その色彩が、光




執務室に戻ってみれば、其処の主はまだ戻ってきてはいなかった。
考えてみれば、彼が別棟に入ったのを見送って直ぐに戻ってきたのだから、無理もない事だ。

けれどそれより────悟空は執務机の上に乗っている大量の紙束が気になった。


執務机に近寄り、三つに分けられている紙の山から、一枚を手に取って見る。
まだ判が押されていないその書類は、金蝉が書くのだろう幾つかの空欄があった。

これはもうやらなくても良いのだろうか。

手をつけた様子もない書類に、悟空は首を傾げながらそう考える。
本当は、その書類の提出期限が一週間後であったから今回は手をつけず後回しにしただけだとは、悟空には判らない。
金蝉は、基本的に仕事を始めると終わるまで席を立たないので、悟空はもう彼の仕事を終わったものとして考えていた。
故に、此処にある紙束は“触る必要のないもの”として連想してしまったのである。



悟空は持っていた一枚を机に置いて、次の一枚を手に取る。
これもまた、判もなく、幾つかの空欄が残されている。

束になっている紙の端を摘んで、パラパラと捲ってみた。
どれもこれも判はなく、やはり空欄が残っていて、時々皺が寄っていたりするものの───そう言えば部屋を飛び出した時、書類の山をぶち撒けたんだった───、金蝉が手をつけた様子はない。


執務机をもう一度眺める。

机上にあるのは書類の山だけで、判子や筆や硯は見当たらない。
それは金蝉と天蓬が書類を整理する際、置き場がなくて邪魔になったので一時片付けただけなのだが、それも悟空には判らない事だった。


仕事道具がない。
此処にある書類には手がついていない。
でも、金蝉は別棟に終わらせた書類を持って行った。

金蝉が書類を持って行くのは、仕事の終わりの合図でもあった、少なくとも悟空にとっては。
子供の単純な思考回路がそうした答えを導き出すまで、然程時間はかからなかった。




「……まだ帰って来ないかな」




開く様子のない部屋のドアを見て、呟いた。


大方、観世音菩薩と話をしているのだろう。
書類を提出するのに、退屈を持て余した悟空がくっついて行く事もあるのだが、その際、彼女はよく話し込んだ。
話の内容は専ら保護者が板についた甥を揶揄うものだったが、それは悟空にはなんでも良い事だ。

とにかく、金蝉と観世音菩薩はよく話し込むので、今日もまだしばらくは帰って来ないだろう。
とは言っても一時間も二時間も待つ事はないだろうから、悟空はもう拗ねたりはしなかった。
此処で待っていれば、いずれは帰って来るのだし。




「絵描いてよっと」




最初は、捲簾に言った通り、今日は折り紙をするつもりだった。
でもそれは、先日天蓬に教えて貰った新しい折り紙を金蝉に教えたかったから。
教えたい本人は不在なので、一先ず折り紙は後回しだ。


悟空は執務机についている引き出しの、一番下を開けた。
元々は空っぽだったらしい其処は、今は悟空の遊び道具で一杯になっている。

ごそごそと上にある物を退かせて、下の方に埋もれていたクレヨンを取り出す。
それから天蓬に貰ったスケッチブックも出して─────ふと、思い出す。




「…………」




パラパラとスケッチブックのページを捲って行く。
真っ白なページを探して、探して、探して、最終的に最後のページにまで行き着いてしまった。




(天ちゃんに新しいの貰うの忘れてた)




スケッチブックを使い切ったのはもう随分と前の話だ。
何度か天蓬に言おうと思ったのだが、いざとなると忘れてしまい、別の遊びや本に夢中になっていた。
それに此処しばらくはお絵描きよりも折り紙にハマっていたから、スケッチブックがなくなった事など、頭の隅程度にしか残っていなかったのだ。

