幸猫物語・再会編

(作・榊祐介/原案協力・猫様)
 幸猫の朝は意外と早い。
 猫にありがちなアンニュイとはほど遠く、彼は常にアグレッシブだ。
 NHKの画面の中で、マネキンのような三人娘がテレビ体操を始める頃、幸猫は起きだして出掛け支度を始める。
 長くふかふかの縞模様の毛並みと、同じく長いしっぽの毛を、丁寧に梳いてふくらませるのは欠かすことの出来ない習慣だ。
 里一番の荒くれ猫である幸猫は、その実、かなり小柄で痩せている。それで他の猫に舐められないように、身体を大きく見せる必要があるのだ。
(もっとも、幸猫に喧嘩を売るような命知らずは、今や里には一匹もいないのだが)
 長毛種の常として、抜け毛もなかなかに激しいのだが、それは丁寧にとっておいて、時々毛糸屋の獣のところに売りに行く。長く柔らかい猫の毛は、羊ほど量が多くはないが、上等のウールとしてそこそこの小遣い銭と換えてもらえるので、抜け毛もひとつの楽しみなのだった。
 毛繕いが終わると、幸猫はゆっくり朝食を取り、丁寧に牙を磨く間に、ゆうべのうちに仕込んでおいた肉球饅頭を蒸し上げる。
 つぶあん・こしあんと二種類ある饅頭は、里の内外を問わず好評だ。
(そのうち白あんとチーズも増やすつもりで、今は試行錯誤中である)
 自分の畑で育てた小豆を、最初はそのまま売っていた。
 が、ある日思い立って豆を煮て、あんこにしてみたら美味かった。それでさらに考えて、麦を作っている獣仲間に頼んで麦粉を分けてもらい、饅頭にしてみたらもっと美味かった。
 猫が凝り始めたらきりがなく、最初は近隣の友人知人に分けているだけだった饅頭は、やがて方々で評判を呼び、今では毎週人里に出掛けて行商するまでになってしまった。そして今日はその行商の日なのだ。
 蒸し上がった饅頭の湯気を抜く間に、ゆうべ作って凍らせておいた、ふかす前の饅頭を出してきて、保冷の箱にきっちりと詰める。蒸したての方は、ふんわりと保温の箱に入れ、それぞれを屋台風の荷車に積み込む と、行商の準備は完了だ。
 幸猫は肉球紋を染めた半纏を羽織り、ちょっとレトロな菅笠をかぶって、山向こうの人里へと向かったのだった。


 日課の犬の散歩から戻ると、ご隠居は鹿威しのひしゃくを取って、冷たい水をこくこくと飲んだ。
 足下では、池に流れ落ちる水盤の水を、白い雑種犬が鼻面を突き出してやはり美味そうに舐めている。
 山里とはいえ、一応水道水も引かれているのだが、湧き水の豊富なのこの辺り一帯、誰も好きこのんでまずい水道水を飲む者はいない。同様に、先代が掘り当てた温泉も、その質の良さで泊まり客には好評だ。
 ご隠居が何のご隠居かというと、村で一件の宿泊施設『民宿 さとむら』のご隠居だ。
 民宿と言っても、特に観光名所でもない山村のこと、宿泊客はそう多くなく、普段は雑貨屋として生計を立てている。
 しかし経営とかその辺りは、とうに息子夫婦に任せてしまっており、ご隠居はご隠居と呼ばれるようになってから、既に二十年近く経っているのだった。
 その、「ご隠居歴二十余年」の目に、ふと気にかかる人物が映った。
 古い作りの民宿には、昔ながらの縁側がある。その、ちょうど客間の障子の前に、山村の風景には不似合いな、「上着を脱いだサラリーマン」っぽい、疲れた風情の中年男が、沈んだ顔色で座っていた。
 ゆうべやや遅くに到着した、現在唯一の泊まり客である。
 ご隠居は犬の鎖を外すと(この村では、敷地内なら犬はほとんど放し飼いだ)、ひょこひょこと縁側に歩み寄った。
「お早う御座います」
 ご隠居が声をかけると、考え事をしていたらしい男は一瞬ビクリと目を上げて、
「あ、ああ‥‥おはようございます」
 と小さく頭を下げた。
「ゆうべはよく眠れなさったかね?」
「はい、おかげさまで‥‥ぅわ!」
 水辺で遊んでいた犬が、不意に駆け寄ってきて縁側に前足をかけ、にゅっと間近に身を乗り出したので、男は膝を崩して後ずさった。
「これ、ケン! 行儀の悪い‥‥お客さんじゃぞ。ちゃんと挨拶しなさい」
 ご隠居がそうたしなめると、興奮した様子で舌を出し、ぶんぶんとしっぽを振っていた犬は、前足を下ろして足下に座り、男を見上げてクーン、と鳴いた。
