Nightmare





垣間見た夢が冷たくて

目覚めた先が冷たくて









………だから、一人は嫌い


















「―――――やだぁあっ!!!」



静かだった室内に、声が反響した。


悟空は目を見開き、肩で荒い呼吸をし。
布団のシーツを強く握り締めていた。
血の気が引く程、強く。

額から冷たい雫が落ちた。
暗い室内が、異常に冷たく見えて。


「……ゆ……め………」


広がる空間は、見慣れたもの。
締め切った窓から、月明かりが注ぎ込む。

垣間見た“紅”は何処にもなかった。
灯火さえも、今此処にはない。
ただ暗がりがあるだけだ。


「……ぅ………」


じわりと透明な雫が溢れ出す。



何も覚えていない筈なのに。
記憶も夢も、覚えていないのに。
どうして、こんなに痛いんだろう。

勝手に溢れ出して、零れる雫。
何も覚えていない筈なのに。


「……っく……ふ………っ…!」


震える身体を抱きしめた。

やっぱり暗闇は好きじゃない。
何も見えないし、聞こえない。
まるで切り取られた空間のようだ。



『あそこ』から出て、かなり経ったと思う。
だから彼も、もういい加減一人で寝ろと言った。
いつまでも甘えていたら迷惑だろうと、悟空もそれに従った。

それが、ほんの数日前のこと。
なのに、もう限界だった。


寝巻き代わりに来ているのは、小坊主の着る僧衣。
いつもの寝巻きは、今朝遊んでいて破いてしまった。
だから代わりに着ていろと渡されたもの。

白い無地のそれは、暗闇の中で浮かび上がる。


大地色の長い髪が、居所なさげに揺れ。
大きな金瞳は、不安の色に苛まれ。
歩を進める足が、心なしか覚束ない。


(……怒られる…よな……)


向かう場所は、すぐ隣の部屋だった。
なのに、ない筈の距離が、長い。

枕を抱えて、ゆっくりと歩き。
床板がギシリ、と軋んだ音を立てた。


(…だって……だって、嫌なんだ……)


枕に顔を埋めながら、前を見る。

(……見たくない……でも…)


まだ華奢な肩が震えた。
それは寒さによるものだろうか。
それとも、もっと別のものか。

自分の身体なのに、悟空には判らなかった。
それよりも、言い訳地味た言葉が頭を巡る。


(でも……見ちゃうから…)


人工的な明かりのない廊下。
小さな窓から差し込む月光が、唯一の標。

その光が照らす、一枚の扉。


(……一人じゃ…見ちゃうから………)


視界がぐにゃりと歪む。

溢れ出す涙の所為だと、判ったけれど。
止める事が出来なくて、益々歪みだす。


早く傍に行きたい。
なのに、目の前の暗闇が身体を縛り付ける。

すぐ其処に、彼はいるのに。


(………さんぞ……)


