◇ サイケデリック・ブルー ◇


 
 奇観である。

 天然の造形とは判じ難い、削り出したような尖塔型の岩山。
 人とも悪魔とも怪物像ガーゴイルともつかぬ、奇怪な苦悶の表情を浮かべた顔面の浮きたつ奇岩の群れ。
 それらが点在するのみの、茫莫たる荒野の一角に、その朽ちかけた塔は立っていた。
 穿たれた傷口にも似た大地の裂け目。その狭間で、切り立った崖に隠されるようにして、頭だけをのぞかせている塔はしかし、谷の深みから見上げると、魔界の建造物としては、異様と云うに近しい高さを持つ。
 地を這い、塔に絡みつきながら、崖を吹き上がる冷えた風と、灼けた荒れ野を舐める風が、その尖塔で出会い、絡み合う。そうして立ち上る歪んだ陽炎が、隠れ建つ塔の目印だ。
 渇いた風が吹き抜ける度、崩れかけたような石組みをすり抜けて、悲鳴にも似た風鳴りが響く。
 少し遅れて、塔の周囲にいくつも穿たれた深い深い穴の底から、囚われた魔物達の怨嗟の咆哮が呼応するように沸き上がり、地表の者たちの耳を打つ。
 人ならば恐怖に震えるかも知れぬそれらが魔族にもたらすものは、畏怖でも、ましてや感傷でもない。
 だが、それでも。
 それらを遠く見る闇色の男――シバ・ガーランドの射るような眸は、どこか懐かしげな色を湛えていた。



 藁敷きの寝床に仰向けになり、彼はぼんやりと天井を見上げていた。
 まだ、明瞭な意識を取り戻してはいない。目は開いているが、ただそれだけだ。意志の光がまだそこにはなく、冷えた石段を踏む足音も、近付く話し声も聞こえていない。
「多分まだ気絶してるよー?」
「構わん」
「‥‥でも、シバ兄ちゃん――」
 少女の声を遮るように、重い扉が軋んで開く。一瞬途切れた詰問の隙に、シバは無情に少女の鼻先で振り向きもせず扉を閉めた。
「‥‥‥いーけどね、別に」
 しばし無言で立ち尽くした後、コン、と足下の石畳を蹴り、溜息と共に聞こえぬよう呟く。

