◇ 遥かな世界 ◇
「――ナナシ」
皆から少し距離を取り、結論が出るのを待っていたフリンが、ふと傍らに身を寄せてきた。
頭ひとつ分の身長差を補うように、少し身を屈めて、耳元で囁く。
「君は――この世界を何度、やり直したんだい?」
‥‥ぞくり、と全身が総毛立った。
耳朶を打つ吐息のくすぐったさにではなく、あまりに予想外のその問いに、だった。
弾かれたようにフリンを見上げた。だが、俺の顔をのぞき込むその眸には、およそ感情の色がない。いつもと変わらぬ冷徹な――魂までを見抜くかのような鋭い光のただ中に、目を見開いた俺の顔が映っていた。
咽喉の奥から言葉にならない重い塊がせり上がった。同時に、音を立てるような勢いで、全身から血の気が引いていく。
「? ナナシ」
フリンが怪訝に眉をひそめた。だが、唇が動くのが解るだけで、既にその声は聞こえてはいなかった。
目の前がにわかに暗くなる。氷結魔法でも食らったかのように、身体が冷たくなっていく。
頭のどこかが警鐘を鳴らしたが、間に合わなかった。
駄目だ、と思ったその時にはもう、俺は無様に膝から崩れ落ち、意識はそのまま暗転した。
◇
『――これでお前たち‥‥遺物の中に混ざっていた、古い古い本の一節だった。
両陣営の神々によるいつ果てるともない争いで、天秤は左右のバランスを取りながら上がったり下がったりを繰り返している。
だが物語の終わり間近に、どちらにも属さぬ異端の神が現れ、法と混沌の神々を区別なく全て殺してしまった後、主人公に告げたのがその台詞だった。
『どうやらこれが我々の仕事だったらしい。十五の次元界から馬鹿げた神々と、その神々の馬鹿げた企みとを追い払うことがな』
しかしそれでは天秤は、善悪の均衡は――と困惑する主人公に、異端の神がまた告げる。
『好きなように上がったり下がったりさせておけばよい。もう量るものは何もないのだからな。お前たちはお前たち自身のものなのだ――』
‥‥そもそも遺物に紛れていた本だ。変色した紙は全体に傷み、読める箇所自体も飛び飛びで、前後の巻も見つからなかったから、完全な内容は解らずじまいだった。
だがそれでも、神が語ったあの台詞だけは、何故か脳裏から消えることなく、焼きついたように残っていた。
あの本は、結局どんな物語だったのだろう――
曖昧な眠りの闇の中で、俺は何故かそんなことを考えていた。
◇
‥‥薄ぼんやりと目を開けると、見覚えのある天井が映った。錦糸町地下街の自室のようだった。ぼやけた視線をさまよわせると、片付ける気になれず置きっ放しのマナブの遺品――以前はマナブとの二人部屋だったのだ――が目の端に映る。
そのまま泳いでいった視線の先に、何故かフリンの姿があった。
しばし現状が飲み込めず、そのままぼうっと見詰めていると、フリンが伏せていた目を上げた。
互いの視線が真っ直ぐ合った瞬間、にわかに記憶が蘇った。
そうだ――確か、モノリスの前で。
弾かれたようにベッドから飛び起き――ようとして、ぐるりと視界が回転した。
揺れる視界そのままに、再びベッドに崩れかけた身体を、フリンが咄嗟に抱き留めた。
どうやらベッドの傍らの椅子で、俺が目覚めるのを待っていたらしい。あるいは無様に気絶した俺を、側で見守ってくれてでもいたのかも知れない。
三歳の差を考慮しても、恐らく天上で陽を浴びながら鍛えたであろうサムライと、悪魔の肉すら食えない日もある東京生まれの俺とでは、その腕力は比べようもない。骨細で薄っぺらい俺の身体は易々とフリンに抱えられ、そのまま元通りベッドに寝かされた。
「まだ寝ていた方がいいよ」
相変わらず読めない表情で、しかし少しだけ優しい声で言い、フリンが古びた毛布を掛け直してくれた。
「驚かせたようで、悪かったね――すまない」
いや、とかぶりを振ろうとして、しかし言葉は声にならなかった。予想だにしなかったことを告げられた衝撃、あるいは警戒のためか、未だに身体が身構えているようだった。
「ごめん」
先ほどよりも砕けた口調で、苦笑しながらフリンがまた詫びた。
「もう少し気をつければよかった。‥‥重たい秘密や悩み事を、他人に知られていると気付くのは心臓に悪いと、重々知っていたはずなのに」
真顔になってまた頭を下げたフリンに、いや、いいよ、と今度は声が出た。
それから、不意に気付く。
秘密。そして、知っていた。‥‥何を?
