秋の風が吹く。
乾いて、軽く、涼気を帯びて爽やかな、秋の風が吹く。
秋の風は、優しく人々の頬を撫で、吹き過ぎる。
「たっだいまあ!」
秋休み初日である。
学費はたまったと言いながら抜けない貧乏性で、今日も一日バイトで外を飛び回っていたきり丸の帰宅である。
「おかえり」
にこやかに迎えた半助に、しかしきり丸は、
「あああっ!」
と大声を上げた。
「なにやってんだよ! もったいない!」
草鞋を脱ぐのももどかしげに、部屋の中にまろびいったきり丸は、利吉と半助の手元を見て泣き声を上げる。
「うわああ、もったいねえ……! 町で売ればいいのにぃ……」
利吉がむっと眉を寄せた。
「初物だぞ。ほかに言いようはないのか」
「そうだ!」
利吉の言葉など聞いているきり丸ではない。
「全部剥いてから売ろう! そのほうが高く売れる!」
両手がふさがっている利吉の、鋭い足蹴りがきり丸のすねに向かって飛んだ。
きり丸は、利吉と半助が小刀を使って剥いている栗の実を見つめ、
「……すんげえ大粒じゃん……」
つやつやと光っている一粒を惜しそうにつまみあげた。
利吉はそんなきり丸の様子に、形よい唇を不機嫌そうに、ひんまげている。
――無理もない。
半助は苦笑を噛み殺す。
今年の初物ですよと、利吉がいそいそと栗の実を買って来たのは今日の昼過ぎ。
栗ご飯にしましょうかと利吉が言うのへ、そんな手間のかかるものをと半助は言い返そうとして。
栗が市に出るようになって、もう幾日かはたつ。近在の山でもいくらでも拾えるだろう。それを……今日、秋休みの初日、きり丸がともにする食卓に合わせて買って来た利吉に、つと笑みがもれた。
「……そうだね、栗ご飯がいいね」
口が裂けても、『きり丸も喜ぶでしょう』などとは言わないだろうが。小刀を二本取り出し、手間仕事を始める利吉の横顔はどこかうれしげだった。
――それを。
知らないきり丸は、これまた無邪気に『もったいない』を繰り返すのだ。
半助は苦笑を噛み殺す。
「……そういや、かあちゃんがよく……」
もったいないを連発していたきり丸が、ふと言いかけて口をつぐんだ。
かあちゃん、とうちゃん。
きり丸がなくした家族のことを口にするのは珍しい。
自分でも面はゆいのか、栗の実を手に、頬を薄ら赤く染めるきり丸は困ったように口を閉ざしている。
「……ん?」
半助は目線だけで軽くうながす。
きり丸は照れたような笑みを浮かべた。
「……かあちゃんが、よくこぼしてた。半日かけて剥いても、すぐなくなる。栗ご飯は割に合わないって」
家族で囲んだだろう、秋の膳を思い出したか、きり丸の目線が下に落ちる。
と。
利吉の足蹴りがまた飛んだ。
「そうだ。栗は面倒なんだ。知ってるならさっさと手伝え。今日は自分で剥いた分しか栗はやらんからな」
「……へっ!」
挑発に、きらーんときり丸の瞳が輝いた。
「おれ様のバイトの守備範囲、知らないな。栗の皮剥きなんざ、プロだぜ」
そうして猛然と栗の皮に小刀を振るいだしたきり丸の手先は、確かに器用だ。
「ま、負けるかっ!」
利吉も負けじと固い栗の鬼皮に小刀を振るう。
「……ああ、もう、ケガには気をつけて……」
笑い半分、半助が注意を促せば。
「ああっ! いってえ!」
利吉の悲鳴。
「ほら、言わんこっちゃない」
「へ。シロウトが焦るとケガするんだよ」
「栗の皮剥きにプロも素人もあるかっ!」
「あるよっ!」
「だからっ! 二人ともしゃべってるとケガを……」
「あちっ!」
「ほうらどうだ。おまえだって……」
「いいかげんにしなさい!」
……にぎやかに、にぎやかに。
栗の皮剥きに精を出す、彼らの上を、家に入った秋の風が優しく撫でて行く。
「さぶろー」
緊張感のない声で、戸口からひょっこり顔をのぞかせて呼ぶのは雷蔵だ。
「蜜柑、食べる?」
