Artemis









全て忘れてしまうのと




霞のままに覚えているのと




ありのままに覚えているのと













………どれがいいのかは、よく判らない








































忘れてしまった、とは言わないんだと。
いつだったか、聞いた気がする。
誰から聞いたのかは、判らないけれど。

忘れてしまったのではなく、記憶の波に埋もれているだけ。
思い出せないだけで、その出来事は記憶から消える事はない。



時折、記憶の中に霞んで浮かび上がる情景。
それがあるから、忘れた訳ではなく。
思い出せないだけなのだと、思う。

忘れてしまえば、もう。
霞となって浮かび上がる事もなくなるのかも知れない。










………それがいいのかどうかは、正直、よく判らなかった。
































夜の帳が下りたのは、かなり前の時間だった。
月はもうすぐ、南天に昇る。

悟空は宿屋の、一人部屋の窓からじっと見ていた。
ゆっくりと昇って行く、仄かな輝きを。
ただ理由はなく、じっと。


裸足で冷たい板張りの床に立ち。
ガラス窓に触れた手は、ガラスから伝わる冷気に冷え。
部屋の中も、お世辞にも暖かいとは言えなかった。

それでも悟空は、月を見ていた。
冷たい空間の中で。




昼間の太陽のように、温かくはない光。
道を照らすには、少し頼りない光。

それでも、優しい光だったから、見ていたかった。








月は、優しい。
今夜はとくに、そんな気がした。

多分、月が金色だからだろう。
常なら青白い仄かな光なのに。
今日は、淡い金色を纏っている。


キレイだな、と悟空は思う。

何がキレイなのか問われると、返答に窮すると思うけど。
キレイなものはキレイだから。




(旅に出てから…)




悟空は少し、月から目線を落とし。
窓ガラスに、こつんと額を当てる。




(あんまり、空見てなかったかな……)





