※15巻136話と137話の間、神に操られたシェキルを斬った後、
いよいよ天界に向かう直前の隙間を縫ったエピソード。
いよいよ天界に向かう直前の隙間を縫ったエピソード。
◇ PEARL ◇
二人無言のまま帰宅した後、ソードがまずは冷蔵庫に向かったので、イオスは先にシャワーを浴びた。
返り血を浴びた制服は、丸ごと洗濯機に放り込んだ。
新しい服を身に付けて、濡れた髪を拭いてから、誰とも会わずに階段を昇り、自室の扉をパタン、と閉じる。
‥‥静寂が耳朶を打ったその瞬間、思い出したようにあの声が、耳元でリアルに蘇った。
『私を‥‥殺して‥‥』
視線を落とそうとした掌を、イオスはそのまま握りしめた。
肉を裂き、臓腑を断ち割る重い手応え。血のぬめり。
魔界で悪魔を手に掛けたとは言え、神無の身体ではついぞ知らぬ筈の、血肉を、命を絶つその酸鼻。
天使の身であった頃ならば、神の名の元にどれ程の悪魔を斬り捨ててきたか解らない。
だが――
‥‥こみ上げる吐き気をこらえるように、固く目を閉じ、イオスは唇を引き結んだ。
その時、
「――うおッ?!」
だしぬけに背後の扉が開き、どこか拍子抜けする声と共に、背中にどん、と突き当たるものがあった。
‥‥無意識に詰めていた息を吐き、イオスはゆっくりと振り返った。
「ソード‥‥頼むから、ドアはノックしてから開けて下さいよ」
「やかましい! 大体、何でこんなとこに突っ立ってんだよテメーは! 邪魔だってんだよ!!」
「私の部屋なんですから、どこに居ようと勝手じゃないですか」
「う、うるせえ!」
困惑気味にソードは怒鳴り、ずかずかと部屋に上がり込むと、勝手にイオスの衣装箪笥を漁り始めた。
いつものようにカラスの行水で、イオスが髪を拭いている間に、大雑把にシャワーを済ませたのだろう。下着一枚、肩にバスタオルを引っかけただけの姿で、髪からはまだ水滴が滴り、タオルのパイル地を濡らしている。
「‥‥ソード、まだ濡れてますよ」
「あ?」
見かねてイオスはタオルを取り上げ、まるで猫でも扱うように、屈み込んだその髪を静かに拭った。
「‥‥何だよ」
ソードが不快そうにかぶりを振ると、水滴がパタパタと床に散る。手を止めぬままイオスは言った。
「神無さんの服を濡らされては困りますから。‥‥文句があるなら、ドライヤーをかけてから来て下さい」
「‥‥ちッ」
舌打ちしたソードはそれ以上何も言わず、ごそごそと箪笥をかき回して、気に入りの服を探すことに専念した。
そうして、滴るほどの水気を拭き取り、タオルを持ったままそっと離れたが、ソードは気にした風もなく、次々と服を引っ張り出している。
チラと傍らの時計を見た。時間はまだある。幸いなのか不幸にしてなのか、今のイオスには解らなかったが。
濡れて重くなったタオルをたたみ置き、だが、それきり他にすることも思いつかない。
漠然とベッドに腰を下ろし――その視線が、ふいと膝の上の両手に落ちた。
‥‥本当は、この手が受けたのは返り血ではなかった。
こと剣術に関しては、天界随一とも謡われた身である。斬った相手の血を浴びるような、生半可な腕ではない。
じくじくと制服に染みていった血は、崩れ落ちたシェキルを抱き上げ、言われるままに治療室に運んだその時のものに他ならなかった。
腕の中で見る間に蒼ざめ、冷えていく彼を目の当りにするのは、何故かひどく恐ろしかった。
天使たる身に死の恐怖はない。
人のような輪廻もなく、魂が散じればそれで終わりだが、天使は皆、生まれた時から、己の役割を知っている。それぞれの意志と自我はあるとて、均しく神の御前においては、役割以外の個はないのだ。最初から、例え自身の命とて、失って困るものなどありはしない。
その筈なのに――
「‥‥おい?」
どこか訝しげな呼び掛けと共に、ぐいと顔を上げさせられ、イオスはハッと我に返った。
少しだけ身を屈めたソードが、間近からじっとのぞき込んでいる。
「‥‥何ですか? いきなり」
「ふん、案の定辛気くせえ顔してやがるぜ」
「‥‥元からこんな顔ですよ」
「神無はそんなツラじゃねーよ」
ほんのかすかな溜息をつき、イオスは静かに手を外させた。
「‥‥そんな話をしている場合じゃないでしょう。服が決まったなら、さっさと支度を――」