「蜜柑? 珍しいな。初物じゃないか?」
「うん。山のほうから来たおばあさんに貰ったんだ」
雷蔵はそう言って、皮の張りのよい、きれいな蜜柑をひとつ、手の平に乗せてみせる。
「三郎と半分こ、しようと思って」
蜜柑の皮を剥き出す雷蔵の手元を見ながら、
「どうしたんだ、それ?」
三郎は問いかける。
「うん。おっきな荷物持ったおばあさんがね、堺まではこの道でいいのかって聞くから、案内がてら荷物持って送ったんだ。そしたら、ありがとねって……」
「……半日、人足やらされて蜜柑一個か」
「半日もかからなかったよ」
「おまえは人がよすぎる」
三郎の辛口のコメントには答えず、雷蔵は皮を剥き半分に割った蜜柑を、はいと差し出した。
三郎は手を出さない。
雷蔵は受け取られなかった蜜柑をあっさり引っ込めると、今度はていねいに、蜜柑の薄皮につく白い筋を一本一本丁寧に取り出した。
「つけこみやすさがオーラで出てるんだよ、おまえの場合。だから見ろ。同じ顔をしていても、俺なぞ道を聞かれたことなど一度もないぞ」
雷蔵が笑い声をたてた。
「自慢かなあ? それ」
そして、筋まで取り終わった蜜柑をまた、はいと三郎に向かって差し出す。
三郎はやはり手を出さない。
「……ねえ」
雷蔵は口元に笑みを残したまま、半分になった蜜柑から一房、分け取る。
三郎が、あん、と口を開く。
雷蔵がその口元に蜜柑を差し出す。
「さっき僕は人がよすぎるとかなんとか、言ってなかったっけ?」
三郎はパックンと蜜柑の房を口中におさめると、雷蔵の指ごと、ちゅうっと吸い上げた。
「……ああ。ついでに俺、言わなかったか?」
雷蔵の指に伝った果汁まで、ぺろりと舐めとり、三郎は雷蔵を上目使いに見やる。
「おまえのそういうところも、俺は好きだって」
二房目を分け取り、差し出しながら、雷蔵の頬がほんのり赤らんだ。
「……聞いてないよ」
三郎は、また雷蔵の指ごと差し出された蜜柑に吸い付く。
「……好きだよ」
「……ばか」
「だからさ……指じゃなくて口を使ってくれないか?」
「……ばかっ!!」
憤然と立ち上がった雷蔵を三郎が見上げる。
「そんな照れなくても」
「照れてないっ! さ、三郎が、三郎が……ば、ばかなことを言うからっ」
「だって」
三郎は薄ら笑う。
「俺、おまえが好きだもん。……人がいい、おまえが好き。……俺をあまやかしてくれる、おまえが好き」
突っ立つ雷蔵の足に三郎が抱き着く。
三郎の体温が、制服の布地を通して、じんわりと雷蔵に伝わる。
「……な。残りの蜜柑も食わせて?」
「……ゆ、指だぞっ! く、口なんか使わないからなっ……!」
「そういう、いつまでもスレ切らないとこも好き」
「ばかっ!」
平手を相似の少年の頭に見舞いながらも、雷蔵は再び腰を下ろす。
初物の蜜柑が、床に淡くオレンジ色の影を落としながら、そんな二人のそばに転がる。
秋風が、そより、室内に吹き込んだ。
落ち葉の山が細い噴煙を上げている。
庭ボウキを手にした小松田の後ろに、鼻をひくつかせた一年生が陣取る。
「まだかなあ? まだかなあ? まだ焼けない?」
早くもヨダレを垂らし出したしんべヱに、
「まだだよ。今、火をつけたばかりだもの」
そばかす顔の乱太郎が答える。
「ねえ、小松田さん、もう五、六個、追加してもいいかなあ? 焼けたら売るんだ」
聞くのはきり丸だ。
「うん、食堂のおばちゃんが分けてくれたらね」
小松田の答えにきり丸が駆け出す。
秋の落ち葉に藁にくるんだサツマ芋をほうり込み、焼き芋を楽しもうという趣向である。
パチパチと乾いた落ち葉や小枝がはぜる音と、時にもくもくと、時に細く立ち上る白い煙りに、一年生たちは待ち遠しげに足踏みを繰り返す。
「……いい匂いだな」
通りがかったか、野村が声を掛ける。
「あ。もう匂いますかぁ?」
小松田がくんくんと鼻をうごめかせる。