「賢いやつでの。噛んだりせんから、触っても大丈夫じゃよ」
「はあ‥‥」
 男は恐る恐る手を伸ばして、犬の頭にそっと触れた。
 犬はひとしきり撫でさせてから、ふんふんと男の手を嗅いで、その指先をぺろりと舐めた。
「ケンって言うんですか」
「うん、犬じゃからの。『犬』と書いてケンと読むんじゃよ」
 冗談なのか本当なのか、からからと笑うご隠居に、最初きょとんとしていた男も、やがてつられて相好を崩した。
「こういうところは、犬も気持ちがゆったりしてるんですかねえ。うちの方なんて、子犬の頃から知ってる隣の犬ですら、毎朝吠えついてきて大変ですよ」
「この辺は都会と違ってのんびりしとるしの。静かだし、毎日山の麓まで走っとるから、ストレスの溜まりようもないんじゃろうな」
 話しているうちに、犬はとことこと庭の方に行ってしまい、そのままふいと話題が途切れた。
 のどかな、しかしどことなくぎこちない沈黙の中、かすかな板を踏む足音が聞こえ、小さな盆を持った女将が現れる。
「十時のお茶でもいかがですか」
「あ、ありがとうございます、頂きます」
 居住まいを正して会釈した男に、地味なスラックスにエプロン姿の、いかにも「田舎の奥さん」然とした女将は、満面の笑みを返しながら頷いた。二人の傍らに膝をつき、懐紙を敷いた盆を置く。中には、二人分の湯飲みと、饅頭の入った菓子皿があった。
 見返したご隠居と男に一礼すると、女将は再び、廊下の奥へ消えていった。
「‥‥何か、考えごとの邪魔をして申し訳ないのう」
 その後ろ姿を見送っていたご隠居がぽつりと呟くと、男はふるふるとかぶりを振った。
「いえ、とんでもない。‥‥首でも吊りそうに見えましたか、私は」
「まあ、ただの旅行者には見えんかったのう」
 ご隠居は湯飲みを引き寄せて、濃い茶を一口、こくりと飲んだ。
「長生きだけはしとるでの。普通の人間が見んようなものも多少は見とる。‥‥聞くだけで良ければ、話してみてくれんかのう」
「‥‥ええ‥‥」
 少しの間の後、小さく息をつくと、男も湯飲みに手を伸ばした。


「お恥ずかしい話ですが、三人兄弟の真ん中の息子が、少々荒れておりましてね」
 茶の濃緑を見つめながら、男はポツポツと語り始めた。
「本当の理由は解りませんが‥‥上の兄に対しては『弟なんだから』、下の弟には『お兄ちゃんなんだから』と、損ばかりさせられると思っていたんでしょうか。段々気が荒くなって、しょっちゅう喧嘩したり、バイクで夜中まで出歩いたりするようになってしまって」
「まあ、若い時分にはよくある事じゃなあ」
「それでも、曲がったことは嫌いな性分の子だったので、取り返しのつかないような悪さはせずにきたんですが‥‥ある日、バイクで出掛けたきり、帰ってこなくなってしまいまして‥‥」
「ふむ‥‥『ぷち家出』ってやつかの」
「‥‥そのまま、五年になりますが、連絡もなく未だ見つかっておりません」
「‥‥‥‥」
 全然『ぷち』じゃないのう、という言葉を、ご隠居は飲み込んだ。
「元々、荒れてはいても猫の面倒なんかはちゃんと見ていたようですし、バイクの手入れなんかも几帳面で‥‥黙っていなくなるような子じゃあなかったんですよ」
 男は饅頭を一口かじり、流し込むように茶をあおった。
「警察にも相談したのですが、補導歴があったせいか、あまり真剣に取り合ってもらえなくて‥‥」
「それで息子さんを探しに、こんなところまで来なさったのかね」
「ええ。向こうの街で、ガソリンスタンドに寄ったのまでは、カード決済の記録で解りましたので、そこから行けそうなところを順繰りに」
 男はまだ五十代そこそこに見えた。その歳の頃や着ているスーツ、というか、こんな時にまでスーツで来てしまう性格からして、固い会社の、それなりの地位にいるに違いない。
 そういう男が、休みの日になると、蜘蛛の糸ほどの手がかりを頼りに、電車やバスを何回も乗り継ぎ、こんなところまで出掛けてきては、帰らぬ息子を捜し歩いているのだ。五年間も―――
 言葉の見つからぬご隠居に、男は懐から手帳を取り出し、開いて見せた。
 恐らくは高校の、入学式の時に撮ったのだろう。着物姿の婦人の横で、居心地悪げにへの字口を結んだ、やや幼さの残る少年が、学生服姿で写っていた。