「――気になるのか? 奴が」
「‥‥え?」
イオスはギクリと目を見開いた。
‥‥傍らに、ソードがとすん、と腰を降ろす。
「あれっきしで死にやしねえよ、あの犬天使ヤローは」
思ってもみなかったその言葉に、頭を巡らせ、ゆっくりとソードの横顔を見やる。
「どうせ手加減したんだろうが」
「‥‥甘く見られてますね、私も」
「甘えよ、てめえは」
‥‥魂の奥がチリ、と痛む。
名状し難いいたたまれなさに、イオスは再び視線を落とした。
「‥‥そんなことを気に病んでいる訳じゃあ、ないんですよ」
「ふん‥‥そんなこと、と来たもんだ」
どこか棒読みの台詞めいた、感情の見えないソードの声。
「道理で、やけに思いっきりよくぶった斬ったと思ったぜ」
「おや、手加減したと言ったのはあなたですよ?」
「‥‥そう言うヤツだよな、てめえはよ」
イオスの言葉などまるで聞かぬげに、ソードの口調が、どこか怒ったようなそれに変わる。
「昔っから、悪魔でも弱いヤツは殺したくないとかグタグタぬかすくせに、いざ剣を持つと性格変わりやがる。そのくせ、さんざんザコ悪魔をぶった斬った後は、妙に沈み込んだ、嫌そうなツラしやがるしよ」
「‥‥だから、何が言いたいんですか」
「てめえのこった、どうせ最初は、奴に殺されてやろうとでも思ってたんだろ」
「‥‥違いますよ」
「けッ‥‥相変わらず、そう言う嘘は平気でつきやがる」
「嘘じゃありませんよ」
言ってから、ふと、付け加える。
「‥‥私の迷いやら力不足やらで他人に累を及ぼすのは、これが初めてではありませんから」
無感情な、淡々としたその言葉に、ソードが息を呑む気配がした。
野生動物のように見開いた目で、人を凝視する癖のあるソード。頬に感じるその視線が、凍ったように今は硬い。
「こう云うのを『懲りない』と言うんでしょうかね? ‥‥それとも――もう、馴れてしまったんでしょうか?‥‥」
ソードが何かを言いかけて、やめる。
イオスは疲れた笑みと共に続けた。
「私はね‥‥甘いけれども、全然優しくはないんですよ、本当は。そう‥‥悪魔のあなたよりも、ずっと」
‥‥度重なる絶望の末、ようやく思い知ったそれこそが、魂の奥底に深く根を張ったイオスの呪いに他ならなかった。
初めは天界で神無を斬った。
次にはソウルガーディアンで、力に呑まれてソードを斬り、そして今度は操られたシェキルを――
結果的に、イオスは彼らを殺さずに済んだ。
だが、それらの全ては紛れもなく、己の甘さと、迷いとが、制御し切れぬ嵐となって他者を巻き込んだことごとであり、自身の裡に深く沈む、変えようのない業のようなものが、悟性をねじ伏せた結果なのだ。
イオスがそれに気付いたのは、果たしていつのことだっただろう。
一兵卒として天界軍に加わり、やがて指揮官に昇りつめるまでに、無慮数千の悪魔を屠り――遅かれ早かれ、あまりに脆弱な敵を前に、自身の力が一方的な加虐の刃に他ならぬことを、思い知らずにはいられない。
だが同時に、誰と競うわけでもなく、身を守るにも過分にすぎるさらなる自身の力を求め、強者と戦うことを求めてしまう、何よりも強い衝動のようなもの――手にしようとした魔剣ルシファーに、逆に取り込まれる原因となった、全てを裏切る業深き修羅が、確かにイオスには巣食っていたのだ。
だからこそイオスは己を恐れた。何よりも赦せなかったのは、力及ばぬ自分ではなく、そのために全てを振り捨ててしまう、ひどく冷酷な己であった。
その現実を厭うあまり、無意識に力を封じ込めたのだろうか? 神無が易々と行使する、自身のものたる天使の力を、長いことイオスは使えなかった。
人の身を借りた初めのうちは、そう云うものだと思い込んでいたが、結局はそうではないことを知り、身動きならぬまでに追いつめられた。
そうして、力なくしては価値のない己をまざまざと思い知らされて、イオスは尚のこと打ちのめされたのだった。
この身が天使であった頃は、ソードと戦っている時だけが、束の間、その呪いを忘れさせてくれた。
『あなたと戦っていれば、他の悪魔を殺さなくて済みましたから』
そう、話したのはいつだっただろう。ソードは、まるで意味が解らない、と云うような顔をしていたが。