まさか。だが、もしかして――
「‥‥ああ、そうだ」
あんたも、と曖昧に呟いた俺に、フリンは顔を上げて頷いた。
「僕も、何度か世界をやり直してきた――〈ここ〉とはまた少し、違う世界を」
‥‥そしてフリンは語り始めた。
俺しか知らないはずのことと、俺が未だに知らないことを。
「君が魔神の言うなりに、新しい宇宙を作ったり、あるいは魔神を退けて、この世界を維持する道を選んだり――それを繰り返しているように、僕も僕のいた別の世界を、何度もやり直し、繰り返していた‥‥こちらの世界が始まる前には」
別の世界、こちらが始まる前。とまだ掠れた咽喉で繰り返してみる。
「そう、別の世界だ。君のいない――クリシュナが出しゃばってくることはなく、ルシファーとメルカバーが争うだけの世界だった」
つまりは第三勢力として多神連合が名乗りを上げず、ただ傍観していた世界ということか。
いや、「君がいない」とフリンは言った。ということは、まとめ役だったクリシュナの封印を解く者がいなかった世界、ということかも知れない。
「それだけじゃない。‥‥あの車椅子の男に導かれて、それとはまた別の可能性の世界を見せられたこともある。神に縋ったものの結局見捨てられてしまった砂漠の東京と、神を拒んで人が悪魔になった爆炎の東京だったが‥‥ああ、そのどちらにも、アキラという男がいたよ」
アキラ、とその名を聞いた瞬間、身体が勝手に跳ね起きた。フリンが留めようとしたが、その手に縋って身を起こした。
俺はアキラの生まれ変わりだと、フジワラ達は言わなかったか。ミカド国から持ち帰ったガントレットはアキラのもので、それが反応したということは――と。
だが、掌紋認証は遺伝子の領域だ。生まれ変わるのは魂であって、そんなものまで同じである訳はない。
首を傾げてそう言うと、フリンはすいと手を伸ばし、俺の頬の傷にそっと触れた。
ダグザの力がうっすら透ける、くっきりとした深い傷痕。傍目にはフェイスペイントのように見えるだろうが、それはただの傷ではなく、今やダグザの刻印なのだ。‥‥そんなことを考えていたから、
「砂漠のアキラにも、爆炎のアキラにも、同じところにこの傷があったよ」
予想だにしなかったフリンの言葉に、え、と思わず目を見開いた。
「片や悪魔と合体した悪魔人間で、片や普通の人間だったけれど、違う世界にいる同じ人物なのはどうしてか解った。‥‥だから、きっと君もそうなんだよ」
変な話だけれどね、と付け加えてフリンは苦笑した。そこには少しの自嘲が含まれているようでもあった。恐らく解ってはもらえないだろう、という諦めのような何か。
だが、彼の話を疑う気は何故か起きなかった。フリンの本当の人となりについて、俺はほとんど何ひとつ知らない。スカイタワー前で初めて会った後、銀座でクリシュナに囚われるまで、ちゃんと話す機会はほぼなかったのだ。
それでも、フリンの話に嘘はないことを、俺はどうしてか知っていた。フリンの静かな言葉にも、今ひとつ本音の解りにくい表情にも、シェーシャの化けた偽者とは違う、魂に届く何かがあるように思えた。
‥‥そこまで考えて、ふと気付いた。この話をダグザに聞かれるのはまずいんじゃないだろうか。
「ああ、大丈夫だよ。心配ない」
今さらな懸念を口にした俺に、フリンはあっさりそう告げた。
「君のスマホは隣の部屋に預けてある。この部屋の充電器は調子が悪いようだから、と。‥‥あの魔神がスマホを抜け出して、壁を通り抜けてでも来ない限りは、だけど」
そしてついでに他の皆には「時間はまだあるし、ナナシが疲れているようだから少し休ませよう」ということで話を纏めておいたとかで、準備万端だよ、とフリンは笑った。
普段よりも柔らかいその笑みに、しかし、俺は少しだけ寒気を覚えた。好青年めいた白皙の影に、救世主と呼ばれるに至った強さと、それを裏打ちするしたたかさが透けて見えた気がした。
「僕のガントレットも電源を落としてある。ガントレットの妖精バロウズは、他のバロウズと勝手に通信して、持ち主自慢なんかをしているらしいからね。‥‥用心に越したことはない」
ガントレットの妖精――とは、スマホのインターフェイスAIのことだろう。俺のスマホはダグザが動かしているが、他のハンターのスマホには、あるいはそのバロウズとやらが入っているのだろう。
持ち主自慢というのが何なのかはよく解らなかったが、元のダグザが「オレの神殺しはどうのこうの」とルシファーに言っていたあれかも知れない。自慢されていたのか、と思ってみれば、今さらながらに嬉しいような気がした。もっとも、そう言ってくれた元のダグザは、ダヌーに産み直されてしまってもういないのだが――