「‥‥でも、やっぱり人間じゃ無理なの。暗黒魔闘術をマスターさせようなんて――」

 扉越しのかすかな声は、果たしてその耳に届いたのか。
 遠ざかっていく少女の足音が、やがて途絶え、聞こえなくなる。あとは窓の外の風鳴りと、地の底の魔物の咆哮が、時折遠く響くのみ。
 奇妙に静謐な静けさの中、シバはゆっくりと歩を進め、奥まった寝台へと歩み寄った。
 寝台と言っても石を切り出しただけの、硬く、簡素なものである。そこに盛り上げた藁に半ば埋もれながら、無防備に転がっている彼の傍らに立ち、虚ろな目元にそっと触れる。
「‥‥ソード」
 低く呼びかけ、指先を這わせる。傷の残る頬をゆっくりとたどり、血の滲む、熱で乾いた唇に触れる。
 掌がそっと片頬を包み込むと、虚ろだった眸がピク、と揺れた。
「ソード‥‥」
 二度目の呼び掛けは、今まで聞いたこともないような、押し殺した苦渋の滲む声だった。
 だが、その呟きを、結局「ソード」が聞くことはなかったのだ。
 ふらついていた眸がやがて焦点を結び、のぞき込むシバの赤眼を映し――
「‥‥え‥‥?」
 どこか呆けたその声の、違和感。
 頬に触れていた指先が、凍りつくようにビク、と止まる。
「シ‥バ‥‥ガーランド‥‥?」
「‥‥‥‥!」
 かすかに呟いた少年の、手に取るように感じ取ることの出来る、その魂の気配はしかし、懐かしい旧友のものではなかった。
 使い魔からの報告には無かった、予想外の事実を知ると共に、こらえようもなく膨れ上がる苛立ちと、沸き上がる焦燥に似た何かが、触れる指先に込められた。
 一呼吸遅れて半身を起こし、後ずさろうとする少年の頤を、逃すことなくそのまま捉える。
「‥‥ソードはどうした‥‥!」
 低く、魂を震わす声に、鈎爪にとらわれた小動物のように、少年はただ、震えた。
 骨身を軋ませる怪我の痛みと、恐らくは不安と恐怖の中、身じろぎすることさえ叶わぬながらも、少年は何かを言おうとする。が、言葉は声にならぬまま、僅かに唇を震わせるのみだ。
「ソードはどうした。‥‥答えろ」
 抑えた、それでいて鋭い一喝に、少年の身体がビクン、と震え上がる。
「ソ、‥‥ソードさんは、いま、眠って‥‥」
「?‥‥どういうことだ」
「い、一度封印されて‥‥復活したけど、でも、それも不完全で‥‥力を維持出来ないと、すぐに休眠しちゃうみたいで、それで‥‥」
 恐怖に引きつった裏返りそうな声で、つっかえつっかえ少年は言った。
 たどたどしい、今ひとつ要領を得ない説明に、それでもシバは何とか彼の言わんとするところを理解した。
 頬骨に手をかけたまま、恐怖と不安が明滅する、黒目がちの眸をのぞき込む。
 ‥‥人間界に降り立ち、人の身体に宿ったソードを見たあの時、不思議なほどに違和感は無かった。
 それは人の子としても華奢でひ弱で、本来のソードよりもはるかに幼く、似ても似つかない姿であった筈だ。
 なのに、紛れもなくそれがソードだと、シバには何故か一目で解った。
 それは口元の牙のせいか、変わらぬ鋭い眸の故か。
 否――
 それら全てを顕現させる、紛うことなき魂のかたち。
 計り知れぬ可能性を秘めたそれは、不安定な人間ヒトの身に宿りながらも、その脆弱さをねじ伏せるほどの凄まじい力を放っていた。
 人間ヒトの身体で魔力に抗し、体格、そして面射しさえ変え、本来の姿に近付けて――
 だが、いま目の前で怯え、震えている、只人に過ぎぬ少年の姿からは、その力の片鱗すら感じられない。
 シバは突き放すように手を引いた。
「あ」
 不意に平衡を失った少年が、敷藁の上でぐらりとよろける。
 端正な眉がわずかにひそめられた。ソードとはまるで違う無様な仕草に、失望とも落胆ともつかぬ、不快な苦味がわだかまっていく。
 シバはマントを翻すようにして、そのまま少年に背を向けた。そこに居るのがソードではない以上、もはや留まる理由は無かった。
 何より、いつ目覚めるとも解らぬ彼を、ここで待つ時間が今のシバにはない。
 だが――
「‥‥ごめんなさい」
 背に呟かれた小さな声に、シバは戸口の前で足を止めた。次いで、耳朶を打つかすかな嗚咽に気付き、振り返る。
「‥ごめんなさい‥‥ソードさんじゃ、なくて、ごめんなさい‥‥!」
 ‥‥ボロボロと涙をこぼしながら、詫びる言葉を繰り返す少年に、シバの無表情が僅かに、揺れた。



