朝焼け

 

 

 

 朝方の冷たい空気に、剥き出しの肩が冷えた。
 布団を引っ張り上げようとしてきり丸は、目の前の、やはり剥き出しの肩に気づく。
 引っ張りあげた布団で、その肩も包み込んだ。
 きり丸の住む家に、乱太郎が正式に引っ越して来て初めての夜が、静かに明けようとしていた。


 間近に乱太郎の寝顔がある。
 ……数刻前。
 悶えて喘いで、眉間に縦皺を刻み、口を引き歪めていたその顔が……今はただ穏やかに安らいでいる。
 その寝顔には、起きている時にはもう見つけるのが難しくなった、あどけなさの片鱗があって。きり丸は、出会った頃の乱太郎を思い出す。10才の乱太郎、11才の乱太郎、12才の乱太郎……ずっと見てきた、一緒に大きくなってきた、乱太郎を、思い出す。


 昔はそばかすが浮いていた鼻を、ちょんと指でつつく。
「やめてよ! これ以上低くなったらどーすんのさ!」
 からかって鼻先を押さえる指に、そんなふうに怒ってたこともあったっけ。
 心配なんかしなくても。
 乱太郎はなかなかの美形に育った。
『きり丸に褒められても厭味にしか聞こえない』と、乱太郎はぼやくけれど。
 色白でひとつひとつのパーツの造りが優しい乱太郎の顔は、たおやかにも可愛くも見える。
『それって女っぽいってこと』と、乱太郎はまた口をとがらせるけれど。
 女々しい可愛らしさではない、少年のさっぱりしたすがしさのほうが、初対面の人間には強く残るだろう顔立ちだ。
 ……まあ、しかし……出会ってものの半時も立てば、印象強く残るのは「色気」なんだろうけどな……思ってきり丸は、布団の中で乱太郎の指を軽く握る。


 出会ったのは、十(とお)の子供のころ。
 十、十一、十二、十三……十三の半ば過ぎまでは、一番仲のよい友として過ごした。
 十四、互いを恋した。
 躯を重ねた。
 ……今になってきり丸は思う。
 もし、自分に……性的な経験の数々がないままだったら、どうだったろう、と。
 それでも自分は、乱太郎に恋したと気づいたと同時に、肌を重ねたいとまで願ったろうか。
 閨のことなど耳学問で知るしかなかったら……自分は乱太郎の唇に唇を重ねたいと思ったろうか。さらに進んで……乱太郎の躯のすべてを自分のものにしたいと……あれほど直截に欲しただろうか。
 十四歳。無垢で清い乱太郎は、ただ懸命に、きり丸の希望に応えようと震えをこらえて立っていた。
 もし自分に……人と交わる経験がなかったら、ただ立ち尽くす乱太郎をあれほど性急に押し倒しなどしなかったろう。乱太郎は、まだ堅い未熟な躯を無体に拡げられることもなくてすんだろう。
 その頃の乱太郎に、抱かれなければ収まらないような衝動はなかったはずだ。……乱太郎はただ、きり丸の望みをその躯で受け止めようと必死になっていただけで……。
 悔いと詫びに似た感情が沸き上がり、きり丸はそっと乱太郎の指の節を撫でた。
 それでも。
 続いた十四の季節。
 自分たちは本当に幸せだったと思う。
 好きな相手と躯を重ねることで、自分は「情を交わす」ことが躯にも心にも快となることを初めて知った。友人の域を越え、深い交わりを持ち、互いの躯を探り合い、快を分け合い与え合う。自分たちはその行為を愉しむことを覚え、相手に溺れることを覚えた。あれこそは蜜月の甘さだったと、きり丸は思う。
 そのなかで、乱太郎は花がほころんで芳香を放つように、色づき艶めいた空気を放つようになった。
 色香。ほとんど毎日のように、情交を重ねるなかで、乱太郎の身の内から溢れてくるようになったもの。
 そして……十五の年に。
 自分はその乱太郎を突き放した。
 寄りかかられる重さに耐えず、卒業後の不安に耐えず、乱太郎を突き放した。すがって来ようとはせぬ彼の人の心地よさに、憧れさえした。
 結果。どうなったか。
 純で無垢だった乱太郎は、身についた色気で男を引き寄せることを覚え、タチの悪い先輩に弄ばれ……自分は、暗く強烈な死の誘惑が自分の中に潜むことをいやというほど悟らされ、身体は傷だらけになった。
 ――そこまで堕ちなければわからなかったのか……!
 きり丸は自分自身を責める言葉に、唇を噛む。
 自分にとって、乱太郎がどれほど大切な存在か、得難い存在なのか……自分が人間らしくあるために、誰が必要なのか……あそこまで互いが傷つかなければわからないことだったか……!
 先にも増して強烈な自責と悔いの思いに、きり丸は握った乱太郎の手を引き寄せる。