旅立つ前は、何度も見上げていたのに。

“あそこ”にいた時は、毎日見ていたのに――――……






















寺院にいた頃は、思いもしなかった。
こんな長旅に出る事になるなんて。

未来の事など、判ろう筈もないけれど。
予感も何もなかったから。
三蔵から言われた時、一瞬、意味が判らなかった。



三蔵が言っていた言葉を覚えている。
『お前らと旅なんざ、死んでもごめんだ』と。

悟空は、楽しそうだなとは思ったけれど。
三蔵がそう言うなら、きっとないんだろうと。
四人で旅に出るなんて、ないんだろうと思っていた。


なのに今、こうやって。
寺院を離れて、四人で旅をしている。




旅に出ていなかったら、今頃どうしているだろう。
“もしも”なんて考えるだけ無駄だと知っているけど。




環境はすっかり様変わりしたけれど。
自分達の在り方は変わっていないと思う。

悟浄と騒ぎ合ったり。
三蔵に怒鳴られたり。
八戒に宥められたり。


変わっていないと、悟空は思う。



斬った張ったの毎日に身を置いても。
それで自分達の何が変わるという訳でもない。

何があっても、喧嘩相手はいるし。
何があっても、見守ってくれる人がいるし。
何があっても、大好きな太陽は手が届く場所にある。



…………あの頃とは違う。
ただ見ているしか出来なかった頃とは、違う。









ちゃんと手が届くから。











光はすぐ其処にあるのに。
強い光が、すぐ目の前にあるのに。

どんなに手を伸ばしても、届かなくて。
全てを照らしてくれる筈の太陽の光も。
昏い昏い“あそこ”には届いてなくて。




光が、遠かった。
目の前にあるくせに。




手が届かないのに、目の前にある。
光が届かないのに、目の前にある。

届かないなら、いっそ何もない方がいい。
見えているのに、届かないなら。


暗闇しか届いて来ないなら。
光が見えない場所が良かったと。
何度も何度も、思っていた。

誰に閉じ込められたのか判らなかったけれど。
こんな場所に自分を置いた知らない誰かを、怨んだりもした。





けれど。

月明かりだけは。
何故か、嫌いになれなかった。





強い光に、いつしか嫌悪さえ覚え。
ゆっくりと過ぎ行く光を睨み付け。
早く行ってしまえ、もう昇ってくるなと思っても。

夜の帳が下りて。
真っ暗な世界を照らす淡い輝きに。
少しだけ、心に凪を誘われる。


強すぎる光に焦がれて。
優しい光に宥められる。

どうしてだろう、と時折疑問に思った。
太陽の金色の光も。
澄み渡る空の青い光も。


どれも、憧憬と焦燥を煽るだけなのに。




焦がれることも。
憧れることもなく。

ただじっと見つめていた。


闇夜を淡く照らし出す光だけは。
何故だか、心地良かった。

青白い光を放つ、空に浮かぶ灯り。
それも時間が経てば消えてしまうものだけど。
どうしてか、月だけは嫌いになれなかった。




多分。

時折浮かび上がっては消えた。
霞んだ記憶に埋もれた翳。
優しい光を帯びた、色。


それが時折、月に映し出された気がしたから。




……あの頃は、よく判らなかった。
何も判らないのに、何も覚えていないのに。
ふとした瞬間に浮かび上がる翳が、なんなのか。

今なら少しだけ、判る気がする。
あれは、埋もれた記憶のひとかけらなんだと。



今でも時折、それは浮かび上がってくる。



“あそこ”にいた頃ほど頻繁ではない。
多分、太陽がすぐ傍にあるから。

月と太陽は、同じ空に在る事は出来ない。
だから太陽の傍にいる時は。
あの優しい光は、傍にない。





何よりも眩しくて、強い光と。
何よりも淡くて、優しい光。

記憶の中に埋もれた光がなんなのかは、まだ判らない。
思い出せないから……忘れたからじゃなく。
それでも優しく包み込んでくれる光は、偽りじゃない。


この手を掴んでくれた光が、偽りじゃないように。
ずっと見守ってくれた光も、偽りなどではない。





“あそこ”にいた頃から、ずっと。

夜闇を照らして、見守っていてくれたから。










何よりも輝く太陽に出逢って。
その傍にいることを赦されて。

太陽と月は、同じ空に在る事は出来ないけれど。
ずっと傍にいてくれると思っているから。
“あそこ”にいた頃から、ずっと。


優しい光は、ずっと傍にいてくれている。
あの太陽が、ずっと傍にいてくれるように。

記憶に埋もれた月の光も、きっと。




「……勝手かな」




呟いた言葉は、静かな空間に反響して、 消える。
額をガラス窓に当てたまま、じっとして。
前髪が透明度の高い金瞳を覆い隠す。

淡い金色の光が、まだ小さな身体を照らした出した。
今しばらくはまだ、庇護の下に置かれる子供の身体を。





多分、大事なことだったんだと思うけれど。
思い出せないままで、月日だけが流れて。

それなのに、きっと守ってくれるなんて。
自分一人で勝手に決めて。
でも、そんな気がするから。



“あそこ”にいた頃から、ずっと守っていてくれた。

もしかしたら、そのずっと前から。
記憶の波に、埋もれてしまう前から、ずっと。


太陽に焦がれ、強く輝く光を睨んでいた自分を。
優しく包んでくれた、淡い光。

今は、焦がれた太陽も手の届く場所にあって。
温もりをくれる人も、傍にいて。
笑いあえる人も、ちゃんと隣にいてくれる。



それでも。
傍にいてくれる気がするから。







ちゃんと思い出せるまで。
どうか消えないで欲しい。

空に浮かぶ金色の光は、じきに消えていくけれど。
“あそこ”にいた頃、ずっと見守っていてくれたように。
其処にいてくれていると、判っているから。






今は、記憶の波に埋もれてしまっているけれど。
ちゃんと思い出したら、呼ぶから。



だからそれまで。



どうか、消えないで。












…………そして、





守ってくれて……ありがとう………


































思い出すから




いつになるか判らないけど、思い出すから




翳じゃない、光のことをちゃんと思い出すから、それまで
















どうかもう少し――――…………

















FIN.



後書き