「話を戻そうか」
とフリンが言って、俺も感傷から引き戻された。
「‥‥ともあれ、元々の僕の世界も、別の可能性の二つの世界も、どっちにしろ上手く行ったとは言えないところだったんだ」
色のなかったフリンの表情に、その時初めて、苦渋に似たものがかすかに浮いた。祈るように両手を組み合わせ、そこに額を当てるようにして俯く。
「何度繰り返しても、ワルターはルシファーに、ヨナタンはメルカバーになってしまう。ワルターの手を取ればヨナタンを――メルカバーを倒さなければならない。ヨナタンの手を取れば、ワルターを。そしてどちらの手を取っても、イザボーは死を選んでしまう」
え、と思わず目を丸くした。アサヒが姉さんと呼んで懐いている、あのイザボーが何故。
だが、フリンは子細には触れぬまま続けた。
「そしてイザボーが生き延びる世界は、ルシファーとメルカバー両方を倒す世界だった――それは東京とミカド国にとっては平和な結末だったのかも知れない。‥‥でも、ヨナタンとワルターは還ってこないんだ」
フリンはさらに俯いた。いや、俯くを通り越してもはや項垂れていた。沈痛に肩を落とし、顔を覆い、淡々と語る声とは裏腹に、泣き出したいのを堪えているようだった。
「もうどれくらい繰り返したかも解らない。少しでも何かが変えられないかと思って、思いつく限りのことは全部試してみた。‥‥なのに、どうしても、どうやっても、三人共が揃って生きる世界に辿り着くことが出来ない」
‥‥それで何度もやり直したのか。皆が生きる世界に辿り着くために、何度も、何度でも――あの車椅子の男に導かれて。
「‥‥だけど、ある時やり直した世界は、今までとは違う世界だった――それが、君のいるこの世界なんだ」
不意にフリンは顔を上げ、俺を見た。
泣いているのかと疑うほどに俯いてしまったフリンの顔を、のぞき込むようにして身を乗り出していたため、ひどく間近で目が合って、一瞬心臓がどくりと跳ねた。
フリンの目の中にはひたむきな、ある意味狂気に近い光があって――その色は、俺にも見覚えがあるものだった。
「それまでの世界では、ルシファーになったワルターも、メルカバーとなったヨナタンも、もはや元の彼らではなかった。‥‥二人共、恐らくは器として使われただけなんだ。でなければ、あんな――」
言いかけて、フリンは中途で口を噤んだ。一体何があったのか、脳裏に浮かんだものを振り払うようにして、かぶりを振る。
「‥‥だけど君がいるこの世界は違う。ルシファーとメルカバーを倒した後、YHVHの宇宙でワルターとヨナタンの魂が現れるだろう? それがサタンという形であっても、魂――というか人格そのものは、元の彼らのものだと思えてならない――ナナシ」
真っ直ぐ俺を見たフリンの目には、さっきと同じ強い光があった。
「だからこそ、僕は彼らを取り戻したいんだ――今度こそ、この世界で」
恐らくは俺の目にも宿っているであろう、熱を帯びたような、暗い光――
それは何度も繰り返し奪われ、失い続けるものに対する、魂を灼き焦がすような妄執だった。
‥‥フリンの話を聞き終えた後、応えて俺も話し始めた。
一度死んでダグザに命をもらったこと。だから最初はダグザの言う通り、宇宙の卵を壊さないことを選んで、人間の仲間達を手に掛けたこと。
だが、その結果ダグザは消えてしまった――時折口にしていた通り、神であることを捨てて、いなくなってしまった。
自分の神殺しとして与えられたフリンは、どう見ても目の前のフリンとは違う、ただの抜け殻の人形だったし、女神として選んだ仲間も同じだった。そしてその世界にダグザはいない――
結局俺は耐えられなかった。だから神として得た力で、元通りの世界を作り直した。そして次にあの選択が訪れた時、今度はダグザに逆らって、宇宙の卵を破壊することを選んでみた。
ダグザは俺に与えた命を再び奪おうとしたけれど、それはそれで構わなかった。契約を破るというのはそういうことだと承知していたし、あの一人きりの世界には戻りたくなかった。‥‥だけど俺が死ぬより前に、ダヌーがダグザを産み直してしまった。
世界がそのまま維持されるなら、人間とダヌーの邪魔をしないダグザは、なるほど都合がいい存在なのだろう。
だが、それは決して俺のダグザではなかった。
あの黄泉路で俺と契約し、俺を選んでくれたダグザではなかった――
「‥‥選んだ?」
フリンが呟き、ああ、と俺は頷いた。
‥‥一度目の選択で「卵を破壊しない」と言った時、仲間達はみな俺の敵に回った。