 それでも……それでも。
 今、こうして傍らにいてくれる、このあたたかな存在。
 二年と半、異なる土地に住み、異なる人々と暮らした。そして、今また。こうして、同じ屋根の下で暮らし始めた自分たち。……その選択をしてくれた乱太郎。
 ありがとうも、ごめんも、足りない気がする。
 らんたろう……。
 心の中でしっかりと呼んで、きり丸は握った指を唇に押し当てた。


 寝ているはずの乱太郎の頬が、ほのかに染まった。
 かまわず、握った指を鼻先までずり上げ、今度は匂いを嗅いでみた。
 きれいに切り揃えられた爪の合間から、ほのかに薬草のツンと香立つ匂いがする。今では乱太郎の馴染みになった、薬の匂い……。
「……もう!!」
 ほのかに染まっていた頬が、突然耳まで真っ赤になったと思ったら。
 乱太郎がぱっちりと目を開いた。
「なに朝っぱらからこっぱずかしいことしてんのさ!」
「……おまえ、朝は『おはよう』だろう?」
「おはようおはようおはよう!! 手、離してよ! 恥ずかしい!」
「恥ずかしいってなにが?」
 乱太郎の指を唇と鼻先に押し当てたまま、きり丸は舌を出してぺろりとその指を舐め上げる。
「だからっ! ……もう。どうしてそういう恥ずかしいマネが平気でできちゃうかなあ」
「恥ずかしい恥ずかしいっておまえ。ゆうべは俺、おまえのフクロまでしゃぶったし、おまえだって俺の尻の穴まで舐め……」
 乱太郎の自由な手がコブシとなって、きり丸の口には強制終了がかけられた。


 ほんとにもう……。まだ頬に赤みを残しながら、乱太郎は布団から出るときり丸に背を向けて、着物をまといだす。
 乱太郎が下帯をからげ、着物に袖を通したところで……きり丸はその腰に腕を回すと、布団の上へと引き倒した。
「……もうちっとゆっくりしようぜ? まだ俺、ゆうべの夜のままがいい」
 そんなに早く『今日』を始めてしまったらもったいない。ゆうべは二人で暮らす最初の夜だった。もう少し、その『特別』の中にひたっていたくて、きり丸は引き倒した乱太郎の裸の胸に頭を擦り付ける。
「……おまえがさ……ほんとに俺と暮らすつもりになってくれるなんてさ……まだ信じられねえ」
「……なに言ってんの」
 乱太郎の言葉はきり丸の言葉をまぜっかえし、その手は、胸の上からきり丸の頭を押しやろうと動く。
 だが、口調には笑いと柔らかさがあり、額を押し上げようとする手にも、きり丸の頭を包み込むようなしなやかさがある。
「人の顔見るたんびに、こんなところ辞めちまえだの、一緒に来いだの、うるさかったのは誰だっけ」
「……だからさ」
 きり丸は乱太郎の胸から顔を上げる。
「おまえがほんとに俺に口説き落とされてくれるなんて、信じられないんだって」
「……残念だけど」
 乱太郎がいたずらっぽく笑う。
「きり丸の口説きに落ちたわけじゃないよ? 最近、パターンだったしね。研究不足だよ」
「ちぇ」
 がっくりしたようにきり丸は、また乱太郎の胸に顔を伏せる。
 その髪を、乱太郎の指が優しく梳き上げる。
「……口説かれなくてもさ……きり丸がちゃんとわたしのこと待っててくれるのは、感じてたよ。……だから……がんばったんだよ? わたし。ちゃんと……きり丸と一緒に走れるように……一緒に生きてけるように。……きり丸のお荷物じゃなく、……男としても、忍びとしても……いられるように」
「乱太郎……」
「三年、かかったんだ。自分でちゃんとだいじょうぶだって思えるようになるまでに」
 きり丸もまた、手を伸ばして乱太郎の髪に指を差し入れる。
「……俺さ……正直言って、わかんねえ。……俺、そんなふうにおまえに……一緒に生きていこうって、ちゃんと思ってもらっていいような人間なんだろうか。……俺さ……俺は、おまえみたいなヤツにそんなふうに思ってもらっちゃいけないような気がする。
 俺、けっこうズルイし、薄情だし……」
 乱太郎は胸を揺らして笑う。
「それはもう。三年前にいやと言うほど思い知らされた」
 でもさ、と笑いを微笑におさめて、乱太郎は続ける。
「そんなこと言ったらわたしだって……ただのインランになり果ててるって言われても仕方ない。……それこそ、きり丸、こんなわたしでいいの?」
「いいに決まってる。俺にはおまえが……」
 言下に答えたきり丸に、乱太郎は微笑にあまく揺らいだ瞳を向ける。
「うん。だいじょうぶだよね、きり丸にはわたし、わたしにはきり丸しかいない。
 だけどねえ、きり丸? 仕方ないんだって思わない? たとえば、たとえばだよ? きり丸が誰と添うのも釣り合わないような極悪人だったり、わたしが誰にもツバ吐かれるような色キチだったとしてもさ……仕方ないよね? わたしはそれでもきっときり丸が好きで、きり丸もわたしのことが好きでしょう? 
 だったら……仕方ないよ。こんなふうにしてていい人間かどうかなんて……気にしても仕方ない。きり丸はわたしが好き。わたしはきり丸が好き。だから一緒にいたいんだ。
 それ以外のことなんて……なにも意味ない。……ねえ? そうでしょ?」
 きり丸は乱太郎を見つめる。
 十の子供の頃から、一緒にいた。
 友達だった。
 恋した。
 裏切った。
 そして、今。
 友であり恋人であり、裏切って傷つけた相手だった乱太郎は……しなやかに強くなって、きり丸の傍らにある。そこにあることを自ら選び、怯じもせず照れもせず、大切で温かな想いをきり丸へと差し出し、きり丸からのそれを受け止めて、乱太郎はきり丸の傍らにいる。
 ありがとうと言えばいいのか。うれしいと告げればいいのか。
 言葉は想いの熱さの前に、あまりに軽く薄いように思われて。
「………………」
 きり丸はただ、乱太郎を抱き締める。頬に頬をぴたりと寄せて。

