Il mondo sulla lente












綺麗な綺麗な宝石だから

ガラス越しなんて勿体無いこと言わないで















もっと近くで見たいんだ
















































カチャリという軽い金属音に顔を上げる。
仕事中の筈の保護者を見遣れば、丁度眼鏡を外してソレを執務机に置いた所だった。

20分程前に依頼の報告と物品返却に来た友人から貰ったアイスキャンディーを食べながら、悟空は立ち上がる。




外界は遠くまで晴れ渡り、雲? 何それ? とでも言いたいぐらいの青空。
川辺なり水庭なりで遊べば、きっと夏というこの季節を満喫できる事だろう。
常ならば、悟空もそうして外に飛び出している筈だった。

しかし、昨日一昨日とも今日同様に晴れ渡った中を遊びまわった悟空は、日光により肌に炎症を起こしていた。
炎天下に飛び出す前の下準備だとか、遊んだ後のアフターケアなんて、悟空は全くしていない。
していないし、しようとも思わないし、そういう行為があるのだとすら知らないだろう。
結果、楽しく遊ぶ事は満喫したが、昨日の夜になって風呂に入った時、全身の炎症に泣く羽目になった。


─────要するに、日焼けである。


寝転んでいれば布が背中に擦れて痛い。
遊ぼうと思えば、空気の流れや風に触れた肌が引き攣って痛い。
滴る汗を拭おうとすれば、肌と肌が擦れ合って痛い。
それでも外で遊ぼうとすれば、日光にじりじりと焼かれた肌が余計に痛い。

外で遊ぶ事が日常だった悟空にとって、今まで、日焼けは然程気になる事ではなかった。
それが昨日、初めて、晴れの日だからと良い事ばかりではないのだと知ったのだった。




炎症が治まるまではしばらく大人しくしていろ、と言われて、悟空はこうして屋内で暇を持て余し過ごしている。

外に行けない代わりに、執務室にいて良いかと聞いたら、好きにしろと言われた。
それは悟空にとってとても嬉しい事だったから、幾ら暇でも、こうして執務室でじっとしている。


20分前に悟浄と八戒が来た時は、良い遊び相手が来たと思った。
しかし報告と返却を済ませると、彼等はさっさと孵ってしまった。
三蔵から受けた依頼がまだ全部済んでいないから、と言って。

当てが外れて剥れた悟空に、八戒が道中で買ってきたと言うアイスキャンディーの箱を渡した。
これは嬉しかったので素直に受け取り、彼等を見送った。



悟空が食べたアイスキャンディーは、今持っているもので3本目。
甘くて冷たい、色鮮やかなアイスに、悟空はすっかり虜になっていた。

そのアイスを口に咥えて、悟空はそっと執務机の向かい側から三蔵を窺う。




「三蔵、疲れた?」
「……当たり前だ」




取り合えず声をかけてみると、不機嫌な返事。

三蔵が前髪を掻き揚げると、白磁の肌に汗が滲んでいた。
そんなになっても三蔵の服装は、いつもと同じ“三蔵法師”の法衣である。




「食べる?」




口に咥えていたアイスを手に持って、差し出す。
明らかな食べ差しであるそれに、三蔵は思い切り眉間に皺を寄せた。




「いらねえよ、そんなモン」
「冷たいよ」
「いいから、そりゃお前への土産なんだ。俺はいらん」




悟浄と八戒は、「悟空が喜ぶと思って」買ってきたのだと言っていた。
渡す相手に三蔵は括られていなくて、あくまで彼等は悟空の為に買ってきたのだ。

貰った悟空がそれをどうしようと、悟空の勝手だ。
だが三蔵は受け取るつもりはなかった。


悟空はむぅと少し不満げな顔をしたが、またぱくりとアイスを口に運んだ。




「美味いのに」
「甘ったるいだろうが」
「だからいいんじゃん」
「……ガキめ」




三蔵の一言に悟空は“不愉快”という顔をするが、文句はなかった。
口の中に収まっていたアイスを取るのが嫌だったからである。


それよりも悟空は、三蔵の額に滲む汗の多さを見て、




「濡れタオル持ってこようか?」




悟空の言葉に三蔵は一瞬眉根を寄せたが、恐らくそれは、珍しいと思ったからだろう。
暑かろうが寒かろうが、構わず外で遊びまわる子供にしては滅多に見ない気遣い。
…気遣う前に、いつも外にいて、保護者と一緒にいないから、三蔵の辟易具合に気付かないだけでもある。