どうしようかな、と悟空は考える。
やっぱり折り紙やろうか、と開けっ放しの引き出しに視線を落として、




「あ、そだ」




ぱっと顔を上げる。
視線の先には、手のついていない書類。




─────此処に金蝉か、天蓬か捲簾か、とにかく誰かがいれば。
悟空がこれからしようとしている事を直ぐに止めただろうが、生憎、今此処には悟空しかいなかった。


























書類を出したらさっさと戻ろうと思っていたのに。
子供の近況を含め延々と揶揄われ、結局、十分もの時間が経ってしまった。

一応“保護”と言う名の下で“監視”しているのだから、悟空の近況について詰問されるのは仕方がない。
しかし、其処に色々と余計な話を盛り込んでくるのは、一体どういう魂胆なのか。
いや、考えるまでもない、あの傲岸不遜を地で行く神は、何のことはない、此方の反応を面白がっているだけなのだから。


今日の内に残りの書類を片付けて、もう一度持って行かなくてはならない。
その時にまた根掘り葉掘り聞かれるのかと思うと、気晴らしを含めて一旦提出に行ったのは間違いだったのではないかと思う。


だが、どんなに気分が乗らなくても、片付けるものは片付けなければ。
天蓬が事務に持って行った再提出の分は、果たして今日中にもう一度自分の所まで回ってくるのか。
空を見れば、そろそろ子供がおやつの時間だーなどと騒ぎ出す頃合となっていた。

今日はもう、相手は出来そうにない。

机に残してきた残りの書類の中にある、今日が締め切りのものは、終わらせる事は出来るだろう。
しかし事務に回した分までも今日中に済ませようと思ったら、このまま夜になってしまうのは想像に難くなかった。



部屋を飛び出していった時の子供の顔を思い出す。
それから、外回廊でふと見つけた、庭を駆け回る子供の笑顔を。




(……何故、俺の所なんだ)




その呟きは、子供の引取りを命令した完全菩薩にではなく。
何処に遊びに行っても必ず帰って来る、子供に対して。


捲簾でも天蓬でも、いっそ観世音菩薩の所でも。
彼らの下なら、少なくとも自分よりは上手く時間を使って構ってやれるだろうし、悟空もきっとそれは判っている。
容量が悪くて仕事一辺倒で余裕のない自分よりも、きっと彼らの方が悟空を構ってやれる。

なのに、悟空は必ず戻って来る。
まるでそれが当たり前の事で、其処が自分の居場所なんだと全身で主張するように。


金蝉が構ってくれない、と悟空がよく拗ねている事は、天蓬に聞かされている。

そもそもどうして、自分なんかに構って欲しいと思うのか、金蝉は其処からして判らない。
悟空と一緒に走り回る気もないし、面白い物語を知っている訳でもないのに。


つくづく判らない。


いや、そんな事を考えている場合ではない。
ともかく、早く仕事を済ませなければならない。
子供の相手をするにしろ、しないにしろ。


来た道を戻る傍ら、外回廊を進む足が不意に止まった。

止まった足をそのままに、外回廊に面している中庭に目を遣った。
其処にあるのは常と変わらない風景だけで、特別、これと言って気を向けるようなものはない。
何を一体気にして立ち止まったのか数秒考えて、結局判らないまま、金蝉はもう一度歩き出した。


立ち止まったその理由が、一度目に此処を通った時に聞こえた声がないからだと、気付く事はない。



再び動き出した足がもう一度止まったのは、自室の前で。
これを開ければあの仕分けされた紙束が山積みになっており、それを片付けるまでは部屋から出る訳にはいかない。

まさかこの十分の間に、また山の標高が上がってはいないだろうな。
再提出分が早々に回ってきていたとしても、流石にそれがにはないか。


深い溜息を吐く。
今日一日で何回溜息を吐いたのか判らない。

いつだったか、悟空が───多分天蓬か捲簾の入れ知恵で───“溜息を吐いたら幸せが逃げる”と言っていた。
下らない迷信だとその時は言い捨てたが、悟空は本気で信じていたようで、それからしばらく、金蝉が溜息を吐くのを嫌がった。
もしもあれが真実であると言うのなら、今日一日で金蝉は一生分の幸せを逃しているのではないだろうか。
例え神が、下界で言う何千年の月日を変わらず過ごすものだとしても。