 ご隠居は手の中で、その写真をじっと眺めた。
「隣のべっぴんは奥さんかね」
「恥ずかしながら」
「‥‥男前じゃな。よう似とる」
「いなくなった時は十七だったので、もう少し大人っぽくはなっておりましたが、面影はそのままです。‥‥女房のしわは増えましたけどね」
 何気なく言って男は笑った。が、その影には、急に老けるほどの母の嘆きもまた、あったに違いなかった。
「向こうの峠の辺りは、走り屋と言うんですか、そういう子達が集まると聞いたので、もしかしたら、と思いまして」
「さて‥‥どうじゃろうなあ」
 写真を返しながらご隠居は言った。
「こんな村じゃから、よそから若いもんが来たら気付かんってことはないしの。駐在さんが、村の者の顔をみんな覚えとるし」
「ここを通って山の方に行ったかも―――」
「‥‥あっち側は入らずの山じゃよ」
 ご隠居はちょっとだけ声を落とした。
「獣道ばかりで、山向こうの県には通じておらんし、古来、不用意に人が立ち入ってはいかんということになっとる。‥‥崖から飛び降りでもしたんでない限り、バイクでも歩きでも、村のもんが通しゃせんよ」
「そうですか‥‥」
 男はうつむいて、苦いものを飲み込むように、手の中に残っていた饅頭を食べた。
 重くなってしまった沈黙を振り払うように、ふと、菓子皿に視線を落とし、どこかぎこちない笑顔を作る。
「‥‥それにしても美味いですね、この饅頭」
ご隠居も間をつなぎがてら、ぬるんだ茶を一口飲んだ。
「うん、ここらの名物での。毎週行商が売りに来るんじゃよ。うちでも雑貨屋の方に少々卸してもらっとる」
「猫の足形ですか、これは」
 男が指した饅頭の上面には、言葉通り、猫の足形を模した図柄が紋所のように焼き付けられている。皮の色違いが数種類あったのは、中の餡の種類によって色を違えてあるらしかった。
「『肉球饅頭』っちゅうんじゃよ。うちで置いとるのは、この大きさの『犬球』って方でな」
「‥‥ということは、もしかして猫球もあるんですか?」
「当たりじゃ」
 ご隠居は笑った。
「そっちはちょっと小さめでの。ふかしたてを直売でしか手に入らん。犬球の方は冷凍で仕入れて、うちでその都度ふかすんじゃよ」
「こっちが粒あんですか。‥‥小豆からして違いますね。大粒で風味が濃くて」
「お山は豊かじゃからのう。作物は何でもよく育つそうじゃよ」
「? 入らずの山に農家の方がいるんですか?」
「あ―――‥‥」
 ご隠居はふと口ごもり、茶碗の中をのぞき込んだ。
 と、その時。
「―――失礼します。‥‥親父、ちょっと」
 計ったようなタイミングで、ご隠居の息子である民宿の主人が、庭を回って現れた。
 ちらと男に黙礼し、何事かをご隠居に耳打ちする。
「なに、そうか。‥‥今日は早いのう」
「うん、だから、ほら―――」
「あ、お客様でもいらっしゃいましたか?」
 男は不可解な気配を察してか、二人を見やって居住まいを正した。
「どうぞ、お構いなく、お戻り下さい」
「いやまあ‥‥客っちゅうもんでもないがの」
 息子に目線で促され、曲がった腰を軽く叩くと、ご隠居はよいしょと立ち上がった。
「ちょっくら、失礼しますじゃ。‥‥そろそろ日が高くなるでの。縁側に出とらん方がいいじゃろうの」
「あ、はい、どうも」
 男が反射的に頭を下げ、つられて立ち上がろうとしたその瞬間、
「‥‥ぅ〜〜‥‥」
 遠くからかすかに聞こえた声に、男はふいと動きを止めた。
 さっきまで庭をうろついていた犬が、どこか応えるようにウォン!と吠え、ぱたぱたとしっぽを振り始める。
「ェ〜〜‥‥‥ゅぅ〜〜〜‥‥‥‥」
 庭の向こうの通りから、その声は徐々にこちらに近づいてくるようだった。
 ぼうっとしていた男の肩を、民宿の主人が不意に掴む。
「―――お客さん」
「え?‥‥」
 低い声と険しい顔に、男は一瞬息を飲んだ。
 が、
「‥‥しょうがないのう」
 ご隠居が、その手を掴んで外させた。
「しかし親父―――」
「まあ、良かろうて。‥‥あんたものう」
 と息子を制しながら、ご隠居は男をじっと見て言った。
「悪いことは言わん。‥‥ここで見たことは、一切外では口外せんことじゃ」
「は?‥‥」
「‥‥解るな?」
