春の月 二

 

 

 春の月、優しく照らす。
 肌包む、ぬるい春の夜気の中、想い持て余す恋人たちを。
 時を超え、月の光が、優しく照らす‥‥。


 目の前に、手のひら。
 五本の指をいっぱいに広げ、指先をぴんと反らした、手のひら。
「先生」
 手のひらの向こうから、まだこどもの幼さ柔らかさを残した少年の顔がのぞく。
「腕相撲しよう」
 土井は目の前に突き付けられた手のひらを見る。
 ‥‥大きくなった。
 土井はそっと手のひらの付け根を合わせ、自分も指先を伸ばしてみる。
 土井のほうが、まだ長い。しかし、その差はほんのわずか。‥‥いつの間にこんなに
大きくなったんだか。抜かれるのも時間の問題だろう。
「もう、すぐに追いつくよ、先生」
 大人の男のごつさなど、まだまだ遠い少年は、その目にだけ年に不相応な強い意志の
光を浮かべて、そう言った。
「‥‥そうだな」
 少年の伸びやかな四肢につく筋肉は、まだ薄い。それでも土井には見える気がする。
 土井より頭半分高い背に、肩も胸も張った大人の男が。目の前の少年は、それだけの
成長が信じられるしなやかな強さと、骨格の確かさを備えている。
「ほら、先生、腕相撲!」
 板の間に腹這いになってせがむ少年は、こどもの顔に戻っている。
「‥‥ようし」
 自分も腹這って、土井は少年と手を握り合う。‥‥大人になったその時、この子は
なにを見つめているだろう‥‥。願わくば‥‥その時にも見守る近さにあれますように、
祈るような気持ちで土井は腕に力を込める。
「ああ、くそうっ!」
 負けて本気で悔しがる少年に、土井は笑みをもらす。
「もうずいぶん、あぶない勝負だったよ。‥‥力がついたな」
 少年は顔を上げる。
「早く先生に勝ちたい。勝てるようになりたい」
 その顔がふと真顔になった。
「‥‥おれ、先生が好きだ」
 その言葉の重さをあっさりと裏切って、土井はにっこりと笑った。
「わたしもだよ。きり丸」
 あたたかいようでいて、これ以上ないつれない返事に、きり丸はぷっと頬をふくらま
せた。
 そんな教師と生徒を、丸い月が見ている‥‥。


「あーあ。こんなところに泥が残ってるじゃないか、百合子。今、きれいにしてやるか
らな」
 かがみこんで石火矢の足回りを払っていた三木ヱ門は、気配に顔を上げた。
 今まさに三木が磨いたばかりの石火矢に足をかけ、傲然と腕を組んで滝夜叉丸が立っ
ていた。

