夏の青春ダイアリー










可愛いあの子は天使な小悪魔




天使の羽と、悪魔な尻尾




どっちに惹かれたかなんて問題じゃなくて













手を伸ばして





最初に届いた人の勝ち?


















































「紅咳児ー!」






ワンコロ宜しく、元気な同輩の声に紅咳児は振り向いた。
そうすれば想像通り、満面の笑みが其処にあって、ぶんぶんと大きく手を振る悟空がいる。

手を振るものとは逆の手には、中身は重箱で、それで正常である悟空の弁当箱包み。
母親のいない家庭なので、あれのメニューは全て父親手製だと以前に聞いたことがある。
その時にはそりゃあ大変なんだろうなと切に思ったものだ。


かく言う自分も似たようなものであったことを、聞いた日の翌日になって紅咳児は認識した。
二つ年下の妹が悟空と同じレベルでよく食べるのだ。
母は病床に伏して長く、妹は不器用なので、家事全般は紅咳児の役目となっている。
妹も時々手伝ってくれるが、食事の用意は完全に紅咳児の担当になっていた(何せ途中で摘み食い(そんなレベルでもない)するので)。

紅咳児の弁当は普通サイズより多少大きい程だ。
これは高校生男子として違和感のない量だから、これ一つなら準備するのに暇はかからない。
手間取るのは専ら妹の分で、朝食の準備よりもこちらの方が大変だったりする。

……今度、悟空の父親と会ったら、その辺りの都合で気が逢うかも知れない。


さて今日も相変わらずの量だなと思いながら、紅咳児は悟空が駆け寄ってくるのを待った。



「今日も屋上で食べよ!」



そう言った悟空はウキウキと楽しそうだ。

今日は空は蒼く、全く以て見事な晴天となっている。
夏の初めの陽射しは少しずつ鋭さを帯びているが、まだ風は涼しくて柔らかい。
悟空の好きそうな天気だった。



「相変わらず好きだな、屋上」
「だって見晴らしいいし、気持ちいいもん」



なんとかと煙は高い所が好きだって言うしな────と揶揄おうと思ったのだが、悟空の笑顔に気が失せた。
揶揄えばバカ正直に反応してくるのも可愛いのだが、今日は特別機嫌が良いらしい。
折角上機嫌に笑っているのだから無碍にそれを打ち壊すこともないだろう。


紅咳児が自分の弁当箱を取り出すと、悟空は早く早くと背中を押して急かす。
今日は好きなオカズでも入っているのか、それとも余程腹が減っているのだろうか。

小柄な体の何処から湧いてくるのか、悟空は結構力がある。
幼児期から武道を学んでいるからとも言えるが、恐らく、純粋にバカ力なのだろう。
大の男がヒィヒィ言って運ぶ大荷物を、ケロッとした顔で担いでいるのを紅咳児は見たことがある。

だから背中を押す力も強くて、自分で歩くから、と言うまでもなく、教室から押し出された。



「早くしないと一番乗り出来ないよ!」
「何番になっても損も得もないだろう」
「だってノロマって言われるもん」
「あれはお前を揶揄ってるだけだ。一々本気になるから」
「いいから早くー!」



言うなり、悟空は紅咳児の手を掴んで走り出す。
廊下は走るな、と書かれた張り紙があったが、まるでお構いなしだ。
……そんなものだ、高校生の休憩時間なんて。

階段を上る途中で生活指導の教師と擦れ違ったが、まるで気にしない。
廊下でなく、階段だったのが幸いだ、階段を駆け上る生徒なんてザラだし。
気をつけろよ、とは言われたので、それだけは返事をした───生返事であったが。


思春期真っ只中の高校男子が手を繋いで走るなんて、誰かに揶揄われそうな光景だ。
しかも男同士で。

しかし、この学校では割と日常的にそんな光景が見られる。
手を繋ぐ片方は、悟空である事に限定されるが。


悟空は誰に対してもこの調子で、女子に対しても男子に対しても分け隔てない。
本人の中で性別への差異が殆どないのだろう。
綺麗な人や可愛い子を見つければそれはそれで綺麗、可愛い、と言うが、それもやっぱり男女に関わらなかった。

だから女とだって男とだって、先輩とだって教師とだって手を繋ぐ。
体育会系の運動部の先輩にまでそれが通じるのは、悟空の天性の才能だと紅咳児は思っている。



「紅咳児、遅いよ! もっと早く!」
「お前が早過ぎるだけだ!」



手を繋いだまま走るペースは、いつも悟空のペースだった。
一年生にして陸上部のエースと言われる悟空である、その脚力は並大抵ではない。
紅咳児も運動神経は良い方だが、正直、悟空には叶わなかった。