 痛む心など、シバには無い。
 ただ、理解し難い情動に対する興味をほんの少しだけそそられて、シバは彼に問いかけた。
「何故、お前が詫びる?‥‥」
 寝台の上で座り込んでいた少年が、一瞬ひくりと身を震わせ――目を伏せたまま、虚ろに呟いた。
「‥‥親友なんだよね、ソードさんと」
 頬に残る涙とは裏腹な、奇妙に色のない、乾いた声。
「だから、会いに来たんでしょう?‥‥戦って、どっちかが死ぬ前に」
「‥‥‥‥」
「なのに‥‥ぼくのせいで‥‥」
「‥‥お前には関わりのないことだ」
 慰めるでも突き放すでもなく、シバは淡々と事実だけを述べた。
 先刻の話から推測するに、ソードの魂を「封印」したのは、宿主たる眼前の少年ではない。
 また、無様なまでの身のこなしや、人の子としても貧弱な体つきを見るに、ソードが意図してこの少年を宿主に選んだとは思えなかった。
 かねてよりずっと執心していた例の天使との戦いのさなか、次元の界面を突き抜けたと聞いた。恐らくは余裕のない状況で、他に選ぶ余地がなかったのだろう。しかもソードの性格を思うに、宿主として契約を結ぶ訳もなく、強引に肉体を乗っ取ったに違いないのだ。
 双方の不運を思いこそすれ、それに抗することも出来なかっただろうこの脆弱な人の子に、「己がせい」と言わしめるほどの影響力があろう筈もない。
「‥‥でも、もしかして、ぼくの何かが封印を解く邪魔をしたのかも知れないし‥‥今、必要なのはぼくなんかじゃなく、ソードさんなのに‥‥」
 ‥‥血と泥にまみれたソードの姿を、無様だと思ったことは一度もなかった。人の姿を借りてさえ、なお。
 なのに今、同じ身に宿るこの少年が、シバには無性に苛立たしいものに思えた。ソードなら決して口にせぬであろう、埒もない繰り言のせいかも知れない。
 何にせよ、元より僅かだった興もそこで尽きた。
 シバは再び背を向けようとして――ふと眉を顰め、足を止めた。
「‥‥人間よ」
「‥‥え?」
「私とソードのことを、何故知っている?」
「だって‥‥そう言ってたから。ソードさんも、あなたも、あのソドムっていう悪魔も」
 先程の怯えとは裏腹に、少年はどこか無防備に答える。
「‥‥お前はそれを、ソードが戦っていたあの時に知ることが出来たのか?」
「?‥‥うん」
 ‥‥黙したまま、シバは少年に向き直った。
 感情の解らぬ赤眼に射られ、幾分の怯懦を滲ませながら、それでも少年は目を丸くしたまま、目前の魔物を見返してくる。
 それは果たして昂じた恐怖に呆けてしまっているだけなのか、それとも、未だ知り得ない、隠された胆力のゆえなのか。
 ‥‥今のところは、まだ解らない。
「‥‥ソードの宿主となってから、あれと意志を通じる機会はあったか?」
「え‥‥うん‥‥この前半端に復活してからは、ぼくと入れ替わるんじゃなくて、ここんところに」
 と、手の甲の、悪魔の卵の文様を示す。
「こう、多分その時に使えるだけの魔力で、ちっちゃく出てこられるようになったから、それで‥‥」
「‥‥ソードとは、契約を交わした訳ではないだろう」
「うん‥‥どっちかっていうと『不法占拠』って感じかな」
 困惑とも諦めともつかぬ愛想笑いに、何故か不快な色はない。
 言葉面とは裏腹に、彼は明らかにソードの寄生を許容しているようだった。それどころか、自身を見舞った運命を知って尚、肉体の行使を明け渡すことを望んでいるような物言いをする。
