啾啾







  その日、終業後すぐに姿の見えなくなった土井半助が、戻って来たのは夜も相当更けてからだった。



 土井がそっと部屋に入ってきた気配に、寝ねがてに土井を案じていた山田伝蔵は、
「どうしました」
 声をかけた。
「……起こしてしまいましたか」
 短い、深夜をはばかっての囁き声からは、土井になにか動揺があるのかどうか、はかりきれない。
「着替えるなら、明かりをつけんしゃい」
 半ば身を起こしかけながら、山田は続けてそう言ってみる。
「だいじょうぶです。ちょっと飲みすぎて……ご心配をおかけしました」
 今度の声には笑みの気配さえ漂う。
 ちらりとその顔を見たいと思ったが、明かりをつけろと言い張るのも妙で、伝蔵は枕に頭を戻す。
 隣からは間もなくに、規則正しい寝息が聞こえてきた。



「……どしたんですか、その顔は」
 目覚めて一番の伝蔵の言葉に、土井はあははと頭をかいた。
「目立ちますか、そんなに」
「……目立つも目立たないも、アンタ」
 土井の左の目の下には、くっきりと青痣が浮いている。そこが腫れてもいるせいで、土井の顔は少しばかりゆがんでいるようにさえ見える。
 派手なその痣に目がゆくが、見れば、口の端も切れたのだろう、傷がある。
「実はゆうべ、ちょっと、飲みすぎまして……」
 照れたように、申し訳なさそうに、肩をすくめる土井の表情は明るい。
「町でつまらない喧嘩を買ってしまいました」
「……喧嘩かね、あんたが」
 伝蔵は土井の表情を探る。
「ええ、ゴロツキに絡まれて。つい、酒もはいっていたので、大暴れになってしまいました」
 土井の表情にはなんの翳りもない。
 その声も口調も、態度も。
 あまりにいつもの「土井」なのだった。



 それがかえって、伝蔵の眼を鋭くさせる。
 ……いつも、そうなのだ、この若者は。
 己の中にひそむ欲も感情も、押し殺すことに慣れている。
 ならばいっそ、清廉潔白な修行僧にでも徹してくれればこちらも揺らされずにすむのだが。土井の中で圧殺されたその残滓は、時に水底の泥が沸き立つように水面を濁す。
 注意していなければ、見逃してしまうほどの瞬間に。
 土井の瞳は揺れる。切なげに、苦しげに。
 ほんの瞬間、ほんのかすかに。
 だから。つい、眼をこらしてしまうのだ。
 土井の気持ちのかけらが、こぼれるその瞬間を見逃すまい、取りこぼすまい、と。
 気づくと伝蔵は、いつも土井の気配を追っている。
「わたしが、好きになったんです」
 土井は言う。
「わたしが」と。
 そりゃあちがう、と伝蔵は思う。
 二人が近くあるのは、自分が寄っていっているせいだと、土井は言うが、それはちがうのだ。
 追っているのは自分のほうだ。
 明るく、おだやかで、人当たりのよい……この若者が垣間見せる業の深さのようなもの。それを追わずにいられぬのは、自分のほうだ……



 今も。
 伝蔵は土井を見つめている。
「喧嘩かね、あんたが」
「ええ、ゴロツキに絡まれて」
「誰とそんなに深酒をしとったのかね」
「最初は一人で。そのうち……鋳物師だとか言ってましたが、酒場で意気投合した男と」
「どこで飲んどったんだね」
「町のはずれですよ、川沿いに飲み屋がかたまっているでしょう」
「なんでまた」
 ぷっと小さく土井は吹き出した。
「やだな。なんか尋問でも受けてる気分ですよ。あんまり補習補習で息抜きがしたくなって、買い物ついでにちょっと飲み屋に入ってみたんですよ、思わぬ深酒になってしまって、反省してます」
 しおらしく、頭を下げる土井は、常と変わらぬ。
 日々の疲れから飲んだ酒が度を越して、ケンカ沙汰になった、アザをこしらえて帰ってきた。……どこにでもあるような話だ、どこにも不思議のない話だ。そしてその事情を語る土井の表情も。あまりに、平然と明るい。
 その、いかにも「土井らしい」明るさが、伝蔵には引っかかる。
 ……時折、土井はいかにも自然に、「らしい」笑みを伝蔵に向ける。……そうだ、たとえば……伝蔵が、妻の待つ、山深い実家に帰ろうとする朝に。土井はなんの痛痒もないとばかりに、「お気をつけて」と伝蔵を見送るのだ……
 そうだ。
 あの朝と同じだ。
 土井の笑顔の、その明るさ翳りのなさが、伝蔵の胸を詰まらせる。
「……今からでも、その顔、冷やしておきんしゃい」
 言い置いて、伝蔵は笑顔の土井を残して部屋を出た。



 子どもらと遊ぶ土井にも、テストの採点に眉を寄せる土井にも、曇りはなかった。
 落ち込む様子、深く考えに沈む様子、……悲しむ様子、怒る様子。
 気取らせぬ土井がいっそ哀れだった。



 夜がさほども更けぬうちに。
「ゆうべの騒ぎがたたってきました」
 土井は大きくあくびとともに、腕を伸ばした。
「今夜はもう、仕事になりそうにありません。早めに休みます」
 ……そんな言い訳すら。
 ごくごく自然で。
 それが牽制を含むものであるのは承知だったが、伝蔵は土井に向かって腕を伸ばした。



