ダブルトライアングル

 

 つらかった。
 彼が、想いを募らせていくのを見ているのが。
 あいつらは本物だと、思うから。
 ‥‥つらかった。彼が、報われぬ想いを募らせていくのが‥‥。


 太い眉。意志の強そうな瞳。ハキハキと気持ちのいい物言い。
 庄左ヱ門は本当に学級委員長らしい学級委員長だと、僕は思う。
 個性派ぞろいと言えば聞こえはいいが、その実、落ちこぼれの集団だったは組で、学級委員長を務められるのは彼しかいなかったけれど──そう言いきっちゃうと団蔵や金吾あたりには申し訳ないけど──その一年は組にはもったいないほど、彼は優等生だった。
 正義感と責任感が強く、いつも前を見つめ、教師からの信望も篤い彼。その評価を保つために、彼が陰で努力してるのを、僕は知っている。
 立派だと思う。そんなに頑張るなよ、と声を掛けてやりたくもなる。
 僕はそんなふうに前向きに努力のできる彼を、いつも好ましく思っていた。
 そして‥‥その庄左ヱ門の正反対が、あいつなんだ。
 小銭のためなら労も手間も惜しまないが、正義感や責任感では決して動かぬあいつ。
 他人の評価などくそくらえ、金さえ手に入ればそれで良し、高い理想も信義も持たず、ただ現実を渡る術にだけ長けたあいつ。
 ‥‥なのに、なぜか、軽蔑する気になれない。なぜなのか。僕は考えた。
 そして、気づいたんだ。
 彼には、実力があるのだ、と。同級生の誰もがまだ持っていない強さを、彼は持っているのだ、と。あいつが、バイトで学費を稼いでる、と聞いた時には「偉いなあ」としか思わなかったけれど、忍術学園の学費の額が、実感として理解できる年になった時、その金額をあいつは十才のころから自分で稼いでいたのだと、改めて思って‥‥僕はあいつの強さの裏付けを見たような気がしたんだ。
 それは、その強さは。優等生の学級委員長が、どれほど頑張ろうと得られぬものだろうと思った時、なにか無性に悲しくもなり、そして同時に、僕は誇らしさを覚えもしたのだ。


 ことが起こる。
 庄左ヱ門が仲間たちに問題点を指摘し、的確な対処法を示す。
 感心する仲間たちの中で、ひとり茶化すのは決まってあいつだ。
「庄ちゃんったら、冷静ね!」
 その茶化しそのものが、彼もまた、冷静にことを見ている証しなのだ。
 庄左ヱ門が、落ち着こう落ち着こうとし、冷静に冷静に、ことに当たろうと努めているその横で、最初から少し横目で、事態を薄ら笑ってさえいるような、あいつ。
 学年が進むにつれて、それはだんだん顕著になってきている。
 やめとけよ、そう言ってあいつの肩を引きたい衝動を、僕はこらえる。
 庄左ヱ門は頑張ってるんだから、と。


 庄左ヱ門が乱太郎に恋してる。
 気づいた瞬間に僕の頭に浮かんだのは「バカ」の二文字だった。
 わかりそうなものじゃないか。乱太郎にはきり丸がいる。きり丸には乱太郎がいる。
 恋仲がどうこう言うのじゃない。あの二人は、合っている、のだ。
 マラソンがある。必死で追う仲間を引き離して、先頭を駆けるのはいつもふたりだ。
 乱太郎の足の速さについていけるのはきり丸だけ、きり丸の頑張りに張り合えるのは乱太郎だけ。
 演習がある。なにを打ち合わせたとも見えないのに、ふたりの息はいつもぴたりと合っている。一人一人で動いている時より、二人一緒の時のほうがはるかに成績がいいのは、相性の良さの賜物だろう。
 あのふたりの間に、誰が割って入れるというのか。
 三人組と言われていながら、しんべヱでさえどこか弾かれているようなところがあったのに。ふたりが共に、しんべヱを受け入れる気持ちだったから、しんべヱも居場所があったのだ、と僕は思う。
 ぱっと見たところは、性格的にきついきり丸が乱太郎を独占しているのだ、と見える。
 誰とでも仲良くなれる乱太郎を引き留めているのはきり丸だと。しかし。
「きりちゃん」
 呼びかけて呼び止めるのはいつも乱太郎のほうだ。きり丸を呼ぶ声に、ほかの同級生を呼ぶ時とはちがう、響きがある。‥‥庄左ヱ門が焦れるのもわかる。あんなふうに、呼ばれてみたいのだ、「しょうちゃん」と、少し甘く、少し高く。
「んー?」
 振り返るきり丸の瞳が、ほんの少し、柔らかい。
 ‥‥誰が割り込めるというのか。
 わかってることじゃないか。‥‥わかりきっているのに。報われないと。‥‥それなのに。想いを募らせていく庄左ヱ門。
 やめとけよ、そう言って庄左ヱ門の肩を引きたい衝動を僕はこらえる。
 きり丸にはかないっこないよ、と。