別に悟空とて、外で遊ぶのが好きだからと言って、気温の変化に鈍い訳ではない。
これだけ陽射しが強ければ勿論暑いし、遊んで気晴らしも出来ないとなれば、うんざりする事もある。
今がまさにそうだった。

悟空は水遊びでもすれば気は紛れるし、涼しくもなると思うけれど。
三蔵がそういう事に付き合ってくれるとは思えないし、でも冷えた物に触れるのは気持ちが良い。
これなら三蔵も喜ぶんじゃないかと、そう思ったのだ。


三蔵は落ちてきた前髪をまた掻き揚げて、椅子にもたれかかる。
流石に正装とは言え、この暑さに法衣は辛いものがあるらしく、袷を崩す。




「それより、茶でも水でもいいから持って来い」
「うん」
「氷も入れろよ」
「うん」




濡れたタオルは確かに気持ちが良いが、それより喉が渇く。
大気はじめじめと湿り気を帯びていて、余計に蒸し暑くなって汗が噴出す。
体内の水分が根こそぎ蒸発されてしまいそうな気分だ。

悟空はアイスキャンディーで腹も喉も冷えているだろうが、三蔵はこの数時間、何も口にしていない。
煙草など一時期の精神安定剤にしかならず、喉を潤すなんて成分は持っていないので、この場合役に立たない。


部屋を出て行く悟空の足取りは、こちらも暑さにやられ気味で。
常の快活さは其処にはなく、じめじめとした湿気にうんざりとした様子。

しかし、仕方がない。
今以上に日焼けされて、また痛い痛いと騒がれるのは三蔵は御免だった。



─────悟空は程無くして部屋に戻って来て、その手には氷と茶の入ったグラス。
氷の方も世間の熱気に音を上げているのか、既に溶け始めていた。




「はい、三蔵」




修行僧達のような中身のない前置きの挨拶もなく、差し出されるグラス。
受け取って一気に飲み干せば、暑さにジリ貧を訴えていた身体が少しホッとした。

三蔵の微細な表情変化を、養い子はしっかりと汲み取り、満足そうに笑む。
それから自分も溶けかかっているアイスキャンディーをさっさと食べ終えた。


悟空は、金鈷の下に収まっている前髪を鬱陶しそうに払った。
しかし綺麗に収まっているそれは、幾ら退けようと元の位置に戻ってしまう。
悟空はむぅと唇を尖らせると、前髪に向かってふーっと息を吹きかけた。




「……もう一個食べよっかなぁ」
「やめとけ」




呟きに間髪入れずに言われた言葉に、悟空はなんでと顔を顰めた。
三蔵は眼鏡のレンズの汚れを布で拭きながら、子供に目を向けずに続ける。




「今日だけで何本食ったと思ってんだ。腹壊す前に、今日はもう打ち止めだ」
「えー!!」
「煩い。先週、かき氷の食い過ぎて腹を壊したのは誰だ」




三蔵の言葉に、悟空はぐっと詰まる。

覚えているのに学習能力がない。
そんな養い子に、三蔵はやれやれと溜め息を吐く。


眼鏡のレンズを拭き終わると、三蔵はそれを執務机に置いた。
暑さに辟易していたのは何も悟空だけではないし、気温の変化は三蔵の方が堪える性質だ。
書類ももう半分以下になっていて、後は涼んでくる頃にやっつけてしまう事にした。


アイスを打ち止めにされた悟空は、不満たらたらの顔で三蔵を見上げている。
それの一切を黙殺し、三蔵はまた額の汗を拭った。

開け放った窓から入ってくるのは、熱気と陽射しと、煩い蝉の声だけ。
四日前に悟空が街の露店で貰ったと言う風鈴は、窓枠にぶら下がっているだけで、揺れてもいない。
錯覚でも涼を感じさせてくれる筈の小物は、今全く、その役目を果たしていなかった。




「暑いよー……」
「言うな」




言う言わぬに関わらず、それは万人共通の感想だ。
敢えて口に出して言われると、余計にそう感じてしまう。
忌々しげにピシャリと返した三蔵に、悟空は頬を膨らませ、ぺたっと執務机に顔を乗せた。

上質な作りのその執務机は、ほんの少しだけ冷たいような気がした。
……すぐに己の体温と同じ温度になったので、また離したが。


その時悟空は、ふと目にしたものに意識を惹かれた。
三蔵の視線が明後日の方向に向いているのを確認して、それに手を伸ばす。



──────三蔵の眼鏡。




(……三蔵、新聞読む時、いっつもコレかけてる)




