翼の折れたベヌウ
















じっとしていれば近くにあるのに

手を伸ばしていけば逃げるように擦り抜けていく



容易く捕まえる事も出来る筈なのに

手を伸ばしていけば何故か僅かな距離を残し届かないまま













あとどれくらい待てば、その翼を折っていい?











































「三蔵、三蔵」




聞こえた声に、三蔵は足を止めた。


面倒なのだが、これから本堂へ行かなければならない。
ほとんど中身なんてない説法をする為に。
意味の無い話を延々と繰り返す為に。

だが、歩は止められてしまった。
4年程前に拾った、小さな養い子によって。




「三蔵、ねぇ、三蔵」




広い寺院の庭から、高床式の廊下へ。
そのまま外へと繋がっている場所。

悟空は履を脱ぎ散らかして、床に上がる。
その小さな手に何かを包み込んで。
無邪気に見上げながら歩み寄ってくる。


本当に、無邪気な子供。


見て、と言って、包み込んでいた手を開き。
其処にあったのは、小さな雛鳥だった。




「ねぇ、三蔵」




ぐいぐいと法衣を引っ張る悟空。
何を言わんとし
ているのかは、すぐ判った。




「こいつ、怪我してるみたいなんだ」




言われなくても判った。
小さな羽根が、うっすらと紅に汚れている。

巣から落ちたか。
外敵に狙われたか。
いずれにしても。




「治るまで、オレが面倒見てもいい?」




これで一体何度目だろうと思う。
数えるだけ無駄だと判っている。

そして却下するのも、無駄なのだと知っている。


二つ返事で許してやるのはいつもの事。
それに、悟空がはしゃぐように喜ぶのも。

都度、薄汚い目でそれを見られている事も。




















怪我をしていたから放って置けないと。
そう言って、一番最初に仔猫を拾ってきた日。

その日は、雨が降っていた。


門限を過ぎ、雨が激しさを増し。
濡れ鼠になってようやく帰ってきた子供。

その小さな手に、震えるか細い魂を抱いて。



寺院なんかで飼える訳がないと何度も言った。
「なら、怪我が治るまで」と。

もう、雨で濡れてしまった所為なのか。
涙でぐしゃぐしゃになってしまった所為なのか。
判らないほど顔を歪めて言っていたのを覚えている。


門限を遅く過ぎるまで帰ってこなかったのは。
仔猫を連れて帰ろうか、迷っていたから。

連れて帰っても、きっと飼えない。
でも、こんな大雨の中、放って置けない。
脚に怪我をしているから、雨が止んでも餌を取りにいけない。




見つけてしまったから。
気付いてしまったから。

怪我が治るまでていいから。
ちゃんと自分が面倒見るから。
誰にも迷惑かけないようにするから。


身体を拭くことも忘れて。
濡れっ放しのまま、お願い、と言ってきた子供。




きっと誰よりも純粋で。
きっと誰よりも優しい。






それでも、それを認めぬ露と知らぬ輩も多くいて。


















面倒な執務を全て終えて。
自室に戻れたのは、既に夜深くで。
あの子供ももう寝ているだろうと思っていた。

だが。




「三蔵、おかえんなさい!」




予想に反して、悟空はまだ起きていた。
座っていたベッドから飛び降りて、三蔵に抱きつく。

くしゃ、と大地色の髪を撫ぜてやる。
それに悟空は嬉しそうに笑って。




「なぁ、あれでいいかな?」




そう言って悟空が指差したものは。
昼間拾ってきた雛鳥で。
柔らかなタオルに包み込まれている。

寝床を作ってあげたんだと、嬉しそうに。
笑って言う悟空の頭を、もう一度撫でてやる。


水を与えて。
ミミズも取ってきて。
ちゃんと手当てをして。

報告する悟空は本当に誇らしげに見えて。
誉めて、と言っているようにも取れる。




「あとね、あとね………さんぞ?」




三蔵は悟空の傍から離れて。
タオルに包まれている雛鳥に歩み寄る。

既に眠りかかっているらしい。
丸っこかった瞳は閉じられていた。




「三蔵、その子もう寝ちゃったよ。どうしたの?」




じっと雛鳥を見下ろす三蔵に歩み寄って。
悟空はきょとんとして三蔵を見上げる。

雛鳥がどうかしたのだろうかと。
見上げてくる悟空の瞳が、じっと訊ねてくる。


雛鳥から目線を外して。
見上げてくる金瞳へと視線を映した。

真っ直ぐに見つめられたところで。
この子供は、物怖じ一つしないのだ。
逆に、真っ直ぐに見つめ返してくる。




「……三蔵? 疲れたのか?」




問いと同時にかけられたものは、労わりの言葉。
裏などない、ただ純粋に心配して。




「ねぇ、もう寝る?」




そんな言葉は、他の誰からも聞いたことが無い。

口先だけの連中なんかより、ずっと。
その言葉は、聞いていて心地良かった。
そんな自分を自覚する前から、ずっと。




