◇ 花吹雪 ◇


 
 痛みですらない、不可解な苦しさ。
 それだけが、今も魂に灼きついている。



『‥‥お前に何の得がある? 俺のどこに、そうまでする価値があるんだ?』
『何を言っても、お前は信じまい。‥‥ならば、代償があった方が心安かろう。‥‥形式かたちだけでもな』
『ふん‥‥減るもんじゃねえからな。‥‥身体くらい、いくらでもくれてやるさ』
『ずい分と気安く言ってくれる‥‥』
『まあ、魂をよこせとでも言われたら真っ平御免だが――』
『‥‥そんなもの、最初からあてにはしていない』
『‥‥‥‥‥‥』
『ソード?‥‥』
『‥‥そんなもの、か』



 そんなことを話したのは、一体いつのことだっただろうか。
 ソードにはもう、思い出せない。
 シバ・ガーランド。長身痩躯の闇色の男。
 強大な魔力が消え去った後は、黒雲も雷鳴も共に失せた。
 瓦礫と化した境内の周囲は、いつしか血色の薄暮に染め上げられている。
 しばし虚空を見つめていたソードは、背を向けたまま低く言った。
「イオス。みずの。‥‥七海を病院に連れていけ」
「ええ。‥‥でも、ソードさんは‥‥」
「そうですよ。あなたも病院に行かないと――」
「この程度の傷、食って寝りゃあ直る。‥‥‥チッ、シバのヤロー、手加減しやがって」
 そう、にべもなく言い放つソードの表情は、見えない。
 少しの間、イオスは黙ってソードの傷だらけの背を見つめていた。
 シバに刻まれた死の刻印は、焼印にも似た鮮明さでありながら、同時に肌に溶け込むように、徐々に薄れていきつつある。
 恐らくそれは皮膚を突き抜け、直接魂に染みとおるのだ。
 そうして、六十六日目の満月の夜には、例えソードが悪魔に戻り、双魔の身体から自由になろうと、確実に命を奪うのだろう。
 言いたいことはいくらでもあったはずだ。
 問いつめたいことも、恐らくは。
 だが――
「‥‥そうですか‥‥‥解りました」
 イオスはそれ以上何も言わず、気を失ったままの七海をそっと抱き上げた。
「イオスさん‥‥」
「いえ‥‥みずのさん、行きましょう」
 もの言いたげなみずのを制して、イオスは背を向けて歩き出した。
 困惑したような視線が、何度か二人の間を往復し――やがて、後ろ髪を引かれるように振り返りながらも、 みずのは小走りにイオスの後を追った。
 ソードは振り向かなかった。
 瓦礫の向こうの中空を、あるいはそれを突き抜けたどこかを、見るともなくぼんやりと見やったまま。
 二人分の足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
 吹き抜ける風に、ザア、と塵芥が舞い上がった。
 人の気配が失せた境内で、ソードの影だけが長く伸びる。
 そして、気配も足音も無いままに、不意にその影を踏む者があった。
 それを知っていたかのように。
 あるいは待っていたように。
 背を向けたまま、ソードは低く呼びかけた。
「‥‥帰ったんじゃなかったのか? ‥‥シバ」
 背後で、かすかに笑ったような気配があった。



 吹き抜ける風は血の匂い。
 それはシバのものではない。
 己が傷ついているからでも、ない。
 魂に染みついた血の匂い。
 強大な力と魔力を誇る、上級悪魔である筈のシバ。
 彼はいつも、どこか清冽な匂いがした‥‥



