◇ 影サタン様のどうでもいい一日 ◇


 
 何となく心が荒んだ影サタン様は、人間の服に着替えて街に出た。

 魔界の城には、どうしても自分を息子とは認めないジジィとか、小遣いはせびるわ肩書きは利用するわ、そのくせやっぱり自分を父とは呼ばない小娘なんかがのさばっていて、サタン様の神経をすり減らす。
 自分が現れると途端にギスギスする茶の間の雰囲気に耐えられないので、普段サタン様は自分だけの城たるゲヘナの箱船からは滅多に出ない。
 でも、最近は箱船にいても、どうでもいいような奴からの連絡とか来客なんかがあってうっとうしい。
 勿論、会いたくない奴だったら追い返したり、謁見に出なかったりすればいいのだが(独裁政権の魔王だからね)、サタン様の立場は微妙なのだ。敵はあんまり多くない方がいいので、しょうがなく付き合い外交してしまう。
 さらに最近は、何だか急にいい人ぶるようになったシバが「改めて話しあいたい」とか言ってしょっちゅう押し掛けてくるので、これもまたサタン様にはうっとうしい。
 昔サタン様はシバが大好きで、ずいぶんわがままも赦してやったし、色々と便宜を図ってやったりもしたものだったが、それに対してあの男は、あまりといえばあまりに無情な冷たい仕打ちしかしなかった。
 そのくせ、どこの馬の骨ともつかない下級悪魔に入れ上げて、そいつを追っかけ回した挙げ句、天使に彼をかっさらわれて完璧に振られてしまってからは、日和ったのか老けたのか、急にサタン様のことを気にし始めた。
 でもサタン様は、彼の気持ちなんかもうどうでもいいのだ。昔されたひどいことが、今もどうしても忘れられないし、それが神経を掻きむしるのも辛い。今さら急に優しくされたって、じゃああの仕打ちは何だったんだい? と、うすら嫌な気持ちにさせられるばかりなので、彼の顔なんか二度と見たくないのだった。

 そんなこんなで、魔王の生活に疲れると、サタン様は人間のふりをして、人間の街に遊びに行く。
 ヴィンデージっぽく見えなくもない、どうでもいいようなボロけたジーンズと、そんなに地味でもないカナリヤ色のダッフルコートと、流行りも過ぎたようなエンジニアブーツが、ここしばらくのお気に入りだ。
 上着はほんとは「ゆにくろ」というところの「えあてっく」というのが欲しかったのだけれど、人界に出掛けて合わせてみたら、ちょっぴりハードなワーク系カジュアルが、童顔で女顔のサタン様には死ぬほど似合わなかったので諦めた。
 そうやって、「姉のコートを拝借してきた中学生男子」みたいな格好に、いまどきの長いマフラーを巻いて、サタン様はまず、大通りにあった紀伊國屋書店にふらふらと入ってみた。
 一応は本物の魔王の身なので、オカルトだのファンタジーには興味がない。かといって山積みのマンガ本は、コマ運びとか効果の「お約束」が読み慣れないサタン様にはよく解らないし、人界の時事問題本にも興味がない(悪魔だから)。
 そんな訳で、勢いサタン様の目は、適当なフィクションの小説に向かう。
 新刊コーナーに積んである中に、「真・女神転生Ⅱ」の文字を見つけ、サタン様は思わず手に取ってみた。この本の「Ⅰ」はいまひとつだったが、「Ⅱ」はちょっとだけ面白そうだった。何と言っても主人公が大嫌いな神と戦っているところが好ましい(ゲームの方の話だが)。
 サタン様はその本をレジに持っていって、カバーを掛けてもらってポケットに入れた。
 それからどこに行こうかと、考えても行くあては全然ないので、とりあえず人の流れに乗って、駅前の方まで歩いていった。

