※注‥‥初出発行当時、ケータイ会社は現在の「ソフトバンク」でも
「vodafone」でもない「J-PHONE」でした。再録にあたって
当時のまま修正せずに掲載しております。ご了承下さい。

◇ 影サタン様のちょっと幸せな一日 ◇


 
 春と初夏の中間のある日、影サタン様は、人間界に出掛けることにした。

 いつもは憂鬱を紛らわすために、お忍びで出歩いていた人間界だが、今日はちょっとだけ訳が違う。何と言っても、大好きなシバが一緒なのだ。
 シバと言っても、今まで色んな辛いことがあった、もう顔も見たくないシバではない。ひょんなことから知り合った、よその世界の別のシバである。
 色々あって向こうの世界に帰れなくなり、そのままでは消えてしまうしかなかった彼を、サタン様は無理矢理助け出した。魔王の力を分け与えることによって、数多の世界に在ることが出来る、サタン様の眷属にしたのである。
 そうしてそのシバは助かったが、魔王の力を受け取ることは、結構な負担であったらしい。その新しいシバは、サタン様のもとに来てしばらくの間、熱を出して伏せっていた。
 サタン様はずっと彼を看病して、それがようやく元気になったので、気晴らしに人間界にでも遊びに行こうか、と何となく彼に聞いてみた。
 シバは何だか眩しいような、不思議な笑顔をほんのり浮かべて、楽しそうだな、と言ったので、二人で出掛けることにしたのだった。


 とは言っても、他人に合わせることに慣れていないサタン様は、「人を連れて行って面白いところ」がどこなのか皆目分からない。
 だから取りあえず、まずはいつもの一人歩きと同じく、シバを連れて紀伊国屋書店に入ってみた。元の世界のシバの城には、確か立派な書庫があった。だから彼も、本はそれなりに好きなんじゃないかと何となく思ったからだった。
 シバは広い広い人間界の書店を、大層興味深げに見て歩き、サタン様が「携帯電話・おすすめ最新機種!」という変なグラビア雑誌を立ち読みして、「やっぱりJフォンがいいのかなあ」と、どうしようか悩んでいるうちに、ワインの本と、井沢元彦の「世界宗教学講座」と、適当なニュース系の週刊誌を買ってきた。
「‥‥変な分野に興味があるんだな、君は」
「そうか?」
「人間界の宗教なんて、僕らの知ったことじゃないだろうに」
「ものの見方の違いが解って、なかなか興味深いものだがな。‥‥ところでサタン」
「何だい?」
「‥‥『携帯電話』というものは、魔界でも使えるのか?」
「‥‥‥‥」
 何となく、人間界の若者みたいに、シバとちょこちょこ短いメールを打ち合ってみるのも楽しいだろうな、と思ったので、携帯が欲しいような気がしていたのだが、言われてみると、魔界にはドコモもauもJフォンも無い。アンテナを立てようにも、魔界には電力の供給システムがないし、各社の支店も作れないだろう。
 じゃあどうせなら、何か似たような連絡システムを新たに開発させようかな、と、サタン様は何となく思った。
 もっとも、メールを打ちたい相手であるシバは、同じ城の中に住んでいたので、携帯を持ちあう意味なんか、多分全然なかったのだけれども。