 ‥‥少年を見つめたまま、シバは再び黙り込んだ。
 奇妙だった。
 魔族が人間に乗り移る時、状況は二つに大別される。すなわち、強引に肉体を乗っ取っての寄生と、宿主としての契約を結ぶ場合だ。
 前者は元より、仮に契約を成し得たとしても、それを維持出来る人間は少ない。魔導に通じた術者であるか、身を守るための膨大な知識と余程の意志力を持ち合わせぬ限り、肉体を乗っ取られるのと変わらぬ結果が宿主を見舞うことになる。
 人の魂はあらゆる面で、魔族に比べるとどうしても弱い。大方は魔族の影響を受けて、まずは性向が引きずられる。元の人格がどうであれ、徐々に宿した魔族に似ていくのだ。昂じると魂が変質し、人たりえぬ状態になった挙げ句、魔族に吸収されてしまう。
 並はずれて強固な意志力があれば、いっとき、それを免れることは出来るかも知れぬ。
 だが、魔力の制御とは結局のところ、人間ヒトの限界の向こう側にある。いつか遠からずその時が来たれば、傍目には変わらぬ肉体の中で魂だけが消耗し尽くし、魂魄死を迎える羽目になる。
 契約を交わしてさえそれなのだ。強引に寄生した場合はなお悪く、人の魂などそれだけで押し潰され、消し飛んでしまうことがほとんどである。
 何とか肉体にしがみつき、長らえることが出来たとしても、結局は同化し、吸収されるか、魔力にあてられて発狂するか。あるいはいつか使い尽くされるまで、寄生した魔族に燃料として利用されるのがせいぜいだ。
 唯一例外があるとしたら、宿主となった人間の魂が相手のものよりも桁外れに強く、魔族の力をその魂ごと逆に取り込んでしまう場合だが――そんなことは例外中の例外だ。ましてや、目前の少年は、このいずれにも該当していない。
 ――あり得ない。
「え‥‥あ?!」
 気付いた少年の声より早く、シバは一瞬で間を詰めると、細い頤を再び捉えた。
 ぽかんと口を開けていた少年が、一拍遅れて逃れようとするが、遅い。
 か弱いあがきを指先だけで封じ、ぐいとその顔を上向かせると、まだ潤んでいる黒い眸を、光彩を細めてのぞき込む。
「な‥‥何?‥‥」
 震える声には答えぬまま、シバはその奥に映るものを見た。
 魔族としてのソードの魂は、強い。かつて魔王の片腕にまで昇りつめたシバにも引けを取らぬほどの、末恐ろしい力を秘めている。天界人の血を引く「貴族」を除いて、魔界における上級・下級とは、実力とは何ら関わりのない、便宜上の身分に過ぎないのだ。
 それほどの力を持つ魔族の魂に一方的に寄生されてなお、この少年の魂は、魔力にあてられた様子もなく、未だ正常な状態のまま残っている。
 それどころか、自身が肉体を行使していない時も明晰な意識を保ち続け、その記憶までを共有しているのに、短気で苛烈なソードの性格に影響を受けている風でもない。
 ならば一体――
「お前は‥‥何者だ?‥‥」
 魂を震わせる言霊をこめて、低く、シバは問いかけた。
「ソードではない」という理由だけで、気に留めることなく無視していたそれ――宿主たる少年の魂を、魔族の視覚で改めて捉える。
 ソードが手に入れつつある新しい力。
 その源は本当に、特異な力など何ひとつないような、この人間の中にあるというのか?‥‥
 食い入るような魔力の視線を受けて、それを知覚出来ぬはずの人間の魂が、竦んだように、小さく、震えた。



