◇ 薬局へ行こうよ ◇


 
 影サタン様は夏のある日、いつもの憂鬱を紛らわそうと、人間のふりをして街へ出た。

 最近手に入れたお気に入りのジーンズは、どうやら本物のヴィンテージらしく、色の落ち加減もいい感じだ。
 他にお気に入りだったエンジニアブーツや、カナリヤ色のダッフルコートは、もう季節柄着られなかったので、ジーンズに合わせた適当なTシャツと、MBTのスポーツとかいう踏み心地の面白いスニーカーを履いて、サタン様はいつもの薬局へ向かった。
 薬局と言っても最近の行きつけは「郊外型の大型チェーン店」とかで、薬以外にもお菓子や弁当や、ちょっとした生活雑貨なんかも扱っている。規模が大きくて品揃えもいいので、最近サタン様は「こんびに」よりもこちらに寄ることが多かった。
 クーラーの効いた店内に入ると、いつものようにシャンプーの新製品や色んな種類のサプリメント、ボディケアグッズなんかを見て歩く。
 でもシリコン系は頭皮に悪いから、シャンプーはやっぱりパックスナチュロンだよね。なんて人間っぽい蘊蓄を呟きながら、「桜の香り」とある入浴剤や、面白い形のお風呂スポンジを見つけて、買い物かごに放り込む。
 そうして広い店内を廻り、医薬品コーナーにさしかかった時。
「――なあ、よォ、神無」
 不意に飛び込んできた覚えのある声に、サタン様は思わず立ち止まった。
「メモに書いてある『ふぇいたす』ってのはコレとコレのどっちだ?」
「親父が使ってるやつか。ならこっちのローションだな」
 人目もはばからず大声で話しながら、薬品棚の前で品定めしている、人ならぬ気配には見覚えがあった。シバの絡みで邪魔をするので、以前ちょっと遊んでやったことのある、上級天使と下級悪魔というおかしな取り合わせの二人組だ。
 でも、よく見たら天使の方は、その身にまとうオーラの色も、身につけている服のセンスも、前とはまるで違っていた。どうやら魂が休眠中で、表層に出て話しているのは、さっきソードが「神無」と呼んだ宿主の人間の方らしい。
「えーと‥‥次の『オンセンの そ』ってのは何だ?」
「だからそれは『もと』と読むんだ。いい加減学習しろ」
 ‥‥馬鹿丸出しもいいところの会話に、サタン様は何だか鬱になった。しばし忘れていたはずの、嫌な気持ちが蘇ってくる。
 シバが自分を嫌っていて、そのせいで色々と逆らってくるのは、もうどうしようもないと諦めていた。が、あの下級悪魔の存在が、シバの暴走に拍車をかけたのは間違いない。おかげでとうとうサタン様は、対外的な処断とはいえ、シバを粛清しなければならなかった。
 かなりあからさまな反逆行為さえ、苦労して何度もかばってやったのに、それが全部無駄になってしまったあの時の疲労感は忘れられない。
「全く‥‥」
 思わずサタン様は溜息をつき、いつもの口癖を呟いた。
 何度考えても解らない。シバはこの馬鹿の一体どこが、それほどよかったと言うんだか――
 と、ぼんやり思ったそこまでが全部、うっかりと声に出ていたらしい。
「――誰か馬鹿だ!!」
 ダン! と音を立てて悪魔の方が振り向き、しかし、サタン様の姿を見た途端、茫然と目を丸くした。
「て、てめえ、なんでこんなところにいやがる?!」
「ふ‥‥馬鹿なことを」
 一応魔王っぽく立ち姿を決め、サタン様はうんざりとかぶりを振った。
「買い物に決まってるだろう」
「決まってるのかよ!」
「カゴ持ってシャンプー入れてるしな」
 妙に冷静に口を挟んできた神無とかいう人間の方に、サタン様は興味の目を向けた。
「ほう。僕に突っ込みを入れてくるとは、面白いな、君は」
「スーパードラッグでシャンプー買ってる魔王の方が面白いけどな‥‥」
「桜の入浴剤も買うつもりだよ」
「それにしてもうまく人間に化けてるな。そのジーンズどこで買ったんだ?」
「――てめーら何となく意気投合してるんじゃねぇー!!」
 ジタバタ、ゼエハアと地団駄を踏むソードに、サタン様と神無は何故か同時にくるりと向き直った。
「ソード、君は少し勘違いをしているね。僕は今日、買い物に来ただけのことなんだよ」
「という訳だ。今日のサタンは本気じゃないぞ」
「そーゆー問題じゃねー!!」
 相変わらずじたばたとやかましいソードに、サタン様はちょっとむっとして、ついと天を指さした。
「な、何だてめえやる気――ぐぁッ?!」
 セリフを全部言い切る前に、脳天にどんっ! と衝撃が落ち、ソードはぐたりとへたばった。
「て、てめえ‥‥!」
「――頭痛の刻印」
 立ち上がろうとしてよろめきながらも強気に睨みつけてくるソードに、サタン様は親切に教えてやった。
「悪魔にお仕置きをするための呪いだよ。その刻印を受けし者には、6時間後に死ぬほどの頭痛が訪れるんだ」
「死の刻印に比べると、ずいぶん些細な呪いだな‥‥」