「‥‥はあ‥‥」
 どこか釈然としない様子だったが、それでも、男はこくりと頷いた。
「‥‥―――肉球〜〜〜肉球〜〜〜、エ〜〜、肉球饅頭はいらんかね〜〜〜‥‥」
 いよいよ近付いてきたその声の主は、荷車でも引いているらしい。ガラガラという砂利を弾く音が、生け垣の向こうから聞こえてくる。
 やがてバタン、と裏木戸が開き、
「ちわーす」
 と現れた物売りの姿に、男は顎が外れそうになった。 
  荷車を引き、ひょこりと木戸をくぐってきたのは、どこからどう見ても二足歩行の巨大な猫―――または、そんな着ぐるみで出歩いている、怪しい人間にしか見えなかったからだった。


「よォ、ご隠居。元気そうじゃん」
 見るだに怪しい着ぐるみ(?)猫は、かぶっていた菅笠をひょいと脱ぎ、荷車の上にぽんと放った。
「猫さんもな。段々暑くなってきて大変じゃろ」
「まーなー。でも意外と涼しいぜ。そんなに身が詰まってる訳じゃねえからさ、この中」
 木戸の側に停めた荷車から、何かの箱を抱えて来た猫は、ご隠居の隣に腰を下ろすと、毛並みをぺしゃりと潰してみせた。薄茶のふかふかした縞模様の毛は、かなり奥まで猫の手を呑み込み、離すと再びふわりとふくれた。
 どうやら、長毛の猫にありがちな「太って見えても毛のかさがあるだけ」という状態であるらしい。‥‥というかそれは着ぐるみじゃないのか? こいつは一体何者なんだ??
 そんな疑問がぐるぐると渦巻き、言葉にならない男に気付き、猫はぴくぴくとひげを震わせ、「?」という風に小首をかしげた。
「珍しいな、お客さんかい?」
「珍しいはないじゃろ」
 からからと笑うご隠居に、猫もニカリと口の端を上げて笑った(ように見えた)。
 その口の中に、男の視線は釘付けになった。
 ひげが動くのもさっき見た。さらに間近で見ると、桃色の鼻も、着ぐるみでは到底あり得ない微妙なツヤと湿り気を持ち、ひげと一緒にひくひくと動く。
 それに加えて、笑った時に見てしまった。口吻の中の白い牙と、その奥で動いた桃色の舌。目を細めた時にすっと丸くなった、縦に長い瞳の虹彩は、断じて作りものではなかった―――
「肉球饅頭、持ってきたよ。いつもの分な」
 男の視線を気にした風もなく、クーラーボックスを取り出して、猫は中身をご隠居に見せた。
「おお、すまんのう。ところでそのうちでいいんじゃが、少し納品数を増やしてもらえんかの? 大人気じゃで、最近売り切れが早くてなあ」
 数を数えながら言うご隠居に、猫のひげがまたひくひくと動く。
「んー‥‥そうだなあ。じゃあ来週はもうちょっと増やしてみるよ。何個増やせるかはまだ解んねえけど」
「頼んだで。‥‥ほい、80個、確かに」
 双方が頷くと、納品書らしきものが交わされる。
 チラリとのぞいたその書面には、「肉球屋本舗」と書いてあり、肉球饅頭の焼き印と同じ意匠の、猫足型の判が捺してあった。
「―――じゃ、わしはちょっと饅頭をしまって、仕入れ代金を持ってくるでの」
「え? あの‥‥」
 未だ状況になじめぬまま、目を白黒させている男を後目に、ご隠居はよいしょ、と立ち上がった。
「猫さんにも茶を入れてくるでな。ちょっと休んで行きんしゃい」
「おお、いつもありがとな」
「こっちこそ、饅頭のおかげで大繁盛だでな」
 ご隠居は再びからからと笑い、横でずっと険しい目をしていた息子の肩を叩いて歩き出した。
「親父―――」
「いいんじゃ。あれは―――‥‥の―――‥‥」
 どこか強引に連れて行かれるような息子と、声をひそめたご隠居の話は、男にはよく聞き取れなかった。
 妙な沈黙の満ちる中、後には男と、謎の猫だけが残される。
 と―――
 猫がひくひくと鼻を動かすと、
「どうだった? 肉球饅頭」
 そう言って、丸い目を糸のように細めて笑った(のだろう、多分)。
 猫の視線をたどった先には、先ほど平らげた菓子皿の中に、饅頭の底にくっついていた、経木だけが残されている。
「え‥‥ああ‥‥」
 猫の言わんとするところに気付き、男もぎこちなく笑った。
「あなたが作ってたんですね、これ」
「うん。どうだった? 甘みとか塩加減とか」
「美味しかったですよ。‥‥何というかこう、小豆からしてそこらの普通のとはちょっと違うような」
