記憶が刻む夢、ひとひら






悟空にとって、三蔵とは、世界であった。

暗闇の中から解放したのも、その後寺院へと連れて来たのも三蔵で、傍に置く事を赦したのも三蔵だった。
閉ざされた寺院の中で、悟空を受け入れる者は極端に少なく、三蔵のみであったと言っても過言ではない。


だから、金色が無心に求めるのは、常に三蔵だった。
小さな手が温もりを欲して伸ばされるのも、騒がしいほどに繰り返し呼ぶ名前も、全て。

暗闇の世界で、自分自身の名前以外、呼ぶ名前すら持たなった悟空に、最初の一滴を注いだのは三蔵だ。
そして初めの一滴に限らず、無限の器に注がれる水には、三蔵の存在がある。
常に傍にいて、その背を追い駆けて、悟空の世界は構築されていたのだから、悟空の世界がイコール『三蔵』となるのは、ごく自然な事であったと言って良い。



────けれど、この夢の世界で、三蔵は“異物”であった。


此処にいる悟空の世界は、この夢の世界にあるもので完結している。

だから、この夢の後に生まれた世界を、この世界の悟空は知らない。
自分の世界の礎が、不機嫌な男である事を。



無邪気に伸ばされる手が掴んでいたのは、三蔵の手ではなかった。
金色が見上げていた先にあったのは、三蔵ではなかった。

悟空の封じられた記憶がこの世界を作ったのだから、この風景は、悟空の過去のものだろう。
ならば此処にあるものは、三蔵達を除き、悟空も含めて過去の造形を再現したものだから、あの小さな手が三蔵を知らないのも当然だ。
悟空と三蔵の糸が繋がり、紡ぎ出したのは、五行山の岩牢からなのだから。


そう、判っている筈なのに、─────無性に苛立ちが募る。



何処に行けば良いと言う事が判る訳ではなかったが、三蔵は桜の道を延々と歩き続けた。
曲がり路も何もあったものではなく、暴走する子供が右へ左へ蛇行するとも思えなかったから、ただ只管に真っ直ぐに。

置いて来た八戒の事は振り返らなかったから、何処に行ったのかは知らない。
同じく、子供を追って先に行った筈の悟浄と擦れ違う事もなかったが、三蔵は気に留めなかった。


不機嫌な男の頭の中を占めるのは、怯えた表情をした子供の顔だけ。




(─────バカ猿が)




悟空が三蔵に対して怯える事は、有り得ない事だった。
雛鳥の刷り込みのように、悟空は三蔵に対して絶対の信頼を置いている。

だと言うのに、この夢の世界に置いて、悟空は三蔵を拒絶した。


判っている、悟空に悪気がない事も、小さな子供がパニックを起こしただけだと言う事も。
夢を現実だと思っているのだから、保護者であろう金糸の男が消えて、見慣れぬ人間だけが残った事に、怯えるのも判る。
それが普通の反応だ。

それは理解しているけれど、怯えた金瞳が頭から離れなくて、それが無性に三蔵の苛立ちを煽る。



風が吹く。
桜の絨毯は、もう舞い踊ろうとはしなかった。

頭上からはらはらと花弁が落ちて行く。


遠く、細く、聲が聞こえた。
それは明瞭な呼び声ではなく、掠れていて、聞き逃してしまいそうな程に小さな聲。

………あの頃に聞いていたものと、よく似ている。




(違うだろう)




あの頃、明瞭に聞こえて来なかったのは、子供が何も持っていなかったからだ。
自分の名前一つを抱いて、それを呼ぶ者を待ち続けて、呼んでくれる“誰か”を呼んでいた。

あの頃と今とで、確実に違うものが、一つある。


子供はもう、呼べる名前を持っている。



三蔵は、進む足を早めた。
踏みしめた花弁が、跡を残すように浮いて、直ぐに落ちる。



真っ直ぐに進んだ先に、行き止まりを示すように、一本の桜が立っている。
その根本で足を止めて、三蔵は頭上を仰いだ。

太い木の枝の陰から微かに覗く、大地色。
空を埋め尽くす花弁の中で見えるそれは、まるで桜の木の一部になったようで、三蔵は眉間に皺を寄せた。
直ぐ傍らには小竜が降りていて、子供の顔を覗き込んでいる。