『何だ、そりゃあ‥‥』
『だからね‥‥私は人間界に落ちた時、あのまま死んでしまっても構わなかったんですよ‥‥そこに神無さんが倒れていなければ、ね‥‥』
しかし、現実はこの通りだ。結局、逃げることは出来なかった。
それでもまだ、迷いなき信仰と神の名の正義を、信じていられるうちは良かったのだ。
だが――
「‥‥知ってるさ、前っから」
ぼそり、とソードが呟いた。
「‥え?‥‥」
「てめえとツラ付き合わせてどのくらいになる? ‥‥今さらじゃねえか、そんなこと」
‥‥イオスはゆっくりと頭を巡らせ、傍らのソードの横顔を見た。
ソードはどこか所在なげに――上手く言葉にならない思いを持て余してでもいるかのように、濡れたままの髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。何か言いかけたように目を上げて、しかし、言葉は続かぬまま、小さなくしゃみをひとつする。
イオスは、あ、と周囲を見回し、タオルケットを引き寄せた。
「そんな格好でいるからですよ、湯冷めしてるじゃないですか」
「いらねーよ」
着せかけられたタオルケットを、ソードは無下に払いのけ――ふいと、真顔でイオスを見た。
心臓がとくん、と跳ね上がった。
同じ家で生活を共にし、何度戦ったか解らないイオスさえ、滅多に見ることのないその表情。
怒るでも茶化すでも笑うでもない、何か思案する時にだけ見せる、どこか大人びた素のままの顔。
「‥‥暖めろよ、てめえが」
「え?‥‥」
とイオスが問うより早く、呟いたソードが素早く動いた。冷えた腕が伸ばされた瞬間、視界がくるりと回転し、イオスはベッドに引き込まれていた。
導かれるままソードの上に覆い被さっていることに気付き、はっとして身を起こしかけ――それを、背に回されたソードの腕が、ぐっと力を込め、押しとどめる。
「え、あの‥‥」
「ムダ話したせいで冷えちまった。‥‥責任とれ」
「‥‥ええ?」
「どうせてめえは、これっくらいじゃ堕ちやしねえし――これから天界に殴り込むんだ。今さら、神の赦しがどうたらでもねえだろ」
表情を隠そうとするかのように、イオスの首筋に顔を押しつけ、ソードはどこかぶっきらぼうに言った。
「寒ぃんだよ。‥‥暖めろ」
「ソード‥‥」
冷えた身体と熱い吐息とを二つながらに感じながら、束の間、イオスは困惑した。
彼に触れるのは初めてではないが、決して己の意志からではなかった。宿主である双魔とも、求められるまま拒みきれずに一度きり身を重ねてはいたが、それとて痛ましく魂を締めつけた『救済』の二文字があればこそだった。
‥‥今、信仰の先に神はなく、これから神に相対すると云う大逆を冒すだろう身でもある。恐れも建て前も、もはや無い。
だが、同時に――神無の意識に引き摺られて知った、堪え難い人の身の欲情も、哀れみからこみ上げる義侠心も、イオスの中には無かったのだ。ましてや嫌悪も、罪悪感も、何も。
「全く‥‥てめえってヤツは」
その戸惑いを感じ取ったのか、首筋の辺りでソードは呟き、少しだけ咽喉を鳴らして、笑った。
「墜ちるのが恐い訳でも、神とやらに逆らいたくない訳でもなく‥‥本当に、戦うことにしか興味がねえんだな」
「!!‥‥‥」
イオスはギクリ、とソードを離し、凍ったようにその眸を凝視した。
ベッドに押しつけられたまま、ソードはニッと口元を歪め、真っ直ぐにイオスを見返して、
「‥‥そう云うヤツだよな、てめえはよ」
と、ひどく満足そうに言って、笑った。
‥‥イオスは茫然と目を剥いたまま、じっとソードを見下ろした。
いつになく穏やかな笑みのまま、ソードは黙ってイオスを見ている。
(ああ――)
私の在りようは、赦されるのだろうか?
本当の私がこんなものだと、
知っていて尚、あなたは――
‥‥イオスの顔がゆっくりと、泣き笑いに似た表情に、歪んだ。
永劫の昔から魂に巣食い、重く凝っていた氷塊のような呪いが、音を立てて溶け崩れたのを、イオスはその時確かに知った。
同時に、言葉にはならなかった問いかけを、ソードは聞いたようだった。開放された感情が、奔流のように流れ込んでくる。
(赦すだと?)
