innocent boys










たまには子供の頃に帰ってみよう

ただ無邪気に駆け回っていたあの頃に















色んなものを垣間見て、穢れを知った俺だけど










ほら、お前がいるからまだ大丈夫






























少しだけ、遠出をした。

少しといっても、それは大人の足の感覚で。
まだ十歳になるかならないかの子供にとっては。
かなり、遠くまで歩いた心境だろう。



何処までも広く、澄んだ蒼空。
歩を進めれば、それに合わせて草を踏む音がして。
一陣の風が、二人の間を擦り抜けて行く。

驕りからも昂ぶりからも、切り離された場所。
知らぬ間に薄汚れた所から、自分の足で離れて。










周囲は、二人以外の姿は無くて。






―――――繋いだ手が、暖かかった。





























緩やかな傾斜の丘に、倦廉は腰を下ろした。
それに習うように、傍らの悟空も座る。

何処までも蒼空が広がり。
淡い翠の大地が、遠くまで続いている。
澄んだ空気を吸い込めば、肺が満たされていった。




ここは、下界。




「すっげー広いね、ケン兄ちゃん」
「そりゃそうだ。世界は広いんだぜ」




無邪気に言った悟空の頭を、くしゃりと撫でる。
それが嬉しくて、悟空は倦廉に抱きついた。



「広くてね、でっかくて、あったかいのな」



ありのままを告げてくる悟空。

けれどきっと、それを言う事こそ難しいもので。
素直な悟空だからこそ、言えると判っていた。








倦廉が今朝、金蝉の部屋の前を通りかかったら。
子供が一人、部屋から締め出された。
それが誰かなんて、遠目にも判った。

扉を叩き、中にいる保護者を呼ぶ姿は幼くて。
その上、泣きそうな顔をしていたから。



勿論、放っておくなんて出来ずに。
自分が遊んでやるから、と。
保護者がやる事を全て片付けてしまうまで。





最初こそ、宮廷内で遊んでいた二人だが。
次第に、人目につくようになり。
その中に入り混じる、暗い感情を覗き見て。

悟空がそれに気付いていたかは、判らない。
ただ、我慢なら無かった……倦廉の方が。



だから保護者の断りも無く、下界に下りてしまった。

だって此処なら、誰もいないと思ったから。
誰より純粋な、この子供を貶す奴なんて。













くい、と緩い力で服袖を引かれる。



「ケン兄ちゃん、ケン兄ちゃん」
「うん? どーした?」



視線を向ければ、目の高さより少し低い場所。
そこに、大地色の髪があって。
少し下げると、無邪気な子供の顔がある。

悟空は金色の瞳を爛々と輝かせ。
座る倦廉の身体に、勢いよく乗った。



「うぉ、っと」
「へへ……ケン兄ちゃん」
「だからなんだ?」
「へへ〜…なんでもなーい」



呼んでみただけ、と。
そう言う悟空に、倦廉は笑う。



「そーかそーか……んじゃ、悟空」
「? なに、ケン兄ちゃん」



名を呼ばれて、悟空は素直に返事をする。
倦廉に乗ったままで、顔を上げて。

くしゃり、と倦廉は悟空の大地色の髪を撫ぜる。
仔犬のように、くすぐったそうに悟空は笑う。
こうしていると、本当に小動物のようだ。


倦廉は、また名前を呼んだ。




「悟空」
「うん?」
「…悟空」
「なーに?」
「悟空」
「ケン兄ちゃん?」




きょとん、とした顔をして。
悟空は、倦廉の顔を覗き込んだ。






「呼んでみただけだ」






悪戯っぽく、倦廉が言うと。
悟空は拗ねたように、頬を膨らませた。

お前の真似をしただけだ、と言うと。
益々、頬を膨らませてしまう。
その様相が、なんとも可愛いもので。



「ケン兄ちゃん、イジワル!」
「お前もやった事だぜ?」
「ぅ〜〜っ……イジワル!」



揶揄われた! と。
悟空は倦廉の髪を引っ張った。
なかなかどうして、これが痛いもので。

倦廉は、悟空の丸い頬に手をやって。
ぎゅーっとそれを引っ張った。



「いたいいたいいたいっ! ケン兄ちゃん!」
「俺だって痛ぇぞっ」



悟空が倦簾の髪から手を離して。
倦簾も、悟空の頬から手を離した。

悟空の丸い頬が、心なしか赤い。



「痛かったぁ……」
「そーか、痛かったか」
「痛かったよっ!」



当たり前じゃん、と言って。
悟空はむーっと倦簾を睨む。
もっとも、それに覇気なんて類は微塵もないが。

倦簾は悟空の髪をくしゃくしゃと掻き撫でて。



「良かったな、痛くて」
「良くないよ!」
「いいんだよ。生きてるって事だから」



唐突な倦簾の言葉に、悟空はきょとんとした。

赤くなった悟空の頬に、大きな手が添えられる。
子供特有の体温は、心地良いもので。


倦簾は、悟空を草の上に下ろした。
なくなった重みは、少し淋しかったけれど。

立ち上がった倦簾は、大きく伸びをして。
足元では、悟空が座ったまま見上げている。
一体、どうしたのだろう、と。



「―――っと、さてと…」



腰を曲げて、ぽん、と悟空の頭に手を置いた。