 猫の顔色(?)が、途端にぱあっと明るくなった。
「あれ、俺んちで作ってる豆なんだ」
「へえ‥‥そんなところから自家製なんですか」
 嬉しげにピンとひげを張り、猫は長い尾をぱたぱたさせた。‥‥よく見ると、その尾は二本に分かれている。そんなことに気付いたからとて、男に何が言える訳でもなかったのだが。
「元々は豆のまんま売ってたんだけどな。何となく作ってみたら美味かったんで。今じゃこっちが本業みたいになってるよ」
 怪訝な態度を気にした風もない、誇らしげな様子が妙に微笑ましくて、男もようやく緊張を解いて笑った。
「‥‥向こうの山は、人が入ってはいけない場所だとさっきご隠居に聞きましたよ」
「ああ、うん」
「それはあなたが住んでいるからで、そういう、荒れていない土地だから、作物もよく育つということなんですね」
「まあ、住んでるのは俺だけじゃないけどな」
 猫は細い爪の先で、こりこりと鼻の頭を掻いた。
「そういや、あんた村のもんじゃないよな。旅行の人か?」
「え、いや‥‥まあ、そんなようなものですかね」
「‥‥間違っても山には入るなよ」
「ええ、ご隠居にもそう言われました」
「迷い込んだら、帰れないからな。‥‥ていうか、帰れない身の上になっちまうから」
「え‥‥」
「―――あまり脅かしてはいかんよ、猫さん」
 振り向くと、いつの間にか戻ってきたご隠居が、茶の盆を持って立っていた。
「ほい、今回の仕入れ代金と、あっつい茶じゃ」
「おお、サンキュー」
 代金と引き替えに領収証を切ると、猫は茶碗を受け取って、臆した様子もなく口をつけた。獣の口吻で、こぼすでもなく器用に熱い茶を流し込む。
 猫舌ではないんだなあ、と妙に感心して見ている間に、よっぽど咽喉が渇いていたのか、猫はこくこくと茶を飲み干し、はふ、と美味そうに息をついた。
「一息ついたところでお客さんが来とるで」
 ご隠居に促されて目を向けると、木戸の方に、5〜6人ばかりの村人が、皿やタッパーを手に集まっていた。
 若い母親に連れられていた、半ズボン姿に丸坊主の、小学生ほどの男の子が、
「ゆーーきーーねーーこーー!!」
 と大声で叫び、飛び跳ねてぶんぶんと手を振った。
「おー、ちょっと待ってなーー!!」
 猫も叫んで手を振り返し、空になった茶碗を置くと、代金をしまった手箱を持って、ひょっこひょっこと駆けていった。
 その姿を見つめながら、男はぽつりと呟いた。
「‥‥ゆきねこ‥‥?」
「幸せに猫と書いて、幸猫っちゅうんじゃよ、あの猫は」
 どこかきょとんとした表情のまま、男は先刻の写真を取り出す。
「ゆき‥‥幸彦って、言うんですよ‥‥」
 木戸の前では、猫が饅頭を包みながら、何やら村人と談笑している。その間にも、ふさふさと動く長い尾に、あの男の子が触ろうとしてはかわされ、むきになって地団駄を踏む。
 男はその姿をじっと見つめた。面影もない。見覚えも。それどころか、見たこともない怪しい生き物、悪く言えば化け物にしか―――
「ご隠居‥‥あれは‥‥あの猫は、何なんですか?‥‥一体何なんです‥‥?」
 男を見ぬまま、ご隠居は言った。
「あれが来るようになって、もう5年になるかの‥‥人間だった頃のことは、もうほとんど覚えておらんそうじゃ」
「『人間だった』って‥‥意味が解りませんよ‥‥何の着ぐるみなんですか?どういう仕組みなんです? 一体‥‥あれは‥‥」
「‥‥あんたも、もう、解っとるんじゃろう?‥‥」
「解りませんよ‥‥全然、解りません‥‥」
 男は拒むようにかぶりを振る。
 哀れむでもなく、どこか淡々とご隠居は続けた。
「猫は、普段はあんなじゃが、時々には人間に化けてくることもあってな。それでも、耳としっぽだけは隠せんみたいじゃが―――」
「化けて、って‥‥幸彦は‥‥うちの子は、人間ですよ‥‥!!」
 言ってしまってから、男ははっとして息を飲んだ。‥‥写真を持つ指がぎこちなく震える。
「‥‥ご存じだったんですね」
 耐え切れぬように、男は目を伏せた。
「ご隠居は‥‥あれが、この子だと‥‥」
「写真を見せてもらった時にの。‥‥変わっとらんかったよ」
「‥‥私には解りません‥‥」
 魂が抜け出たような虚ろな声で、それでも男はかぶりを振った。