「まあ、たかだかお仕置き用の呪いだからね」
「て、てめえら~~~~~~!!」
 よれよれとソードが立ち上がり、サタン様に殴りかかろうとしたが、
「まだ懲りないのかい。あまりうるさいと腰痛の刻印とか、猫の刻印とかを追加してやってもいいんだよ?」
「何なんだそりゃあ?!」
 あまりの得体の知れなさにか、叫びながらもソードは踏みとどまった。サタン様を睨みつけ、悔しげにギリギリと歯噛みする。
「で、その刻印はどうやったら解除出来るんだ?」
 苦笑とも呆れともつかない表情でそのやりとりを見ていた神無が、なだめるように割って入った。
「こいつの頭痛なんか俺の知ったことじゃないが、身体は弟のものだからな。あんまり痛めつけられても困る」
「何だと!!」
 早速ソードが食い付くが、神無が取り合う気配はない。
 でも同時に、大声で騒ぐわ倒れるわで、すっかり衆目を集めてしまっているソードを、さりげなく助け起こしてやったりもしているのを、サタン様は目の端で捉えていた。猫の首根っこを掴むみたいな、何とも大雑把な仕草だったが、それでも気配りには違いない。
 ‥‥自分の存在を「なかったこと」にして、長いこと封印したままだった薄情な兄弟を思い出し、サタン様は何となく目を伏せた。
 しみじみとした呟きが、無意識に口をついて出る。
「弟思いなんだな、君は‥‥」
「ま、成り行きってやつでな」
 どうやら前に会った天使と同様、こっちの身体に入っている方はまだしも話が通じやすい気がする。その上弟思いと聞いて、サタン様はちょっと機嫌を直した。
「じゃあ、今日のところは君に免じて教えてあげよう。‥‥頭痛が来そうになったら、すぐ頭痛薬を飲むといいんだよ」
 神無はちょっと険のある目を、何故かきょとんと丸くした。
「‥‥それだけか?」
「頭痛だからね。頭痛薬で治るに決まってるだろう」
 鷹揚に頷いたサタン様に、よれよれで神無に掴まっていたソードが、怪訝な顔をして言った。
「頭痛薬ってのは頭痛を起こす薬じゃねえのか?」
「‥‥何だって?」
「『しびれ薬』ってのはしびれさせる薬じゃねえか。ジダイゲキってのに出てたぜ。なら頭痛薬は頭痛にする薬だろ」
「‥‥‥‥‥‥」
 ‥‥ここまで馬鹿だとは思わなかった。と、サタン様は思わずこめかみを押さえた。
 確かに魔界はしばらく前から軍備の増強が最優先で、下級悪魔の教養教育に力を入れているとは言い難い。しかし、とはいえ、だからって、いくら何でもこれはないだろう。
 何だかこっちが頭痛になりそうだ。全くもってどうしてシバは――と、再びぐるぐるし始めた時。
「ああ‥‥まあ、そういうのもあるな」
 神無が真顔で頷いて、薬品棚から「ノーシン」と書かれた何かの小箱を取り出した。
「お前が言ってる方の『頭痛薬』はこっちだ。『脳の地震』を略してノーシンだからな」
「おお、やっぱりそうじゃねーか!」
「ただこれも、頭痛の時に飲むと逆に作用して、痛みが止まる場合もある」
「そ、そうなのか?!」
「勿論、いつ飲んでもいい普通の痛み止めもあるが、面倒なんでまとめて頭痛薬って呼んでるだけだ。使う時に間違うなよ」
「よし、解ったぜ! で、今オレ様が飲むのにいいヤツはどれだ?」
 茫然としたままのサタン様の前で、ソードは慌てて棚を漁り始めた。その後ろでは、神無が人の悪い笑みを浮かべている。目が合うと、黙ってろよ、とでも言うように、人差し指を口元に立てたので、サタン様はつられて頷いた。
 ‥‥嘘八百を並べてからかっている神無と、騙されてあたふたしているソードは、人間と悪魔で、赤の他人だ。人間の目には見えないが、オーラや魂の色だって全く違う。
 なのにどうしてか、サタン様にはその様子が、何だか本当の兄弟のように見えた。
 理由は全く解らない。でもそれは、決して二人の元々の身体が兄弟だからではないような気がした。
 ‥‥何とも言い難い不思議な気持ちに、サタン様は胸を押さえ、そっとその場を後にした。
 その気持ちが何だか解らないまま、カゴに入れたものをレジで精算し、まだ何ごとかを揉めているらしい二人の方をちらりと見る。
 気付いた神無がソードの後ろから小さく手を振って挨拶したので、サタン様も同じように手を振り返した。
 あとは振り向かずに店を出ると、広い駐車場のその上に、魔界ではあんまり見られない、高い青空が広がっているのが見えた。
 同時に、普段着ている魔王としての厚い服では解らない、夏の匂いを含んだ風がTシャツを通り抜けていく。
 夏っていいな。
 薬局っていいな。
 兄弟って、本当は、いいものなのかな――

 かすかな疑問に答えが出る日は、多分一生来ないだろう。
 サタン様は溜息ひとつついて、箱船に帰るため歩き出した。
―― 「薬局へ行こうよ」 END ――

(発行・2006/08/11 再録・2010/10/26)