 少しの沈黙の後、先に口を開いたのはシバの方だった。
「心外だな」
「‥‥何がだ」
「手加減など、したつもりは無かったが」
 懐かしい、低く、甘い声。
「‥‥そんなこと、聞いちゃいねーよ」
 振り捨てるように言ったそばから、ソードはゴボリと咳込んだ。肺腑の奥から息詰まる何かが、嫌な音を立ててこみ上げる。無造作に吐き捨て、口元を拭うと、手の甲が生々しい朱に染まった。
 シバの声が、今度は明瞭な笑みを含んだ。
「この辺りは、位相が不安定でな」
「位相?」
「歪みだ」
 情け容赦なく拳を交えたのは、つい先刻。
 あの時とは打って変わって、優しい響きを含む声音が、ゆっくりと背に近づいてくる。
「お前達が墜ちたせいで、向こうとの接続が、少々不安定になっているからな。‥‥多少の回り道が必要になる」
 ソードは黙っていた。足下の瓦礫の山に、虚ろに視線を落としながら。
 シバが近付くにつれ強まる、せなに感じる颶風の如き魔力。だがそれは、シバ本来の力を思えば、いつになく押さえ込まれたものである。暗黒魔闘術を使う際の、圧縮したそれとはまた違う。
 さっきソードと相対した時は、魔力を抑えてなどいなかった。如何に悪魔祓い師エクソシストとは云え、所詮は人に過ぎぬみずのなど、それだけで震えが来るほどだったろう。
 人間の身体に縛られるソードとて、それと大して変わりはない。今の己――双魔の身体は、魂の持つ自身の魔力にすら耐えられないのだ。
 抑えられた魔力のその訳を、ソードはいまいましくかぶりを振り、頭の隅から追い払った。
「――ソード?」
 不意に耳元で囁かれ、ビク、と身体が反応する。
 ‥‥耳朶に触れる、ほんのかすかな、そして満足気な、含み笑い。
 驚きではない。
 恐怖でもない。
 紛れもない、それが魂に刻み込まれた、生々しい快感であることを、シバはちゃんと知っているのだ。
「‥‥変わらんな」
 首筋に、ゆっくりと唇が押し当てられる。
 双魔の身体の知るはずのない、しかし覚えのある心地良さ。
「‥‥シバ‥‥っ‥」
 融け崩れそうな意識を圧して、掠れた声で呼びかけても、背を抱くシバは応えない。
 かすかな吐息と共に、じりじりと舌先が傷口を辿る。
 滲みとおる苦痛と同時に沸き起こる、ごまかしようのない快楽に、血の伝う咽喉がピク、と反り――