誰が、一体何の為に?
最初っから、てめえはてめえだ。
オレが認めた。
オレと戦う。
対等に。
何度でも殺しあう。
オレだけの――
「イオス‥‥!」
沸騰しかけた感情を、それ以上読まれまいとしたかのように、回した腕に力を込め、ソードはイオスの名を呼んだ。
その頬に、ポタリと熱い雫が落ちた。
呪いの残滓を洗い流すように、イオスは笑みを浮かべながらも、我知らず涙をこぼしていた。
「‥‥泣くなよ」
ソードの冷たい指が伸び、やや乱暴にそれを拭い去る。
イオスは静かにその手を捉え、濡れた指先に口接けた。
‥‥衝動も、欲も、何もなかった。
ただ、敬虔な祈りにも似た愛おしさだけがあった。
そして、こんな思いでその名を呼んだことも、一度もなかった――
「ソード‥‥!」
「‥‥バカ野郎」
それ以上何も言わぬまま、ソードはイオスの背を引き寄せた。
枕元の目覚まし時計が、静かに時を刻む音だけが、ゆっくりと重なる吐息に溶けた。
(あの時も、あなたは何も言わなかった‥‥)
自身の温もりを分け与えるようにして、硬く抱きしめ、肌を探り、その喉元に口接けると、声にならない吐息と共に、緩やかにソードが背を反らす。
(何のこと、だよ?‥‥)
(‥‥ソウルガーディアンで、私があなたを傷つけた時、ですよ)
(ああ‥そんなこと、か――)
「ッ、あ!‥‥」
口接けていた喉元から、じりじりと耳まで這い上がる。ねっとりと耳朶を含むと同時に、片手が不意に脇腹に触れると、冷静を装っていた思惟が乱れ、同時に迸るような声が上がる。
ほんの少しだけ、イオスは笑った。
(‥‥まだ、傷跡が残っている)
普通なら死ぬほどの重傷であったそれは、ソードの常ならぬ治癒力で、今や細く蚯蚓が這う程度の引きつれた盛り上がりを残すのみ。
指先でその跡をゆっくりとたどると、肉と神経が露出したような傷口特有の鋭敏さで、ソードがビクリ、と身をよじる。
「あッ‥‥あァ、‥‥ん!」
「‥‥もう、痛くはないでしょう?」
苦痛に耐えるそれとは違う、堪えきれない濡れた響きが、切れ切れの声には込められていた。
かすめるような吐息を残して、弄んでいた耳朶を開放すると、ソードはびくびくと身を震わせ、半ば逃げるように背を向けた。
構わずイオスは身を屈め、唇でそっとその傷に触れた。
「う、ッ‥‥!」
無意識に、また身をよじってかわそうとするソードを、腰を支えてベッドに押しつけ、脇から背中へ、また腹へと伸びる、白い引きつれに口接ける。
恐らくは戦慄とも快感ともつかぬ、剥き出しの神経に触れる感覚に、ソードは声を抑えることも出来ず、イオスの動きに合わせるようにして呻いた。
やがて傷口に舌先が触れ、同時にイオスの長い髪が、サラサラと肌を這い落ちると、逃げを打ち、跳ねるようだったソードの身体が、焦れたように小刻みに震え始めた。それにつれ、冷えていた肌に熱が戻り、うっすらと朱が差していく。
イオスは決して急ぐことなく、ソードが一枚きり身に付けていたトランクスと剥ぎ取ると、緩慢に、そして丹念に、刻んだ傷の全てをたどった。
よく生きていたと思わせるほどの、深く、爛れた傷跡は、イオスの罪業を改めて見せつけたが、ソードは触れることを拒まなかった。切れ切れに流れ込んでくるその思惟はむしろ、イオスが引け目と罪悪感を感じ、目を逸すことこそを赦さなかった。
「‥‥でも、私にとっては、『そんなこと』どころではありませんでしたよ」
小さく、イオスは呟いた。
背を向けるように横寝したソードが、「え?」と振り向こうとするより先に、傷に触れた手を前に回す。
「ッ!‥‥」
傷跡だけで十分感じてしまったのか、指先で探り当てたソードの熱は、既に八分方勃ち上がり、先走りに濡れて脈動していた。
「ああ‥‥もうこんなですね」
咄嗟に声を殺したソードが息をつく間もないうちに、イオスは手の中に捕えたそれを、緩く握り込み、擦り上げてみる。
「ぁ‥‥は‥」