他にも、仕事をしている時。
細かい文章を読む時等、悟空も何度も見てきた。


拾われた頃は持っていなかったように思うのだが、いつからだろうか。
それほど前の事ではないと悟空は思っているけれど、自分が見たことがなかっただけかも知れない。

今となっては、三蔵にとって必需品となっている。


遠くを見る時に望遠鏡を使うのは悟空も知っている。
けれど、近くの物を見るのに、どうしてこんな代物が必要なのか、悟空にはよく判らない。
八戒も眼鏡をかけているけれど、彼の場合は、右目が義眼だから。
三蔵の瞳はどちらも本物で、綺麗な色をしているのに。

前に八戒にその事を尋ねたら、「軽い遠視なんでしょうね」と言われた。
屈折異常のひとつで、眼球内に入ってきた平行光線が、調節力を働かせていない状態で、
網膜上の正しい位置ではなく、もっと遠くに焦点を結んでしまう状態の事だ────と、其処まで懇切丁寧に。
が、悟空にはさっぱり理解できず、横合いで聞いていた悟浄に、「ピントが合わないって事だ」と言われてようやく判った。
遠方を見る分には問題なく合うピントが、近くを見ようとすると上手く合わせられず、ボケて見えたりするのだと。

……それでも、説明されても、悟空の両目は正常で(動物的な目力を備えてはいるが)、
寝起き以外で視界がピンボケを起こすことなんてなく、眼鏡の必要性についてはいまいち判然としなかった。


見えない人が見えるようになった時、どんなに嬉しいのか。
それは、届かなかった世界に手が届いた瞬間の喜びと、同じだと考えて良いのだろうか。




(そんなに見えるもんなのかな)




思いながら、悟空はその眼鏡をかけてみる。

────レンズ越しの世界は、ぐにゃりと不自然に歪んでいた。




「うっわ……いでっ!」




目の前がぐにゃぐにゃすると、頭の中がショートでも起こしたような気分になった。
ぐらりと平行バランスが保てなくなって、悟空は目眩を起こし、机の角に顎をぶつける。




「バカ猿、何やってやがる」
「うー……何コレぇ……」




衝撃音に気付いた三蔵が此方を見る。
悟空はそれどころではなく、ぐらぐらする視界と頭に参っていた。

悟空が自分の眼鏡をかけている事に気付いた三蔵は、一つ溜め息を吐くと、ひょいっとそれを取る。




「テメェにゃ不要だ、こんなモン」
「うー……」




眼鏡がなくなって、目眩からは解放されたが、まだぐらぐらする感覚が残っている。
くらつく遠近感と平衡感覚に、悟空は目を擦り、ぷるぷると動物のように頭を振った。


拾ってから、既に数年。
養い子の突拍子な行動の理由も、保護者が板についてきた三蔵には、大体の予想が着く。

三蔵は眼鏡に傷がない事を確認すると、先刻と同じ位置に置いて、




「視力の良すぎるお前なんかがかけたら、そうなるに決まってんだろうが」
「……そうなの?」




眼鏡と縁のない悟空のこと、体験した事がないものは、幾ら口頭で説明されても判らない。
首を傾げて問い掛ける子供に、そういうもんだと三蔵は言った。




「なんか目がチカチカすんだけど」
「しばらく放っておいたら収まる。気にするほどのモンでもねぇよ」
「頭痛い気がするし」
「遠近感が狂って、視覚情報が混乱してるからだ。おい、あんまり擦るな」




ごしごしと何度も手の甲で目元を擦る悟空の手を、三蔵の手が掴む。
片手はそれで制されたが、もう片方の手はそのまま目元を擦っていた。




「だって、三蔵の顔ぐにゃってなって見えるんだよ。なんかヤだ」
「放っときゃ元に戻るっつってんだろ。眼球に傷が付くから止めろ」
「…傷……? 目ン玉って、傷付くの?」




一つ言えば次の疑問が沸いてくる悟空に、三蔵は溜め息を吐く。
このまま会話を続けていれば、質問した上に、更に質問を多い被せて来る事は間違いない。

だから端的に、つく事もあるから程々にしろ、とだけ言った。
悟空はそれに小さく頷くと、もう少しだけ、と言ってまた目元を擦る。


しばらくして、ようやく収まると、悟空は懲りずにまた眼鏡に手を伸ばす。
目敏くそれを見つけた三蔵は、机の向かいにいる悟空から届かない位置に眼鏡を移動させた。




「あー……」
「あーってな…玩具じゃねぇんだ、バカ猿」
「判ってるよ」




頬を膨らませて言う悟空に、どうだか、と三蔵は思う。

いや、玩具ではなく、視力矯正具であり、三蔵にとって必要な道具であるとは判っているのだろうが。
問題は、だからと言って悟空がコレを丁寧に扱うかと言うと、否だとはっきり言える事にある。
単なる興味で触りたいだけなのだろうが、結果、眼鏡が無事で済むかと言えば甚だ不安が残る。