 おしゃれな喫茶店や高そうな店は、サタン様はあまり好きではない。贅沢で洗練されたようなものは、普段さんざん食べ飽きているからだ。
 それと、病み上がりのシバは、少し筋肉が落ちていて、動作にはまだ前ほどの力がない。サタン様はそれも気になっていたので、あまりシバを歩かせたくなくて、5分ほど行った先にある、イトーヨーカドーの地下に寄った。
 店内ベンチにシバを座らせ、側の「きたえん」のお茶屋のスタンドで、ドリップの炭焼きコーヒーと、抹茶ソフトのミックスを買う。シバは甘いものが好きそうじゃなかったので、コーヒーの方はシバの分だ。
 それらを持ってベンチに戻ると、シバは何だか人混みの中で浮き上がるように目立っていた。
 服装なんかは、細いヒッコリー織りの綿パンツに、ちょっとだけ文字の入った白っぽいTシャツ、地味な黒いカバーオールと、襟元には市松模様のアフガンショール。人間界の風習に合わせた、何てことない服の筈なのだが、それですら、シバはやけに人目を引いてしまっている。
 そう言えば、彼くらいの長身の人間はここらへんには珍しいようだし、あの長い髪もやっぱり珍しい。人間にはない銀の角だけは、魔力で目くらましをかけておいたのだが、もしかして、そういう問題じゃなかったのかも知れない――
 とか何とか考えて、サタン様がちょっとぼうっとしていると、
「どうした?」
 と笑ってシバが言い、とんとん、と自分の隣のベンチを叩いたので、サタン様は慌ててそこに腰を下ろした。
「何でもないよ。‥‥コーヒーは好きかい?」
「ああ。いい香りだな」
 紙コップを受け取ったシバを、そのまま何となく見つめながら、サタン様は自分の抹茶ソフト・炭焼きコーヒーミックスを舐めた。抹茶とコーヒーの渦巻き模様は、今日は隣のシバの分、ちょっとだけコーヒーの香りが強い。
 ふっと目を細めてシバが言った。
「それも美味そうだな」
「ふふ、『抹茶とコーヒーの不思議な出会い』だよ」
 サタン様は何となく、この前思いついたキャッチコピーを口にした。楽しくなった勢いで、シバにもソフトを勧めてみよう、と思い立つ。
「君も一口どうだい? そんなに甘くはないんだよ」
「そうだな‥‥どれ」
 差し出した茶と緑のぐるぐるを、シバは一口、はむりと食べた。
「なるほど‥‥不思議な味わいだな」
「人間界のおすすめだからね」
 お気に入りを褒められたので、ますます嬉しくなってサタン様は笑った。
 それを見たシバが、前にも見た気がするちょっと不思議な笑みを浮かべて、
「『不思議な出会い』か‥‥」
 とぽつりと言った。
 それが目の前の抹茶ソフトのことじゃないのは、サタン様にも解っていた。
 ‥‥両隣でわいわい騒いでいる、子供やおばさんなんかの間で、サタン様はぎこちなく、ちょっとだけシバの方に寄り添った。
 シバがごく自然に肩を抱き寄せてくれたので、サタン様は彼にもたれたまま、冷たいソフトクリームを黙って食べた。
 咽喉を落ちていく冷たい抹茶味と、コーヒーの香りと肩のぬくもり。
 ‥‥こういう感じを、なんて言うんだっけ?
 サタン様はそう思ったけど、どうしてか何にも言えないまま、ぱりぱりとソフトのコーンを食べた。


 その後、同じフロアにあった美味しいパン屋で、サンドイッチを二箱買って、二人は公園行きのバスに乗った。
 古い城跡だという公園の入り口の、大きな黒塗りの門をくぐり、ややゆっくりのシバの歩調に合わせて、小さな玉砂利を踏んで歩く。
 本当は、夢で行ったようないっぱいの桜をシバに見せたいと思ったのだが、あいにく今年は暖かくて、桜は早くに散ってしまっていた。
 それでも屋台は出ているし、遅咲きの八重桜なら今が満開だ。
 どこまでも続くような葉桜の並木と、その合間で咲き誇っている八重桜、柳のような枝垂れ桜を見ながら、サタン様はシバと寄り添って歩いた。
 少し奥に行くと内堀があって、赤や黒の鯉が群をなし、葉陰の下の深い淀みに水紋を広げて泳いでいる。
 大きな弧を描く朱塗りの橋から、さっきパン屋でもらってきた、食パンの耳をちぎって落とすと、大きな蓮の葉を押し上げるようにして、ばちゃばちゃ音を立てて鯉が群がる。
 それが何だか、魔界軍の麾下に居並ぶ有象無象の悪魔達に見えて、サタン様はふと呟いた。
「‥‥魔王なんて、こんなものかな」
「え?」
「‥‥何でもない」
 手を止めたシバを見ないまま、ひときわ沢山のパンの耳を掴み、鯉の上に投げ込むと、先を争うようにして、ますます沢山の鯉がひしめき合う。
 ‥‥こんなものだよね、人民なんてさ。言うこと聞くのも、餌をやってる間だけ。食うだけ食っておいて逆らう奴も、中にはいるから始末に負えないよ、全く――
 嫌なことを思い出しそうになり、サタン様はきゅっと唇を引き結んだ。
 シバに何かを聞かれるのが嫌で、またパンの耳をバラバラと投げ込む。
 もの言いたげな顔をしたシバはでも、そのまま何も言わなかったので、二人は結局黙ったまま、いっぱいだった袋が空になるまで、鯉にパンの耳を投げたのだった。