ソードの咽喉が反り返り、とろけるような溜息が洩れた。その声をもっと聞きたくて、ソードを仰向けに引き寄せて、そっと唇で先端に触れる。
「ぅあッ! ‥‥イオス、っ!」
一瞬、快感に震えたソードが、慌てたように腰を引いた。が、腰に置いた手でそれを阻み、イオスはきょとんとしてソードを見た。
「どうしたんですか、急に‥‥こうすると、いいんでしょう?」
「あ、あァ、ッ!」
上目遣いにソードを見たまま、舌先でチロリとくすぐってみる。細い腹筋がビクビクと震え、与えられたそれが紛れもない快感だと何よりも雄弁に語っていたが、それでもソードは身をよじり、逃れようとしてか後ずさる。
「あの、ソード?‥‥」
捕えた指は離さぬままに、流石に怪訝に目を上げる。ソードはどこか居心地悪げに、肩を浮かせてイオスを見返し、ぼそぼそと口中で呟いた。
「ったく‥‥吹っ切れたと思ったらいきなり突っ走りやがる」
「え?‥‥」
「何でもねーよ!」
「‥‥何か順序が違ってましたか?」
「そーゆー問題じゃねー!」
ソードは現状も顧みず、イオスの頭を蹴り飛ばした。
勿論、大した力ではない。大仰に頭をさすりながら、イオスは笑ってソードを見た。
「ひどいですよ、ソード‥‥」
「やかましい!」
怒鳴り返しながら、ソードも笑った。変わらぬいつもの乱暴さで、イオスの髪を掴んで引き寄せ、自分からイオスに口接ける。
イオスもソードの背を抱き込み、深く舌を絡めて応えた。
(気付かなかったのは、私だけだったんですね‥‥)
「ん‥‥ん‥ッ‥‥?」
背をまさぐる手に震えながらも、言葉にならないソードの思惟が小さな疑問符を投げかけてくる。
(あなただけが、私を解ってくれた、赦していてくれた‥‥この傷をつけた時も)
背から滑り下りたイオスの手が、脇腹の傷を再び探ると、硬く抱きしめたソードの身体が、魚のように腕の中で跳ねる。
(あなたは何も言わなかった。決して私を責めなかった‥‥ただの一言も)
「ッん‥‥ァあ‥‥!」
耐え切れぬように唇をもぎ離し、ソードは荒く息をついて震えた。それでも闇雲に先を求め、性急にイオスの背をまさぐると共に、咽喉へ、肩口へとむしゃぶりつき――不意に、イオスを抱きすくめた。
「‥ったり前じゃねぇか‥‥ッ」
「え‥‥?」
(百一回も殺しあったんだ。‥‥てめえのことは何だって知ってる。考えることなんざお見通しだぜ)
「ソード‥‥」
(だから、オレは‥‥!)
それが言葉ではなかったのは、単に照れくさかったのか、それとも-言葉より先に思惟をぶつけてしまうほど、本当はソードも不安だったのか――
「バカ野郎‥‥ッ」
耳元で、搾り出すようにソードが言った。
「今さら滅入ってんじゃねえ! ‥‥『すみません』とか言ったら赦さねーぞ!‥‥」
「‥‥言いませんよ」
イオスは抱きしめた細い身体を、再びベッドに横たえた。
「言わなくても、あなたが解っていてくれるから‥‥もう、いいんです」
啄むように喉仏に口接け、指先で堅く凝った乳首に触れると、流れ込んでいたソードの思惟が乱れ、抑えもしない嬌声が上がる。
これほど素直に反応する彼を、イオスは初めて見た気がした。大体にして――
「‥‥てめえがやりてえと思ったのだって、初めてだろ?」
イオスの思惟の流れを読んで、ソードが切れ切れの息の中、悪戯っぽく笑って、言った。
(誰に乗り移られてるんでも、持て余した感情の捌け口でもねえ‥‥やっと、本当の、お前だ)
見上げてくるソードの挑発的な視線。人の身体を借りてはいても、まるで変わらないその眸が、イオスを真っ直ぐに見つめている。恐らくは昔から、ずっと何ひとつ変わらぬままに――
「ええ‥‥そうですね‥‥だから‥‥」
魂から沸き上がる歓喜のままに、イオスは穏やかな笑みを浮かべた。
「色んなことを、試してみたい気分ですよ‥‥」
「え? ‥‥ッあ!」
今度こそ、ソードが逃げるのを赦さずに、しっかりと腰を押さえ込むと、放られたまま震えていたものにイオスはちゅっと口接けた。
