Since when 見慣れた光景。 聞きなれた声と言葉。 呆れるほど見てきた仕草と笑顔。 法衣を握る手を振り払わなくなったのは、拾ってすぐ─── じゃぁ、この感情を持ったのは? 四日ぶりの宿屋で、悟空は悟浄、ジープとじゃれ合っていた。 部屋はツインが二つ取れた。最初悟空は、同室者を選ぶ時、三蔵と一緒がいいと言った。 だがこの後の進路を考える必要がある。 三蔵に断られ、八戒に宥められて。 結局悟空は悟浄と一緒になった。 「あははは! ジープ、くすぐったい!」 小動物同士でじゃれ合う。 それを見ながら、悟浄は笑いまくっていた。 「動物だな、やっぱ!」 「ドーブツじゃねぇもん」 「何処がだよ、丸きり動物じゃねぇか」 宿につくまでの疲労は何処へやら。 二人と一匹は、ひたすら遊びに熱中している。 此処の所、悟空はずっと塞ぎこんでいた。 理由は他の誰でもない、保護者の所為。 悟空が呼べば返答は返ってくる。 そんなのはいつもの事でもある。 だから悟浄も破壊も、三蔵の変化に気付かなかった。 けれど、悟空だけは。 『三蔵、ここんとこずっと怒ってる』 ───と。 確かに口数はいつにも増して少ない。 不機嫌のメーターは常にMAXになっているし。 苛立ちオーラは出しっぱなしだ。 何故三蔵がそんな状態なのか、悟浄は知らない。 見たところ八戒も知らないようだし、悟空も判らないと言う。 けれど三蔵の苛立ちは、どうも悟空に向けられているようで。 『オレ、なんか怒らせるような事したんだ』 そんな言葉を、悟浄はここ数日で何度も聞いていた。 ジープの中でずっと落ち込んでいた悟空。 悟浄のちょっかいにも、空元気でしか対応しない。 八戒が怪訝そうに後部座席を何度も見ていた。 その度「なんでもねーから」と視線だけで悟浄が返す。 ジープの中では、常に四人一緒。 自然と三蔵との距離も近い。 だから悟空はずっと緊張している。 今日一日は、二人を離してみようと八戒が言った。 結果、悟空はどうにかリラックス出来たようだ。 けれどそれも何時までもつか。 今朝方この宿について、部屋割りもすぐ決めて。 悟浄は悟空を引き摺り、早々に残り二人と離れた。 八戒は三蔵に任せて。 自分は、この小猿の相手。 時刻は既に夕刻を迎えつつある。 昼食の時は食堂で四人顔を合わせた。 けれどそれ以外は、悟空と悟浄は常に二人だけ。 ジープだって十分ほど前に来たばかりだ。 「悟浄、トランプやろーぜ!」 ジープとじゃれながら悟空が言う。 どうやらもう少し、大丈夫そうだ。 そろそろ飼い主が恋しくなる頃だろうと悟浄は思っていた。 けれど小猿は、まだまだ同室者と遊ぶ気らしい。 ぐぅ、と悟空の腹が鳴った。 途端に悟空は顔を真っ赤に染め上げる。 「遊び過ぎで腹減ったか。動物の上にお子様だな」 「うっさいやい!!」 食って掛かる悟空に、悟浄は笑う。 一先ず荷物袋を漁ってみるが、悟空の好きそうな食べ物は無い。 苦味のガムなんてものがあったが、悟空は嫌いだった筈だ。 どうやら他の食物は、他二人が持っているらしい。 「八戒になんか作って貰って来るからよ、待ってな」 ぽんと悟空の頭に手を乗せた。 くしゃくしゃと撫ぜてやると、子供扱いされているのが不満なようだ。 ぷくっと頬を膨らませている。 そんな表情をするから、いつまで経っても子供扱いされるのだが。 悟浄が部屋を出て行くと、一緒にジープも出て行ってしまった。 一人部屋に取り残された悟空は、手の中のトランプを弄ぶ。 それすら飽きてしまうと、カードはベッドに放り投げられた。 ごろんとベッドに寝転がって。 そこから漂う煙草の匂いに、また起き上がる。 悟浄の煙草の匂い。 「……ま、この匂いも嫌いじゃないんだけど」 ぼそりと呟いて。 ふと脳裏に浮かんだ、金色の人。 そう言えば此処の所、近くであの人の匂いを感じてない。 なんだか近付いてはいけないような気がして。 