桜の約束、数え唄






桜の木は、寺院の裏山へと続く裏門の前にも植えられていた。
人通りが少ないからか、此処には門を挟む形で二本の桜のみが植えられており、中庭のものに比べると大きさもない。
しかし、此処も他の桜の例に漏れず、花は余す所なく咲き誇り、満開となっていた。

その二本の内、片方の桜の木の下で、悟空がじっと佇んでいる。
はしゃぐ訳でも、遊びたがる訳でもなく、まるで何かが其処にいるかのように、彼は満開の桜を見上げて立ち尽くしていた。
そんな悟空を真似るように、ジープもじっと頭上の桜を見詰めている。


三蔵、悟浄、八戒の三人は、門を挟んだ反対側にある桜の下で、じっと子供を見詰めていた。



「あれは……いつもの事、なんですか?」



いつもよりも少し軽い左肩に右手を当てて、八戒が言った。
言葉を向けられたと判っているであろう三蔵は、紫煙の糸をゆらりと一つ燻らせてから、



「……ああ」



それだけを答えて、三蔵はまた口を閉じる。

耳の良い悟空の事だ、この距離でも大人達の会話は聞こえるに違いない。
しかし、今の彼は満開に咲き誇る桜だけに意識を浚われているようで、時折寺院の建物から聞こえてくる僧侶たちの声さえ、届いていないように見える。
咲き誇り、風に揺れては舞い落ちる桜の花だけが、今の悟空の世界全てであった。


桜の根本に座っていた悟浄が、火の点いていない煙草を指先で遊ばせながら、口を開く。



「一体何なワケ?はしゃぐ訳でもないし、雪の時みてえに怖がってる訳でもない。自分が変な面してるって事も自覚してねえし」
「……俺が知るか」



深く訊ねようとする悟浄に、三蔵は吐き捨てるように言った。
その後で、紫電の瞳は、舞い散る花弁の向こうに佇む子供を見る。



「拾った時から、桜を見るとああなる」
「なんでよ」
「知らねえっつっただろう。耳ついてねぇのか、手前は」
「はいはい、悟浄、怒らない。悟空の邪魔になりますよ」



癪に障る三蔵の一言に、言い返してやろうかとした悟浄だったが、八戒にやんわりと遮られた。
ぶつけどころのない怒りは舌打ちで解消させて、遊んでいた煙草を咥え、火を点ける。



「大人しい猿ってのは、調子が狂うぜ」
「まあ……そうですねえ。見慣れないのもありますし」
「あいつの事だから、木登り遊びでもしてはしゃいでるかと思ってたんだけど」
「その内そうなる。あいつが大人しいのは今だけだ」



眉間に深い皺を刻み、このまま静かなら良いのに、と言わんばかりに溜息を吐く三蔵だが、実際に悟空が大人しくなったら、一番調子が狂うのは三蔵ではないだろうか。
こっそりとそんな事を考えつつ、八戒は“今だけ”は大人しいと言う悟空の様子を、遠目にじっと観察した。

煙が吐き出されて、白く濁った空気が揺れ、風に流されて消えて行く。
その後を追うように、花弁が一つ、二つと舞い踊る。
それを三蔵は目線だけで追って、風が止むと、まだ佇んだまま動かない悟空の背中に視線を戻す。


――――いつであったか、遠目にじっと桜を見詰めて動かない悟空に、問うた事がある。
はしゃぐでもない、泣くでもない、ただ何かを探すように桜を眺める金色に、何をそんなに夢中になって見詰める事があるのか、と。

その時、悟空は、やはり桜を見詰めたままで、こう言った。



「……“約束した”んだと」



小さいが、低くよく通る三蔵の声に、悟浄と八戒は首を傾げた。



「約束って────何の?」
「知らん。あいつが言っていたのはそれだけだ」



何を以てして、満開の桜を見るのが“約束”だと思うのか、三蔵も悟空自身に訊ねた事があったが、当の本人がその詳細を理解していない。
ただ、満開に咲き誇る桜を見ていると、頭の中で靄のようなものが生まれるのだと言う。
恐らくは、五百年の昔の記憶が関連しているのだろうが、悟空の記憶は一向に戻る様子がない為、何が悟空の琴線を震わせているのかは、誰にも判らない。