『‥‥そんなもの、最初からあてにはしていない』


 ‥‥ゆっくりと、ソードの眸が見開かれた。
「‥‥で?」
 低く、無感情にソードは言った。
「‥‥回り道ってのは、つまりこういう用なのか?」
 シバは微笑い、薄い胸を抱いていた手を引いた。
「聞きたいのはそんなことか?」
「‥‥いや」
 吐息ひとつついてかぶりを振り、甘すぎる痛みを振り払う。
 身じろぎする度、骨が軋み、肉がよじれるような痛みが走る。だが――知ったことではない。
 目に流れ込む血をぐいと拭い、半分利かないような身体をおして、ソードは緩慢に向き直った。ゆっくりと、ふらつきながらも歩み寄り、眼前の男を真っ直ぐに見やる。
 今となっては、優に頭ひとつ違うその長身。
 固く編まれた、鋼線のようにつややかな髮。
 先刻浮かべた微かな笑みは、もはやその形を保っているのみ。
「‥‥ソード」
 相変わらず、低いその声の感情は、読めない。
 見透かすような、凍てついた眸の色も、また。
「‥‥今さらだぜ、全くよ」
 吐き捨てるように、ソードは呟いた。
 かすかに、シバの眸が揺れる。
 ソードはそのまま、シバの傍らを通り過ぎた。その視線を背に感じながら、水を吐き出す龍の口へ向かう。
 萱葺きの屋根が架けられた手水舎は、先程の戦いの激しさを思えば、奇跡的に無傷のまま残っていた。
 小さな白木の柄杓を取るももどかしく、満々と水を湛えた岩造りの水盤に直接手を入れる。
 頭を突っ込むようにして無数の傷を洗うと、清冽な流れが見る間に血の色で濁っていった。
 襤褸と化したタンクトップをむしり取って、濡れた顔と、今なお滲み出る血を拭い、ソードはゆっくりと振り返る。
 シバは何も言わない。ただ、視線だけでソードを追う。
 ふらつく身体を支えるようにして、ソードは後ろ手に触れた水盤のふちに手をついた。そのまま、滑らかな岩に力なく腰を預ける。無造作にかぶりを振ると、濡れた前髪から血混じりの水滴が飛び散った。
 そうやって、恐らくは失血からくる眩暈を無理矢理追い払い――
「‥‥――来いよ、シバ」
 ソードは真っ直ぐシバを見て、笑った。
 感情の判らぬシバの眸が、ほんの少しだけ見開かれたようだった。
 構わず、ソードは自身の手の甲にチラリと視線を落とす。
「悪魔の身体を取り戻せる以外に、これが一体何の役に立つのか‥‥お前ともあろう悪魔ヤツが、一体何で上位階級うえの連中の言うがままに、人間界くんだりまで来たのか‥‥もういい。知ったこっちゃねえ」
「‥‥ソード」
「俺は死なねえ。お前を倒して、生き延びる。‥‥それだけで十分だ。‥‥そうだろ? シバ」
「勝算があるのか?」
「ねえよ」
 先刻はイオスと交わされた同じ会話。だが、ここに命のやりとりはない。
 変えようのない宿業と、傷の痛みと血の匂い。ほんの少しの甘さと、やりきれない何か。‥‥それが何なのか、ソード自身も解りはしなかったが。
 溜息のように、シバは笑った。
「全く、お前と云う奴は‥‥」
「どうだっていいだろ、そんなことはよ。‥‥それより、来いよ。‥‥早く」
「‥‥‥‥‥‥」
 それ以上、シバはもう何も言わなかった。招かれるまま、音もなくソードに歩み寄る。
 不敵な笑みを浮かべたままの口元を伝う新しい血を、シバは指先で拭い取った。傷だらけの身体を検分するように、ゆっくりと視線が行き来する。
 そうして、シバは少しだけ微笑って、
「ひどい傷だ」
 と、それだけを言った。
 ソードも、口の端の牙をのぞかせて、笑った。
「てめえがやったんだろうがよ」
 憎まれ口を叩きながらも、双魔の腕では回り切らぬ、シバの広い背に手を回す。
 垂れかかるマントが二人の姿を覆い隠し、ゆっくりと唇が重ねられた。
 ‥‥自身の血の味と、懐かしい、清冽な匂い。



