朧残夢











これが最初で最後









恋をするのも


それを否定しない為、何処かでキミを傷付けるのも










もうキミ意外、見えないのだから


























桜が散っていく。
遠くから流れてきた風に乗って。


桜が咲く頃、あの子供はいつも遠くを見る。
呼べば応えるのだけれど、それでも。
いつも自分を見るはずの金瞳は、遠くを見る。

自分を行き過ぎて、その幻影を見ている。



そしてそれは、悟空を連れ出して七年経った今年も同じ。

部屋の中が静かだから、子供に視線を移せば。
窓辺でずっと、遠くの桜を見ていた。
その時酷く、この少年が幼く見える。

今でも年齢よりも幼く見えるのだけど。
それよりずっと……






あの闇から、連れ出したあの頃の姿に見えて。






















三蔵は筆を置いた。
わざと音を立てて、椅子から立ち上がる。

いつもはそれで「終わったの?」と駆け寄る子供。
なのにこんな時だけは、動かなくて。
桜が舞い散る、この春を告げる日は。



大地色の髪を思い切り引っ張った。
伸ばしっぱなしだから、その長髪は時折少女に間違えさせる事も、しばしばある事だった。

ただ、きちんと手入れをしているから。
毛先は乱雑に散らばってしまう事は無かった。




「痛いよ、三蔵!」




髪の根元を手で抑えて、悟空は抗議を上げる。
それでようやく、三蔵も髪を掴んだ手を離した。

批難の金瞳が、真っ直ぐに向けられる。



「……邪魔だな」



三蔵はぽつりと呟いた。

何の事かと、悟空は意味を汲み取れなくて。
批難の色は、瞳からすぐに消えた。
今度はきょとんとして見上げてくる。


「その髪だ」
「…別にオレ、なんともないけど」
「俺が邪魔だって言ってんだ」


そう言うと、悟空は慌てて自分の髪の結び目を掴んだ。



「切っちゃやだ!」
「どうせ結うのは俺だろうが」
「だからヤなの! 切っちゃやだ!!」



悟空の寝相の悪さの所為だろう。
長い髪は、朝いつも絡まってしまっている。
それを梳くのは三蔵だった。

同じく不器用な悟空に変わり、結っているのも。

その時間は、悟空の好きな時間だったのだ。
髪を切られたら、その時間も無くなってしまう。


それに。
何故かは、判らないけれど、切りたくない。
切りたくないのだ。

大事な思い出のような気がするから。




「鋏持ってくるから、其処にいろ」
「やだ! 絶対やだ、切らない!!」




切る事を決めてしまう三蔵に。
悟空は目一杯、大きな声で反論する。

まるで子供が、宝物だというガラクタを庇うように。



「髪なんざ、放っておいたらまた伸びる」
「今まで何も言わなかったじゃんか!!」





……それは、悟空が遠くを見ても、気にしなかったから。





歳月が経つ事に、悟空は遠くを見る時間が増える。
桜を見る度、消えていきそうな顔をする。
夢で呟く、“名前”を呼ぶ声が増える。

三蔵ではない、誰かを呼ぶ言葉が、増えていく。




それが気に入らないから。




それはきっと、失われた記憶の名。
あれからもうすぐ八年も経ったのに、それは強くなるばかり。

その間に、自分は。
こんな感情を持っているというのに。
この子供は、見えない誰かを探るばかりで。







────気に入らない。










「いいから、其処にいろ」






低い声音でそう言えば。
悟空が、脅え竦んだように硬くなった。































大仰な音を立てて、扉が閉まる。
悟空はびくりとして、その音で我に返った。




開けていた窓から、花弁が部屋に滑り込む。
綺麗な薄い色合いの、桜の花弁。
毎年それを見るのは好きだった。

なんだか、大事な事のように思えるから。




先刻の三蔵の言葉を思い出す。
長い大地色の髪を、「邪魔」だと言った。

確かに、毎日のように悟空の絡まった髪を梳いて。
その後、いつも綺麗に結ってくれるのは三蔵だ。
仕事にだって行かなきゃいけないのに。


その手間を思えば、切ってしまおうと思うのも無理は無い。