「‥‥足を降ろせ、滝」
 素直に降ろす相手ではない。三木の言葉は平然と無視される。
「こんな時間に何をしている」
「僕の勝手だ。‥‥足、降ろせってば」
「私が気にして聞いてやってるんだぞ。何をしている」
 いつもの通り。上から押し付けるような物言いに三木は黙る。石火矢の手入れをして
いる、などと見てわかることを答えても仕方ないだろう。
 月を背に立つ滝を見上げる。
 一度は夜衣に着替えていたのに、部屋を出る時に、ちゃんと制服に着替え、髪もまと
めたのだろう。昼と同じ装束で現れる滝の律義さが、三木には恨めしかった。今夜の月
の淡い黄色に、真っ白な夜衣に緑の黒髪を流した滝はさぞ美しかろうに‥‥。
「‥‥消灯後に部屋に残っていてもつまらないからな」
 おまえの姿がよく見えないから。
 理由の理由は伏せた答えに、ぴくりと滝の片眉が上がる。
 自分と同じ部屋にいるのがつまらない、と言われた滝の、プライドが傷ついたのだと
は容易に想像がついたが、三木は石火矢に目を戻す。
 ‥‥昼間。滝は例の一年の三人組とじゃれあっていた。「戦輪の投げ方を教えてやる」
と言う滝夜叉丸をうっとうしがって逃げる三人組に、なかば本気で腹を立てて追っかけ
ていた滝の姿が三木には忘れられない。怒ったり笑ったり呆れたり‥‥あの三人組に関
わっている時の滝はいつも生き生きとしている。
 三木はこみあげる苦みを感じる。
 ‥‥あいつらにそんな顔を見せてやることはないのだ。その表情の貴重さも‥‥美し
さも理解できないあいつらに、そんな顔を見せてやることは‥‥。
「‥‥おい」
 声をかけられて、はっと三木は意識を戻す。
「‥‥血が出てるぞ」
「‥‥あ」
 知らぬ間に、また、自分の指を食い破っていた。小さな無数の傷が残る手は三木の苛
立ちを刻んでいる。
「‥‥睡眠不足はよくないぞ。イラつきやすくなる。早く寝ろ」
 言うだけ言って滝はくるりと背を向ける。
 ‥‥わざわざ着替えて様子を見に来たのだろうに。振り返って「一緒に部屋に帰ろう」
と再度は言わぬ気位の高さを、三木はよく知っている。‥‥知ってはいるが。
 月の光に、艶やかな黒髪が束になって揺れる。
 カリ。また小さく三木は指を噛んだ。


 薄く開いた唇に、唇を寄せてみる。
 無防備に眠る少女の愛らしさ。
 しかし、油断はできない。息がかかるほどに顔を寄せれば、彼女の眠りはすぐに醒め
るだろう‥‥そういう訓練を受けて来ている。
 ユキは用心深く身を起こし、深く静かなため息をついた。
 「キスしたの」大事な秘密をもらすトモミの、紅潮した頬と潤んだ瞳が思い出される。
付き合いを申し込まれて、まだ一週間も立たないだろうに。
 その始まりにしろ。片思いをしていた相手からの申し出なら、すぐに承諾する気持ち
もわかるが、好きかどうか、そういう対象として見たこともあるのかどうか疑わしい相
手だったのに、恥じらいながらも快諾したトモミの心理が、ユキには引っ掛かる。
 卒業すれば、男とは違った意味で体を張って仕事に挑まねばならないくの一なれば、
せめて好いた相手とあまい思い出はできるだけ作っておきたい。そんな乙女心も働けば、
かたや、授業で習った手管を実際に試してみたい好奇心も働いて、くの一教室での性体
験率はかなり高い。その中で。男とまともに付き合った経験もないトモミが、かすかな
焦りを覚え出していたことをユキは知っている。
「あせることないのに」
 声もなく、つぶやく。
 少女の柔らかでなめらかな肢体と白い肌。それを無神経におのれの欲望でむさぼること
しか知らぬ男に、あえて開かせようとするトモミの焦りとコンプレックスが、ユキには
やりきれない。
 ‥‥わたしだったら。
 柔らかい唇に唇を重ねて、何度も何度も優しくついばむ。
 まるい乳房にそっと触れて、かすかな吐息が甘くなるまで、ただその膨らみを愛でて
あげる。乱暴に鷲掴んで、いたずらに敏感なその先端を責めるようなまねはしない。
 股間の若草にも、ゆっくりとしか触れない。その奥の泉にしか興味のない男のように
性急に指でいらったりしない。
 ‥‥わたしなら‥‥。
「それってさあ、ほとんど恋じゃん」
 きり丸の言葉に、
「ほとんど、じゃなくて、完璧に、そうなの!」
 言い切って返した。
 目前で眠る少女はなにも知らない。同室の少女の切なさも、苦しさも。
 再び、静かなため息をついたユキの足元に、月の光が忍び寄っていた。


 月は見る。
 時間を超えて。それぞれの想いに悩む、恋人たちを。

 

Next
Back
Novels Index