「悟空」




呼び付けると、大地色が揺れて、子供が此方を見下ろした。

落ちて来る金色には、微かに期待の色が篭っていたけれど、直ぐにそれは曇ってしまう。
それだけで、子供が待っていた者が誰であるのか判った。


不機嫌な顔で見上げる男に対抗するように、悟空は眉を吊り上げて、目に力を込める。
その傍で、ジープが困ったように小さく鳴いた。




「降りて来い。帰るぞ」
「……やだ。オレ、あんたなんか知らないもん」




知らない訳がない。
此処が夢の世界であると、目の前にいるのが自分の養い子とは違う“悟空”である事が判っていても、三蔵はそう思った。




「だったら、さっさと思い出せ」
「意味判んないよ。知らないってば」
「あれだけ煩く呼んで、知らねえなんて言い訳は、一度しか聞いてやらねえよ」




呼ぶ名前を知らないのに、呼び続けていたのは、悟空の方だ。
その煩さに辟易したからこそ、三蔵はあんな辺境にまで赴いて、子供を闇から連れ出した。

そして今尚、子供は三蔵を呼び続けている。
呼ぶ名前を知っている癖に、忘れた振りをして。


降りろ、と言う三蔵に、嫌だ、と悟空は言った。
ジープも悟空を促すように服裾を摘まんで引っ張るが、悟空は梃子でも動かない。

生来気が短い三蔵が、埒が明かない、と痺れを切らすのに時間はかからなかった。



幹の凹凸に手をかけて、足を乗せる。




「何してんだよ、あんた!」
「煩ぇ。降りないっつーから、降ろすんだよ」
「やだ!絶対降りない!」




言うなり、悟空は立ち上がって、頭上にあった枝を掴んで上り出す。
ジープが慌てて制しようとするが、悟空はどんどん上に上って行ってしまった。

悟空の身軽さはよく知っている三蔵であるが、改めて、この頃から猿なのか、と胸中で毒を吐く。


本気で逃げようと昇って行く悟空に、三蔵が追い付ける訳もない。
だが、どれだけ大きな木でも、頂上まで行けばその先には上れない。

上に行くほど枝は細くなっており、子供と言えど、その体重を支えられる程の強度はあるまい。
しかし、子供はそんな事など頭に欠片も残っていないようで、無心になって逃げようとしている。


三蔵は半分も上らない場所で、次の足場を探すのを止めた。
今自分が立っている場所から上には、頼りない足場しかなく、大人の体重は到底支えられそうにない。

子供はどんどん上に行く。




「悟空!」
「やだ!」




止まれ、と呼べば、直ぐに帰ってくる拒否の声。

それが響いた、直後、




「──────うわっ!?」




ばきん、と枝の根本が折れる音がして、小さな体が宙に投げ出される。
咄嗟にジープが服端を噛んで羽ばたくが、それは殆ど功を奏さないまま、一人と一匹は落ちて行く。

三蔵が腕を伸ばし、其処に収まるサイズの子供を受け止めて─────




「っ!?」





ずしり、と。
子供と小竜一匹の重さにしては、異常な負荷が腕に伸し掛かる。

油断していた三蔵の姿勢が崩れ、今度こそ諸共に地面へと落ちる。


強かに背中を打ち付けて、三蔵は一瞬、呼吸を忘れた。
腹の上に乗った子供の重みは、先程の一瞬の感覚を幻ではないものと伝える程に重かった。

岩牢から連れ出して数年が経った今、悟空の身長は、今此処にいる幼いものよりも幾らか高くなっている。
比例して体重も増えているのは間違いないが、腹の上の子供は、それよりもずっと重い。
拾って間もなく、子供を抱き上げた事があったが、その時は片腕で担げる程だった筈だ。