溜息に続いて頭痛が起きそうになったが、此処で逃げる訳には行かない。
放置したらしたで、自分の性質上、今度は胃痛が起きそうだった。

一番の解決法は、あの山を出来るだけ今日中に削り、後に閊えないようにすると言う事だ。



さっさと片付けよう。
そう心に決めて、金蝉は扉を開けた。


開けてから─────頭痛。




(……俺の所為か?)




胸中でそう呟く金蝉の眼前には、ある意味では和やかな、ある意味では惨たらしい光景が広がっていた。



散らばっていた紙をまとめ、仕分けしていた紙の塔は、またしても散らばり。
あちらこちらに飛んでいる紙は、折り目のついているものが目立ち、中にはきっちり飛行機形のものもあり。
折り目がなくても、飛び散っているそれらには須らく皺やら色やらがついている。

飛行機形も折り目も皺も色も、それらが全て、書類である事は火を見るよりもも明らかで。


それらを生み出したのだろう創造主は、部屋の真ん中で丸くなって眠っている。




「…………」




正直、怒鳴る気力も沸かなかった。
腹は立ったが、それよりも疲労感の方が勝る。

痛む頭を抑えて、きっと二桁は行っただろう溜息を吐いた。


カツカツと音を隠さずに子供に近付いた。
その傍らには十二色のクレヨンが散らばり、紙を食み出たのか、床にも色を作っている。




(……捲簾と遊んでいたんじゃなかったのか?)




金蝉が部屋を出たのは十分程前の事だ。
それからいつ此処に戻ってきたのかは判らないが、退屈な時間を過ごしたのは想像に難くない。




(いや……退屈、でも、なかったのか?)




床に散らばっている紙を見れば、それなりに時間を潰す手段を持っていたのは判る。
折り紙なり絵描きなり、一人遊び用の道具は、捲簾と天蓬が寄越してきていたから。

けれど、悟空は基本的に、一人でいるよりも誰かと一緒にいる事を好む。
遊び相手も話し相手もいないこの部屋で、一人で絵を描いて遊んでいるのは、この子供にとって果たして楽しいのか。


考えた所で、悟空の思考が自分に判る訳もない────そう割り切って、金蝉はこれ以上子供の思考回路について考えるのは止める事にした。



足元に落ちていた、文字の羅列が記された紙を二枚、拾い上げる。
見ればそれは提出期限が明日と、一週間後とそれぞれ記されたものだった。

執務机に目を遣れば、仕分けした山がバラバラに崩れている。
折角分けた今日・明日締め切りのものと、それ以降のものと、ごちゃ混ぜになっているのは容易に想像出来た。


やはり、この子供が傍にいると、まともに仕事が進まない。
引き取った当初よりも随分と落ち着いたと思っていたのは、間違いだった。
悟空に悪気があろうとなかろうと、こういう事態が起きるから。


けれど、以前と明らかに違うのは─────眠る子供を今直ぐ起こして、部屋から放り出さないことだ。
そんな気力がないからでもあるが。



もう一度悟空へと目を遣れば、手には未だクレヨンが握られていた。
描いている途中で寝てしまったようで、悟空は自分の顔の下に紙を一枚敷いている。
涎の滲んでしまったそれが、いつ提出の書類であるかは、もう考えない事にした。