 隣の部屋から、抑えようとしてはいるんだろうけど、それでも、呻きや喘ぎや時には悲鳴まで交ざって聞こえてきて、独特な振動まで響いて来るようになって。僕の頭に浮かんだのは、やっぱり「バカ」の二文字だった。
 それは、彼らが「そう」なるまでには彼らなりにいろいろ迷いや悩みがあっただろうし、そもそもの発端、は組に責任がないわけでもないと思うし。でも、なにもそこまでしなくても、と僕は思ったんだ。
 急いでそんな関係にならなくても。
 乱太郎はきり丸のもの、きり丸は乱太郎のもの。それはもう決まってるんだから。
 なにもそんな関係にまで踏み込まなくても、いいじゃないか、必要ないじゃないかって。僕は思った。
 腹立たしかった。
 壁をこぶしで、どん、と打ち付けてやる。
 隣は静かになる。
 それもつかの間。
 何かもめるような気配がして。乱太郎の声がさっきより大きく響くようになる。
 そこで、三治郎に袖をひかれながらも、また壁にこぶしを打ち込む僕も僕なんだろうな。


 乱太郎は僕の顔を見ると真っ赤になって、おはようの言葉も口の中でもごもごと濁してそそくさと行き過ぎる。後ろからゆったり現れるあいつの顔には、そんなしおらしさはかけらもない。
「ゆうべは悪かったな。騒がして」
「‥‥言いたかないけど」
 僕は努めて冷静に切り出す。
「忍たま長屋の中なんだから、少しは控えるべきだろ」
「ああ。気をつける」
 あっさりあいつはうなづいて、僕に背を向ける。
「今度から乱太郎に猿轡でもはめとくわ」
 ‥‥その。おそらくは、冗談。いや。嫌み、開き直り、挑発‥‥に、なのに、僕は言葉を返せない。そして、言わずもがなのことを口にしてしまう。
「庄左ヱ門だっておもしろくないよ」
 あいつは振り返る。その目が冷たく光る。
「‥‥なんで、おれが庄左ヱ門に気を使わなきゃいけないんだ、兵太夫」
 僕は、もう、今度こそ本当に、言葉に詰まる。
 きり丸が、人差し指で、ふわりと僕の前髪を跳ね上げる。
 僕の心臓もどきりと跳ね上がる。‥‥気取られたくもないから、平静を装ってその手を払いのけはするけれど。
「おれに文句言うならな、あいつにも言っとけ。人のもんに色目使うなってな」
 常でさえきつい瞳を光らせて、あいつが低く言う。
 ‥‥しょうがないじゃないか。庄左ヱ門は乱太郎が好きなんだから。庄左ヱ門は乱太郎しか、ほしくないんだから。‥‥それはちょうど、おまえが乱太郎さえいればそれで満足なように。
 去って行くあいつの後ろ姿が、食堂へと廊下を曲がって行ってしまっても、僕はそこに立ち尽くしていた。その僕の肩を、ぽんと叩いた奴がいる。
「どうしたの?」
 庄左ヱ門の丸い目が、僕をのぞき込んでいた。
「一限目は実技だよ。準備があるから朝ごはん、早くすませないと」
「‥‥うん‥‥」
 もう庄左ヱ門は、どうしたの、とは聞かない。ただ黙って心配そうに僕の顔をうかがうだけ。話したくないなら、立ち入らないよ、とその態度が言っている。でも、その手は僕の肩を優しく支えている。
 優しい庄左ヱ門、節度があり、気持ちのいい庄左ヱ門‥‥彼の真面目さが自分に似てると僕は思う。‥‥だからかな、彼を好きなのは。
 そして、その正反対の‥‥。