「んッ‥‥く‥っ」
 身を撓めると、髮の先が水面を掠め、背の下で水と冷気が波打つ。
 腰だけを水盤のふちに預け、ソードの身体は不安定なまま、ただシバの腕だけに支えられていた。
 本来の悪魔の身体ならともかく、人間の、しかもか細い双魔の身体は、シバの片手だけで易々と抱えられてしまう。
 背を抱いている手をシバが離せば、ソードの上半身はそのまま水の中に落ちるだろう。
 熱を持つ傷が時折り水に濡れ、切られるような痛みと冷たさがソードの身体を竦ませる。
 そうして体を預ける毎、顔色の解らぬシバの笑みが、わずかながらに深まるのを、徐々にのめり込んでいくソードは見ていない。
 その痩せた背を支えながら、血の滲む、あるいは今だ生々しく裂け、肉の色をさらす傷口に、シバは繰り返し口接ける。
 胸元のそれから首筋へと、舌先でたどり上げ、血を嘗め取る。
 緩慢に、執拗に――清めるように、あるいは何かを刻み込もうとするかのように。
 舌先が深く傷口を割る度、鋭い痛みが突き抜けるが、同時に、まだ快楽にはなり切らぬ痺れが、少し遅れて沸き上がる。
 痛みとないまぜの不可解な感覚に、ソードはビクビクと身体をよじり、跳ねた水の冷たさにまた震えた。
「ッてぇ‥‥」
「‥‥どうせなら、もっと良い声を聞かせてもらいたいものだがな」
「だっ‥たら、こんなとこでするんじゃねえ‥‥ッ」
「誘っておいて文句を言うな」
 ソードの悪態を一顧だにせず、薄い唇が首筋を這い、吐息を吹きかけるようにして耳元で囁く。
「んッ」
「どうした? やけに敏感だな。‥‥以前まえよりも」
「う‥るせ‥ぇっ‥」
 耳朶をくすぐる含み笑いに、羞恥よりも苛立ちがこみ上げる。
 反射的に上げられた腕を、だがシバは易々と抑え込んだ。か細い筋肉が抵抗するように束の間ぐっと浮き上がったが、シバの手を振り払うことは叶わない。
 気の逸れた隙を狙うように、赤く染まった耳朶を咬み、その後を舌がゆるゆると這う。
「ッ‥あ‥‥あぁッ‥」
 力の抜けた一瞬に、二の腕の内側の柔らかい皮膚を、爪の先で微細になぞり上げられ、言いかけた文句は吐息に溶けた。
 触れられる度に思い出す、この身体では知らない戦慄。知らない苦痛。そして苦痛と紙一重の快楽。シバの手が、唇が触れる度、肌の上に呼び起こされるそれは、ひどく懐かしく魂に馴染む。
「ぁ‥‥シバ‥‥っ‥」
 我知らず呼んだ彼の名は、自身もついぞ知らぬほど、甘い。
 それを受けて浮かんだシバの笑みも、かつてなく穏やかで、優しかった。
「‥‥ソード」
 低く、吐息だけで呼び掛けて、ソードが薄目を開けるより早く、切れた唇にそっと触れる。
「ん‥‥ッ」
 舌先がゆっくりと辿っていくと、くすぐったいような震えるような、名状し難いもどかしさが、支えられた背を這い上がる。
 ソードはわずかにかぶりを振った。耐え切れず、吐息が絶え間なく解く唇を、自分からシバへ押し当てる。
 シバはいつも拒まなかった。ソードが求めるに任せて、ただ穏やかに、呆れたように笑っていた。
 それは今でも変わらない――
「ん‥‥ぅ‥ッ‥‥」
 闇雲に、どこかたどたどしくまさぐる舌を、シバのそれが絡め取る。シバの頭を抱くように手を回すと、口中で蠢く濡れた感触が徐々に熱を帯びてゆく。
 魂を蕩かす生々しい快楽に閉じそうになる瞼を無理矢理見開き、焦点も合わないようなごく間近で、ただシバだけをその眸に映す。自分だけを映す眸を見る。
 あの時、ソードには解らなかった。
 何故、彼と共に居られなかったのか――
「んぅッ‥‥」
 深く口中を侵されながら、不意に指先が背筋をすべり下り、ソードはビクン、と魚のように震えた。唇は開放せぬままに、脇腹を回ったシバの手が、緩慢にジーンズのファスナーをたどる。
 沸き上がるもどかしさにソードは焦れ、振りほどくように身体をひねった。執拗な口接けから逃れようと、もぎ離すようにしてかぶりを振る。
 ようやく口接けから開放された時、しかし、新鮮な空気を貪る間もなく、音もなくファスナーが引き開けられた。
 滑り込んだ冷たい指がソードの熱を捉えると、無防備な声が迸る。
「ァあッ!」