悟空は机の向かい側に横着していて、手を伸ばしている。
其処からでは届かぬ事など十分判っている筈だ。
どうしても触りたい、という程の執着ではないようだ。

それでも視界の端で、届かないことが判っているくせに、一所懸命に手を伸ばされると気になるもので。




「……何がそんなに気になるんだ」




眼鏡など、視力に異常のない悟空にとっては無用の代物。
ファッションに伊達眼鏡や、悟浄などはサングラスをかけている事があるが、それも悟空には縁遠い。
それでも保護者である三蔵にとって必要不可欠なものだから、それ程珍しい物ではない筈。

今まで殆ど気にしていなかった物を、今になって何故、やたらと触りたがるのか。
かけても自分に合わない事は先ほどの行動で判っただろうに。


眉根を寄せて問う三蔵に、悟空は顔を上げる。




「三蔵は、アレがないと困るんだよね」
「……まぁな」




生活そのものに支障が出るほど、三蔵の視力は弱くはない。
悟空と比べると誰でも弱視扱いになるが、常人程度は見えている。
両目が正常に使える分、八戒よりも視力は良いかも知れない。

だが暇潰しに文書に目を通す時など、作業効率も関わってくるので、かけるようになった。
一回一回眉間に皺を寄せて紙面を睨むのは、流石に三蔵でも疲れる。




「ないのと、あるのと、見えるものって違う?」
「そうだな」
「ある方が見えるんだよね」
「まぁな」




悟空は一度首を傾げたが、言葉の先を促すと、そのまま言いたいことを続ける。




「眼鏡かけてるのとかけてないのって、違う世界?」




眼鏡のあるなしで、物理的に見える世界が変化する訳ではない。
が、クリアに見えるか否かだけでも、その世界観は随分と変化しているように思えるものだ。




「多少、な」




三蔵はそういう事にそれ程意識を惹かれた事はない。
見えないよりも見える方が良いと思うのは、生活に関わる事なら尚の事。


三蔵の言葉に、悟空は自分の望んだ答えを得られたらしく、ふーん……と呟く。
悟空の視線はまた眼鏡へと向けられて、またも懲りずに手が伸びた。

このまま必死に手を伸ばされていたら、置いてある硯や墨に当たるかも知れない。
重要書類を駄目にされるよりは、と、三蔵は眼鏡を悟空に差し出した。
悟空は少しの間きょとんとしたが、意味を汲み取ると、嬉しそうに受け取る。




「だからさ、オレの見てる世界と、三蔵の世界って違うのかなって」




眼鏡を顔にかけず、レンズを覗き込みながら悟空は言った。
そうして見えるものがやはり歪んで見えて、悟空は眉間に皺を寄せる。




「これかけたら、同じ世界が見えるかなって思ったんだけど」
「…………」
「んー…でも、なんかぐるぐるするばっか…」




また目元をごしごしと擦り、悟空は眼鏡を机に置く。




「三蔵の世界も、こんなぐるぐるするの?」
「しねぇよ。俺にはこれで合ってるが、正視のお前には合わない。それだけの事だ」




悟空は“せいしって何だ?”という顔をしたが、三蔵は無視した。
黙殺された事は悟空も判ったらしく、疑問は湧くものの、問い掛けようとはしない。
保護者が面倒くさがっている事を理解しているのだ。
その内八戒にでも聞こう、という結果で、悟空の取り合えずの疑問点は横に退けられる。


それよりも、悟空にとっては、眼鏡をかけても三蔵と同じ世界が見られない事の方が大事だった。


所詮は別々の人間、感覚を共有している訳ではない。
しかし、同じ高さで、同じ位置で、同じ世界を見てみたいと思う気持ちは消えない。

ありありと不満という表情を浮かべ、悟空は眼鏡のフレームを突く。




「……目、悪くなったら、三蔵と一緒になる?」
「─────はぁ?」




悟空の突拍子な──自身にとっては熟考した末の──言葉に、三蔵は意味が判らんという顔をした。




「オレも“えんし”になったら、眼鏡してもぐらぐらしない?」
「……なに言って……」
「そしたら、眼鏡して、三蔵と一緒の世界が見える?」




真っ直ぐに保護者を見つめて、悟空は問う。









どうしても、三蔵と同じ世界が見たい。

今見えている自分の世界に、不満がある訳ではないけれど。