 六年になって、水面下で剣呑だった庄左ヱ門ときり丸の仲は、もう誰の目にもわかるほどに険悪になった。
部屋替えを、きり丸と乱太郎の仲に学園がストップを掛けたのだ、と誰もがとり、だから庄左ヱ門は友人として堂々とおおっぴらに乱太郎に声を掛けるようになり‥‥そう、乱太郎と金吾の部屋で消灯間際まで話し込んでいったりするようになり‥‥きり丸の神経を逆なでし‥‥きり丸は事あるごとに庄左ヱ門に突っ掛かるようになって‥‥。
 たぶん、きり丸と乱太郎の仲もぎくしゃくしだしてたんだろうな。
 夏の休みに入る前に、きり丸は夜中に部屋を抜け出すのを、ふつりとやめた。
 その頃からだ、庄左ヱ門と乱太郎が連れ立って歩くのがしばしば見かけられるようになったのは。
 余計な差し出口とは思ったけれど、僕は一言、庄左ヱ門に言わずにはいられなかった。
「それは、どういう意味?」
 庄左ヱ門の顔がこわばった。
「僕ではきり丸にかなわないと思ってるんだね。だから諦めろって、そう言いたいんだ」
 そう庄左ヱ門に聞き返されて、初めて。
 初めて。僕は気づいた。
 僕は、いつも。きり丸が庄左ヱ門に勝ってしまうのが怖かったんだ、と。
 頑張っている一生懸命な庄左ヱ門がきり丸に負けてしまうのが。
 庄左ヱ門の声が低い。怒っている。そうとわかっていても、僕は次の言葉を口にしてしまう。自分でも嫌になるけれど。
「いくら今は仲違いしてたって、乱太郎ときり丸は、どこか深いところでつながってる。遅かれ早かれ縒りを戻すのは見えてるよ」
 庄左ヱ門の顔が青くなった。唇が震える。手さえ震わせながら庄左ヱ門が言った。
「‥‥あいつは‥‥卑劣な奴なんだ。下劣で‥‥自分さえよければそれでいい、そういう奴だ‥‥あいつといたって‥‥あいつといたら、乱太郎は傷つくだけだ!」
「庄左ヱ門‥‥」
 庄左ヱ門は大きく深呼吸して、僕を見た。彼の瞳が、怒りをたたえて僕を見る。
「‥‥あいつの、肩をもつんだね、兵太夫‥‥」
 そして背を向けられて、僕になにが言えるだろう。


 僕の何度目かのため息に、きり丸が声をかけてきた。
「どうかしたのか」
「きり丸」
 僕は布団の上に座り直した。
「いつになったら乱太郎と仲直りするのさ」
「‥‥なんで」
「質問してるのは僕だよ。答えてよ」
 きり丸も起き上がった。薄闇の中、きり丸が頭をかくのが見えた。
「答えられるものなら答えてやるよ。仲直り‥‥できるかどうかもわからんのに、答えられるか」
 そしてきり丸はふう、とため息をついた。
「おれと乱太郎を当てにするより、自分でがんばってみろよ」
 僕はぎくりとした。こいつが妙なところで鋭いのを知っているから、次に言われるだろうことの予測がついて、僕は怖かった。
「好きなんだろう、庄左ヱ門が」
 ほら来た。僕は黙ることでその問いを肯定する。
「告白(こく)ったのか」
「‥‥そんな状況じゃないんだよ」
「なに。訳あり?」
 障子越しの月明かりで、部屋は明るい。互いの表情が、なんとか見えるほどに。
 僕は話題をきり丸に振り直す。
「意地を張らなくてもいいじゃないか。仲直りしたいんだろう、乱太郎と」
「‥‥別に意地はってるわけじゃねえよ」
 ちょっと眉をしかめて、きり丸は言う。なんか‥‥複雑な事情があるっぽいのは、その表情から僕にもわかったけど。‥‥けど。
「でも好きなことにはちがいないんだ。だったらさっさと元の鞘に納まればいいじゃないか」
「‥‥なんでそこまで言われるかな。さっきから言ってるだろう、人を当てにするより自分でがんばれって」
 僕の頭の中で言葉がぐるぐるめぐった。‥‥僕は。見ていたくないんだ。庄左ヱ門が傷つくのを。張り合って、頑張って、そして揚げ句に、きり丸に敗れて、恋にも破れて、泣く庄左ヱ門を、見たくない。‥‥わかる。きり丸と乱太郎は「本物」だって。土井先生と利吉さんを見ているのと同じなにかを、二人を見ていると感じるんだ。なのに、意地をはって別れてるなんて、不自然なんだ。
 なにを言ってもよかったのに。僕の口からはたったひとつの言葉だけが、こぼれてた。