だから紅咳児と言えど、悟空のペースに合わせて走るのは辛い。
こちらが一歩進む間に、悟空は二歩三歩と進むのだから、普通に走って追いつける訳がないのだ。


足の遅い人間に(紅咳児は遅くはないけれど)、足の速い人間に合わせろというのが無茶な話だ。
が、紅咳児はなるべく遅れないように、悟空を追い駆ける形で走った。

これを許されるのも悟空の天性の才能である。



「お前は自分の足の速さをもう少し自覚した方がいいぞ」
「え? なんで?」
「本気で走るお前に追いつける奴なんか、この学校にはいないって事だ」
「……紅咳児は追いついてるじゃん」
「これでも必死なんだよ、俺は」



ついでに手を繋いだままなので、引っ張られている所為もある。

悟空と一緒に走った人間は、自身の最高タイムを叩き出すか、転げ引き摺られるかのどちらかだと紅咳児は思っている。
後者にはなりたくないし、幸いにも自分は追いつける程度には(台詞にもあるように必死だが)脚が速いので、
どうにか追いつけるという結果になっているが、それでも時々置いて行かれそうになるのだ。
特に食べ物が絡んだ時の悟空と言ったら、敵わない。



「手を繋いだままで走るのは、俺以外にはしない方がいいぞ」
「………なんで?」
「…相手を悲惨な状態にしたくないなら、するな」



此処まで天然だと問題があるな、と屋上へ続く階段を駆け上がりながら思う。

もう少し判ってくれると助かるのに。
……自分の中で燻ったままの想いの行き先も。










誰にでも分け隔てがないから、悟空には“特別”もない。
一等気に入った人物はいても、それが完全な別格になるのかと言われると曖昧だった。

順序をつけても悟空のランキングはいつもふわふわとしていて、その時その時で変動が激しかった。
父親が一番だと言う事もあるし、高校留学をして海外へ行った幼馴染が一番だと言う事もある。
幼い頃に親戚から貰った大きな熊のぬいぐるみ、小学校の時に大会で優勝した時のトロフィー、
先輩から貰った手作りクッキー、誕生日プレゼントに貰ったMDプレーヤー、花壇に咲いている花───等々。
生き物も無機物も食べ物も、何もかもごっちゃ混ぜになっていた。


その時その時、一番だと思うものは、それからもずっと大切な宝物。
食べ物はなくなってしまうし、花だって枯れるけれど、それを大切だと思ったことは忘れない。

……だから“一番”が“特別”と同一視されることは、紅咳児の知る限り、皆無であった。



以前、先輩が悟空に対して意地の悪い質問をしていた事がある。
父親と無二の親友の二人が崖から落ちそうになっていた時、どちらを助けるか、と。

悟空は迷わず、二人とも助ける、と言った。
じゃあ二人を助けたら自分が崖から落ちる、としたらどうするかと聞いても、迷わず二人とも助ける、と言った。
片方しか助けられないとしたら、と言うと、それは初めて迷ったが、結局同じ答えが出た。
話を聞いてなかったのかと総ツッコミを喰らったが、悟空は答えを撤回する事はなかった。


自己犠牲の精神ではなく、悟空は本当に、どちらも失くしたくないと言った。
零れ落ちてしまったものは二度と助けられないかも知れないけれど、可能性があるのなら助ける、と。
自分自身の命は二の次で、きっと目の前の事で頭は一杯になってしまうから。


優柔不断ではなくて、捨てられないものが本当に多過ぎるだけ。
それによって傷付くことがあっても、きっと悟空はまた笑うだろう。
また傷付かないようにすれば良いだけだから、と。

口で言う程簡単では出来ない事を、悟空は気負いもなく口にする。
まるで自分自身に掲げる誓いのようで、誰もそれ以上、意地の悪い事を言う事は止めた。



でも、周りはそうも行かないのだ。
その時はそれ以上問い詰めることを止めたけれど。



悟空の事が好きな人間は、周りに沢山いる。
悟空を中心にして集まる人物の殆どは、そうであると言っても過言ではない。

だけど悟空は気付かない。
恋愛沙汰に疎くて、超がつく程の鈍感で、筋金入りの天然だ。
まるで其処に関連する思考回路だけ、ストンと抜け落ちたみたいに。


だから誰も自分が一番であるという確信が持てずに、やきもきして牽制しあうばかり。
せめて、知らぬ間に誰かに取られたりしないように。







紅咳児も、その一人だった。