「えと、あの‥‥」
 永劫のような数秒の後、沈黙を破ったのは少年の方だった。
「何者、って言われても‥‥ぼく普通の人間だし‥‥」
「‥‥確かに」
 冷えた無表情を崩さぬまま、答えるでもなく低く呟く。
「紛うことなき、人の魂だ。ソードの魔力に病んでもいない。だが‥‥」
 ――弾かれた。
 我知らず苦く目を眇める。
 が、ほんのかすかなその変化に、少年が気付いた様子はない。
「いや、あの、だから『何者』ってどういう‥‥それにぼく、元々身体弱いのにソードさんが無茶するから、ここ最近いつも怪我とかで思いっきり病んでるけど‥‥」
「‥‥‥‥」
 的はずれで気の抜けた返答を無視して、シバは静かに手を引いた。呼気と共に集中を解き、のぞいていた魂の深部から、通常の位相に視覚を戻す。
 眸の表層で視線が合うと、その中に一瞬の怯えがよぎった。が、それが本当の恐怖ではないことを、シバは既に知っている。
「‥‥魔導士でもない人間が魔族の魂を受け入れた時、普通どうなるか知っているか」
 腰が抜けたようにへたり込んだまま、涙目で顎をさすっていた少年が、驚いた猫のように小さく跳ねた。
 様子を伺うような少しの間の後、ようやくおずおずと口を開く。
「う、うん‥‥ソードさんが出てる時に何回か見た‥‥ような」
「その者達は人のままでいられたか?」
 記憶を辿るように少し黙ってから、少年は首を横に振った。
「病院にいた子供は、本人の意識はなくなってたみたいだったなあ‥‥君島くんは意識はあったけど、何かおかしくなってたし、身体も悪魔と混ざってたし‥‥」
「――お前はどうだ?」
「え‥‥?」
「全ての答えは、そこにある筈だ」
「そ、そんなこと言われても‥‥」
 黒い眸が動揺に揺れた。目前の魔物を何度も見上げては、その都度赤い眼に怯えたように、視線が所在なく周囲をさまよう。
「解らないか」
「‥‥解らないよ‥‥」
「嘘だな」
「ぇ‥‥」
 僅かに、少年が身を固くした。‥‥少しの沈黙の後、目を伏せる。
「‥‥嘘じゃない」
「ならば、お前が気付きたくないだけだ」
 皮肉の響きと共に、付け加える。
「魔界まで来て、まだ逃げるか」
「逃げる、って‥‥何から‥‥?」
「それはお前自身が知っている筈だ」
「――‥‥‥‥」
 何かを言いかけて口をつぐみ、うつむいた少年の手の中で、握り締めた藁が枯れた音を立てた。
「‥‥逃げられるものなら逃げたいよ」
 高い窓から吹き込んだ風が、二人の髪を少しだけ、揺らす。
「神無みたいに強くないから、ソードさんの代わりに戦える訳でもないし、みずのさんと違って魔術の才能もないし。‥‥ぼくが何やっても駄目なんだよ。この身体は確かにぼくのだけど、今、この場に必要なのは、ぼくじゃなくてソードさんなんだから」
 風に乗り、地の底の魔物の咆吼が響く。
 少年の言葉を追うように――同じ絶望と虚無を含んで。
「大体よく考えてみたら、最初から無茶すぎる話なんだよね。だって暗黒魔闘術って、魔力を圧縮して使う技なんでしょう? ‥‥なら、人間のぼくに出来る訳ないよ。『魔導士じゃない』ってさっき言ったよね。それって、ぼくには魔術が使えないってことで、つまり魔力も扱えないってことなんでしょう?」
 見上げてきた少年の眸には、先刻はなかった深い虚無があり、声には乾いた諦観があった。
 ‥‥束の間、シバを真っ向から見詰めて、しかし、視線を逸らして、またうつむく。
「とりあえず、ソードさんが起きた時のために、どうにか身体くらい鍛えておくしかないけど‥‥でも、それもぼくにはどこまで出来るか‥‥」
 震える声は徐々に小さくなり、消えた。
 断続的な風鳴りの中、悄然たる魔物の哭き声が絶え、やがて沈黙が横たわる。
 シバは変わらぬ無表情で告げた。
「――泣き言は終わったか?」
「‥‥‥‥!」
 俯いたままの少年の眸が、ピクと震え、見開かれる。
「言うだけ言って気が済んだら、己の為すべきことを考えるがいい。‥‥他に道はないのだからな」
 少年が緩慢にかぶりを振る。
「ぼくに‥‥何が出来るって‥‥」
「ソードの負わねばならぬものは大きい。‥‥だが、今そのソードを負っているのは、お前だ」
 シバは遠く窓の外を見やった。
 破門されたあの日以来、この塔を訪れたことはなかったが、広がる蒼穹は昔と変わらない。
 かつてこの塔と師の存在を、ソードに教えたのはシバである。破門の原因となったソードが受け入れられるとは思えなかったが、万に一つの可能性に賭けた。
 己の命は諦めていたから、それに巻き込まぬよう遠ざけて――それでも、せめて力だけは、彼に託したいと思ったのかも知れない。
 だが結局、思惑はことごとく裏目に出た。
 己一人で負うはずであった枷は、今やソードをも縛してしまった。その魂を持つ人の子も共に。
 遠ざけようとしたそれこそが、あるいはソードの運命だったのか。闇雲にそれを変えようとした、己の不遜なあがきこそが、全ての過ちの源であったのか――
 何にしろ、もはや後戻りは叶わない。
「望むと望まざるとに関わらず、『己である』ということと、それ故に負ったものからは逃がれられない。‥‥人も、魔族も」
 我知らずこぼれた呟きには、かすかな自嘲が滲んでいた。
 呆けたように目を上げた少年が、怪訝にシバの視線を追い――
「じゃあ‥‥あなたは、何を背負ってるの?‥‥」
 言葉を探すような少しの間の後、どこかためらいがちに、ぽつりと言った。