 この街は寒い冬の街で、今時分はどっさり雪がある。
 その、歩道に積もった重たい雪を、もっと重いブーツで踏み分けて、もたもた歩くのがサタン様は好きだ。普段はさっさと宙を飛んでしまったり、箱船ごと目的地に移動するので、地面を歩く機会はあんまりないのだ。
 湿った雪は重い感触で、踏むとギュッと音がする。それが楽しくてとことこ、さくさくと歩いているうちに、サタン様は駅前のイトーヨーカドーについた。
 ここのヨーカドーはスーパーのくせに、何故か巨大な8階建てで、色んな「てなんと」が入っている。
 サタン様は何となく、地下の食品フロアに行き、「きたえん」という日本茶の店で、ソフトクリームを買って食べた。
 お茶屋なのに何故ソフト、とサタン様はいつも思うのだが、お茶の店だけにものは抹茶ソフトで、これが流石のおいしさなのだった。向かいには別のファーストフード店が入っていて、そこにも抹茶ソフトはあるのだが、お茶屋のものの方がだんぜん美味しい。
 まあ当然かな、お茶はお茶屋って人間界のことわざにもあるし。
 と、ちょっと間違った知識で思いながら、サタン様はのんびりとソフトを舐めた。
 お茶屋だけに、最初は抹茶味しかなかったソフトに、最近何故か「炭焼きコーヒー」が加わった。それで今日はミックスにしてみたので、目の前の冷たい渦巻き模様は、抹茶色とコーヒー色のぐるぐるだ。
 堅い店内ベンチに座り、エスカレーター前の雑踏を眺めながら、「抹茶とコーヒーの不思議な出会い」なんて、変な惹句も浮かんだり。
 それにしても、お茶屋なのに何故ソフト。さらになにゆえに炭焼きコーヒー。人間界って変だねえ。美味しいけどね、抹茶ソフト。

 上のフロアで新年大市・冬物大処分! なんて紅白のディスプレイのされた服なんかを見てから、サタン様は通りの向かいにある、スーパードラッグアサヒに行ってみた。
 実はサタン様は、人間界の薬屋が好きだ。
 魔界だと、植物や動物の何たらを煎じたり、黒焼きにしたのを練ったりと、面倒でいまいち得体の知れない手作りの薬しか手に入らない。
 それが人間界では、日持ちもするし効き目もさまざま、よりどりみどりの色んな薬が、大した高値でもなく並んでいる。こぎれいな瓶詰めで量目も正確だし、『季節外れだから材料が手に入らない』なんてこともない。
 また、こんな安売りのドラッグストアには、薬のみならず雑貨やシャンプーなんかも売られていて、サタン様はそれも大好きだ。人間界のシャンプーやリンスは、やっぱり魔界のものよりいい。髪がふわふわのサラサラになるし、香油とは違ういい匂いがする。
 だからって、そんなことを解ってくれるような、ある意味繊細な側近なんか、サタン様の周りにはいなかったので、意味は全然なかったのだけれども。
 棚に並んだシャンプーや、「お肌すべすべ」なんて書いてあるボディケアグッズを見て歩き、サタン様は気になった新しいシャンプー&リンスと、「フルーツ酸配合・ピーリング石鹸(マイルド)」と、レジ横にあった「金柑のど飴」を買って店を出た。
 何となく買ってしまった「金柑のど飴」は、普通の飴と違ってミント味じゃなく、ほんのり甘酸っぱくて美味しかった。

 本当は今日は、もっと遠くまで行ってみようとサタン様は思っていたのだが、外に出たら吹雪いていたので、そろそろ帰ることにした。
 人間界の駅前には大体ある、ミスタードーナツの看板が目について、「何か買って帰ろうかな」と思ったけれど、箱船の厨房のデザート係が「そんな駄菓子を!」と泣きそうなのでやめた。
 自分が食べなくても、ジジィと小娘の土産にはいいだろうか、とちょっとだけ思いもしたけれど、以前そうやって「季節限定・ミスドぜんざい」を買って帰った時は、結局食べてもらえなかった。サタン様はそれを思い出して、「やっぱりやめよう」と心に誓った。
 いいよね、別に。魔王なんだから、身内にまで気を遣わなくったってさ。

 そんな訳でサタン様は、重い足取りで万魔殿に戻った。この城は居心地が悪くて嫌だけど、箱船をそこに停めてあるので、一度はここに入らなければならないのだ。
 紀伊國屋のカバーの文庫本と、ドラックアサヒとヨーカドーの買い物袋をぶら下げて、ジジィと小娘の横を通り過ぎ、サタン様は自分の箱船に戻った。
 風呂に入って、さっそく新しいシャンプーと石鹸を試してみよう。‥‥そんなことだけが楽しみだなんて、支配者ってちょっとつまんないね、ははは‥‥

 戦利品の整理を侍従に任せて、人間の服を脱ぎ捨てる。
 そうしてまた、退屈で何もかもが思うままにならない、魔王の生活が始まるのだった。
―― 「影サタン様のどうでもいい一日」 END ――

(発行・2002/08/09 再録・2006/10/26)