 植物園のつつじや子供広場のうさぎや、大きな鳥舎にいた孔雀なんかを見てから、二人は木陰のベンチに腰を下ろした。
 行き交う人を遠巻きに、買ってきたサンドイッチを二人でつまむ。
 ペットボトルのジャスミン茶の、ちょうどよくあったかいのを飲みながら、サタン様は何となくシバを見た。
 すると、
「どうした?」
 と、小さく笑ってシバが聞いたので、サタン様はふるふるとかぶりを振って、
「‥‥何でもないよ」
 と、手の中のサンドイッチをまた囓った。
 このシバはサタン様を見て、しょっちゅうこんな風に優しく笑う。
 でも、もう会いたくない別のシバが、こんな顔をしたことは一度もなかった。
 ‥‥サンドイッチが、急に咽喉でつかえたような気がして、サタン様は何となく手を下ろした。
「‥‥サタン」
 不意に耳元に聞こえたシバの声に、サタン様はびくりと飛び上がりそうになった。
 でも、それより先に、ソフトを食べていた時と同じ、大きなシバの手が肩に回され、サタン様をぎゅっと抱き寄せた。
 同時に顔を上げる間もなく、そっと唇が押し当てられる。
 頬と、目元と、口の端に触れられて、サタン様は黙ってシバを見た。
 シバは何にも言わないまま、ぽん、と背中を軽く叩いて、またサタン様を抱き寄せた。
 サタン様はうつむいてシバにもたれた。
 でも、それからどうしたらいいのか解らない。
 何かした方がいいんだろうか。ここら辺にホテルとかあっただろうか?
 言葉にならないこの気持ちを、他にどうしたら形にして、このシバに伝えられると言うんだろう――
 そう考えてサタン様は、もう一度ちらりとシバを見た。
 シバはじっとサタン様を見返し、ゆっくりと瞬きすると、
「少し、冷えてきたな。‥‥帰ろうか」
 と言って、自分のショールをサタン様に着せかけ、冷たくなっていた頬をそっと撫でた。
 ‥‥サタン様はぴくり、と目を伏せ、そのまま何も言えなくなった。
 だがシバは、もしかしたらそんなサタン様の気持ちを、みんな知っていたのかも知れない。
「こうしてお前と市井に出掛けることなど、前の世界ではあり得なかったな‥‥」
「‥‥ああ‥‥」
「だから、楽しかったよ。今日は、とても」
「‥‥うん」
「お前が隣にいるという、それだけのことが――これほどの、幸せであったとは――」
「ぇ‥‥――」
 その一瞬、何かが胸の中で波打ったような気がして、サタン様はぴくん、とシバを見た。
 シバはあの、眩しいような目を細めた笑みで、サタン様をじっと見て、言った。
「幸せとは繊細なものだからな‥‥急ぐことは、何かを壊しそうで恐ろしい」
「‥‥‥‥‥‥」
「だから、帰ろう。‥‥何もかもが、今日一日だけのことではないのだし」
「‥‥それでいいのかい?」
「お前は私を買いかぶりすぎるところがある。‥‥あまりそう、折角の決心を揺さぶってくれるな」
 きょとんとしていたサタン様を、シバはひょいと膝に引き上げ、ぎゅっと抱きしめて口接けた。
「‥‥‥‥うん‥‥」
 何が『うん』なのかは自分でもよく解らないまま、サタン様は小さく頷いた。
 ‥‥腕も、てのひらも、指先も、唇も、シバはじんわりと暖かかった。
 知らぬ間に自分が冷えていたのでなければ、それは本当はとても熱かったのかも知れなかった。
 サタン様がそっと目を上げると、
「‥‥早く帰って、暖まろう」
 シバはそう言って、また笑った。
「そうだね‥‥」
 それも、いいかも知れない。
 夢の中で彼と死んだ。
 その時の桜はもうどこにもない。この世の花も、もう散ってしまった。
 でもそれでいい。シバはちゃんとここにいる。
 二人で帰ろう。新しい世界の、新しい城に。
 途中にあったドラッグ雑貨で、いい香りの入浴剤でも買って帰ろう。それで二人で暖まろう――
 サタン様はもう一度、
「‥‥うん」
 と小さく頷いて、笑った。


 抹茶ソフトと、コーヒーの香り。
 幸せって、こんな感じなのかな。
 サタン様はそう思ったけど、やっぱり何にも言わないまま、寄り添って城に帰ったのだった。
―― 「影サタン様のちょっと幸せな一日」 END ――

(発行・2002/08/09 再録・2007/02/16)