ハレルヤは守りたい組織があると言った。これは解る。
ガストンは民を裏切れないと言った。これも解る。
イザボーはフリンとの約束を破れないと言った。これも解った。
トキは人間のままで強くなりたいと言った。これも理解出来た。
ノゾミは私達を裏切るのか、俺の前世であるアキラの宿願を果たさないのか、と言った。これだけは意味が解らなかった。それはあんたがどうしたいかって話じゃないだろう、と。
ナバールだけは幽霊だったからか、目的も何もなく単純に激怒しただけだったが、ともあれ、皆がそれぞれ大事なものがあって、俺よりもそちらを取ることを選んだ。そのことには何の文句もない。俺だって、皆でなくダグザを選んだのだから。
ただ、アサヒがいたら俺についてきてくれたのかな、と、皆を殺した血溜まりの中でふと思った。それで女神を選べと言われて、アサヒを選んだ。
元より彼女は俺の妹のような、あるいは姉のような存在だったし、俺を庇って死んだという悔いもあったから、迷わずアサヒの復活を願った。
始めは嬉しかった。アサヒは生前とほとんど変わらないままだったから。ただ前よりも悩まず、迷わず、落ち込まず、怒ったり拗ねたりすることがない。
結局それは、アサヒの形をした人形に過ぎなかった。それはさっきも話した通りだ。だが、本当の衝撃はそのもっと後にあった。
卵を破壊する、破壊しない、破壊する――それを何度も繰り返す中で、アサヒ以外の魂を順に女神として選んでみた。そして愕然とした。誰を選んでも、見た目と口調が違うだけで、話すこと自体はアサヒの時と皆同じだったからだ。
やがて最も恐ろしいことに気付いてしまった。
女神にしたアサヒは、元とそんなに変わらない、と思っていた。それはつまり、俺の目に「家族」とか「幼馴染み」というフィルターがかかっていただけで、アサヒは元から空っぽの人形と大して違っていなかった、ということじゃないのか――
脳天を突き上げるような衝撃に、宇宙の玉座で俺は吐いた。そういえばここで神になって以来、何も食ってはいないはずなのに、一体何を吐くものがあるんだ、と変なことを考えながら吐き続け、吐きながら世界を作り直した。
宇宙と玉座と二人の人形が音もなく消えていく中で、俺はもはや空っぽのスマホを後生大事に握り締め、ダグザ、と何度も呼び続けていた。――それが、ひとつ前にやり直した世界での、俺の最後の記憶だった。
‥‥人間として過ごしているうちは、仲間はみんないい奴らだった。だけど、全てを天秤に掛けた時、決して俺を選んではくれない。
やり直しの始めの頃は、皆が俺を選んでくれればいいのに、とよく思った。
そうすれば、何とかダグザを説得して、皆を殺さず連れて行くことが出来たかも知れない。新しい宇宙でも全てを消し去ることなく、ダグザを神として観測させない、彼の望む世界を作ることが出来たかも知れない。それで皆がいてくれるなら、ダグザのいない世界でも耐えられたかも知れない――と。
でも、そんな願いは叶わなかった。彼らが俺を選ぶ世界は、ただの一度も訪れることはなかった。
そしてダグザは何度繰り返しても、あの黄泉路で俺に命をくれる。
ダグザの呼び声に応える者が、どうして俺ひとりだけなのかは解らない。作り直し新たに始める世界で、一度神となった俺がそう望むからか? でもダグザは最初の時に、応える者がようやく現れた、と言ったはずだ。つまりはそれまで本当に、その声を聞く者は誰も無かったのだ。
俺はその時にはまだ何の力も無く、使い物になるかどうかも解らない、本当にただの子供だった。俺が最初の一人だからと言って、これでは無理だ、次を待とう、と思われても無理はなかっただろう。
でもどうしてか、ダグザは俺を選んでくれた。そして何度やり直しても、やはり俺だけが選ばれ続ける――
それが嬉しくなかった訳がない。仲間が俺を選ぶ日は来ないのだと、知ってしまった後となっては。
ましてやよくよく思い返せば、ダグザは極力俺の行動をねじ曲げようとはしなかった。
クリシュナの封印を解く時だけは勝手に身体を操られたが、そんなことはその時きりだった。女神も神殺しのフリンも人形なのだから、俺だって抜け殻にしてしまい、好きなように動かせばいいものを、ダグザは何だかんだと皮肉を言いながらも、選択そのものは俺の自由に任せていた。
そう気付いた時、世界をやり直す俺の目的は、はっきりと「ダグザを失わないこと」に変わっていた。