「オレももう眠いから、もう寝る?」




自分も眠りたいといいながら。
三蔵の意思を先に確認しようとする。

他の誰も、そんな言葉は口にしない、思いもしない。




「寝るの?」




ベッドへと移る三蔵を見届けて。
悟空は何を思ったか、雛鳥を抱いて。
部屋を出て行こうとする。




「今日、オレあっちで寝るね」




“あっちで”―――以前、悟空へと宛がった部屋で。


普段そこは、滅多に使われることは無い。
未だに悟空は、独りを嫌がるのだ。
就寝時は決まり事のように三蔵の自室にいる。

一人遊びをする時程度しか、その部屋にはいないのに。
何故、今晩に限ってそう言い出すのか。




「こいついたら、三蔵ちゃんと休めないだろ?」




抱かかえた雛鳥を見せて。
だから、今日は一緒にあっちで寝る、と。

構わん、と珍しい台詞を言えば。
悟空はやはり、不思議そうな顔で見返してきて。




「なんで?」




それに返答はしなかった。
ただの気紛れだったから。




「でも、やっぱあっちで寝る。三蔵疲れてるみたいだし」




言って悟空は、部屋のドアを開けて。
おやすみなさい、と言ってからドア向こうに姿を消した。

常なら、そんな事は構わないくせに。
譲歩してやると、遠慮なんて見せる。
妙なところで、いつも擦れ違う。












一人、自室のベッドの上で。
ク、と喉の奥から掠れた笑いが漏れて来る。




悟空が妙なところで遠慮を示すなら。
自分だって妙なところで譲歩を見せている。

一人で寝たくないと潜り込んで来る時。
怖い夢を見たと言って泣きそうな顔を見せる時。
いい加減に慣れろと言っているのに。


雛鳥がいたら、三蔵が休めないからと。
悟空から一人で寝ると言い出した拍子に――――



傍にいたいんだと。
一つ覚えのように、悟空はいつも言う。

いつも一緒にいたいんだと。








なら何故、今此処にいない?








悟空はいつも、傍にいたいと望み。
そしてその望むまま、傍らにいて。
何があろうと、それは変わらないままで。


だからだろうか。

ふとした途端に、離れることに。
逆に、己の方が“慣れ”を失くしていっているのは。



誰かを欲するなどと、思っても見なかった。


真っ直ぐに見つめるあの瞳を。
思うままを告げる声を。
穢れを知らない、透明な魂を。

ただの一かけらも残さず、手に入れて。
他の誰にも知られぬままにしたいなど。






あんな、雛鳥にまで黒い感情を覚えるなど、思わなかった。









































次の日も。
次の日も。

悟空は雛鳥の世話に明け暮れて。
いつもなら、外で遊びまわるような時間も。
雛鳥の傍について、離れようとしなかった。



ミミズより、草とか木の皮の方がいいのかな。
水って水道水だけでいいのかな。
あとどれくらいで治るかな。

あと何日で飛べるようになるのかな。
何処で放してやったらいいのかな。


仕事から戻ってきて。
「おかえり」という言葉のあとに続く台詞。


森がいいかな。
原っぱかな。
広いところが良いよな。



三蔵が返事をする間もなく。
悟空はあれこれと捲くし立てる。




野生の鳥は、人が思う以上に強いから。
じきに傷は治るだろうと言えば。
悟空は、殊更嬉しそうな顔をした。

多分、飛べるほど成長してはいないだろう。
それには、残念そうな顔をしていたけれど。


傷が治ったら自然に返してやれと。
そう言うと、ほんの少し寂しそうな顔をして。
うん、と頷いた。

情が移ってしまっている。
それはやはり、都度ある事だった。

拾って、面倒を見て、ずっと一緒にいて。
大なり小なり、情は移ってしまうだろうけれど。
狭い場所に、野生の鳥が留まる事は出来ない。









……落ち着きのない、この子供のように。























雛鳥の傷が治りきると。
雛鳥はそれを悟空に知らせるように、しきりに翼を動かした。

それを見た悟空は、嬉しそうに笑って。
その日、遅く部屋に戻ってきた三蔵に報告した。
傷が治ったんだ、と。


でも、もう少し様子を見たい、と言う。
自然に帰すのは、明後日がいい、と。
もう一日だけと顔の前に両手をあわせる。

好きにすればいいと素っ気無く返事をした。
悟空は諸手を上げて喜んだ。



本当に、無邪気に笑う。
己自身の感情を惜しげもなく表に見せて。

けれど。





――――そう笑う為の切っ掛けを握っているのは、三蔵で。


















翌日、昼間。
早くに仕事を終えて部屋に戻る途中。

耳にしたのは、聞き飽きた罵詈の言葉。








あの妖怪の子供……

この間、泥まみれの猫を連れ込んだばかりだろう。

今度は野鳥だと……傷を負っていたらしいが。

どうだか、下賎の輩の言う事だ。



食ってしまうつもりではないか?