「するする! もう焼き芋の匂い、いっぱいするよ〜」
しんべヱが請け合う。
「しんべヱ君の鼻は特別だもの。僕はまだあんまりわからないなあ。野村先生も鼻がいいんですねえ」
邪気ない小松田の言葉に、野村がちょっと鼻の頭をかく。
「ずっとそばにおるから、わからんのだろう。……もう、職員室の中までいい匂いがしとるよ」
「じゃあ、後で先生方にもおすそ分けしなきゃあ」
気前のよい小松田に、これはきり丸が憤然と異議を唱える。
「だめだよっ! もう商売用に押さえてあんだからっ!」
えーと困ったような小松田に、野村が笑みを落とす。
「まあ先生方には、匂いだけでも十分に御馳走でしょう」
と。
小松田が門のほうを見やって、あっと声を上げ、
「ちょっとこれ持っててね、きり丸君」
手にした竹ぼうきを慌ててきり丸に預けると、門に向かって走りだした。
門を入ったところから、憮然とこちらを眺めていた大木に、小松田は走り寄る。
「すいませーん、入門表、お願いしまーす」
「……なにぃ?」
「だからぁ、入門表、お願いします」
ぎろり。
大木は、最前、野村からほほ笑みを引き出したその用務員を上から眺め降ろす。
「……入門表? だれに向かって頼んどるんだ」
小松田は負けるまいとして胸を張る。
「規則なんです」
「…………」
怖いもの知らずと言われる小松田は、不機嫌に目を光らせる大木に入門表を挟んだ木板と筆を差し出す。
「……ふん」
鼻息荒く、大木がそれを受け取り……ぱきっ。
軽い音がしたと思ったら、大木の手の中でその木板はまっぷたつに割れていた。
「……おお。ヒビでもはいっとったんじゃないか」
しらじらと言いのけて、大木は割れた入門表を小松田に突き返す。
物品の破損に、小松田は泣きそうな顔をしたが。
「……あ、新しいの、取って来ます! ちゃ、ちゃんと待ってて下さいねっ!」
気丈に言い置いて、事務室にむけて駆け出した。
その背を、不満げに見送る大木の横に。
影がすっと立った。
「……かわいそうなことをする」
「……なんじゃい」
大木はぎろりと横に立つ土井を見返す。
「ヤキモチはもう少し上手に焼いたらいかがですか」
「……わしはモチなど焼いとらんわ。あれは板にヒビがはいっとったのよ。危なくケガをするところじゃったわ」
「彼はよい子ですよ」
「ほう。ならおまえさん、口説いたらどうだ」
土井の口辺に、あたたかさのかけらもない笑みが浮かんだ。
「……いっぺんに厄介払い、ですか。残念ですが、彼はわたしのタイプじゃないんで」
そして土井はすっと大木の耳元に口を寄せた。
「そんなに心配することはないでしょう。わたしはどうもさっきから、野村先生の視線が痛いんですが」
焼き芋の焼き上がりを待つ子どもたちの後ろから、確かに野村がこちらを見ている。
「……ふん。出来の悪い事務員のことでも気になるんじゃろ」
「誰かさんが子どもみたいなイジワルするからでしょう」
「誰がイジワルじゃい。あれは板にヒビが……」
「そう。あれは事故。そして、さっきからわたしの首の後ろがチリチリするのも、わたしの気のせい」
小松田が新しい入門表を手に駆けて来る。
騒ぐ子どもたちのそばから野村がこちらを見る。
そして……鼻をうごめかせた山田が職員室から出てきた。
「……また、」
子どもたちのほうを見ながら、土井の目がすっと細くなった。
「遊びに行ってもいいですかね……」
「……いつでも来いと言うとるわ」
秋の風が吹き過ぎる。
焼き芋に騒ぐ子どもたちの上を。
……素直になりきれない、大人たちの上を。
秋の風が吹く。
乾いて、軽く、涼気を帯びて爽やかな、秋の風が吹く。
秋の風は、優しく人々の頬を撫で、吹き過ぎる。
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