だけどどうしても上手くいかない。言う通りに仲間を切り捨てれば、当のダグザは消えてしまう。それを避けようとしてみれば、ダヌーがダグザを産み直し、元のダグザを倒さざるを得なくなる。もしそこで俺が抵抗せず、黙って死ぬことを選んでみても、恐らくはダヌーと新しいダグザ、あるいは残った人間の仲間達が元のダグザを消し去ることになる――堂々巡りだ。
そして新しいダグザは俺を選ばない。命を戻してはくれるのだけど、神であることを全うしようとする彼に、俺という神殺しは必要ないのだ。
結局俺は耐えられず、そこでまた世界を巻き戻す。だけどどうしても、何度繰り返しても、ダグザを俺の元に留めておくことが出来ない――
‥‥先ほどフリンの目にあった妄執が、今の俺にも宿っているに違いない。全て語り終えて顔を上げると、彼は何か痛ましいものを見るような目をしていた。俺もこんな顔をしてフリンを見ていたのかと思うと、何だかいたたまれない気分になった。
だが、そのいたたまれなさは、静かに口を開いたフリンの言葉で一瞬にして消し飛んだ。
「それほどに――君は、あの魔神が好きなんだね」
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥は?
と思ったきり、何でか脳味噌が止まってしまい、そのまましばらく全部が真っ白だった。
「‥‥ナナシ」
恐らくは見開いたままだった目の辺りに、フリンがそっと指先で触れた。
びく、と無意識に身体が震えて、少し後ずさったその時に、フリンの指先が濡れているのが見えた。
‥‥泣いてるのか、俺。
全く訳が解らなかったが、気付いてしまうことで何かが壊れたのか、耳の辺りまでが急に熱くなって、自分ではっきり解るほどの涙が一気にぼろぼろと零れだした。
ああ、そうか――そうなのか。そうだったのか、俺。‥‥と、泣きながらやっと、そう思った。
何も言わないまま、フリンが静かに俺を引き寄せ、子供をあやすようにして抱き留めてくれた。
どこかで聞いた話の通り、フリンは本当にお日様の匂いがするんだなあ、とか、結局俺は何で泣いてるんだくそみっともねえ、とか何とか、とりとめのないことをぐちゃぐちゃに考えながら、俺はしばらくどうしようもないままフリンの胸で泣き続けた。
どうにか気持ちが落ち着いた後にも、不規則に胸がしゃくり上げるのと、その度に出る涙はなかなか止まらなかった。
ベッドの上でくしゃくしゃになっていたシーツを無理矢理引っ張って、腫れぼったくなった目を擦っていたら、
「ナナシ」
呼び掛けられて顔を上げた瞬間、間近にフリンの顔があり、口の端に柔らかい感触があった。
唐突すぎて、思わずぱちくりと目を瞬かせた。何でかキスされたのだと気付いたのは、たっぷり三十秒ほど経った後だった。
‥‥え? と言おうとして口を開いた瞬間、
「止まったね?」
いたずらっ子みたいに笑って、フリンが言った。
何が、と一瞬思った後、そういえば嗚咽も止まらない涙も、その時には確かに止まっていたことに気付いた。驚いたせいか、というか驚くと止まるのか、と二度驚いて訳が解らなくなり、ごちゃごちゃだった頭の中が逆にすぽんと空っぽになった。
しかしその後どうすればいいのか、ありがとうとか言うのも変だ、と俺が言葉に詰まっていると、
「とりあえず、君はあの魔神を取り戻したい。僕はワルターとヨナタンを取り戻したい――相手は違えども目的は同じだ。出来ることは協力しよう。約束するよ」
フリンは何事も無かったかのように、さらりと話を引き戻した。‥‥これが三歳分の違いなのか、フリンが場数を踏んでいるだけなのかは解らないけどすげえな大人。とただただ感心してしまった。
だが一瞬後、いやちょっと待て、と我に返る。当たり前のようなフリンの態度についうっかりと流されかけていたが、よく考えたらその反応はおかしい。
何故って相手は人間じゃない。世界を丸ごと作り替え、神も人間も消し去ってしまおうという(しかも自分が消え去るために、だ)、厄介にも程がある魔神なのだ。傍から見たら多神連合と変わらない、下手をすればもっと面倒な存在だ。
受け止められておいて言うのも何だが、フリンの反応は寛容すぎる。場合によっては正気を疑うほどに。
だが、
「傍目にどう見えても、どんな理由でも、君にはそれが何より大事なことなんだろう?」
フリンはやはりあっさりと、何を今さら、というような顔で言い、肩をすくめて付け加えた。
「僕だって、世界がどんなに平和でも、そこにいない二人を諦めることは出来ないよ。‥‥彼らが友人なのか恋人なのか、それともまた別の何かなのか、それも僕にはもう解らない――でも、大事なんだ。彼ら二人共が」
恋人。‥‥って、ルシファーとメルカバー――いや、ワルターとヨナタンが? 二人共?