 ‥‥窓の向こうで雲が移ろい、陰っていた陽が再び射し込む。
 答えぬまま、シバは少しだけ目を細めた。
「ぼくもソードさんも、死の刻印の方に頭が行っちゃって、すっかり忘れてたけど――この卵」
 と、手の甲に浮く紋章と、答えないシバの横顔を、黒目がちの眸が交互に見やる。
「あの時ソードさんを殺さなかったのは、別に友達だからって訳じゃないよね。‥‥途中まで、どう見ても本気で殺そうとしてたし」
「‥‥‥‥」
「なのに、急に思いついたみたいにして、六十六日っていう期限を切って――これを持つ者としてふさわしいかどうか、みたいなことを言ったよね。‥‥もしソードさんがあなたを倒して、死の刻印の呪いを解いたら‥‥それでどうなるの?」
 否定も肯定もない沈黙に、少年はさらに言葉を重ねる。
「あの時すぐ取り返せたはずのものを、自分が死ぬかも知れない条件を付けてまで、ソードさんに持たせておくなんて――変だよ。それであなたに何のメリットがあるのか、全然解らない。‥‥あなたの方にも、ただこれを持って帰ればいいって訳じゃない、もっと複雑な事情があるんじゃないかってことは、あの時ソードさんも言ってたけど――」
「‥‥それはお前の知ることではない」
「知られたくない理由なんだ?‥‥」
 赤い眸がピク、と動き、視界の端に少年を捉える。
「ぼくに? それともソードさんに? ‥‥両方かな。同じ身体だから、どっちに言っても多分筒抜けだしね」
 今や恐れより疑問の勝る目で、少年はじっとシバを見上げた。
「さっきの話からして、正直ぼくが――っていうか、この身体の持ち主が、ソードさんと一緒にまだいるなんて、あなたは考えてもいなかったんだよね、多分」
「‥‥‥‥」
「でも、予想外の存在だった筈のぼくには、また別の予想外の何かがあって、それはソードさんの役に立ちそうなことで――でなきゃ『逃げるな』とか言わないだろうし。てことは‥‥」
 少年は決然とシバを見上げた。その眸にはかつて見せなかった、強い意志の光があった。
「あなたは多分、これを持たせておくことで、ソードさんに何かを賭けたんだ。それが叶えば、自分が死んでも構わないほどの何かを。‥‥そのためにはぼくに逃げられちゃ困るし、他にも偶然、ソードさんのために都合のいい、何かの利用価値がぼくにはあった。‥‥違う?」
「‥‥急に腹が据わったようだな」
 彼の問いには答えぬまま、シバは皮肉に口の端を歪めた。
 だが――
「違うよ。‥‥あなたがソードさんの親友だった、ってことを、改めて思い出しただけ」
 少年は少しだけ遠い目をした。
「だから多分、みんなソードさんのためなんだ。‥‥あの時この卵を取らないでおいたのも、死の刻印で期限を切ったのも」
 その言葉には、先程と同じ虚無に加えて、何故か羨望の響きがあった。
「なのにその期限前に、あなたはソードさんに会いに来たんだよね。‥‥それがどういう事情なのか、ぼくには解らないことだけど」
 ‥‥シバの氷の無表情が、揺らぐ。
「でも‥‥ぼくが居なかったら、会えたのになあ、って‥‥どうせぼくの利用価値なんか、最初から計算外だった程度のものなんだから‥‥」
「‥‥泣き言は聞かんと、言った筈だ」
 遮るようなシバの言葉に、「そうじゃない」と少年がかぶりを振る。
「人間が暗黒魔闘術をマスターするのはやっぱり無理だと思うし、それ以外にぼくに何が出来るのかは、考えてみても、解らない。‥‥それは本当だよ」
 先程までの話の筋が、その言葉で微妙にすり替えられる。
 シバはそれを口にしようとして――やめた。
 真摯に見上げてくる眸の奥に、ソードの知らぬ互いの事情にはあえてこの場では触れるまいという、縋るような思いが見て取れたからだった。
「‥‥見えていても、気付かぬことはいくらでもある」
 その意を汲んだ暗黙の印に、相反する言葉でそれを受け、シバは静かに話し始めた。
「‥‥ソードの『封印』が完全に解けなかったのは、確かにお前のせいのようだ」
「え‥‥」
「正確には、封印そのものは解けている筈だ。‥‥だが恐らく、魂の段階レベルでお前が完全に意識を失わない限り、ソードがお前を表層から押しのけて入れ替わることは出来ないのだろう」
「それって‥‥どういう‥‥?」
「‥‥どうやらお前には『力』を拒む、何らかの才があるらしい」
 言いながら、眸を通して魂を探った先程の感触を思い出す。
 魔導士でも、ましてや聖者でもない。魔族や旧き神々の血を引いているような気配もない。只人であることだけが確かだった。
 魔力を含んだシバの視線は、にもかかわらず、弾かれた。魂の表層に触れたのみで、その奥を探ることは叶わなかったのだ。
「それって‥‥前に来た処刑悪魔の女の子が言ってた、アンチマジックみたいなもの?‥‥」
「さて‥‥どうかな‥‥」