 シバの指先がどこか焦らすようにじりじりとソードを弄ぶにつれ、冷たさが剥き出しの快楽を切り裂き、己を知り尽くした微細な刺激が、その戦慄を快感にすり替える。
 錯綜する熱と冷たさと云う相反する快感にかき立てられ、滞っていた血が一気に沸騰した。
 背にかかる飛沫の冷たさも、今やソードには気にならない。
 沸き上がった血が冷えた身体をゆっくりと上気させていくにつれ、青ざめた肌がほの赤く染まり、深く刻まれた傷口から、新たな鮮血が流れ落ちる。
 その血をシバがゆっくりと嘗め取る。その傷口に口接ける。導かれるままに声を上げ、与えられる甘露にソードは溺れた。
 傷の痛みはもはや無い。
 ひとつの傷口を探られていると、その快感が伝播するように、別の傷口に熱が広がる。剥き出しの内臓に触れるような、鋭い快感のみが引き出され、湧きかえる。
 あるいはそれは、限界を超えた負荷に耐えるため、神経がどこかで苦痛を快楽にすり替えているだけかも知れなかったが、ソードにはどちらでも構わなかった。
 今や全身を駆け巡る快感を、だが開放することは赦されぬまま、容赦なく与えられ続ける責め苦のような快楽に、ソードはやがて耐え切れず喘いだ。
「っ‥‥シバ‥ぁ‥」
「何だ?」
 耳元で囁き、応えるように、今にも弾けそうに震える熱をゆるやかに手の内に包み込まれる。
「んッ!‥‥少、しは、手加減、しろよ‥‥っ!」
「そのつもりだが?」
 わずかに咽喉を鳴らす笑みと共に、指先が敏感な部分をかすめる。
「あぁアッ!」
 身体を押しつけるようにしてシバにすがる。が、シバは楽しげに笑うのみ。
「どうした、もう音を上げたか?‥‥」
「ッ‥‥てめえ、まだ、かよ‥‥ッ!」
「すまんな」
 苦笑と共に、せなにある手がじわりと蠢き、肩甲骨の内を抉るようにたどる。
「ん、ッ!」
 ソードは身悶え、快楽の波をやり過ごすように唇を噛んでのけ反った。
 が、
「‥‥ここが弱いのは相変わらずだな」
「ッ、あ、ああァッ!」
 とうに知り尽くされた弱みには、噛んだ唇も意味を為さない。悪魔の身体なら翼の生え際であるその周辺をなぞられると、ソードはいつも為す術もなく翻弄される。
 翼を持たぬ、人の子の身に宿る今も、その上に刻まれた死の刻印は灼けつくような痺れを残し、只でさえ強すぎる痛みと快感をさらに増幅させている。
 ソードは悲鳴にも似た声を上げ、直接神経に触れるかのような鋭い刺激に打ち震えた。
 僅かに浮いた腰を支えられ、下着ごとジーンズが引き抜かれる。
「ッきしょう‥‥!」
 足首でジーンズを引っかけたスニーカーを、脱ぐももどかしく蹴り飛ばしたソードは、脱力した拳を振り上げて、鎧の胸板に叩き付けた。
「鎧くらい脱ぎやがれ! これじゃ何にも出来ねえじゃねえか!」
「教えたことは忘れていないと云う訳か?」
 シバの笑みがほんの僅か、ぞくりと竦むような艶を帯びる。
 浅い息に薄く開いたソードの血濡れた唇を、冷たい指先がつう、とたどり、
「‥‥以前ならまだしも」
「んッ」
「この可愛い口では、無理だな」
「!ッう‥‥」
 深まる笑みを映しながら、口中に二指が差し入れられた。
 長い指に奥深くまでを探られ、ソードはこみ上げる嘔吐感に耐えた。それは単なる肉体の反射であり、決して不快なだけではないことを、悪魔の魂はよく知っているのだ。
 柔らかい舌のみならず、頬の内側から口蓋を、歯列を、かき回すように侵す指に、応えるように舌を這わせる。咽喉をつく喘ぎを噛み殺し、くすぐるように舐め上げ、軽く吸い、唾液をからめて甘く歯を立てる。
 その間にも、シバの指先が背を這い回り、咽喉に、胸元にと口接けられ、不安定な姿勢のままソードは震えた。
 以前と変わらぬ弱いところで時折無防備な声が上がると、きつく肌を吸い、甘く噛み、血の色の跡が刻まれていく。
「っふ‥ッ!」
 繰り返す濃密な愛撫に耐え切れず、ソードは息苦しさに咳き込むようにして口中の指を吐き出した。
 視界がかすみ、我知らず涙が滲んでいたことに気付く。
 その涙がこぼれ落ちる前に、シバの唇がそれを拭った。
「‥‥ソード」
「ぅあッ‥!」
 不意に片脚が引き上げられ、一瞬ソードの背がぐらつく。それをしっかりと支えたまま、シバの濡れた指が体奥に触れた。