気付いて欲しくて、呼ぼうとして。
それは声にならなかった。

やっぱり部屋に戻ろうか。
思って、悟空はおそるおそる後ろを見る。
其処にもやはり、暗闇が広がって。



………ヌルリとしたものが、足元に触れた気がした。

勿論、そんなものは無いと判っているけれど。



「…やっ……!」


ガタ、と足を浮かせ。
壁に背を寄せ、枕を強く抱きしめた。

月明かりが床を照らし出す。


そこには、何もない筈なのに。
金瞳に映し出されたのは、“紅”。

悟空は目を背け、短い距離を走り。
彼の寝室に繋ぐドアに、縋りつく。
呼吸が荒くなり、頭の中が滅茶苦茶になっている。


「…っは……ぅ…は……っ…」


これ以上一人でいたら、可笑しくなる。
そんな気がして、悟空はドアノブに手を添えた。

しかし、それを悟空が引っ張る前に。
扉は勝手に、開かれてしまい。
悟空はバランスを崩し、倒れそうになる。


しかし、そんな衝撃はやって来なくて。



「入ってくるならさっさと入れ、バカ猿が」



大好きな声が聞こえた。




見上げれば、大好きな金糸。
自分を見下ろす、深い紫闇の色。
緊張の糸が、プッツリと切れて。

悟空は三蔵に、思い切り抱き付いた。
一度だけ三蔵は怒鳴ったが、それ以上はなかった。


「……ガキじゃあるまいし、一人で寝る事も出来ねえのか」


言葉自体は、優しいものではないのに。
声音は、いつもの刺々しさはなく。

三蔵は落ちていた悟空の枕を拾い。
小さな背を押して、寝台へと歩を進める。


「…さんぞぉ……」


呼んだ声に、返事はないけれど。

寝台に横になると、三蔵に擦り寄って。
珍しく、怒られる事はなかった。


ここなら、大丈夫。
もう嫌な夢は見ない。

悟空は三蔵にしがみ付いて。
触れる暖かさに、泣きそうになる。


「さっさと寝ろよ」


その言葉が、優しいものに聞こえて。
悟空はしがみ付いたまま、小さく頷いた。

くしゃ、と大地色の髪を撫でられて。
感じる視線も、心地良いものだった。

悟空はおそるおそる、自分の手を見つめた。
その手は、三蔵の夜着を握り締め。
三蔵もその手を払おうとしない。



彼の傍なら、もう嫌な夢は見ない。

悟空はゆっくりと瞳を閉じ、温もりに身を任せた。


















何か生暖かいものが触れた。

手と、足と、肩と。
それから、顔にも。


全てが白い世界の中。
浮かび上がってくる、異質な色がある。
赤ではない、“紅”がある。


歩を進めると、水を踏む音がした。
けれど、そこも生暖かくて。

どうなっているのか判らなくて。
重力にしたがっていた右手で、目を擦ると。
金瞳に映った、手を染める“紅”。


≪………え?≫


両手が、“紅”い。

黒を主にした衣服も染まり。
薄色のスボンも、その色を混ぜ。
足元は、余すところなく、“紅”。



≪………あれ…?≫


どうして、こんなに“紅”いんだろう。
どうしてこんな色があるんだろう。

―――一体自分は、どうしたのだろう。


風が吹き、赤い花弁が舞い。
顔を上げると、そこには。


『――――バカ猿……』


それは、とても優しい声で。
眩いほどの金糸を持っていて。
覚えてないけど、覚えている。

差し出された手に誘われるように。
“紅”に塗れた手を、ゆっくりと重ね。





―――――“紅”が、全てを塗り潰す。



















「―――――!!!」


引き攣った喉から、叫び声が漏れ。
けれど、それは音を形成するに至らなかった。

まるで奥に詰まってしまったように。
悟空の呼吸の邪魔をしてしまう。
けれど、それが今は助かったと思う。


(……さんぞ…に…気付かれたら……っ…)


迷惑をかける。
だから、気付かれたくない。

震える身体を抱きしめる。
どうにか呼吸を落ち着けようと努めるが。
引き攣ったままの喉では、ままならない。


悟空はそっと、手のひらを覗き込んだ。
そこには何も残っていない。

それなのに、何かが触れている気がして。


何もない筈なのに。
何か、生温かいものが触れている。

覚えていない。
何を見たかなんて、覚えていない。
それなのに、この感覚はなんなのだろう。


(知らないっ……知らない…っ……!)


頭を振って振り払おうとして。
それでも、こびりついている。

手を握ると、爪が食い込んだ。
あと少し力を入れたら、皮膚が破ける。
それすらも今は、なんとも思わなかった。


――――しかし。

突然、腕を引っ張られて。
背中がベッドシーツと接触し。



「うるせぇんだよ、バカ猿が」




聞こえた声は、不機嫌だけど。
抱きしめる腕が、とても優しくて。

悟空は緩慢な動作で、顔を上げた。
すぐさま金瞳と交じり合った、紫闇。


「寝られやしねえ」
「……起きて…た…?」
「起こされたんだよ、テメェに」


そう言って、頭を抱きかかえられ。
三蔵の胸元に、強く押し付けられた。

呼吸の辛い状態なのに。
先刻よりも、楽になった気がして。
悟空は握り締めていた拳を解いた。


「ったく……寝てる間も煩くてかなわねえ」
「オレ……呼んでたの…?」
「頭が割れるぐらいにデケェ聲でな」


悟空は判らなかったが、それでも届いたと三蔵は言う。


悟空は三蔵の胸に、顔を寄せた。
いつも吸っている煙草の匂いが、仄かに香る。

――――心音が聞こえる。


「もう寝ろ」
「………寝るの…やだ…」


抱き寄せられる。
心音が、はっきり聞こえた。

くしゃり、と頭を撫でられる。
それが眠りを誘い込んでいくようで。

けれど。







三蔵が傍にいるのに見てしまった。
彼の隣なら見ないだろうと思ったのに。
“紅”に全てが彩られる、夢を見た。

抱き締められているのに、怖い。
誘う睡魔に抗って、悟空は三蔵に縋りつく。



もう、これ以上は………!










「怖かねぇよ」


もう一度撫でられて。
腕の中に、閉じ込められる。


「……寝てろ……――――悟空」


聞き取れるか否かの声に囁かれ。
悟空は今度こそ、ゆっくりと瞼を下ろす。

阻む壁をなくした睡魔は、浸透して行き。
段々と思考回路が麻痺して行く。
それは決して、怖くはなかった。







やがて訪れる眠りに身を委ね。


包み込んでくれる腕が、離れることはなかった。


















垣間見た夢は冷たくて

目覚めた先は冷たくて



だから、一人で眠るのは怖い










お願いだから、離さないで










FIN.




後書き