「鬼ごっこでもすっか?」




倦簾の言葉に、悟空が破顔する。
立ち上がって、足元の埃を払う。

どっちが鬼? と訊ねてくる悟空に。
ジャンケンで負けた方、と応えて。






広い空と大地の間で、大きな声が響き渡る。

























咎めるものなんていないものだから。
駆け回って転んで、土がついても。
怒鳴る保護者が、今は何処にもいないから。

倦簾の前を、悟空が全力疾走する。
コンパスの差はあれど、悟空は素早くて。




「うらぁっ!!」
「うわっ!」




捕獲の為に伸ばした倦簾の腕。
悟空はしゃがんで、それを避ける。
足は止めずに、そのまま駆け出した。

捕獲失敗となった倦簾も、足は止めずに。



「こっこまでおいで〜っ!」
「言ったな……じゃ、行ってやるよ!」
「ふぇっ? わ、あわわ!」



速度を上げた倦簾に、追い付かれないように。
悟空もまた、走る速度を上げた。


スタート時の数秒の差。
幾ら悟空が素早くても、反応が遅れれば。
それだけ、すぐに距離は縮まって。

倦簾が悟空の小さな肩を掴んで。
止まりきれずに、二人そろって地面に転がった。




視界が何度もぐるぐると回る。

翠が近いと思うと、蒼だけが見えて。
時々、翠と蒼の狭間が見える。




倦簾が地面に左手をついた。
右手は、悟空を抱き締めていて。
ザザ…と音を立てて、回転が止まる。

横向きに寝転がった状態から起き上がり。
地面に座って、倦簾は腕の中の悟空を覗き込んだ。
小さな肩が震えていた。



怖かったのかと思ったが。
それは、杞憂だったと次の瞬間判った。








――――笑っていた。








無邪気に、腕の中でクスクスと。


悟空の頬に、少し土がついていた。
倦簾の顔にも、いくつかあって。

でも、そんなものは気にならなくて。




「なに笑ってんだ? 悟空」




問いて来る倦簾の口元も、緩んでいて。
悟空は笑いも収まらないまま、見上げて来た。




「なんか、楽しーの」




理由は、ただそれだけだけど。
十分な理由だと、倦簾は思う。

地面に寝転がって、倦簾は笑い出す。
悟空が数瞬、どうしたのかと言う顔をしたけど。
すぐに、倦簾と同じように笑い出した。



何が可笑しくて、笑っている訳でもなく。
特に面白い事がある訳でもなく。

楽しいから。


笑い声が、止まなくて。
少し、呼吸が引き攣ってきたけど。
酸素が足りなくなってるって、判るけど。

なのに、笑い声は止まらない。





――――妙な気分だ。






笑いながら、倦簾はそう思わずにいられなかった。




自分が大人らしい大人だとは思わない。
天蓬や金蝉に、「ガキ」と罵られる事も多い。


けれど、それでも自分は大人だ。
穢れを知り、罪を被り、他人を欺き…
腕の中で笑う、子供とは違うのに。

今、この瞬間、少しだけ。



幼い頃、まだ何も知らずにいた頃に。
錯覚であっても、戻れるような気がする。



例えば、保身しか頭にない上層部の事とか。
異端とすれば縛りつけようとする輩とか。
見えないからと、痛みを素知らぬ振りをする大人とか。

あの頃は、今ほど判っていなくて。


何も変わらない天界に、不満はあったけど。
それでも、子供特有に明日が待ち遠しかった。




………何も知らないままで。
ただ、楽しい事を楽しいと思って。
時折、何か悪戯なんかしたりして。

思うまま、走り回れたあの頃に。
この子供といると、還ったような気がする。







笑い声が収まっても、時折発作的に笑みが浮かぶ。

倦簾は、腕の中の悟空を見た。
ぎゅ、と悟空が倦簾の服を握る。
まだ小さく、くすくすと笑いながら。



「あー……腹いてぇ……」
「へへ……そだね」
「すっげー笑ったわ、久々に」
「へへ、なんか楽しいね」
「そだな」



悟空が倦簾を見上げて。
倦簾が悟空を見下ろして。

見合わせた顔は、まだ笑ったままで。

悟空の頬についた土を、拭ってやると。
真似るように、悟空が倦簾についた土を拭った。



「なんか、汗出てきちゃった」
「走ったからなぁ」



吹き抜ける風が、気持ちいい。

くぁ…と悟空があくびを漏らす。




「寝ちまえ、悟空」




倦簾の言葉に、悟空が顔を上げる。
いいの? と言っているようで。
構わないから、と倦簾は頭を撫ぜてやる。

日が暮れる頃に、帰ればいい。
綺麗な夕焼けを見て、それから、ゆっくりと。





「ケン兄ちゃんも………」
「ん?」





一緒に寝よう、と促す子供に。
倦簾は笑って、目を閉じた。












腕の中の子供は、優しい陽光よりも心地良かった。





























まだ走れる

まだ笑える


まだお前と一緒にいられるから









色んなものを垣間見て、穢れを知った俺だけど










お前の傍にいられるなら、全てに笑えた子供の頃に



少し戻れる気がするよ





















FIN.



後書き