三蔵の腹の上で身を固くしていた子供が、のろのろと起き上る。
そして初めて、金色は紫闇を真っ直ぐに捉えた。




「……あ、わ、わわ」




直ぐに離れようとする子供の腕を掴まえて、引き寄せる。
初めて逢った頃のものと同じ小さな体は、すっぽりと三蔵の腕の中に閉じ込められた。




「ちょ、あんた、」
「あんたじゃねえ」




慌てた声を耳元に聞いて、三蔵は言った。
え、と戸惑いの声が零れる。




「知ってんだろうが」
「……何?…判んないよ、あんた何言ってんの…?」




ふるふると弱々しく首を横に振る悟空。
その小さな肩は震えていたが、もう三蔵の腕から逃げようとはしなかった。

ジープが三蔵の肩に乗って、肩口から覗いている悟空の顔に頬を寄せる。
ピィ、と響いた小さな鳴き声は、まるで何かを促そうとしているかのようだった。


くしゃり、と大地色の髪を撫でれば、悟空の小さな手が三蔵の法衣を握る。




「……判んないよ…金蝉、どこ……?」




保護者の名を呼ぶ声に、また苛立ちが募る。
息を殺す程に強く抱き締めると、抗議するように悟空がもがいたのが判った。




「お前の保護者は、あいつじゃねえだろ」
「……違う。金蝉が、オレの……」
「違う」




小さな手が、無邪気な声が、過去に求めていたのがあの男であるとしても、今は違う。






「俺を見ろ、悟空」






頬を包んで、真正面から金色を捉えて、三蔵は言った。
逸らす事を赦さない紫闇の強い光に、金色が見開かれて、揺れる。




夢の中は、居心地が良い事だろう。
自分自身が望んで、願って、“逢いたい”と思ったもので溢れているのだから。
其処には悲しみを運んでくるものなどなく、柔らかく温かで、優しいものしか存在しないから。

けれど、それで夢の中だけに潜り込んでしまう事に、どんな意味があると言うのか。
夢の中でしか逢えない者であるからと、夢の世界だけにその身を溶け込ませて、何が変わると言うのか。


結局の所、夢は夢以外の何者でもないのだから。




風が吹いて、二人を花弁の檻の中に閉じ込める。
天上の夜の帳すらも、花弁の淡色が埋め尽くし、やがて見えなくなった。

檻の一番高い所から、ゆっくりと、花弁が散り落ちて、三蔵達を埋めていく。



呼び続ける、声なき聲は、まだ止まない。
それは少しずつ少しずつ、明瞭なものへと移り変わり、




「……だ、れ、」





問い掛ける悟空に、三蔵は答えない。

名前なら、二度も教えた。
一度で反芻出来ていなかったから、自分にしては珍しく、二度も。


けれど、三度も教えてやるほどに、三蔵は子供を甘やかすつもりはない。



射止められたように、金色は紫闇を見詰めている。
両頬を包む男の手に、小さく、柔らかな子供の手が添えられた。


悟空の頭の中に、記号───いや、単語───いや───、

────名前が、浮かんで。






「        」
































─────目が、覚めた。

ゆっくりと、ふわりと、深い深い水底から浮き上がってくるように、静かに。



ピィ、と鳴く声が聞こえた。
見れば、赤い瞳が間近にあって、心配そうに覗き込んでいる。

なんでそんな顔してるんだろう。
思いながら、顎の下をくすぐってやると、小竜は嬉しそうに小さく鳴いた。


それから、視界が暗くなった。
見上げると、紅と翡翠が覗き込んでいた。
二色もまた、心配そうな色がある。

翡翠はともかく、紅がどうしてそんな顔をしているのかが判らなかった。
どうしたんだろう、と思っていると、二色の心配の色がふっと消えて、くしゃくしゃと頭を撫でられた。



……何故だろう。
何もかもが、随分と久しぶりのような。
ただ眠っていて、今目を覚ましただけなのに。



起き上がろうとしたら、体のあちこちが軋んで、上手く動かなかった。
それを察してか、翡翠がそっと手を貸してくれて、ようやく上半身を起こす。

────それから、紫闇を見付けて、





「さんぞぉ」





右手を伸ばせば、直ぐに届いた。
甘えるように身を寄せると、珍しく、振り払われる事はなく。

あれ、これ、夢かな、と思いながら、何故だか懐かしく思う温もりに、悟空は安堵した。





………伸ばした右手から零れ落ちたガラス玉は、透明な球体に差し込む光を、ただ静かに反射させていた。

















逢いたい人がいたんです

傍にいたい人がいたんです


夢の中しか逢えないなら、ずっとずっと、夢の中にいたいと思った



でも、それよりも

今傍にある光とともに、ずっとずっと、一緒にいたいと、強く思った

















FIN.