 魔力を無効化する能力は、魔族には稀にある特性だ。シバの麾下にあるガーベラも、それがために単なる一兵卒ではなく、処刑者として取り立てられたのだ。
 だが、その力が魔族のみならず、魔力を持たぬ人間の中にも存在し得るものなのか、それとも彼一人の異能であるのか、判断する術がシバにはなかったし――今、重要なのはそのことではない。
「魔力に病まず、魂も浸食されない。‥‥力の源が何であるにせよ、人間ヒトにはそれ自体が希有なことなのだ」
 今ひとつよく解らぬ風で、少年が怪訝に首を傾げる。
「それがぼくの力って言われても‥‥やっぱり何だかピンと来ないなあ‥‥」
「だが、ソードを受け入れることが出来た人間が、真に無力である筈はない」
 低く、色のない声音の中に、我知らずかすかな苛立ちが籠もる。
「その力を拒んでいるのは、お前自身だ」
「え‥‥」
 不意に垣間見えた感情の片鱗と、突きつけられた言葉の意味に、少年が茫然と目を丸くした。
「ソードが戻れないのも、そのためだろう。‥‥お前自身は無意識かも知れないが――」
 絶句したままの少年に気付き、再び感情を押し殺す。
「‥‥それでも、力を拒むというお前の意志が、今はソードの意志を凌駕しているのだ」
「そ‥‥そんな、まさか‥‥」
 シバは常になく饒舌に続けた。
「ソードがお前の身体で本来の力を発揮出来ないということは、お前が魔族の力を利用出来ないというだけではない。お前自身も、人としての己の能力ちからを十分に活用出来ていないということだ。‥‥思い当たることがあるのではないか?」
「そ、そんなこと言われても、ぼくに力とか才能とかがあった試しなんて――‥‥」
 慌てて言いかけた否定はしかし、はっとしたようにシバを見上げ、止まった。‥‥ばつが悪そうに俯いて、言葉なく唇を噛みしめる。
 習い性というのは厄介なものだ。目を逸らしていたことに気付いたからとて、一度魂に染み着いたものは、そう易々とは変えられない。
 だが、それでも――ソードを受け入れた少年に、不可能なことなどありはしないのだ。
「‥‥お前が何者であるのかは、恐らくこの塔で明らかになるだろう」
 シバは再び窓の外を見やった。
 つられて顔を上げた少年が、視線を追って蒼穹を見上げる。
「魔力はなくとも、魂と肉体を鍛えることは出来る。‥‥リルルはまだ幼いが、師としてはとうに一人前だ。暗黒魔闘術のみならず、お前に真に力あるなら、それを引き出してくれるだろう」
「‥‥顔に似合わず厳しいからなあ、リルルちゃんは」
 思い出したように冷や汗を浮かべ、真新しい傷をさすって苦笑する少年に、シバも少しだけ、口元を緩めた。
 彼を蝕む虚無と絶望が、なにゆえのものなのかシバは知らない。
 だが、追いつめらた時に顔をのぞかせた、旺盛な好奇心と洞察力と、それを口にする無謀なまでの勇気――それこそが、恐らくは彼の本質なのだ。
 小動物めいた不安と怯えは、戦わず、そのための力をも拒み、逃げ道を探し続けるための、自身をすら騙す隠れ蓑に過ぎない。
 己の力を知らぬ者は、それ故に己を信じないものだ。そうした人間が恐れているものは、実のところ他者ではなく、己自身に他ならない。
 少年がそれを乗り越えて、『力あること』を受け入れさえすれば、今は眠っているソードとの入れ替わりも自在に出来るようになるだろう。
 その時こそ、ソードと彼は真に共存することが出来る。
 未だ底の知れぬその力――ソードの意志をさえ凌駕する力を、同じ思いの元に行使出来る時が、いつか訪れるに違いないのだ。
 だが、それには、まだ多くの時間が必要となるだろう。
 死の刻印の発動までには、恐らく間に合わぬであろう長い時間が――
「‥‥人間よ」
「は、はい?」
 不意に静かに呼びかけたシバに、少年がビクリと目を上げた。どこか改まったその空気に、慌てたように居住まいを正す。
「‥‥時が来る前に、お前の名を聞いておこう」
「え、あ‥‥天野――」
「我が名は、シバ・ガーランド」
「双魔‥‥天野双魔」
「覚えておこう」
 ゆっくりと、シバは頷いた。
「‥‥だが、お前は、一度死ぬことになるだろう」
「え‥‥?!」
「ソードに力を明け渡すために、な」
 至極淡々と告げられた言葉に、少年がぎょっとして目を剥いた。
「ち、ちょっと待って‥‥それってどういう‥‥?!」
 寝台の上で顔色を変えた少年に、シバは長い指をすいと伸ばした。恐慌を来して震える頬に触れ、そのまま、額に掌を滑らせる。
「?! あ‥‥」
「だから――」
 正体の掴めぬ力に弾かれ、奥を探ることは叶わずとも、表層の記憶に触れることは出来る。
「忘れてしまうがいい‥‥今日のことは、全て」
 掌に魔力を込めると同時に、黒い眸からふっと光が消えた。
「でなければ、お前は私と戦えまい?‥‥」
 間を置かず、焦点を失った目に瞼が落ち、全身の力がかくん、と抜けた。
 倒れ込む身体を受け止めて、寝台の藁の中に横たえる。