「言っただろう? 試せることは全部試した、って。‥‥使えるものなら何だって使うよ。自分の身体でも」
自嘲の滲んだフリンの笑みは、疲れて力ないものでありながら、今までのどれより凄惨で恐ろしかった。
「君はまだこんなところまで来てはいないだろうけど――でも、解るんだよ。君の気持ちが。自分の命よりも必要なものを、何度も繰り返し失い続ける、その絶望が」
胸が痛むような声で言うフリンは、どうしてか、文字通り磔刑の救世主のように見えた。クリシュナに囚われていた時のことじゃない。メシアの古い経典にあった「神はなにゆえ私を見捨てたのか」と嘆く処刑場の救世主だ。
ベッドの上で膝立ちになり、今度は俺が唇を噛んだフリンの頭を抱きしめた。
大人だからか、それとも涙なんかとうに涸れているのか、フリンはさすがに泣かなかった。
けど、回した俺の腕をぎゅっと掴んだ手が、かすかに、だが確かに震えていた。
‥‥こうして本音をぶちまけあってみれば、俺とフリンは全くもって、違う世界に生まれてしまった双子のようによく似ていた。
などと思ったのはしかし束の間で、
「――君はまず、あの魔神を籠絡するところから始めた方がいいんじゃないか?」
そういう発想は全く似ていない。と俺はげんなりとかぶりを振った。
互いに少し落ち着いた後、今後のことについて(つまりは一体何をどうすれば、違う結末に辿り着けるのか、を)話し始めた時、真っ先に言われたのがそれだった。
冗談めかした物言いだったが、フリンが本気なのは明らかだった。
玲瓏な美丈夫のフリンなら、そりゃあ大概の老若男女が――あるいは天使や悪魔すら――ほいほい引っかかるに違いない。だが、こっちはこの通りの貧相な子供だ。何より魔神の精神構造がどうなっているのかなんて想像もつかない。果たしてそんな手が通じるのかどうか。正直言って、それが一番難易度が高い手段じゃないのかとすら思う。クエストで言うと☆20個・報酬は全種類の香詰め合わせ(各10個セット)くらいの感覚だ。
「けど実際、彼の気持ちを変えさせない限り、何度やり直しても結果は同じだろう? ダヌーを止めるよりそちらの方が優先事項じゃないかな。‥‥それとも、他にいい方法を思いつけるかい?」
そう言われると答えに詰まる。だが、そもそも当のダグザの方が俺を都合のいい道具としか見ていない。‥‥はずだ。多分。いや間違いなく。でなければああもあっさりと、俺を置き去りに消えてしまうものか。
「いや、待てよ――ダヌーか‥‥」
茶化すような笑みを浮かべていたフリンが、どうしてか、呟いてふと眉をひそめた。
「いや――さっき久し振りにノゾミと会ったけど、随分雰囲気が変わったな、と思ってね」
フリンはノゾミと面識があるのか。いや、考えてみれば同じハンターだ。クエスト絡みでの繋がりがあっても不思議はない。だが、変わったとはどういう意味だろう。
「前には何というか、ちょっとふわふわした、気の抜けた感じの可愛い人、という印象だったよ。クエストで会うたびに、しょっちゅう悪魔の群れに囲まれてはそのまま流されていって」
‥‥それって可愛いのか? と首を傾げる。フリンの感覚がよく解らない。
だが、
「妖精の女王になったから、気を張っているのかと思ったけど――ナナシ」
フリンは不意に身を乗り出し、間近で俺の目をのぞき込んだ。
さっきキスされたことを思い出し、一瞬ギクリと身が引けた。だがフリンは真面目な顔でじっと俺の目を、そして頬の辺りを見ていたかと思うと、予想外の問いを口にした。
「妙なことを聞くようだけど、君はノゾミの目が何色だったか覚えているかい?」
ノゾミの目? と曖昧な記憶を攫ったが、ノゾミはいつも妙な形のサングラスを掛けていて――いや、違う。
確か、どこかで、あのサングラスを掛けていない姿を見たことがあったはずだ。あれは、確か――
しばらく考え込んだ後、あっと思い出して手を打った。
