チョコレート奮闘記


バレンタインと言うものは、寺院と言う環境に置いて、先ず無縁のものである。

遥か西国の、そのまた遥か向こうで発祥したこの習慣は、海を隔てた東国で不思議な変革を起こし、天竺に再度伝わって来た。
それは女性が男性へ、愛の意味を込めて甘いもの―――主にチョコレート───を贈ると言うものらしい。
慶雲院は基本的に男ばかりだし、チョコレート等と言う世俗の菓子が出入りする事もないので、本当に、全く、無縁な行事であった。

だから悟空は、悟浄と八戒と言う外部の友人を持つまで、バレンタインデイなるものを知らなかった。
食べ物に関する事ならば、とにかく先ず飛び付くであろう悟空だが、環境が環境だけに無理もない。
三蔵はバレンタインを知らない訳ではなかったが、一々反応するような性格ではないし、そもそも洋菓子系の甘味は滅多に食べない。
益々、悟空が“バレンタイン”なるものに接する機会は少なかった。


しかし、悟浄と八戒のお陰でバレンタインなるものを知った悟空は、その年───は既に2月14日を過ぎていたので、翌年こそは、と心に決めていた。

……が、元より余り記憶力の良くない悟空の事。
外界に出てからほんの数年と言う、普通の人間の感覚で言えば、まだ5歳児程度にしか世界と言うものを堪能していない悟空にとって、日々過ぎゆく時間と言うものは、いつも未知のもので溢れている。
記憶の容量はあっと言う間に一杯になってしまい、1年前の話など、いつまでも覚えていられる訳もなく、気付かぬうちに頭の隅へ追いやられてしまっていた。


それを寸での所で思い出させたのは、悟空が言った事を、本人以上に覚えている、八戒の一言。



「そう言えば、悟空。去年、来年は絶対にバレンタインするーって言ってましたけど、どうします?」



八戒が作ってくれたクッキーを食べていた悟空は、その言葉に、ぴたりと動きを止めた。


───ばれんたいん。
ばれんたいんってなんだっけ。
去年?来年?つまりは、今年?

ぐるぐると考える悟空の思考が、急速に巻き戻しを試みる。
そんな事言ったっけ、そもそもなんの話しだっけ、と、クッキーを中途半端に噛んだまま悟空は停止する。
そのまま、凍り付いたかのように動かなくなった悟空を、隣の椅子に座っていた悟浄が「オイ、」と突つくが、それ反応はなく。

たっぷり一分を固まってから、悟空の脳裏に一年前の出来事が甦った。



「そーだった!八戒、バレンタインってまだ間に合う!?」
「ええ、大丈夫ですよ」



テーブルを乗り出して叫んだ悟空に、八戒はくすくすと笑いながら頷いた。
カレンダーを見れば、日付は2月13日────今から準備をすれば、ぎりぎりでも間に合うだろう。

三蔵は現在、仕事で遠方に出ている。
と言っても、明日の午後には帰る予定なので、それまで時間をたっぷり使っても、何か用意する事は出来る筈だ。
……例え悟空が、“超絶”の枕詞がつく不器用であるとしても。


悟空は咥えていたクッキーを急いで口の中に詰め込み、ごくりと飲み込んだ。
えふ、と軽く息を吐いて、キッチンに立っていた八戒に駆け寄る。



「八戒、バレンタインって何かあげるんだよな。何あげれば良いの?」



早く教えて、とばかりに詰め寄る悟空に、そうですねえ、と八戒は思案する。


子供が誰に贈り物をしたいと思っているのか、それは考えなくても明白であった。
しかし、その相手を思えばこそ、贈り物を何にするか、悩まなければならない。
饅頭や杏仁豆腐と言った種類であれば、まだ受け取って貰えそうだが、バレンタインと言えばやはりチョコレート。
悟空の初めてのバレンタインであるだけに、ベタと言われても、やはり基本は押さえておきたい、と八戒は思っていた。

────となれば、遣うのであれば、ダークチョコレートが無難であろうか。
甘さを抑えて、小粒なものを作って渡せば、三蔵が消費するのもそれ程苦ではあるまい。

何より、チョコレートなら手作りらしく作るのも簡単だ。



「やっぱり、チョコレートを贈りましょう。定番ですしね」
「そうなの?」
「はい。丁度、うちの冷蔵庫にも買い溜めしたものがありますし、それを使いましょう」



なんでそんなものがうちの冷蔵庫にあるんだ、とは悟浄は言わない。
この家の住人が消費する予定のないものは、総じて悟空の胃袋に収まる仕様になっている。
ついでに、悟空が殆ど食べないであろうダークチョコやビターチョコまで買っている辺り、本当に用意周到な奴だと感心する。


八戒が冷蔵庫からチョコレートを取り出すと、悟空がきらきらと目を輝かせる。
銀紙に黒い包装紙で、ぱっと見て判るようにダークチョコである事を示しているのだが、悟空にはそれが“ダーク”であると判らないようだ。
チョコレートと言うものは、悟空にとって、どれも甘くて美味しいものだ。
いつも悟空が食べていたチョコレートは、八戒が趣向を凝らし、悟空好みの味に調整して作った代物だったから、パッケージの事など知る訳もない。

ダークチョコレートとは言っても、香る匂いはやはり甘い。
動物並の嗅覚を持った悟空は、しっかりその匂いを感じ取ったようで、じゅる、と涎を垂らしている。
八戒はそんな悟空に苦笑して、キッチンの調理台にチョコレートとボウル、まな板と包丁を並べた。



「悟空、これはプレゼント用ですよ?」
「うん、判ってる。判ってる」



八戒の言葉に、悟空はこくこくと頷いて言った。



「そんで、えっと…何すればいいの?」
「先ずは、チョコレートを割りましょうか」
「割っちゃうの?」
「はい。このままだと、溶けにくいですからね」



綺麗な板チョコを、悟空は手に取って、両手でぱきん、ぱきん、と割って行く。
大振りに割れたチョコレートが、まな板の上で山になる。


「では、今度はチョコレートを刻みましょう。固いですから、こうやって上から力を入れて…」



包丁を手に取り、八戒は悟空に手本を見せる。
悟空は真剣な眼差しでそれを見詰めていた。


ふあ、と悟浄は欠伸を漏らす。
大丈夫かねぇ、と、戦闘方面以外ではてんで不器用な質の子供の後姿を眺めながら思う。
頼むから、うちの台所を破壊する事だけはしてくれるな、と。

チョコレートを刻む音を聞きながら、八戒もいる事だし平気か、と悟浄は思い直す。
素っ気なく見えて、実は過保護な子供の保護者から文句を言われない為にも、何より、子供の安全の為に、八戒が可惜に危険な事をさせる事はあるまい。
湯煎の時にボウルを引っ繰り返したりするなよ、と思いつつ、悟浄は取り出した煙草に火を点けた。




あれ?とか、なんで?と言う声を聞きながら、悟浄は煙を燻らせる。
思っていたよりはずっと平和な時間だな、と思いながら。

だが、この時の悟浄はまだ知らなかった。
明日と言う日の為に、己に降りかかってくる、人生最大の試練を。






2013/02/14

三蔵の為に頑張る悟空と、別の意味で頑張る事になる悟浄。

書いていたのにアップするのを忘れていた…