だけど、どうしても傍にいなきゃいけない気がして。 どうしたらいいんだろう。 三蔵とはいつも通りに話をしたい。 だけど出来ない。 もどかしくて、嫌になる。 「さんぞーは……オレに、どうしてほしいんだろ」 呟かれた言葉は、静かな部屋に消えて無くなる。 訪れるのは静寂のみ。 悟浄が戻ってくるまで、この時間をどう使おうか。 遊び相手がいなくなって、何もする事が無い。 ───どうすればいいのだろう。 この時間の使い方じゃなくて。 三蔵との事。 時折向けられる視線は、冷たくて、けれど綺麗で。 何か言おうとしているのに、何も言わないまま擦れ違う。 無神経な時計の音だけ、規則的に鳴る。 キィ、とドアの軋む音。 顔を上げる。 視線の先にいたのは、八戒だった。 「お休み中でした?」 優しい笑顔で問われ、悟空は首を横に振った。 「それは良かった。悟空、お腹空いてるでしょう? おやつ持ってきたんですよ」 見れば八戒が持っている盆には、様々な菓子があった。 嬉々として悟空は立ち上がる。 ──と、八戒が部屋に視線を巡らせた。 「…どしたの、八戒」 「いえ……一人足りないなと」 八戒が持ったままの盆から、クッキーを取る。 それを口に運びながら。 「悟浄?」 「ええ。今日は一緒でしょう?」 不思議そうな八戒に、悟空は首を傾げた。 「八戒、悟浄に言われて来たんじゃないの?」 八戒は否定の示しで首を振った。 「逢いませんでしたよ」 「だって八戒になんか作って来て貰うから、待ってろって」 ジープも一緒に行った筈だ。 悟浄がそのまま夜の町に出る事はないだろう。 ……あるかも知れないが。 きょとんとする悟空と、首を捻る八戒。 しかし、大した事ではないと判断したらしい八戒は。 「ま、食べちゃいましょう。悟浄は放っといて」 きっぱりと笑顔で言い切った。 それでいいのかと思いつつ、悟空も八戒の菓子を食べ始めるのだった。 10分もしない内に、悟空は菓子を平らげる。 それを八戒は微笑ましそうに見詰めていた。 「ごちそーさまっ!」 綺麗に食べ尽くされた菓子。 相変わらずの食べっぷりに、八戒は上機嫌だった。 「八戒ありがと! すっげー美味かった!」 「そう言ってもらえて光栄ですよ」 言いながら八戒は悟空の頭を撫ぜた。 優しく撫ぜられ、悟空も子供のように甘える。 悟浄相手には虚勢を張るのに、八戒には甘えるのだ。 「でも、悟浄どこ行ったんだろな」 「さぁ。ま、いいじゃないですか」 「ジープも一緒だったよ」 「なら大丈夫ですよ。明日の朝には帰ってきます。帰ってこなくてもいいですが」 八戒の最後の言葉に首を傾げながらも、悟空は何も言わなかった。 優しく撫でられる手に、すっかり子供帰りしていた。 それでも。 「三蔵、まだ機嫌悪いの?」 やはり三蔵の事は気になる。 唐突な質問にも関わらず、八戒は。 「今朝よりは落ち着いたと、僕は思うんですがねぇ」 少々困惑気味の表情で。 如何ともしがたいようだった。 確かに、今朝よりは落ち着いたと思う。 けれど、煙草の本数はそれと反比例して増えているのだ。 それは今朝と比べ、逆に苛立っているのかも知れない。 「怒ってんの?」 「怒ってるという訳でもないですが…」 八戒の言葉が途切れる。 ギ、とドアの軋む音。 八戒が顔を上げ、悟空もそちらに視線を向けた。 「さんぞっ」 八戒の手から離れ、悟空は大好きな保護者に抱きついた。 いつものように、ハリセンはない。 八戒は盆を手に持って立ち上がる。 「それじゃ、僕は部屋に戻りますね」 「ん!」 擦れ違い様交わされる短い会話。 その瞬間に、冷たい視線が八戒に突き刺さる。 誰からのものかなんて、言わずもがなだ。 ここにいるのは、優しい保父と、素直な子供と、不機嫌な最高僧だけ。 「それでは悟空、お休みなさい」 部屋割り変更ですかね、とぽつりと呟き落とした。 自分に纏わりつく悟空を、三蔵は珍しく振り払わなかった。 