判然としない靄は、悟空に漠然とした寂しさを生む。
しかし、それは決して、悟空に嫌な感情を植え付ける事はなく、ただただ悟空の心に静かな波紋だけを残して行く。
―――その波紋が齎すのが、寂しそうで、何処か嬉しそうで、泣き出しそうに見える、あの表情であった。


三蔵は、短くなった煙草を土に落とし、火を消した。
踏み潰された灰は、直に桜の絨毯に埋もれて、見えなくなってしまうだろう。

それとタイミングを同じくして、それまでじっと動かなかった悟空が、ぱっと踵を返した。



「三蔵!」



保護者の名を呼んで駆け寄って来た悟空は、もう悟浄と八戒が見慣れた、無邪気で元気な子供の顔になっていた。
取り繕っているような不自然さの無い表情に、反って悟浄と八戒の戸惑いは深まるが、悟空はそれに気付いていない。



「気が済んだか」
「うん」
「だったらさっさと戻るぞ」



頷く悟空を見て、三蔵は桜の木に預けていた背を離す。
そのまま歩き出した三蔵と、後を追う悟空を見て、悟浄が我に返る。



「ちょ────っと待て、お前ら!」
「ん?」



呼び止める悟浄の声に、悟空がきょとんとした顔で振り返る。
その肩の上で、ジープがきょろきょろと、悟空と悟浄たちを交互に見る。

来た時よりも桜の花弁に覆われたように見える地面を踏み締めて、悟浄は三蔵と悟空へ近付く。



「まさか、今ので花見が終わりってか?」
「そうだけど」



当たり前と言わんばかりの表情で返す悟空に、悟浄は深々と溜息を吐く。



「あのな、猿。見てるだけの花見なんざ、花見って言わねえよ」
「……そうなの?」



悟浄の言葉に、悟空は三蔵を見上げて訊ねる。
三蔵は悟空の問いには答えず、余計な事を言うなと言わんばかりに、凶悪な眼で悟浄を睨んでいた。
が、それで物怖じする程、悟浄の神経も細くはない。



「花見ってのはな。花を見ながら、飯食って酒飲む宴会の事だ」
「間違いではありませんが……それをしないと花見ではない、と言う訳ではありませんよ、悟浄」



花を見て、愛でる時間を尊ぶのであれば、それだけで十分“花見”と呼んで良いと八戒は言った。
が、それで引き下がる悟浄ではない。



「何言ってんだ、八戒。花見だぞ、花見。花見弁当に花見酒、これが揃っての“花見”だろーが」
「弁当食わないと、花見しちゃいけないのか?」
「悟空。河童の言う事なんざ、一々信用するな」
「三蔵、花見するのに弁当いるって」
「聞かなくて良いっつってんだろ、バカ猿!」



先程までの厳かな静寂は何処へやら、俄かに探しくなり始めた遣り取りで、一気に場の雰囲気は賑々しいものになる。
悟空は悟浄の言う“花見弁当”にすっかり心を捉えられ、弁当がいるんだって、と仕切りに三蔵に強請っている。
食べ物が絡めば、十中八九、強請られる事が予想出来ていた三蔵は、悟空に余計な知識を与えた悟浄を、射殺さんばかりに睨んだ。

ジープが悟空の肩の上で、心なしかほっとした表情を浮かべている事に、八戒は気付いていた。
桜を見上げる悟空の顔を、誰よりも一番近くで見ていたジープも、肌に馴染んだ騒がしさが戻って来た事、悟空がいつものように賑やかな声を上げている事に安堵したのだろう。



「なあ、さっきの肉まん持って来るからさ、もう一回花見しよ!」
「あれだけ食っておいて、まだ食う気か、手前」
「時間経ったから平気だよ」
「一時間も経ってねーだろ。っとに燃費の悪い猿だな」
「猿言うな!」