「私の子は化け猫じゃない‥‥人間です‥‥高校生だったんですよ‥‥!」
「もう獣じゃよ。‥‥一旦なったら、二度と戻りゃせん」
 絞り出すような男の言葉に、柔らかく、しかしきっぱりとご隠居は言った。
「あの山には、『獣の里』っちゅうのがあってなあ‥‥行こうとしてもそうそうたどり着けんし、逆にうっかり迷い込んだ人間は、あんな風に獣になっちまうんじゃよ」
「そんな‥‥そんな、こと‥‥!!」
「‥‥わしのじいさんもな、そうじゃったよ」
「え‥‥?」
 虚ろに、男は目を上げた。
 ご隠居はどこか懐かしそうに、遠くの幸猫を見ながら言った。
「ちっとは名が知れた刃物職人だったんじゃけどな。年とって、今日明日にはもう駄目じゃろう、と言うことになったんじゃ。‥‥ところが翌朝、おふくろが様子を見に行くと、きちんと布団をたたんでいなくなっとった。もう、動けやせんはずじゃったのにな」
 饅頭を買いに来る村人はなかなか途切れない。猫は何度も箱を開けては、次々と饅頭を包んでは渡す。
「獣の里では、どういう訳だか時々、迷い込んだ訳でもない、寿命が来たような人間を迎えに来て、獣の仲間にするっちゅうことがあるらしくてな。じいさんもそれじゃろう、とみんな言っとったよ。‥‥実際そのあと、研ぎ・包丁売りの獣が村に来るようになってなあ」
「お祖父さんは‥‥何になったんですか?‥‥」
「それがなあ‥‥ああいう感じの、でっかい猿じゃったよ」
 ご隠居は思い出して苦笑した。
「元が大概しわくちゃの爺さんじゃったから―――と言っても、歳は今のわしよりゃ若かったんじゃけどな。昔の人じゃから老けとっての。でまあ、そんなんじゃったから、猿になってもなんか面影がそのまんまでなあ。‥‥じいさん、わしのことはもう孫とは解らんかったが、それでも可愛がってもらったのう。よく、山のあけびとか葡萄なんかを土産にくれたもんじゃ」
 ‥‥呆然と、男は写真と、遠くの猫と、どこか懐かしげなご隠居を見た。
 先ほどの、宿の主人の険しい顔の訳がようやく解った。
 人が猫だの猿だのになるなど、普段なら到底信じないだろう。今でも、あの猫が自分の息子だとは、男には全く思えない。向こうだって、父親である自分のことは全く解っていないようだった。猫の顔には人間の息子の面影などないし―――息子は、あんな風には笑わなかった。
 小さな頃ならいざ知らず、高校に上がる頃にはもう、息子は始終苛々していて、家族とはほとんど口もきかなくなっていた。何をそんなに荒れていたのか、今でも男には解らない。だが、それが一層、息子を苛立たせていたようだった。
 なのに、向こうで饅頭を売っている猫の、楽しげな様子はどうだろう。人とは似つかぬ猫の顔で、何と表情豊かに笑うことか―――
 ご隠居の祖父は猿になり、今でも山にいるのだろうか。いや、臨終間際の年寄りだったというから、いくら人でないものになったとて、孫だったご隠居がこの歳では、さすがに存命ではいないだろう。
 だが多分、ご隠居を始め村人にとって、入らずの山は、いつまでも家族が住む場所なのだ。村を訪れる怪しい獣は決して異世界の物の怪ではなく、姿を変えた彼らの血族であり、だからこそ村人は、山と彼らを守るのだろう。人でないものに変わってしまっても、彼らは多分幸せなのだから。そうでなければ、猫があんな風に笑うはずがない―――
「‥‥ご隠居」
「んん?」
「私があの子の父親でなかったら‥‥どうなっていたんですかねえ?」
「‥‥そりゃ、聞かん方がいいじゃろな」
 ご隠居は、好々爺然とした笑顔のまま言った。
「はは‥‥何だかそら恐しいですね」
「田舎っちゅうのはそういうもんじゃよ。‥‥色々と、都会ではあり得んことが起こるでなあ」
「ええ‥‥今でも信じられませんよ‥‥本当に‥‥あれが‥‥」
「だが、それがこの村の現実じゃよ。‥‥だからあんたは、帰ってもこのことは誰にも言わん。‥‥息子のためにの」
 ご隠居の言う通りだった。
 男は村の秘密を目にして、それでも帰してはもらえるのだろう。ならばその秘密を漏らすことは容易い。あれが真実息子であるかどうか、男には未だ解らないのだし。
 だが万が一、全てが真実だったとしたら―――?
