雨音の葬送曲 ぽつり、ぽつり、と。 雨が窓を叩く。 閉じられた空間から、降り始める雨を子供は見詰める。 長い大地色の髪は、さながら小動物の尻尾。 いつもは忙しなく跳ねるのに。 今は、重力に逆らわず落ちている。 「あめ……」 舌足らずな言葉で紡いだ。 この大きな建物に子供が来て、まだそれほど経たない。 半年ほど、だろうか。 長いように思えるが、子供には短い時間だった。 あの暗い暗い闇にいた頃に比べれば。 「あめ、ざあざあ」 まるで赤ん坊のように喋る。 降りしきる雨は、見慣れた庭を泥沼にしている。 いつもなら、外で遊ぶ時間なのに。 ぎぃ、と軋む音がして。 悟空は勢いよく振り返った。 其処にあったのは、眩い金の光。 子供はすぐさま駆け寄る。 「さんぞ、あめ。あめ、ざあざあ!」 「………ああ…」 腰にしがみつく悟空を、三蔵は引き剥がす。 それでも子供は、三蔵に近寄ってくる。 まるで親を追う子犬のように。 「さんぞ、あめ! あめ!」 「珍しいもんでもないだろ」 「ざあざあ! ざーっ!」 接続語を要しようとしない悟空に、三蔵は軽い頭痛を覚える。 だが無理もない事だったのだ。 この子供は、年齢よりもずっと幼い。 しかも五百年の間、人里は慣れた岩牢にいて。 人語を理解できただけでも、大した事ではないだろうか。 「ざあざあ!」 「何回言や気が済むんだ」 ずっと同じ言葉を繰り返す。 覚えたての言葉を、親に聞かせる赤ん坊のように。 悟空が何度も法衣の袖を引く。 けれど三蔵はそれに応えない。 むぅ、と膨れているのは見なくても判る。 無造作に煙草を口に咥える。 火を点け、一度体内に溜めた紫煙はすぐに宙に消えた。 「さんぞぉ、さんぞ! あめ!!」 ぐいぐいと袖を引っ張る悟空を引き剥がす。 悟空が雨を珍しがるのは仕方ない。 岩牢から出てから、まだ数えられる程度しか雨は降っていないから。 だが、三蔵は違う。 ───雨は、嫌いだ。 いつか浴びた紅を、蘇らせるから。 自分は弱いのだと、思い知らされるから。 そんな三蔵の思いに、悟空が気付く訳も無い。 子供はただ構ってくれとしがみ付く。 「あめ、ざあざあ! えっと…たいくつ!!」 ぎゅっと腕に抱きついてきた。 五つの年齢差は、意外と二人の体格差を示していて。 悟空はまだ、三蔵の腰ほどしかない。 三蔵が座っていても、悟空の目線はまだ下にある。 「俺は忙しいんだ」 「さんぞ、してない。なんにも」 だから遊んで、と。 人が思慮に耽っているのもお構いなしだ。 無邪気な金瞳は、真っ直ぐに三蔵を見詰める。 今はそれを見たくなかった。 いつもなら振り向いて何か言うぐらい、するのに。 この自分が、だ。 けれど、今日は別だった。 「さんぞぉ」 「……向こうに行ってろ」 これ以上其処にいたら。 何を言うか、判らないから。 傷付くのが嫌なら、離れてろ。 少しだけ、睨んだ。 寺の僧に向けるよりは、ずっと穏やかに。 鋭い光は隠したままで。 「……さぁ…んぞ……」 捨てられた仔犬のような瞳。 悟空が法衣の裾を強く握る。 けれど、少ししておずおずと離して─── 傍にあった子供の気配は消えて。 降りしきる雨に閉ざされた空間で、一人。 雫の音以外、何も聞こえない。 ちら、と視線を移した先のもの。 パッケージにいれられた小さなカレンダー。 今日は、11月29日。 もう15年以上の昔、自分が師に拾われた日。 物好きな師である育て親が、誕生祝なんてものをしたいと。 その時前振りもなく聞いた、自分が拾われた日。 それは、『江流』が産まれた日で。 それ以来、師と唯一の友人とで誕生祝なんてものがあって。 柄でもないが、子供心に悪くないと思っていた。 ────けれど。 ────けれど。 それは師が死ぬ事を決定付けられた日。 あの日自分が拾われなければ。 あの方は今もきっと、のんびりと生きていたのだろう。 それなのに。 あの忌まわしい雨の日に。 弱かった自分が居たばかりに。 あの人は。 だから、悪くないと思った日々は遠い昔の話。 弱かった自分に気付かなかった。 何も出来ない自分を知らなかった。 失って初めて知った。 師が自分に取って、どれだけ大きな存在だったか。 どれだけ大切な存在だったのか。 そして、感じた。 失う痛みを、初めて。 ───“声”が聞こえる。 