一先ず、散らばっているものを集めるだけ集めよう。
それをしてから悟空を一旦起こす事にしようと、金蝉は手に持っていた二枚の書類を机に放った。


放ってから、気付く。
その書類の裏に書かれていた、黄色い生き物を。




「……下手だな」




ぽつり、呟きが漏れる。


子供の絵なんて、上手いか下手かを論ずる方が無駄な話だ。
芸術云々等と言う考え方がある訳でもないから、何処までも破綻して、何処までも自由。

それでも下手だろうと、金蝉は思った。


黄色い頭に、橙色の手足。
黒い穴が二つと、赤い穴が一つ。
白い紙に白いクレヨンを使っても見えないだけなのに、此処は白だからと、一所懸命に塗り潰している。

初めてそれを見せられた時、一体何を描いているのか、金蝉には全く判らなかった。
リアクションをしなかった金蝉に悟空が剥れていたのを思い出す。
反面、天蓬や捲簾などは直ぐに黄色い生き物の正体に気付き、金蝉をちらちら見ては「似てる似てる」と悟空を褒めていた。


似ているのか似ていないのか、金蝉にはよく判らない。
判らないが、取り合えず、この絵は下手だといつも思う。



思う、のに。



うつ伏せで丸くなっている悟空。
その左手が捉まえていた紙を取り上げれば、案外とあっさり、抵抗無く金蝉の手元に収まった。

床の上に腰を下ろして、書類をひっくり返して裏を見る。
其処には思った通り黄色い生き物がいて、その隣には茶色い頭の小さな生き物もいた。




「……お前はよく判らんな」




どうして、こんな詰まらない男の下に帰ってくるのか。
捲簾でも天蓬でも、一緒にいて面白い奴らの所に行けば良いものを。
当たり前のように此処に帰ってきて、一日の事を喧しく報告する。
それだって、もっとリアクションをしてくれるような奴の所に行けば良いのに。

此処には確かに無理やり連れて来たし、観世音菩薩に命令はされたが、悟空にそれは関係ない筈だ。
何処までも破綻して、何処までも自由な子供は、この箱庭の中だけではあるけれど、行く場所は自由なのだから。


なのに悟空は此処以外の何処にも行かない。
此処にいるのは詰まらない男だけなのに、当たり前に此処に帰って来て、金蝉に抱きついて来る。



子供は苦手だ。
煩い声も、高い体温も、無遠慮に見詰める零れそうに大きな瞳も。
此方の都合を無視して引っ張る手も、我侭に泣き出すのも。

けれど、金蝉は知った。
苦手と言うのが、必ずしも嫌悪感と繋がる訳ではない事を。


他の誰でもないこの子供に─────悟空に、教えられた。



手を伸ばして、丸い頬に触れてみる。
ふに、と柔らかい弾力があって、子供が小さくむずがった。




「……んゅ……」
「……起きそうにねえな」




頬から手を離して、大地色の髪を撫でてやる。
それすら随分と長いことしてやっていなかったと、思い出す。


上体を倒して、床の上に寝転がる。
子供はしょっちゅうこうして床の上で絵描きなり折り紙なりで遊んでいるが、金蝉自身がこんな事したのは何年振りか。
潔癖症ではないし、掃除もしているが、床の上に寝転ぶなんて冗談じゃないと思っているのに。

だが今日はもう、そんな事を気にするのは止めにしよう。
仕事も出来るような状況ではないし。
再提出の事務手続きに行った天蓬がいつ帰ってくるのかも、考えまい。




「うー……ん、にゅ…」




もぞもぞと悟空が身動ぎしたが、それだけで、瞼が持ち上がる様子はない。


それでいい、と今は思う。





手に持ったままだった紙切れを見る。
黄色い生き物と茶色い生き物が描かれたそれを見て、金蝉はいつの間にか、口角を上げていた。


窓から差し込む光は、暖かく、柔らかい。
開け放っていた窓から花弁が滑り込み、大地色の髪に乗った。

その花びらを手にとって、もう一度くしゃりと撫でてやる。




「………ふぁ」




ふわり、子供が笑って。






──────ああ、似ているかも知れない。


詰まらない紙切れの裏に書かれた色彩を見て、思った。























そこにある色彩が
いつまでも色褪せないように

そこにある光が
いつまでも消えないように


守り続けたいと思う


小さな子供の小さな願いを、いつまでも















FIN.



後書き