 変わり果てた息子を守るためには、男は口をつぐむしかないのだった。
 いつの間にか、饅頭を求める村人の列は絶え、幸猫が縁側の方へ戻ってきた。
「おお、今日も売り切れかね」
「うん。おかげさまで大繁盛だよ。ありがたいなあ」
 幸猫は縁側に腰掛けて、丸い目を線のように細くして笑った。
「もうちょっと規模を大きく展開しちゃどうかの。損はせんと思うがのう」
「ん〜〜‥‥でもまだ、人に手伝ってもらっても同じ味が出せるか解んねえしなあ」
「‥‥職人肌なんですね、猫さんは」
 男の言葉に、猫はピンとひげを張った。
「うん、何かこういうのが向いてるみたいだ。やり始めたら、それを極めるのが好きなんだな、きっと」


 ―――手入れした分早くなるとか、ちゃんと動くとか、そういうのが好きなんだよ。兄貴なんかぜんぜん放ったらかしじゃんか。持ち腐れっつーんだよ、そういうの。


 兄のバイクを無免許で勝手に乗り回し、挙げ句改造してしまったのをたしなめた時、息子が言った言葉がそれだった。
 ‥‥目の前の猫が、急に息子の面影と重なった。そんなことが錯覚に過ぎないのは、自身が一番よく知っているのに―――
 少しだけ涙が滲んだ気がして、男は思わず、隠すようにハンカチで顔を拭った。
 その様子を訝しんだのか、猫が何かを言おうとした時、
「―――こんにちはー。幸猫来てますか?」
 木戸の方から声が掛かり、誰かがひょこりと顔をのぞかせた。
「おお、居るよー!」
 猫が答えて手を振ると、大学生かそこいらに見える、のんびりした感じの青年が、ぺこりとお辞儀をして入ってきた。リヤカーを引いたスクーターを、猫の荷車の横に留め、とことこと縁側にやってくる。
「何だ、お前も来てたのか」
「うん、女将さんから連絡があって。この前注文したパソコンが届いてるっていうから」
 猫に聞かれてリヤカーを示す。見るとそこには、デスクトップのパソコンらしいメーカーロゴの入った箱が、厳重にくくられて積まれていた。
「大荷物じゃな。茶でも進ぜようかの」
「ありがと。でもお構いなく。さっき女将さんに頂いたし、もう帰るから」
 猫の知り合いらしい青年は、のどかな風貌にはやや不釣り合いな真っ赤な髪をふわふわさせて、男とご隠居に一礼して笑った。
 その時視界をよぎった何かに、男はふいと視線を留めた。
 一見何の変哲もないジーンズとシャツ姿の青年の、背後の腰の辺りから、何かスカーフのようなものが下がっている。妙に気になってさらに目をこらすと、何かがみっちり詰まっているようにスカーフの生地が張っていて―――足元までを見てようやく解った。
 青年の腰からは、蛇のようなトカゲのような、太く肉質の尾が伸びていた。スカーフをぐるぐると巻き付けているのは、それを覆い隠すためであるらしい。しかし、尾の先端までは巻ききれなくて、鱗の赤い尾の先が、ちょろりとのぞいているのだった。
 視線に気付いたらしい青年は、無言のままに曖昧に笑うと、猫に向き直って、
「帰ろ」
 と言った。
 猫も笑って、
「そだな」
 と答えると、ぴょこりと縁側から降りたって、ご隠居と男に向き直った。
「んじゃ、また来週寄らせてもらうよ。お茶ごちそうさま」
「おお、来週も待っとるで、饅頭作り頑張ってな」
 青年が会釈し、猫が手を振ると、二人は向き直って縁側を後にした。
「荷車つけなよ。僕、スクーターで来たから引いてあげるよ」
「お前の、原チャリどころかラクーターじゃねえかよ。大丈夫かあ?」
「歩くより楽だよ。遅いけど」
 木戸から荷車を出しながら、青年が一度だけこちらを振り返った。
「‥‥知ってる人だったの?」
「んにゃ、知らね。‥‥ような気がする。多分」
 風に乗って、二人の会話がかすかに聞こえたが、その後の応酬は聞き取れなかった。