でも、悟空に取ってはその時間が、大事だから。








───それに。
切っちゃいけない気がする。



何故そう思うかなんて判らない。
ただ、切っちゃいけないんだと思うから。


此処で大人しく待っていたら。
もう何を言っても、多分聞いてくれない。

悟空は窓の桟に脚をかけた。
後で山ほど怒られるだろう事は予想がつく。
けれど、どうしても切りたくないんだから。


きっと、大事な事だと思うから。







とん、と軽い音がして、大地に脚をつく。
そのまま悟空は、逃げるように走り出した。

怒鳴られるのは判っている。
でも、どうしても嫌だったから。










































咲き誇る桜の下で。
まだ自分は、その人の腰ぐらいまでしか背丈が無くて。

周囲の人よりも、自分は小さかった。
自分が見上げないと、彼らが見下ろしてくれないと。
視線が交わる事は、ほとんど無かった。




『悟空の髪は綺麗ですよね』
『誰かさんは風呂も入らねぇから、フケ溜まってるけどな』
『この間ちゃんと入りましたよ』




白衣の青年と、黒衣の青年が話をして。

自分は、もう一人の金糸の青年に抱きついていて。
彼は、優しく頭を撫でてくれた。
大地色の長い髪が、尻尾のように揺れる。





少しだけ、彼が微笑んだのが判った。







































悟空が瞳を開けると。
金糸が陽光に煌いて、眩しかった。

少し目を細め、ぼんやりしていて。
舞い落ちる桜の花弁が、視界に入った。
それでようやく、ああ、寝ていたんだと判る。


髪を切られたくなくて、部屋を飛び出て。
そしてそのまま桜の木の下で。





「やっと起きやがったな、このバカ猿」






声が聞こえて。
金糸が揺らめいて、紫闇がこちらを見た。


まだ寝惚けているのだろうか。
視界にもやがかかっていて、はっきり見えない。

色彩だけは見えるのに、輪郭はぼやけて。



悟空は右手で、瞳を擦った。


陽光の所為だろうか。
少し、瞳の奥が痛い。

右手を離すと、ようやく朧が消えた。





なのに。
目の前にいる人は。



───彼である筈が、無いのに。











「何呆けてやがる」




棘を含んだ言葉に、我に帰る。
もう一度瞳を擦って、青年を見れば。
自分の良く知る、保護者の姿が其処にある。

先刻、一瞬だけ見えた長い金糸は。
もう既に、其処には無かった。



「……さんぞ……?」
「いつまで寝惚けてんだ、バカが」



ぱぁん、とハリセンが振り下ろされた。


悟空の腕を引いて、三蔵が立ち上がる。
慌てて悟空も、それに習って経てば。

何も言わないまま、歩き出してしまう。



「……さんぞぉ…」



引っ張られながら、三蔵を呼ぶ。
三蔵の紫闇が、肩越しに向けられた。



「……切らなきゃ、だめなの?」
「…面倒くせぇからな」





そう、面倒臭いから。
三蔵が口にする理由は、それだけ。

悟空に言うつもりは無いからだ。
抱く感情の名を、告げるつもりは無いから。



自分を通し、違う誰かを見る瞳が、嫌だから。

長い大地色の髪が、それを繋ぎ止めているのなら。




































長かった大地色の髪は。
跡形も無く、無くなってしまって。
悟空は少し、哀しそうな顔をしていたけれど。

三蔵は何も言わないで、また意識を仕事へ戻す。


一体いつから、こんなにもどす黒い感情が強くなったのか。
悟空の記憶に無い、見えない誰かを憎むほどに。

それを忘れさせられるなら、あの綺麗な髪さえも。
気に入っていた筈だった、朝の日常さえも。
いらない、と思うようになっていて。






「さんぞ……」






金瞳が、自分を見ているなら。




























傷つけるのは、これが最初で最後だと

キミが他の誰かを見ない為に










身勝手なエゴだと言われても

もう俺は、キミ意外は、見えないのだから























FIN.

後書き