蓬を交互に見る。
同じように金蝉も、二人の友人の言葉の意味が判らないようで、目を丸くしていた。
「どういう意味だ?」
「だから言ったろ、此処に来たのは俺達だけじゃないんだって」
「そう。“僕達”だけじゃないんですよ」
問い掛けにそんな答えが返ってきて、金蝉は眉間に皺を刻む。
けれども、子供を見下ろす二人の眼差しが酷く優しい色をするから、怒りなど直ぐに霧散した。
悪い事じゃない。
彼らの事だから、子供を悲しませるような事なんてしない筈だ。
彼らの意図が見えなくても、それは感じられたから。
天蓬がようやく悟空を解放して、捲簾が後ろから悟空の背を押した。
────風が吹く、吹く、吹く─────。
桜の花弁が舞い上がって、世界を彩り流れていく。
その光景は、世界中の宝石をちりばめたみたいにキレイで。
丘の緑と空の蒼の中を流れる桜は、世界中の桜全部を集めたくらいの億の花弁が舞い踊る。
それとよく似た景色を、遥か天上でも見た、けれど。
その時思っていたのは、あの子もいたら良かったのに────と、そんな事で。
いつか見れたら良いと思って。
キレイな桜を、皆と一緒に、あの子と一緒に見れたら良いって。
思って、いて。
丘の向こうから、ゆっくりと。
最後に現れたのは、今までよりも、ずっと小さな小さな影。
何処か覚束ない足取りは、なんだか夢の中を歩いているよう。
地に足をつけている筈なのに、ふわりふわりと、少しだけ何処か不安定。
でもそれは、決して何かを怖がっているからじゃなく。
緩やかな丘の斜面を歩きながら、驚いたみたいに見開かれている大きな瞳。
其処に映り込んでいるのは、きっと舞い散る桜じゃなくて、たった一人の大事な友達。
あの時、あの瞬間、突き立てた刃の痕は殆どない。
ただその名残のように、少しだけ体運びがぎこちない。
でも、それ位がなんだって言うのだろう。
その突き立てた刃さえも、今は小さな手の中にはなく。
ゆっくりしていた裸足の足が、少しずつ速度を増していく。
その内それは走り出して、体を置いてけぼりにして前に前に行こうとして。
何度か転びそうになったけど、どうにか倒れないで走り続けた。
その頃には。
我慢できなくなったもう一人の子供も、走り出していた。
「──────那托!!!」
「────悟空………!!」
ようやく呼び合えた子供達は、丘の麓でぶつかるように抱き合って、そのまま地面にどてっとこけた。
「那托、那托、那托!!」
繰り返し呼ぶ友達に、ぎゅうぎゅう抱き締められて。
それだけで那托は、此処に来るまでに考えていた沢山の言葉が全部吹っ飛んだ。
だから声に出来るのは、一つだけ。
「ご、くう」
生い茂る若草の上に二人で座り込んで、ぺたぺた、お互いの顔を触りあう。
近いようで遠かった、友達の顔に触れられるのが、なんだかとても嬉しくて。
「悟空」
「那托……」
じわ、と金色の縁に透明な雫が浮かんだ。
それを見ていたら、自分も同じになっている事に、随分経ってから那托は気付く。
この時の、この感情を、なんと言えば良いだろう。
良かった、嬉しかった、夢みたいだ、何を言っても違う気がする。
いや、合っているのだけど、そんなものじゃ物足りなかったんだ。
もう二度と名前を呼べないと思っていて、もう二度と返事は返ってこないと思っていた。
やっと教えてもらった名前を、同じ位呼びたかったのに、もう呼ぶ事は赦されないと思っていた。
だけど逢えた、呼べた、返事があった、呼ぶことを赦されている。
それだけじゃない、駆け寄ることが出来たし、触れる事が出来た。
今までずっと、届く距離でも手を伸ばすことが赦されなかったのに。
先に涙が零れたのは、どっちだっただろう。
ぽろりと大きな粒が流れ落ちて、もう其処からは止まらなかった。
「悟、空」
「那托、」
「悟空」
「那托ぅ…」
「悟空、悟空、ごくう、ごくうっ……!!!」
「那托、那托、なたく、なたく、なたくぅ……!!!」
呼ばれた分だけ、呼んで。
呼べなかった分だけ、呼んで。
放すもんかと捕まえる位、ぎゅうぎゅう抱き締めあって、名前を呼んだ。
そんな子供達を、くすぐったそうに見下ろす大人が三人。
護るように慈しむように、辺りを囲んで。
笑って欲しくて連れてきたのに、子供達は二人揃って声を上げて泣いている。
でも今はそれで構わない、思いっきり泣いてくれて構わない。
ついさっきまで子供達は、ずっとずっと、泣くのを我慢し続けていたのだから。
泣いて泣いて、泣いた後で、笑ってくれたらそれで良い。
太陽みたいに笑ってくれたらそれで。
どうして那托が此処にいるのか、生きているのか、金蝉は聞かなかった。
捲簾と天蓬も話そうとしなかったし、一生言う事もないと思う。