「えっ」
 伝蔵に腕をとられた土井が、驚いたように振り返った。
 かまわず伝蔵は、その寝着のあわせに手を滑り込ませようとする。
「ちょ、ちょっと待って下さいっ! 山田先生っ……!」
 制止の声とともに、伝蔵の手から逃げようと土井が身を折る。
「ど、どうなさったんですかっ」
「どうもなにも」
 伝蔵はむっつりと答える。
「わたしのほうからあんたを欲しがっちゃあ、いかんのですか」
 襟元をはだけられまいとする土井と、手を差し入れようとする伝蔵の間に、せめぎあいが起こる。
「それはっ! 光栄ですけどっ、こ、今夜は……!」
 土井の声を無視して、伝蔵は土井の懐深くに腕を差し入れる。
「ま、待って…っ」
 土井の制止もむなしく。明かりが、土井の腹部を照らした。
「……なんですか、これは」
 顔にあるアザの比ではなかった。
 土井の胸と言わず、腹と言わず、殴られたのだろうアザや噛み傷らしき傷が散っているのを伝蔵は見る。

「半助」
 厳しい声で名を呼べば、うつむいていた土井がゆるゆると顔を上げる。
「……だから……喧嘩です」
「アンタ、町のゴロツキ相手と言ってなかったか」
 一呼吸おいて。
「そうです」
 土井は伝蔵の視線を正面から受け止め、うなずいてみせた。
「酒も入っていたし、油断もありました。多勢に無勢は理由にしたくありませんが、いわゆる、ボコにされたってやつです」



 伝蔵は土井の瞳をのぞきこむ。
 ――ただ、忍びであるというだけではない。土井もまた、次の忍びを育て上げる教育機関である、忍術学園の教師の一員だ。 酒に酔って? ケンカを売られて? 一時の酩酊と情動に突き動かされるのがありえないなら、素人にこれほどの暴力を許すのも、また、 ありえない。
 ありえない。これほどの傷を……忍術学園の教師である土井が、抵抗もせず負うなどと。
 ――抵抗しなかったのか。唯々諾々と、その暴力を受けたのか。そしてその暴行のあとを、笑顔で隠し通そうとするのか。
 土井が抵抗できぬ相手? 事情を隠しとおさねばならない相手?  ざわりと肌が粟立つような感覚に、伝蔵はさらに深く、土井の瞳をのぞきこんだ。
   ほんの些細な揺らぎや曇りも見落とすまいと、しっかりと見つめた。
 土井もまた。
 伝蔵の視線を受け止めて動じない。
「……今夜はもう、休みたいのですが」
 視線をわずかにもそらさぬまま、口元に笑みさえ浮かべて、土井はそう言った。



 それほどに。
 隠さねばならないほどのことか。
 だから伝蔵は、土井の腕をとらえたまま、片腕を今度は土井の下半身に向かって伸ばした。
 寝着の裾をまくり、下帯に手をかけたところで……
「お願いですっ!」
 土井の悲鳴の高さになった声が、叫んだ。



「……お願いです……」
 暴こうとする腕を必死に抑え、土井が懇願する。
「……お願いです……」
 伝蔵の腕に、土井の指が食い込む。
 その全身がわななくように、震えだす。
 もう、土井の顔は伝蔵に向けられない。
 床に向かって伏せられる土井の顔、震える肩、必死な制止。
 暴行の跡を全身につけながら、それを酒の上での喧嘩と言い張り、なにも変わったことなどないように、一日振る舞い通した。その……緊張と頑張りが、今、ぐずぐずと溶けていこうとしている。
 局部を暴こうとする伝蔵の手の前に、やめてくれと、全身を震わせさえして。
 だから。
 伝蔵は暴いてやろうとしたのだ。
 土井が抱えてしまったものの正体に、伝蔵自身、震えが来るほどの衝撃を覚えながら。
 だからこそ。
 それを一人で抱え込ませたくなくて。
 伝蔵は暴いてやろうとした。
 崩れさせて、やりたかった。



 だが。
 最後の一線。
 細い糸一本の緊張で、土井は踏みとどまり、再び、土井の下帯にかけた伝蔵の手をつかんだ。
「……やめて……下さい……」
 ゆっくりと、土井は顔を上げた。
 笑おうとした、その口元がゆがむ。
「これ以上……わたしに……恥をかかせないで……」



 伝蔵はぐっと奥歯をかみ締める。
 それでもか。
 それでも、まだ、そう言い張るか。



 ここまで来て、と思う。
 だが、ここまで来てなお、土井が隠そうとするならば。
 伝蔵は自分の勘が当たったことを、痛みとともに確かめる。
 ……まちがいなかろう……
 土井が隠そうとする、ことの真相。
 土井を、傷つけたのは……



「半助」
 最後のつもりで問いかけた。
「素人相手にその傷を負ったと、言うか」



 答えて土井は、深くうなずいた。
「ええ」



 よかろ、と伝蔵は長く重い息をつく。



 土井の寝着を整えてやりながら、伝蔵は言う。
「最初で最後にしんさいよ」と。



 眼を見張った土井に続けた。
「素人に傷をつけられるのは、これを最初の最後にしんさい」と。



 でなければ、と。
 明かりを吹き消しながら、伝蔵は土井に告げる。



 わたしがあんたの仇を討ちに、出ていかにゃあ、ならんだろう、と。



 




 枕に吸わせた土井の泣き声が、夜半吹き出した風の音に混ざって、聞こえた気がした。


                               了