 少しの間、慣らすように柔らかく探った後、無意識の身体の抵抗を圧して、ぬるりと指先が滑り込む。
「んッ!‥あ、‥あァ‥っ!」
 苦痛は無かった。覚えた快感と違和感との、二つながらに耐えながらも、ごまかしようのない純粋な愉悦が濡れた声となって咽喉をつく。
 じりじりと奥深くまでを穿つ指が、生き物のように内壁を探り、ひどく生々しい濡れた音を立てる。
 が、焦れた身体にはそれだけでは足りない。より深い快楽を貪ろうと、無意識に腰をひねり、不安定な身体をすり寄せる。
 その耳元に、シバが不意に低く囁いた。
「‥‥あの天使と寝たのか」
「‥‥‥あ?」
 ソードはぼんやりと目を開けた。
 わずかに眉根を寄せ、自分を見下ろしているシバの顔色は、読めない。
 ‥‥それはあるいは嫉妬だったのかと、ずい分あとになってからソードは思った。
 だがその時は、焦れる身体に支配されて、そんなことは二の次だった。そうして、いつも感情を見せぬまま、薄く冷たい笑みだけを浮かべたシバの本当の気持ちなど、ソードには解らなかったのだ‥‥
「‥‥何ンだよ」
「‥‥いや」
 ぬるりと指が引き抜かれる。ぞくん、と背を這った戦慄に、ソードはかぶりを振ってシバにすがった。
「‥ンなこと、どうだっていいだろ。‥‥それより、いい加減、焦らすなよ、シバ‥‥」
 乾いた唇を舐めながら、甘くねだるソードの声に、シバは少しだけ、目を細めた。
「‥‥そうくな」
 血の流れる音だけが、耳鳴りのように響く中、鎧の腰当を外す音がやけに明瞭に聞こえた気がした。
「あ、‥‥あァ‥‥ッん!」
 押し当てられたシバの熱は、火照る身体よりも更に熱い。
 慣らされた程度の双魔の身体では耐えられぬほどの質量が、骨を砕くような軋みを上げながらゆっくりと体内に沈められてゆく。
「ぁあアッ‥‥あッ‥‥シバ‥‥シバ‥‥ッ‥」
 快楽と、今のところそれを凌駕する、身を裂く苦痛に耐えるように、しがみついて何度も彼の名を呼ぶ。
 固く目を閉じたまま身体を開き、無防備に自身にすがるソードに、シバは穏やかに、そしてこの上なく優しく、笑った。
「‥‥ソード」
「んッ!」
 耳元で囁かれる低い声に、瞬間、苦痛が悦楽に変わって脊髄の奥を突き抜ける。
 絡みつく内壁が熱く蠢き、それを合図に、シバはゆっくりと動き始めた。
「あ!‥ッん、‥んぅ‥ッ!」
 ギシギシと軋むような苦痛に圧され、咽喉の奥から苦鳴が洩れる。
 が、押し殺そうとしても殺し切れないそれが、シバの嗜虐に火を点けることを、ソードは十分に知っていた。
 その明らかな苦痛の声に逆にかき立てられたかのように、律動が少しづつ早まっていく。それと共に、限界を超えた苦痛が快楽にどこかで変換されるのか、圧されるようなソードの苦鳴も徐々に甘さを帯びたものに変わる。
「ソード‥‥っ」
「あッ、‥‥や‥‥」
 煽られ、激しさを増して行く律動に、腰だけを水盤の縁に預けた不安定な姿勢では追いつけない。
 より深くシバを貪るのように、ソードは我知らずその腰に両脚をからめ、律動に合わせて身体を揺らした。気付いたシバも、背にある片手はそのままに、もう一方の手で助けるようにソードの腰を引き寄せた。
「ああアぁッ!」
 より深く体内を突き上げられる圧倒的な快感に、蕩けた身体は思うさまシバを締め上げる。
「ッ‥‥ソード‥」
 耳元で囁くシバの声。己を映す深い色の眸。
 冷たく、皮肉な、そして優しい笑み。
 己だけを求める、体内にあるシバの熱――!!
「‥‥シバ‥ぁ‥‥シバ‥‥ッ‥――」
 果てることを赦されぬ、苦行と紙一重の快楽の瀬戸際で、ソードは哀願するように彼の名を呼んだ。
 応えるように、より深く、激しく、細い身体を抱きすくめ、シバは荒い息の中囁いた。
「ソード‥‥」
「んっ、あ、ぁッ!」
「もっと‥‥強くなれ、ソード‥‥早く‥私を越えろ‥‥」
「シバ‥ッ‥‥も‥う‥‥ぁ‥ッ‥!」
「そして‥‥帰ってこい、ソード‥‥!」
「んッ‥‥あぁ-ッ‥‥!」
 ソードは今だ赦されぬ責め苦に、いやいやするようにかぶりを振り――ふと、薄目を開けて、苦しい息の隙間から、言った。