それを不思議に思いながらも。 悟空は甘える事を許され、離れようとしなかった。 今日一日、ほとんど顔を合わせなかった分も。 「さんぞぉ」 「なんだ」 「へへー……」 別に用があって呼んだ訳ではない。 ただ、声が聞きたかった。 くしゃり、と頭を撫でられる。 なんだか今日はよく撫でられるな、と悟空は思った。 「さんぞ、さんぞぉ」 「だからなんだ」 「へへ、別になんにもー」 じゃぁ呼ぶな、とは言われなかった。 見上げた先にある金糸と、深い紫闇。 ただ、それが好き。 ベッドに三蔵が腰掛ける。 悟空がその膝上に座るが、三蔵は甘受していた。 半日ぶりの三蔵の匂い。 嗅ぎ慣れた煙草の匂い。 大好きな三蔵の匂い。 ぎゅっと抱きついた。 それと同時に、頭を撫でられて。 三蔵の肩口に、強く押し付けられた。 「……さんぞ?」 心拍数が上がるのは何故だろう。 「……煙草臭ぇ」 不意に告げられた言葉。 それが悟浄の煙草の匂いの事だと気付いた。 「悟浄の煙草? そういや、ずっと吸ってたなぁ」 「…あの河童か……」 途端、三蔵の機嫌が下がったような気がした。 怒らせたかと、悟空は内心焦る。 けれど。 突き放されるような事は無くて。 それでも悟空は、まだ不安で。 「…三蔵の匂いの方が、オレ好きだよ」 強くしがみ付きながら言った。 くしゃり、と頭を撫でられる。 「遅いから、もう寝ろ」 言われて部屋の時計を見る。 確かに、いつもならもう寝ている時間になっていた。 だから悟空は大人しくベッドに潜る。 本当は、もっと三蔵と話をしたいけど。 (しょーがないかぁ…) 内心溜息を吐く。 なのに、馴染んだ気配が消える事は無い。 それどころか、カチッという金属音。 それがライターの着火音ということはすぐ判った。 悟空は勢い良く起き上がる。 暗闇にもよく判る金色。 「さんぞ、部屋戻んねぇの?!」 悟空が問う間に、三蔵は煙草に火を点ける。 吐き出された紫煙が、闇に溶ける。 嗅ぎ慣れたマルボロの匂いが、二人だけの空間に染み込む。 「部屋戻らないの?」 もう一度同じ質問をする。 三蔵の紫闇が、悟空を捕らえる。 闇に映える金色と、深い紫闇。 「戻って欲しいのか?」 逆にそう問われ。 悟空は俯いてしまう。 けれど、もうじき悟浄が戻ってくるかも知れないし。 でも、やはり嘘は吐けそうにない。 声に出る言の葉は、やはり正直なものでしかなく。 「ここ…いて…」 そう呟いた途端、抱き寄せられた。 そのままベッドに倒れ込む。 「さんぞ?」 「うるせぇ」 間近で感じる、温もり。 それを離したくないと思ったのは、どちらだろうか。 三蔵のマルボロの香りが、悟空にも移って。 悟浄の匂いを、消して。 僅かに残っていた甘い匂い。 それは多分、八戒の作った菓子の匂い。 それも全部、三蔵の匂いに消されていく。 「──もう寝ろ」 抱き締められたままで言われた。 半日ぶりに感じる温もりだった。 大好きな、太陽の温もり。 自分だけの、太陽の。 ………自分だけの。 ────自分だけの。 腕の中の存在に、三蔵は僅かに笑みを漏らす。 悟空の柔らかな髪から匂う、煙草の匂い。 三蔵の移り香。 ついさっきまで、無かった香り。 「……沸いてんな、俺も」 自分以外の存在をうかがわせるソレが。 気に入らなかったのだと。 自分以外の人間の傍にいた、その証のような匂いが。 気に入らなかった。 八戒の作った菓子の、甘い匂いも。 悟浄の吸う、ハイライトのきつめの匂いも。 気に入らなかった。 だから、消したんだと。 こんな感情を何時から憶えたのか。 そんなのはもう記憶に無い。 忘れてしまう程、昔の事だったから。 ………最初は煩わしかった。 一日に何度も叫んで、騒ぎを起す。 けれど、法衣を握る手を振り払う事は、殆ど無かった。 じっと自分を見上げる視線も、いつしか心地良かった。 だから、最近の事じゃない。 この感情を持ったのは。 FIN. 後書き |