だって野暮じゃないか。
経緯がどうあれ、子供達は再会できて、今目一杯喜んで泣いているのだ。
そんな横で、そんな話は無粋というものだ。
金蝉がくしゃりと悟空の頭を撫でて、捲簾が那托の頭を撫でる。
悟空は涙の滲んだ顔で保護者を見上げ、何かを言おうとして、また泣き出した。
同じように那托も、多分慣れていないからだろう不思議そうに捲簾と天蓬を見上げた後で、声を上げて泣いた。
我慢していた分が一気に溢れ出したように、子供達の涙はしばらく止まりそうにない。
三人の大人は顔を見合わせて、ただただ好きなようにさせていた。
「────さーて、これからどうするよ」
泣きじゃくる那托の背を撫でて宥めながら、捲簾が言った。
「どうしましょう」
困ったような口振りで、でも表情は楽しそうに、天蓬が言った。
「どうとでもなるんじゃねえか」
投槍というには柔らかい雰囲気で、悟空の頭を撫でて金蝉が言った。
「んだよ、計画性がねえな」
「貴方が言いますか」
「だったらお前には計画があるのか?」
言われて、捲簾は顎に手を当てる。
視線は少しの間宙を彷徨って、
「世界一周旅行でもするか?」
「ああ、いいですね」
「どうせ一所に留まるのは難しいだろうしよ」
自分達は、神だ。
年月の流れは、この下界で生きる者達よりもずっと遅い。
ならば、長い間一箇所に留まって生きていくのは不自然だ。
流れ流れて生きていくのが一番良い。
話が聞こえていたのだろう。
悟空がごしごし顔を拭って、はい、と手を上げた。
「オレ、美味いモン食いたい!」
「いいな。グルメツアーか」
相変わらずの、けれども子供らしい悟空の言葉に、捲簾が笑った。
「僕は本が読みたいですね」
「此処まで来てまだそれかよ」
「いいじゃないですか。金蝉もどうです?」
「……悪くねえな」
保護者の言葉に、子供がえーっと声を上げた。
動き回るのが大好きな子供にとっては、今のプランは到底お気に召すまい。
と。
成り行きを見守っていたもう一人の子供に、金瞳が向けられる。
「なあ、那托は?」
「へ?」
「那托は、どっか行きたいとこある?」
問われて、那托はきょとんとした。
何処に。
何処かに。
行きたい所。
言われても、那托はちっとも浮かんでこない。
下界の何処に何があるのか、那托は知らなかったから。
天上だったら、自分しか知らない場所があるから、この大好きな友達を案内することも出来るけど、
此処にあるものの事は殆ど知らなくて、行きたい所がどんな所なのかも判らなくて。
──────でも、行きたい所、というか。
自分自身の希望はちゃんと判っていた。
「何処でもいいよ。お前が一緒に行くんなら」
目の前できらきら光る金色があれば、きっと何処に行ったって楽しいに決まっている。
知らないものを一緒に見て、判ることは自分が教えるし、知ってることがあるなら教えて欲しい。
何処までも一緒に、手を繋いでいられるのなら。
くすぐったそうに笑う那托に、悟空も嬉しそうに笑う。
「じゃあ、那托もグルメツアー!」
「三対二でこっちの勝ちー」
「多数決じゃ仕方がないですね」
「いいじゃねえか、本なんか買っときゃいつでも見れるだろ」
「……まあな」
行き先、と言うより、方向性はこれで決まり。
「んじゃ、行くか」
「そうですね」
「取り敢えず着替え欲しいなー」
「…全員酷い有様だからな」
「オレ腹減ったぁ」
「あ、オレもー」
全員揃って歩き出せる、と言う事が、今はとても嬉しい。
隣には大好きな人が一緒にいて、その傍らにも大好きな人達がいる。
手を伸ばせば届く位置に友達がいて、繋ぐことが出来る。
こんなに嬉しいことはない。
浮き足立って転んで膝を擦り剥いたって、ちっとも痛いと思わない。
それより何より、皆で一緒にいられることが嬉しくって堪らない。
桜の花弁が舞い踊る。
行っておいでと、囁くように。
次の春になったらまたおいでと、送り出すように。
もしも、例えば。
離れ離れになったとしても、その時は此処に来ればいい。
何があっても此処で、桜の下で落ち合うと、約束を決めた場所だから。
此処は、約束の地。
離れ離れになっても、この桜が全てを繋いでいてくれる。
不安が全くない訳じゃない。
心配することが何もない訳じゃない。
でも、多分なんとかなると思う。
根拠はないけど、此処まで来ることが出来たんだから、きっとなんとかなると思う。
─────────だって此処は、“楽園”だから。
それは
桜が見ていた物語
誰も知らない
桜だけが見ていた物語
全てを捨てた愚者達の
平和な箱庭を飛び出していった者達の
いつかは枯れて、いつかは再び花が咲く、桜が見ていた物語───────
FIN.