     *     *     *     *     *     *     *     *

「ああっもうっ!! きり丸のせいだからねっ! ちゃんと利吉さんに説明してよ!!」
 道を駆けながら乱太郎が叫ぶ。
「説明ってなんのだよっ!」
 きり丸が叫び返す。
「ゆうべ二発、今朝は上下入れ替わって一発、つい励み過ぎて寝過ごしましたってか!」
「そういうことを大声で……っ!」
「おっと」
 乱太郎が電光石火の早業で繰り出して来た、足元を狙った蹴りを軽く飛び越え、きり丸は口をとがらす。
「だいたい向こうが悪いんだよっ! 初夜の次の日に初仕事入れて来るか、ふつー!」
 走りながら乱太郎は器用にため息をついてみせる。
「二人初めて一緒の仕事のことをさ……朝ごはん済むまで、話もしないきり丸だって、ふつーじゃないよ……」
「俺はおまえとの大事な一夜に、そういう不純物を入れたくなかったんだ!」
「……だからね……利吉さんにきり丸がそう言ってよね。わたし、知りもしなかった仕事の遅刻なんかで怒られたくないからね」
「乱ちゃん、つめたーい」
「あったかくなくて結構」
 言い捨てて乱太郎は、また速度を上げる。
 ――もともと、足の速さには定評があったけれど。
 スパートの切れが格段によくなっている。
 学園にいたころは、それでもなんとかゴールまで、食らいついていけたけれど。
 引き離される?
 慌ててこちらも速度を上げかけて、きり丸は自分にストップをかける。
 慌てるな。ここで乱太郎のペースに無理に合わせたら、利吉の元に着く頃には顎が上がっているだろう。
 体力には自信がある。いくら引き離されても、乱太郎の背中を見失うほどではないだろう。なら、大丈夫。俺はすぐ、おまえに追いつく。
 おまえ、ほんとにすごくなったよな、乱太郎。
 でも、俺も負けてない。
 俺たちは、こうしてきっと走って行ける。少しおまえが先に行っても、俺が先に行くことがあっても、最後には一緒になる。一緒に走って行ける。
 前を行く乱太郎が振り返った。
 さほど引き離されもせずついてゆくきり丸に、乱太郎がにこりとしたのが見えた。
 一瞬、手が伸びた。「おいで」と言うように。
 大丈夫だ、俺はついてく。
 きり丸はにっと笑い返す。
 道を、二人で駆け抜けた。


 利吉は憮然と腕組みをして、待ち合わせの峠の大木の下で待っていた。
「遅い」
「……す、すいま……せん……」
 荒い息をついて懸命に呼吸を整えようとしながら、乱太郎が頭を下げる。
 そこへはあはあと息を切らしながらきり丸が追いつく。
「すんません……!」
 利吉は無理に寄せたような眉を崩そうとはせず、膝に手をつき、はあはあと口で息する二人を見下ろしていたが。
「……走って来たのか」
 きり丸は無言でうなずき、乱太郎が説明する。
「家から、ずっと、駆け通し……」
 利吉の眉が少しゆるんだ。
「家からか。いつ出たんだ」
「……卯の時……いや……辰、かな……」
 えへへと笑うきり丸の頭にゲンコツが落ちた。
「辰に出て間に合うわけがないだろう! 寝坊したのか! たるんどる!」
 一喝してから、利吉はまあいいだろうと腕を組んだ。
「辰に出てこの時刻に着いた、その頑張りだけは認めてやる。ついでに今日の遅刻は御祝儀がわりに大目に見てやる。だが、今後の仕事でこんなたるんだマネをしてみろ。即刻放り出すからな」
 はい、と素直に頭を下げる二人にようやく利吉の目元が和らいだ。
「……二人並んだところを見るのは、三年ぶりだな」
 よかったな、と聞こえた声は風に飛ばされるほど小さかったが。
「さあ。仕事を説明する。……おまえたちの、初仕事だ」
 利吉の響きのよい声が宣した。

 


                                                  了

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