「期待する」


「え」
「いつまでも仲違いしてると、期待する!」
 部屋をおおった沈黙は永遠に続くかと思ったけれど。
 驚いたように‥‥いや、実際驚いたんだろうけど、目を丸くしていたきり丸が、おずおずと聞いてきた。
「‥‥あのさ‥‥兵太夫は、庄左ヱ門が好きなんだよなぁ?」
 僕はもう開き直るしかなかったからね。
「庄左ヱ門も、好きだよ」
 「も」に力を込めて答えた。
 また沈黙。
 そして、きり丸の手がゆるゆる上がって、その人差し指が、自分の顔を指さした。
「?」
 無言のその問いに、僕も無言で、大きくうなずいて答えた。
 きり丸は気の抜けたようなため息をもらした。
「全然、気がつかなかった」
「僕だって最近だよ、自覚したのは」
「‥‥そうか」
 驚いてはいたのだろうけれど、僕の気持ちを知ったきり丸は焦りも慌ても見せなかった。
「兵太夫もなかなか悩み多き青春なんだ」
「うん」
「‥‥なあ。乱太郎のことが、憎たらしい?」
 まあ、すぐにそっちを心配するあたりが、小面憎くはあるけれど。
 僕は首を横に振った。
「乱太郎は‥‥大事な友達だから」
「‥‥そっか」
 なんだか‥‥暗くてよかったって、僕はしみじみ思った。「そっか」ってそっけない
 言葉の割にきり丸の瞳が優しげに見える‥‥ような気がして。暗くてよかった。明るいところでもしも、そんな眼をまともに見てたら‥‥。
 これほど薄暗くてさえ、僕の鼓動は早くなっているのに。きつい一方の奴じゃない、のは知っているけど、きり丸はそれ以外の面を最近ではほんとに見せなくなってたから。
 早くなる鼓動、たぶん、顔は赤い‥‥薄暗くてよかった‥‥。
 その僕の物思いを破って、すっときり丸が立ち上がった。枕を持って。
「‥‥え?」
「おれ、よそで寝るわ」
「きり丸?」
「んー」
 きり丸が頭をかいた。
「おれ、この部屋で寝るようになったの、最近じゃん」
 そう。夜な夜な、乱太郎との逢い引きに忙しかったから。
「だから、おまえってもともと寝が浅いたちなのかと思ってたんだけど‥‥おれ、よそで寝るわ」
 ‥‥僕は‥‥まじまじときり丸を見つめた。


 気がつかれていた。
 彼の隣で、眠れない夜を僕が過ごしていたこと。
 でも、その恥ずかしさすら、僕は感じる余裕がなかった。
 彼は余計なことはひとつも言わない、ただ簡潔に見事に、僕を拒否し、そして思いやってくれた。
 この、まったき拒否と優しさ。
 僕はきり丸に飛びついていた。


 きり丸の頭を抱えて口づけた。
 ‥‥それを口づけ、と呼んでいいのかどうか、僕は知らない。
 なにしろ僕は初めてだったから。
 僕はただ不器用に、唇に唇を、じっと押し付けていた‥‥。


 唇を離し、手を放す頃には、僕の一瞬の高ぶりは冷めていた。あとにはどうしようもない恥ずかしさといたたまれなさ。
 僕はもごもごと口の中で言った。
「‥‥ごめん‥‥その‥‥」
「‥‥‥‥」
 びっくりした。きり丸はちゅっと僕の唇を軽い音立ててついばんだ。
「おあいこな」
 それだけ言って、くるりと彼は僕に背を向け、
「んじゃ、おやすみ」
 部屋を出て行こうとする。
 ‥‥ちょっときり丸‥‥それじゃ、あんまり‥‥あんまり‥‥。
「きり丸!」
 僕は呼び止めていた。
「んー?」
「‥‥きり丸‥‥カッコつけすぎ」
 きり丸は笑った。ニッと。
「悪い。おれ、生まれつきかっこいいもんで」
 そしてぴらぴらとおやすみの手を振って、きり丸は部屋を出て行った‥‥。


 一人になった部屋で、僕は深いため息をついた。
 胸に浮かんだ言葉を呟いてみる。
「だめだよ、庄左ヱ門‥‥勝ち目ないよ」
 すると、彼のいつも前向きな意志とやる気に満ちた面差しが浮かぶ。
 先生を手伝っててきぱきとプリントを配る彼。それでも顔色の悪い同級生には「どうしたの?」気遣える彼。
 切なさが僕の胸に満ちる。
 無性に‥‥乱太郎と話がしたいと思った。今から部屋に押しかけたら怒るだろうか。
 ‥‥乱太郎と話したい。
 おそらく。庄左ヱ門ときり丸、ふたりの魅力を、やはり両方知っているのだろう、彼。
「おまえは‥‥どうするの‥‥」
 答えのない闇に向かって、僕は呟いた。

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