「でも‥‥、ッ‥‥魂は、要らないん、だろ?‥‥」


「‥‥‥‥――!!」
 愕然と、シバが目を見開いた。
「んぅッ‥!」
 限界をとうに越えたまま、放り置かれ震えていたソードの熱に、不意にシバが指を絡めた。焦らしもせずに擦り上げられ、もはや苦痛とも快楽とも判らぬ凄まじい衝撃が突き抜ける。
「あ、あ‥‥あアああァ-ッッ!!‥‥」
 だしぬけに与えられた赦しにソードはのけ反り、弾かれたように身震いして果てた。
 だが、その余韻に浸る間はなかった。全ての知覚が白闇にかすみ、意識の途切れたその瞬間、滝のような水音と共に、ソードは背中から水盤に落ちた。
 身を切る冷たさと衝撃に、ソードは声にならぬ悲鳴を上げ、体内のシバを痛いほど締め上げる。
「く‥‥ッ」
 体奥で弾けるシバの熱さと、叩き込まれた水の冷たさに、ソードは息を詰め、声もなく、ただビクビクと魚のように震えた。混濁する知覚はもはや、自身の感覚も目に映るものも何ひとつ満足に判別し得ない。
 そんなソードを見下ろすシバの眸には、相変わらず、激した感情のかけらも無く――だが、痛ましい何かを見るような、臓腑を灼く苦渋だけが満ちていた。



「‥‥ったく、無茶苦茶しやがって」
 水の中から引き上げられ、ようやく意識をはっきりさせたソードは、悪態をつきながらよろよろと身仕度を整えた。
 血を洗い流し、全身から滴る水滴を払い落として、スニーカーとジーンズを身につけると、背後の巨木に寄りかかっていたシバを振り返り、睨みすえる。
 シバは何も言わなかった。腕組みしたまま、ただ黙って、どこか優しい穏やかな笑みをソードに向けているだけだ。
 ‥‥彼はいつもそうだった。こいつにはかなわない、といつも思った。負けず嫌いなソードが唯一、負けを認めた男だった‥‥
 ソードはふるふるとかぶりを振り、滴る水滴を払いのけた。
「‥‥シバ」
「何だ?」
 一瞬、ソードはうつむいた。
 そうして、何かを振り切るように、もう一度真っ直ぐシバを見据えて、笑う。
「いや‥‥次に会う時が楽しみだぜ」
「そうだな」
「お前を倒せば、呪いは消えるんだろ?」
「ああ」
「‥‥お前の魂が手に入れば、あるいはオレの悪魔の身体くらい、一発で出来ちまうかもな」
 そう言って、ソードは虚ろにはは、と笑った。
 シバの笑みが、ふと、蔭る。
「‥‥ソード」
「ん?」
 らしくない、どこか沈痛なシバの視線の先をたどる。
 右手に浮き出た紋章――悪魔の卵。
「‥‥何だ?」
「‥‥いや‥‥」
 目を伏せたまま、シバは小さくかぶりを振った。とうとう脱ぐことの無かった、痩躯を鎧う甲胄の胸に手を当てる。
 ‥‥その時ソードは何も知らなかった。
 何ひとつ、彼のことなど、知らなかったのだ。
 その胸に、一体何があったのかも――
「‥‥そろそろ頃合いが来たようだ」
 夜闇に染まりかけた虚空を振り仰ぎ、不意にシバがそう言った。
「あ?」
「向こうとの接続が、ちょうどいい具合になったと言うことだ」
「‥‥‥‥‥‥」
 何を言おうとしたのか、ソードは自分でも判らぬまま、シバに手を延べ、歩み寄ろうとした。
 が、
「少し離れているがいい。‥‥歪みに巻かれるぞ」
「‥‥ああ‥‥」
 延べかけた手は、そのまま力なく下ろされた。
 言われた通り、数歩下がる。
 戦闘機が音速を超えた時のような、キィン、と云う何かが耳鳴りのように耳朶を打ち、シバの姿がゆらり、と薄れた。
 同時に、見覚えのあるような異界の風景が、一瞬脳裏に直接飛び込み――
 ザア、と音を立てて風が吹き抜けた時、シバの姿は、もう無かった。
 夜闇の中、異界の花とおぼしきものが、白く光って風の中を舞ったが、一瞬のうちに見えなくなった。