「あ、ァ、‥‥ッ、イ‥オス‥‥!」
「‥‥結構、弱いんですね、本当は」
「ッ、‥‥馬っ、鹿ヤロ‥‥!」
からかうように笑ったイオスに、しかしソードはそれ以上言えぬまま、悔しげにイオスの髪を掴んだ。
以前ソードにされたように、根元から先端へと舌先でたどり、鈴口を抉るようにくすぐると、それだけでビクビクと脈打つのが解る。
そのまま、ちゅぷちゅぷと音を立ててしゃぶりながら、その先から根元までを丹念に扱き、指先が門渡りに伝い降りた時、ソードが小さく声を上げ、身震いした。
「ッ、‥‥ちょっと、待て、おい‥‥っ」
切羽詰まった声のみならず、舌の上で脈打つ感触とからも、ソードの様子が伺えた。が、イオスは構わず、口中の熱をさらに深く含み、同時に滴った先走りと、伝い落ちた唾液で濡れていた体奥に、そっと指を押し当てた。
「んッ! あ、あァッ‥‥!」
今にも弾けそうな声を上げ、ソードはふるふるとかぶりを振る。が、
「‥‥もう、我慢出来ないんですか?」
笑みを含んで問うたイオスに、ソードはぐっと息を呑んだ。
「うッ、‥‥うるせえ!」
「『この次は負けない』って言ったのは、確かあなたの方でしたよね?」
「ったりめーだ! これくらいで負けてたまるかよ!」
「そうですよね‥‥まだ、始まったばかりですしね」
「‥ッ‥‥!」
満面の笑みでの挑発に、ソードが言葉に詰まった瞬間、粘膜をほぐすように撫でていた指先が、ぬるりと奥に滑り込む。
「‥ぁ‥‥ッ!」
きつくイオスを睨んでいた目が、不意の刺激に焦点を失い、開かせた腿の筋肉が震える。
その様子に苦痛が無いことを見て取ると、イオスは目の前で張りつめたまま震えているものを再び含んだ。
「あ! アぁ‥‥んッ」
威勢のいい言葉とは裏腹に、ソードはやはり耐えきれぬ様子で、うずうずと腰をよじり、声を上げた。
舌先でくすぐり、吸い上げながら、支えるように根元に触れ、緩急をつけて扱き上げる。
その動きに合わせてひくひくと脈動し、締めつけてくる内壁の一点に、つと指の腹が触れた瞬間、
「ひァ‥‥ッ!」
意地だけで快感に耐えていた、押しつめた切れ切れのソードの声が、悲鳴のように高くかすれた。
あっと思った瞬間には遅く、舌の上で跳ねるような脈動と共に、口中にソードの体液が溢れた。
慣れない感触に戸惑いながらも、、イオスは何とか噎せることなく、苦労して舌を蠢かせ、注がれたものを嚥下した。
その動きにさえ煽られるのか、、今だヒクヒクと震えながらも体液の残滓を溢れさせるそれが、萎える様子もなく大きく脈打つ。
こみ上げる愛しさに離しがたいそれを、清めるように舐め上げながら、イオスはゆっくりと抜き出した。最後にちょっとした悪戯心で、戦端をちゅっと吸ってから離す。
予期しなかっただろう不意の刺激に、ビクン、とソードの腹筋が震えた。吐息ひとつついて顔を上げると、息切れするほど上気したソードが、茫然とイオスを見つめている。
「え、あ‥‥どうか、しましたか?‥‥」
「どうか、って‥‥てめえなあ!‥‥」
「嫌でしたか?」
満面の笑みと共に問い返し、未だソードの体内にある指を抜き差しするように蠢かせる。
「ァあ! ‥‥き、汚ねえぞ、テメー!」
「あなたの身体ですから、平気ですよ」
「そ、そういう意味じゃ‥‥あ、んンッ!」
とうに沸点を越えている身体は、微細な刺激にも過敏に反応する。その柔らかな手応えに、イオスは静かに二本目の指を差し入れた。
「ひッ、あ、あァあ‥ッ!‥‥」
堪えきれず上がる甘やかな声に、苦痛の色は微塵もない。イオスの肩にすがりつき、その先を求めて揺れる身体は、上気し、うっすらと汗ばんでいる。
‥‥愛しさがぞくぞくと
静かに二指を抜き出して、その感覚に目を閉じたソードをあやすようにして口接けると、微かな甘い呻吟と共に、しがみついたソードが身じろいだ。