メフィストが見せたハワイとやらの夢だ。あの中では、知るはずもない人間だった頃のナバールなんかがいて驚いたが、ノゾミもサングラスを掛けていなかった。そして確か目の色は――緑だった。
ダヌーやダグザのそれよりは、いくぶん淡いような色だと思ったが、強い光の下だったからそう見えていただけなのかも知れない。
「そうか‥‥なるほど」
何事かを納得したようなフリンに、どういうことかと答えをせっつくと、
「それは恐らく妖精の――ダーナ神族のしるしなんだろう。君の目と同じく」
そう指摘されてハッとした。そういえば俺も黄泉帰りの後、腕に緑色の紋様が浮き、眸と傷痕も同じ色に変わっていた。それは契約の証しだと思っていた。失った元の命の代わりに、俺を動かしているダグザの力。
もっとも目と傷の変化に気付いたのは、その日の終わりに顔を洗おうと鏡をのぞき込んだ時だったが。アサヒが気付かなかったのが不思議なほどの、くっきりとした緑色に驚いたものだ。
「ノゾミの目は元は緑じゃなかった。勿論、ダヌーの依り代になったのだから、当たり前と言えばそうなのかも知れない。だが――」
‥‥だが?
「ルシファーとメルカバーになった後、ワルターとヨナタンは元の彼らではなくなっていた。クリシュナに合一されて、ヴィシュヌになっていた間の僕もそうだった。‥‥では、ダヌーの依り代となったノゾミはどうなんだろうね?」
‥‥俺は息を呑んだ。依り代というのは、単に身体を貸しているだけではないのかも、とフリンは暗に言っているのだ。
「君に君自身の意識があるのは、もしかして特別なことなのかも知れないな。それに――そういえばダヌーは、イナンナの力を取り込んでいなかったか?」
そうだ。そして取り戻したイナンナの力で、ベルゼブブをバアルに、ミロクをミトラに産み直して――そこまで考えてあれ?と首を捻る。あの場にいなかったはずのフリンが、どうしてそれを知っているんだ?
「ああ、それがね‥‥」
フリンはちょっとうんざりしたような、皮肉の滲む苦笑を浮かべた。
「囚われている間というもの、クリシュナは外で起こっていることを逐一僕に見せていたんだよ。‥‥シェーシャを始めとする、多神連合の悪魔達の目を使ってでもいたんだろう。そして繰り返し言うんだよ」
『――ほら、見るといい、気の毒な救世主。誰も君が君でないことに気付かない。君を騙ったシェーシャに踊らされた人間達の魂が、次々と僕の元に集まってくる。見てごらん、なんて美しい命の流れだ――』
‥‥なるほど奴のやりそうなことだ。その口調を真似たフリンの言葉に、あの気に障る猫なで声が頭の中で聞こえるようだった。
「そうやって僕の心を折って、合一の時の抵抗を減らしておこうとしていたんだろうね。‥‥結果はあの通りだった訳だが」
言ってフリンは肩をすくめた。確かに、今までフリンが語ってくれた壮絶な経緯を思い返せば、それまで散々に打ちのめされ、逆に鍛え上げられた鋼の魂がその程度のことで折れる訳がない。残念だったな、ざまぁ見ろ――と、俺は再び封印され、今ここにいないクリシュナに悪態をついた。
「それはともかく、イナンナを取り込んだダヌーは危険だ――下手をすると多神連合よりも。誰の意見を鑑みることもなく、気に入らない存在を片っ端から都合良く産み直すことが出来るというのは。‥‥そしてノゾミが元のままのノゾミである保証はどこにもない」
そこまで聞いて、はっと思い出した。
俺が「卵を壊さない」と言った時、ノゾミは、ノゾミ一人だけは、自分のやりたいことを言わなかった。もっとこの世界で写真を撮りたいとか、心惹かれる被写体である人や風景を守りたいとか、写真家ならばそういうことを言っても不思議ではなかったのに――
‥‥無言のままに目が合って、俺とフリンはかすかに頷きあった。互いが何を考えているかは、もはや手に取るように解っていた。
「とはいえ、今回の選択はもう済んでしまったんだろう? なら、次のやり直しに賭けるしかないだろうね。‥‥僕としては、次も卵を破壊しておくこちらの世界の方がありがたいが」