吼えるように悟浄に噛み付いた後、悟空はまた三蔵に強請り始める。
三蔵は面倒臭いと言う感情を隠しもしない表情で、米神に青筋を浮かべて溜息を吐いた。

中々要望に応えてくれない三蔵に焦れて、悟空は強請るのを止め、ジープを肩に乗せたまま、一人で寺院の表へ駆け出す。



「おい!」
「肉まん持って来る!皆、ちゃんと待っててな!」
「いらねえっつってんだ、バカ猿!」



保護者の制止の声など届く間もなく、悟空の姿は建物の影に隠れて見えなくなる。

ちっ、と舌を打った三蔵の目が、もう一度悟浄を睨む。
余計な事を、と言外に告げている眼光に、悟浄は短くなった煙草を地面に落として踏みながら、くくっと笑う。



「三蔵様ってば、ケチ臭ぇこと言わないで、花見の楽しみくらい教えてやれよ」
「ンな面倒臭いものに付き合ってられるか。俺は手前らと違って暇じゃねえんだ」



悟空が悟浄と八戒に出逢うまで、色々な物事を知らずにいたのは、一重に三蔵の責任と言える。
しかし、それも致し方のない事であった。
最高僧の義務として、決して少なくはない仕事に追われる以上、悟空に構っていられる時間はごく僅かであるし、空き時間は出来るだけ休息に使いたい。
花見にしろ鍋にしろ、教えればやって見せて、一緒に行こうとまとわりつかれる事は想像に難くなく、往なす手間を思えば、余計な事は教えない方が良いと三蔵が割り切るのも無理はない。

苛々とした表情で、新しい煙草を取り出す三蔵を横目に、八戒がくすりと笑う。



「でしたら、悟空のお花見は僕と悟浄で面倒を見ますから、三蔵は仕事に戻って良いですよ」



自分が監督していないと、悟空がトラブルを起こすと言う面倒を嫌っているのであれば、これで問題ない。
花見をするのが悟空と悟浄だけなら、更なるトラブルの種になる可能性もあるが、八戒も一緒だ。
時に三蔵以上の抑止力となる彼がいれば、余計な騒ぎになる事はあるまい。

だから部屋に戻って良いですよ、と笑う八戒に、三蔵の眉間のしわが三割増しで深くなる。
判り易く追い立てられるような台詞で促されて、この男が従う訳もない───と言う事を、八戒もよくよく知っていた。



「後で猿が煩いのは、御免だ」



三蔵だけがこの場を離れた所で、戻って来た悟空がそれに気付けば、彼はまた三蔵を誘いに行くだろう。
そして、三蔵が花見に参加すると言うまで、傍で何度も三蔵を呼ぶに違いない。
結局、また此処に戻ってくる事を思うと、二度手間にしかならない。


煙を燻らせ、子供の帰りを待つ男に、八戒はふと気になった事を尋ねた。



「三蔵。どうしてわざわざ、悟空に“花見”をさせていたんです?」



――――先程、三蔵は悟空を外に連れ出す際、「今年はまだ花見をしていない」と言った。
つまり、毎年のように悟空を桜の下まで連れ出して、静かな“花見”をさせていたと言う事になる。

悟空は桜を好きだと言ったし、花見も好んでいるようだった。
しかし、桜の花を見て悟空が感じるのは、春の訪れを喜ぶようなものではなく、判然としない記憶が齎す、“寂しい”と言う感情。
そんな感情を抱かせると判っていながら、何故、わざわざ習慣のように“花見”を促していたのだろうか。


三蔵は煙草の煙を吐き出して、頭上を見上げた。
広くはない裏庭では、見上げる空も些か小さく、直ぐに屋根と塀で途切れてしまう。
しかし、抜けるように青い空の中に舞い散る花弁の色は、何処で見ても変わらない。