思うさま舌を、唇を貪りながら、シャツだけは脱ぎ捨てていたものの、未だ身に着けていたイオスのジーンズを引き剥ごうとボタンを外しにかかる。
目元で笑みながら好きにさせておくと、やがて唇が離れた時、ソードはムッとしたように、しかしカァッと赤くなって、
「笑ってんじゃねー!」
とぶっきらぼうに怒鳴った。
何故かそんなところだけ、ソードは変に子供っぽい。
(まあ、そういうところも可愛いですけど)
「可愛いってゆーな!」
怒鳴る勢いのままに押されて、イオスは足を投げ出して座った。そこへ膝でにじり寄ったソードが、半ば乗りかかるようにして、乱暴にファスナーを引き下ろす。
「あの、ソード‥‥」
「‥‥黙ってろよ」
ありありと張った下着をかき開け、探った指で引き出すと、あくまで温厚な顔色からは思いもつかぬほどに張り詰め、硬く反り返った熱が、ソードの眼前に勃ち上がる。
まじまじとそれを観察してから、ソードはヒュウ、と口笛を吹き、イオスを見上げてニッと笑った。
「‥‥十分だな」
「‥‥そうですね」
見下ろしたイオスが他人事のように言うと、ソードは一瞬何かを言いかけ、ぐっと飲み込む仕草をして黙った。次いで、呆れたように軽く息をつき、笑う。
「‥‥来いよ、イオス」
乾いた唇をちろりと舐め、ソードは惜しげも無くその身を開いた。
「ほんとはそのまんま乗っかっちまいたいとこだけどな。‥‥いいぜ、来いよ、お前のやりたいように」
その尊大で不敵な笑みに、ふと、悪魔の姿の面影が射す。
人間界に来たばかりの頃は、お互い元とは違いすぎる宿主に、戸惑いと苛立ちを感じていた。だが今、目の前の面差しには、その頃ほどの違和感はない。
それはソードも同じなのだと、流れ込んでくるその思惟が伝える。イオスが悪魔の姿を見たように、彼の眸の奥深くには、天使の魂が映っている――!
魂の歓喜と愛しさに、イオスは彼を抱きすくめた。もつれるようにまさぐり、絡み合い、流入する思惟が渾然となった一体感に導かれるまま、魂ごとソードの体内に溶ける。
「あ、あァ、‥あ‥‥イオス‥‥ッ!」
もはや蕩けていたソードの臓腑は滑らかにイオスを受け入れて、それでもまだ足りぬとでも言いたげに、熱く絡みつき、収縮し、さらに深くイオスを求めた。
じりじりと奥までを穿つ熱の、緩慢な動きに耐え切れないのか、ソードが細く啼いて腰を揺らす。脈動と共に突き上げる快楽に、イオスも咽喉の奥で微かに呻いた。
何度か浅く抽送した後、半ば腰を抱えるようにして深く奥までを突き上げる。
「ソード‥‥もっと、こう、ですか?‥‥」
「あ、アあァアッ‥‥!」
迸るような声を上げながら、ソードは髪を振り乱し、シーツに頭を打ち付けて震えた。何もかもを突き抜け、融け合うかのように、闇雲な腕がイオスを抱き締め、脚を絡めて腰を引き寄せる。
誘われるままに熱い臓腑を限界近くまで深く侵し、汗でぬめる身体を密着させると、腹の間で擦り上げられたソードの熱がビクビクと脈打つ。
「イオス‥‥イオス‥‥っ!」
身体の内と外双方から与えられ、増幅し、膨れ上がる会簡易、ソードは絶え間なく悲鳴を上げ、その中でイオスの名を呼んだ。
溶解する魂と肉体の狭間で、イオスも同じように快楽に震えた。探るようだった穏やかな動きが、やがて早鐘を打つ鼓動と共に、激しく性急なものになっていく。
「ソードっ‥‥」
「あ、‥‥あアぁ、あァ‥‥」
悲鳴に掠れて絶え絶えだった息に、早まる律動に押されるような、短い切れ切れの息が混ざり、少しずつ高まって行くにつれ、イオスを包み込む熱い内壁がさらにきつく収縮する。
イオスは抑えきれぬ呻きと共に、沸騰する悦楽に飲み込まれた。きつく絡みつく臓腑を押し開き、深く突き上げ、最奥までを抉る。
「ッ、く‥‥!」
「!‥ア‥‥」
体内で弾けるイオスの熱と、ほんのかすかに耳朶を打った呻吟に、瞬間、ソードの息が止まり、
「ぁ、‥‥――ッッ‥‥!!」
強すぎる絶頂感に声もなく、ソードはただ息だけで悲鳴を上げ、果てた。