「そうして、全て忘れたら――」

 もう聞こえぬであろうことを確かめた後、そっとその頬に触れて、囁く。

「‥‥恐怖と、闘志だけを持って、私の元に辿り着くがいい――」

 ‥‥ソードの宿るその身体を、しばし愛しげに見詰めてから、シバは身を静かに起こし、二度と振り返らぬまま、踵を返した。



 冷えた石組みの階段を下り、戸口をくぐって塔を出ると、ザァ、と風が吹き抜けた。
「‥‥人間じゃあ‥‥ここらへんが限界かなー‥‥」
 それに乗って届いた呟きと共に、しばしの間鎮まっていた地の底の虜囚たる魔物達が、一斉に蕭々たる唸りを上げ始める。
「シバ兄ちゃん」
 台座のような岩に腰掛け、細い足をぶらつかせていた少女が、ぱっと顔を上げてシバを見た。
「もう、いいの?」
「ああ‥‥用は済んだ」
「ふうん‥‥」
 少女は厚いブーツの先でトントンと足下の岩を蹴り、どこか不思議そうにシバを見た。
「何かいいことあったの? シバ兄ちゃん」
「‥‥何故、そう思う?」
 思わず怪訝に聞き返したのは、なにがしかの自覚があったためかも知れない。
 少女は豊かな赤い髪を揺らし、周辺の穴に視線を巡らせた。
「いつもより魔力が強いもん。‥‥サイクロプス達が怯えてるよ」
「‥‥そうか」
「魔力を抑えられないほどシバ兄ちゃんが浮かれてるなんて、珍しいの」
「‥‥‥‥」
 無言のまま、シバは少女の前を通り過ぎた。
「もう帰っちゃうのー?」
「ああ。‥‥――リルル」
 背を向けたまま、シバは足を止めた。
「何?」
「‥‥奴を、頼む」
 少女はぴょこりと岩から飛び降り――思わず追おうとした背の前で、何かを感じたように足を止めた。
「うん。‥‥約束、だもんね」
「‥‥頼む」
 重ねて言ったシバに、少女が笑う。
「シバ兄ちゃんの言ってたソードの方はともかく、あの根性無しの人間はどうか解らないけどねー」
 そうして、ふいと真顔になって、言った。
「‥‥でも、リルル、約束は守るよ。ちゃんとね」
「ああ‥‥」
 シバは頷き、再び歩き出した。
 陽炎の立ちのぼる荒野の果てに待つ、遙か古の決戦の場、死の闘技場へと向かう道のりを――

「待っているぞ、ソード。――そして、天野双魔」

 彼方を見据えたかすかな呟きは、砂塵を巻き上げる風に乗って、消えた。
―― 「サイケデリック・ブルー」 END ――

(発行・2004/12/29 再録・2010/09/26)