子供の姿で惑わそうとしているが、あれも妖怪だ。



三蔵様に寵愛されているからと図に乗りおって…

いい加減に己の立場を弁えれば、少しは可愛げがあるものを。









他に言う事はないのか。
三蔵はそう考える。

幼い時、まだ自分が“江流”であった頃。
聞いた言葉と、大した違いはない。



鳥の怪我が嘘?

あの子供が、嘘など吐けるか。
確認も出来ない奴らが、何を勝手に言っているのか。


あの雛鳥を食う?

大食漢であるが、そう無神経ではない。
情の移った動物まで、遠慮なく食う神経は持っていない。


図に乗っている?

それはこの寺の連中の方だろう。
“三蔵法師”のいる寺であるからと、それだけで。
何か特別なものだと思っているのが大間違いだ。




何処に行っても、こんな連中はいる。
話を聞くだけ、時間の無駄だと。











まぁ今しばらくの辛抱だ………直に出て行くに決まっている。



























部屋に戻って見つけたのは。
巣代わりのタオルの中で、丸くなっている雛鳥。

いつも隣に置かれていた水皿がない。
悟空が水を汲む為に持っていったのだろう。



自身の世話人以外の姿を、雛鳥の瞳が捉える。
その瞳に、自分はどう映っているのだろうか。

見返せば、雛鳥は小さく戦慄いた。
そして巣篭もりのように、タオルの波に頭を埋める。
隠せない尾が、やはりまだ震えていて。


近付いて、手を伸ばしてみる。
また雛鳥が震え、飛べない翼をしきりに動かす。

それでも、あっさりと捕らえることが出来た。






あの子供はいつも、すり抜けていくのに。






「三蔵、どしたの?」




聞こえた声に、振り向けば。
水皿を持った悟空が、こちらを見ていて。

無言で見返してやっても。
悟空は首を傾げ、不思議そうに見つめてくる。
この雛鳥のように戦慄くことはない。




「あ、鳥!」




三蔵の手に収まっている雛鳥を見つけ。
駆け寄ってくる悟空に、三蔵は手を突き出した。

悟空が戻ってきた事に雛鳥も気付き。
三蔵の手から逃れるように、悟空に向かって鳴く。
差し出された悟空の手のひらに、ためらいなく移った。




「明日でお別れんなっちゃうな」




元気でな、と悟空が呟くのが聞こえた。


























そして。
確かに、お別れだった。




























「…………なんで?」




床に伏した雛鳥。
その傍に両手を付いて、見下ろして。
悟空が呟いた言葉に、感情はない。

その近くには、散らばった小さな羽根。
翼は付け根から折れ、身体は僅かに潰れていた。




「………ど…して……」




目覚めて最初に見つけた光景に愕然として。
悟空は錯乱気味の顔で、自室にいた三蔵を呼んで。

幻であってほしいと思っていたのだろう。
見間違いならいいと思ったのだろう。
扉を開け、やはりそこにあった光景に、悟空は呆然とした。



タオルを乗せていた棚から落ちたんだろう、と。
そう言って、返されたのが先の言葉。

床に小さな雫が落ちる。
それは次から次へと零れ続けた。




「さんぞぉ………」




くしゃくしゃの顔で、振り向いた悟空。
何も言わずにいれば、縋るように抱きついてきた。

肩を抱いて、頭を撫でてやる。
小さな体が震え、嗚咽が漏れる。
なんで、どうして、と繰り返す。






あと一日ってワガママ言ったから?
オレが拾ってきちゃいけなかった?






自分を責める言葉に、三蔵は何も言わない。
言う必要などなかったからだ。




―――――これで良かったから。




落ちた程度で、鳥は潰れたりしない。
雛鳥だからと、羽根が折れたりはしない。

それでも。
羽ばたこうとするのを、見たくなかったから。
その姿を一瞬でも追う子供を、見たくなかったから。


あの雛鳥が羽ばたいて行くように。
この子供も、いつか羽ばたくだろう。
庇護の下から、躊躇いもせずに。

それを赦さないなどと。
いつから、考え始めたのだろうか。







今はまだ、そんな事は杞憂に終わるけれど。
それでもいつかは、飛び立って行くのだというのなら。



















そんな翼など、必要ない。
































待っていれば近付いてくる

手を差し伸べれば、それについてくる



近付けば離れていく

掴もうとすれば、呆気なく擦り抜ける




巣立つ為にその翼が必要なら、いつか折ってしまおう

今はまだその時ではないから、翼はそのままで


その瞬間に折った方が、此処から離れる事は出来ないだろう?












――――さぁ、あとどれくらい待てばその翼を折っていい?

















FIN.


後書き