 神社の石段をふらつく足取りで一歩一歩緩慢に降り、あと数段と云うところで、ソードはビク、と足を止めた。
 神社の名前が刻まれた、石造りの碑にもたれるようにして、イオスが自分を見上げていた。
 何を云ったらいいものか判らぬ、永劫のような沈黙の後、ソードはぼそりと呟いた。
「‥‥てめー、何でここに居るんだよ」
「心配しなくても、七海さんはちゃんと病院に送り届けて来ましたよ。‥‥みずのさんがついていてくれるそうですから、大丈夫です」
 聞いてもいないことを説明して、イオスはいつも通りおっとりと笑う。
 ソードは舌打ちし、残りの数段をよろよろと降りた。
「‥‥そんなこと、聞いちゃいねーよ」
「上着を持ってきましたから」
 いつもの悪態にはまるで動じず、わざわざ自宅から持ってきたらしい、見覚えのある上着を渡す。
「そのままで歩いていては、職務質問されますよ。‥‥要らぬ注目は避けた方が、身のためですから」
「‥‥けッ」
 着せかけられた上着を、ソードは舌打ちしながら、結局は黙って受け取った。
 それ以上、イオスは何も言わぬまま、踵を返して歩き出した。ゆっくりと――満身創痍のソードの歩調に合わせるように。
 無防備なイオスの背中を見ながら、ソードも黙って歩き出した。ぼんやりと――自分はどうして、今この隙を突こうとしないのだろう、と考えながら。
 少し距離が離れた気配に、イオスがふっと足を止め、振り返る。
 その眼差しに、シバの面影がふと、重なった。
 刺すような痛みを感じて、胸を抑える。
 悪魔の身体ではついぞ知らぬ、その痛みは一体何だったのか――
「どうしました? ソード」
「‥‥うるせえ。ほっとけ」
 いつもの憎まれ口を叩き、ふいと、ソードはそれに加えて言った。
「シバとの決着がついたら、次はテメーだからな。‥‥忘れんなよ!」
「はいはい」
 イオスはどうでも良さそうな返事と共に、どうしてかひどく満足気に笑った。
「‥‥なに笑ってんだ、テメー」
「いえ‥‥あの頃は、楽しかったな、と思って」
「楽しかったァ?」
「ええ。‥‥何せあなたと戦っていれば、他の悪魔を殺さなくて済みましたから」
「何だ、そりゃあ‥‥」
 意味のよく判らないソードを後目に、イオスはどこか遠くを見て言った。
「だからね‥‥私は人間界に落ちた時、あのまま死んでしまっても構わなかったんですよ‥‥そこに神無さんが倒れてさえいなければ、ね‥‥」



(君と、死にたい――)



 不意に脳裏をよぎったその言葉は、一体誰の思いだったのか。

 ソードは何も言わなかった。
 そしてイオスも、また。
 誰もいない道を、二人は黙ったまま歩き続けた。
 何もかも、解らぬことだらけの出来事の中で、今はただ、ソードの背にある死の刻印だけが、 確かな重みを持ってのしかかっているのだった。
―― 「花吹雪」 END ――

(発行・1998/12/29 再録・2005/04/06)