それは、声にならない“声”で。 半年近く前まで頭に響いていた、ソレで。 半年前近く前、重い腰を上げざるを得なかったもの。 その元凶は、今は手元に置いている。 けれど仕事で遠くへ出た時は、嫌というほど響いて。 そしてまた、今も。 「……うるせーよ…」 傷付きたくない癖に。 だからこの場から居なくなった癖に。 なんで呼ぶ? こんな自分を、何故? ──理解できない。 それでも、この声を無視できない自分がいるのは否めず。 呼び続ける声は、止まない。 土砂降りの中を、ただ歩いて行く。 いつもならこんな事はしない。 今日は気分が可笑しくなっているだけだ。 ───雨の所為で。 言い訳のように自分に言い聞かせる。 それと、煩いから。 放って置けば、いつまでも呼び続けると判っているから。 だから、黙らせに行くだけで。 他の理由なんて無い。 「なんで…呼ぶんだ………」 雨音に声は消される。 鮮やかな金色は、まるで褪せたようで。 頭に響く“声”が、段々大きくなっていく。 ただ一人だけ、自分だけに聞こえる“声”。 他の誰にも聞こえる事はない“声”。 この“声”にいつも、掻き乱される。 さして大きくは無い樹の下で。 仔犬のように蹲る姿があった。 捨てられた仔犬のように、自分の体を抱くようにして。 三蔵が来た事にも気付いていないのか。 悟空にしては珍しい事だ。 三蔵の存在に気付かないなど。 ───それでも、ゆっくりと近付けば。 俯いた視界に見えたのだろう。 そっと顔を上げる。 「……さぁん…ぞぉ……」 …泣き出す一歩手前の顔。 目の前でしゃがんでやった。 綺麗な金色に、透明な雫が光っていて。 「こんなとこまでガキ一人で来てんじゃねぇよ」 「だぁってぇ………」 ぐす、と涙が混じる。 「さんぞ…むこういけ、いったぁ……」 先刻告げたあの言葉。 一人になりたくて、弱い自分がいるのが嫌で。 この無邪気な子供を傷つけそうで。 だから言った。 けれど。 「───誰も『出てけ』なんて言ってねぇぞ」 雨に濡れた髪を撫でてやる。 おずおずと手を伸ばしてくる。 三蔵の法衣を握り締めて。 「むこー…いけって……」 「『出て行け』とは言っていない」 話が飛躍してるな、と一人ごちた。 離すまいと法衣を握る手は、小さくて。 寒さの所為なのか、それとも不安の所為か。 …震えていて。 傷付けまいと突き放した言葉。 それは逆に、泣かせる結果に行き着いて。 「オレ…ね、オレね…あんねぇ……」 「───………」 「さんぞ、ゆったときねぇ……っ…あんねぇ…っ……」 自分でも言いたい事が纏まっていない。 法衣を握る手を引き寄せた。 小さな身体を抱き締めてやれば。 予想以上に冷たかった事に驚いた。 「…中に入るぞ」 冷え切った身体を抱き上げる。 やけに小さい体だと思った。 「……さんぞぉ…」 ぎゅぅ、と強くしがみ付いている。 雨と。 生まれた日と。 そして、それに縛られている自分。 腕の中の子供は、法衣を握って離さなくて。 いつもなら高い体温も、雨に攫われていて。 「───悟空」 名前を呼んでやったら。 翳りに染まっていた瞳に、光が差した。 名を呼んでやっただけで。 「さんぞ…? …なに?」 見下ろせば、そこにあるのは。 何一つ穢れを知らない、純粋な子供の光。 何時の間にか、透明な雫はない。 それとも、降りしきる雨に流されていったのか。 ただ、真っ直ぐで。 思えば。 15年前の今日、師に拾われなければ。 きっとあの人は、まだ何処かで…… けれど。 それなら、この子供はどうなったのだろう。 三蔵にしか聞こえない“声”で。 あの闇の中で、呼び続けていたこの子供は。 今もまだ、あの闇の中にいたのだろうか。 「俺がいて……お前は……どう思う………」 悟空は少し、首を傾げる。 それでも、考える間もなく。 輝いたのは、太陽よりも眩しい笑顔で。 「さんぞいたから、オレ、さんぞといっしょ! うれしいよ!!」 ───降り注ぐのは、雨。 「そう…か……」 雨の中、小さな身体を抱き締めた。 悟空は一瞬きょとんとしていたが、嬉しそうに抱きついて。 降りしきる雨は、まだ止まない。 それでも。 いつか、雨は止む。 いつか、傷は塞がるから。 ……いつか。 この子供が、いつか。 俺が生まれたことに、笑顔を向けてくれるように。 FIN. 後書き |