 木戸をくぐり、二人の姿が見えなくなると、男は思わず立ち上がった。生け垣のすぐ向こう側を歩いているのか、しばらくは頭も見えなかったが、やがて、山の方に伸びている、畑の真ん中の細道に、遠ざかっていく後ろ姿が見えた。
 赤い頭の青年が、えらくゆっくりしたスクーターに乗って、その後ろに、猫とパソコンを乗せたリヤカーと饅頭の荷車を引いている。一体何を話しているのか、時折猫は身振り手振り、箱を叩いたりして笑っていた。
 男の隣で立ち上がって、同じ方向を見ていたご隠居が言った。
「後で来たあの子はレッドって名での。あれも本当は、トカゲみたいな恐竜みたいなのなんじゃよ。イグアナっちゅうものだそうじゃが」
「友達なんでしょうか‥‥息子と‥‥」
「うん、親友だと言っとったな」
「そうですか‥‥」
「獣の里も、色々と人の世界のものを仕入れることがあってな。うちはその仲介もしとるんじゃよ。じいさんの代からのよしみでなあ―――」
 ご隠居の言葉を、男は既に聞いてはいなかった。
 友達も居る。仕事もある。受け入れてくれる村人が居て、山に帰れば仲間もいるのだろう。
 ならば息子は幸せなのだろうか。人間の世界に居た時よりも、獣になった今の方が、よっぽど幸せなのだろうか。自分たち家族がいなくても―――
 今度こそ、こらえ切れぬ涙がぼろぼろと溢れて、男は遠くを見つめたまま泣いた。
 どんなに窮屈な思いをしても、人として人の世にあるべきなのか。それとも、どんな姿でどこにいても、真の幸福を選ぶべきなのか―――どれだけ考えても、答えは出せなかった。
 小さくなっていく後ろ姿を、男はいつまでも見つめていた。涙で滲んだ視界の中、遠ざかりやがて見えなくなっても、止まらぬ涙を拭うこともせぬまま、その場に立ちつくしていたのだった。


 パソコンの設置を手伝った後、幸猫はレッドと遅い昼食を取り、畑の手入れをして帰ってきた。
 次の分の餡作りの仕込みは明日からすることに決めているので、幸猫はゆっくり風呂に入り、濡れた毛をふかふかに乾かすと、いつもの絵日記を書き始めた。
 内容は特に決まっていない。その時々に、思いついたことを何でも書く。
 饅頭の売り上げを書きながら、納品を増やすかどうか考え、レッドのパソコンのことを書き―――ふと、鉛筆を持つ手が止まった。
『あれやっぱり、幸猫の知ってる人だったんじゃないかなあ?』
 獣の里に帰る道すがら、レッドはそんなことを言い出した。
『人間だった頃の知り合いとか』
『だとしたら向こうが黙ってないんじゃねえ?』
 何だか全然ピンと来なくて、幸猫は思わず首をひねった。
『猫になってんのを見つかったら、普通のよそ者より余計まずいし。ご隠居が黙って帰す訳ねえだろ』
『そうなんだよねえ‥‥でも、何か変じゃなかった?』
 細かいことが気になるたちのレッドは、それでも釈然としないようだった。
 ‥‥一旦止まった鉛筆を、再びさらさらと走らせる。

 ―――ということは、やっぱり知り合いだったんだろうか。全然覚えてないのだが。

 そこまで書いた文章の隣に、ちょっと濃いめの鉛筆に持ち変えてあの男の顔を描いてみた。仕上がりをつらつらと眺めるに、我ながら似ていると思ったが、誰なのかはやっぱり解らなかった。

「知り合いだったかも知れない人」

 絵の下にそんなタイトルを書き入れて、幸猫はパタンと絵日記帳を閉じた。
 さしあたって必要のないことを、いつまでも考えているのは時間の無駄だ。猫は悩みを記憶しないものなのだ。
 幸猫はそれきり細かいことは忘れ、早起きに備えて布団にもぐった。
 畑の手入れに里の儀式にと、明日もまたアグレッシブな一日が、幸猫を待っているのだった。
――― 幸猫物語・再会編 END ―――
(03.07.09up)