何故、と聞きかけて、思い当たった。こちらではサタンがサタンのままでなく、ヨナタンとワルターに戻るからだ。
そうしたフリンの事情を考慮すると、次もこちらの選択の中で別の方策を考えねばならないだろう。難易度はさらに上がった気がするが、それでも、フリンという理解者が出来たことは嬉しかった。そうなると、なるべく彼も失いたくない。仲間を繰り返し殺しておきながら、虫のいいことだと自分でも思うが。
「正直、僕に出来ることはそれほど多くはないのだけどね。‥‥クリシュナに囚われることは回避出来ないようだし、つまりは君の選択に立ち会うことも出来ない。それに恐らく、僕の繰り返しはスティーヴンの采配によるもので、世界そのものを作り替えることは出来ないんだ」
え、と思わず目を丸くした。苦笑してフリンが肩をすくめる。
「こちらでは恐らく君だけが、繰り返す世界の神なんだよ」
‥‥何気ないようなその言葉が、少しだけ胸に刺さった気がした。
その通り――俺がやっているのは今のところ、世界を「繰り返す」だけなのだ。
全くそのままのやり直しではなく、「俺にとっての不都合な点」だけを都合良く弄った作り直しは、恐らく不可能ではないはずだった。けど、それは恐ろしくて出来ないでいた。
無関係なところを弄ったつもりで、回り回った別のところに予期せぬ影響が出ることが恐い。ひとつのピースを間違えたことで、全体の完成図が書き換わってしまうかも知れない。
はっきり言ってしまうなら、邪魔なダヌーの何かを書き換えることで、ダグザがダグザでなくなってしまう可能性が恐い。俺と出会わない可能性が恐い。俺を拾ってはくれないかも知れない可能性が恐い――
だから世界をやり直す時には、全ての要素をそのままに、ただ自分の記憶だけを封じることにしていた。前のことを覚えていたら、俺はいつかきっとボロを出す。何のきっかけでダグザに気付かれるか解らない。フリンに繰り返しを指摘され、無様に昏倒してしまったのは、忘れておくべき全ての記憶があの一瞬で溢れ出し、脳味噌をパンクさせてしまったからだった。
次もまた、全て忘れてやり直すだろう。だけど何度もやり直した今にして、初めてその事情を知ったフリンのことだけは、忘れることなく覚えておきたかった。
何故ってもはや俺達は、人間のための救世主じゃない。このくそったれな世界に何度でも抗う、たった二人きりの共犯者なのだから。
「共犯か。‥‥確かにそうだ」
その一言が妙に気に入ったらしく、フリンは破顔一笑した。‥‥なるほどいつもの無表情から一転してこんな顔を見せられたら、神の戦車も悪魔王もそりゃあひとたまりもないだろう、と身をもって納得させられた。
‥‥なんてことをぼんやり考えていたら、
「じゃあ、おまじないだ。‥‥同じ罪を抱えた僕のことを、君が次の世界でも忘れないように」
フリンが不意に俺の目をのぞき込み、からかうような笑みを浮かべた。
その意図を悟って、苦笑する。‥‥どうだろうな。俺の命も魂も、多分とっくにダグザのものだから、忘れてしまうかも知れないぜ。
「それはそれで構わないよ。‥‥君が忘れているのをいいことに、また同じ約束をするまでさ」
その言い分に、苦笑の「苦」の字が思わず吹っ飛んだ。
吹き出すように笑ってしまった俺を、フリンが手慣れた仕草で抱き寄せ、そのまま、二度目のキスが交わされた。
互いの欲しいものを手に入れるための、それは戦友としての誓いのしるしだった。
『十五の次元界から馬鹿げた神々と、その神々の馬鹿げた企みとを――』
‥‥本の中にいた神様の言葉が、何でか不意に頭をよぎった。
ああ、そうだ――YHVHもルシファーもメルカバーも、クリシュナもダヌーも俺達には不要な、全くもって馬鹿げた神々だ。
何度世界を繰り返してでも、一人残らず殺し尽くしてやる。
元のダグザが最早いなくとも、俺は彼の神殺しなのだから。
そうやって何度でもあがくのだ――今度こそ、俺のダグザを取り戻すために。
――― 「遥かな世界」 END ―――
(2016/04/12)