「別に意味なんざねえよ。あいつの好きにさせてただけだ」



雪を怖がっていた時のように、見たくないと言うのなら、“花見”をさせる事もなかった。
しかし、悟空は桜の花を好いており、好んでそれを見る時間を作っている。
だから、見たいと言うから見せていただけだった。



「じゃ、なんでわざわざ“一緒”に花見してたワケ?悟空がああ言う花見がしたいってんなら、騒ぎが起きる事もないだろうし、お前が一緒に行く必要もなかっただろ」



悟浄の指摘は最もで、あのような厳かで静かな花見なら、三蔵が危惧するような面倒事も起こるまい。
寺院内では、悟空が一人で自由に歩き回る事を危惧する僧もいるが、悟空も三蔵も、それを一々気に留めてはいなかった。
悟空は理由もなく僧と揉める気はないし、ならば三蔵も、こじ付けに近い僧の訴えを相手にする事もない。

あのような花見なら、悟空一人で行かせても良かった筈。
それを、まるで三蔵の方から促し、共に一時の“花見”をしていたのは、何故か。



風が吹いて、花弁が舞う。
それを見上げながら、三蔵はふん、と鼻を鳴らし、



「別に理由はねえよ。……サボる口実にしただけだ」



桜の枝々が擦れる音の中、その声だけが低くよく通る。
煙草を咥えた口元が、微かに笑みを浮かべていた。


おーい、と元気な声が響き、三人が振り返れば、蒸籠を抱えた悟空がいる。
空になった三段目はなく、小さな肉まんと十センチの肉まんが入った二段だけが重ねられていた。



「花見弁当持って来たー!」



楽しそうに、満開の笑顔で言った悟空の傍らで、ジープも楽しそうに高い声で鳴く。
駆け寄る足下は、興奮の所為か危なっかしく、何度も縺れては踏ん張って、肉まんをぶち撒けまいと耐え走る。



「おい猿、酒はどーした、酒は」
「酒なんかある訳ないだろ。あってもオレが持ってこれる訳ないじゃん」
「バーカ、さっき言っただろうが。花見は花見弁当と花見酒が揃って完璧なんだっつーの」
「そんなに酒が欲しけりゃ、手前がビール買って来い」
「三人分お願いしますね」
「なんで俺が使いっ走りされなきゃならねーんだよ!」



戻って来た悟空の手から、危なっかしいからと八戒が蒸籠を受け取った。
温めた時の熱はすっかり逃げているか、冬とは違う今、常温でも食べるには問題あるまい。

桜の真下が良い、と悟空が言うので、四人は先刻悟空が見上げていた木の根元に腰を下ろした。
つい先程、肉まんを腹の中に入れたばかりなので、悟空以外は改めて食事を採る気にはならない。
しかし、雰囲気とは不思議なもので、小さな肉まんの半分くらいならとも思えて来る。
結局、悟空以外は小さな肉まんを半分、一口で終わるそれを食べて、後は悟空が食べるのを横目に、舞い散る花の下で穏やかな時間を過ごす。







はぐ、と肉まんを一口食んで、悟空はふと、顔を上げた。
ひらりと落ちた花びらが、悟空の鼻先に落ちる。
くしゅん、とくしゃみをした悟空を、ジープが大丈夫?と気遣うように覗き込んだ。

平気、と言って笑った悟空の瞳には、もう寂しい色は滲んでいない。
















オレが大きくなったら、皆でお花見して、酒飲んでいいの?

なれたらな

なれるよ!絶対なるから、約束な!
オレが大きくなったら、下界で皆で花見して、皆で酒飲むの!

判った判った

だからそれまでは、酒はオレ、我慢するけどさ
皆で一緒に飯食うのは良いよな?

ああ

じゃあ、下界で桜が咲いたら、皆で見よう
皆で一緒に花見して、皆で一緒に飯食って、酒はいつか飲もうな
その時には、オレ、こーんなに大きくなるからさ!

……期待しないで待っててやる



(桜が咲く度、一歩一歩、大きくなって

そうしていつか、あなたと同じ目線の高さになったら

その時は)

















FIN.


後書き