溢れ出す飛沫を腹に感じながら、イオスは脱力するままに、ソードの上に崩れ落ちた。
どこかぎこちない緩慢さで、ソードが腕を回し、口接けを求める。
‥‥荒い息の中で交わしたそれは、全ての言葉の代わりだった。
言わねばならぬことはもう何もなく、深い充足に融け合った二人は、束の間に眠りに引き込まれた。
‥‥実際には、そうして意識を飛ばしていたのは、せいぜい五分かそこらだっただろう。
イオスがそっと身を起こすと、つられてソードも目を覚ました。
どちらともなく時計を確かめ、顔を見合わせてふと笑い――
「‥‥行くか」
「そうですね‥‥」
呟くように言い交わし、ごく軽く唇を触れ合わせた。
それから簡単に後始末を済ませ、ソードはふらりとベッドを降りた。先程までの強すぎる快感を思えば、意外なまでにしっかりした足取りで、散乱した衣服を拾い集め、順を追って身に着ける。
その様子を見るともなく目にしながら、イオスも身支度を整えた。
最後に枕元に置いてあった、いつもの十字架を癖のように手に取り、掛けようとして――ふと、やめる。
信じていた神は、もういない。
信仰が身のうちで崩れ去り、創造主が倒すべき敵となった今、十字架には何の意味もなく、それに祈ることも、もうないのだ。
‥‥視線を感じて目を上げると、上半身だけ裸のソードが悪戯っぽく笑っている。
「捨てる気になった訳じゃねえだろう」
「ええ‥‥しかし、惰性でつけていこうにも、神は冗談が通じる相手じゃありませんからね」
「‥‥言うようになったじゃねえか、てめえも」
「本気ですよ」
「‥‥なあ、イオス」
そーどはずかずかと歩み寄り、間近でイオスの目をのぞき込んだ。
「‥‥神ってのは、一体何なんだ?」
「何、って‥‥神は、神ですよ」
「立場なのか、力なのか? 誰も成り代われない何かなのか?‥‥」
「それは‥‥」
らしくもない深遠な問い掛けに、イオスは答えられず言いよどんだ。恐らくイオスだけではない、その問いに答えられる者はどこにも居まい。
その沈黙に、ソードは心底不思議そうに言った。
「そんな得体の知れないものの、何をてめえは信じてたんだ?」
‥‥茫然と、イオスはソードを見つめた。
「どうせこれから神はぶっ殺されるんだ。祈る相手も、もう居なくなるぜ」
「ソード‥‥」
「なりたいものには、てめえでなりゃあいい。どうにかしたいことは、てめえに祈れ。‥‥それとも、まだ自分以外に、信じるものが必要なのか?‥‥」
「‥‥いいえ‥‥いいえ」
イオスはきっぱりとかぶりを振った。
(あなたは私を信じていてくれる)
(ならば、その私を私は信じる)
(神なるものは、最初からこの身の内にある――)
「‥‥チッ、上着は向こうか」
ソードは小さく舌打ちすると、Tシャツを拾い上げて踵を返した。ドアをくぐりかけて、振り返る。
「‥‥なあ」
「何です?‥‥」
「どうせ魔界にも、もうサタンはいねえんだ。‥‥元の身体に戻ったら、オレ様が魔王になって、てめえが神になって、それでまた決闘するのも面白いかもな」
「そ‥‥それは‥‥」
きょとんとしたイオスにひらひらと手を振り、ソードは笑いながら出て行った。
イオスはしばし茫然と、ソードの背の消えたドアを見つめ――ゆっくりと、その口元に笑みが浮かぶ。
(なりたいものには、てめえでなりゃあいい)
‥‥イオスは手にしていた十字架を、静かに自身の首に掛けた。
神にではなく、この世のありとあらゆるもの――
身を借り、魂を共にする人間と、手にした聖と魔の剣、己がために生死の境をさまよっているだろう大天使、誰よりも愛しく高潔な悪魔と、それらの全てを内包する、世界――
もはや創造主の手を離れ、自在に在って在る全てのもののために、束の間、イオスは祈りを捧げた。
応えるもの無きこの世界で。
ただ、内なる強い思いだけを信じて。
―― 「PEARL」 END ――
(発行・2000/08/11 再録・2017/05/26)