孤愁の果てに <後>

 

 来た道を引き返す。
 焼け落ちた村を出るところで、一人の少女が立っていた。年の頃は乱太郎たちとほぼ同じか。
「きり丸。きり丸でしょう?」
 二人を待っていたらしい少女は、まっすぐきり丸に向かって来た。
「覚えてる?八重よ。よく一緒に遊んだでしょう。さっきはおばあちゃんが、間違えてごめんねって。おにいちゃんそっくりになったねって」
 さえぎられるのが怖いのか‥‥冷たい言葉を投げ付けられるのが怖いのか、少女は次々と言葉を連ねる。
「これね、これ、持ってって。ほら、きり丸、好物だったでしょう。蒸したお芋。ふかしたてだから熱いけど気をつけて」
 八重は竹皮の包みをきり丸の胸の前に差し出した。が、きり丸は手を出さない。
 数瞬の、気まずい間。八重がうつむいた。
「‥‥怒ってる、恨んでるよね。でもね、でも。おばあちゃん、今も言うの。あの日、おばあちゃん、お産の手伝いで川向こうに出掛けなきゃならなかったって。もし、もし、自分が村に残ってたら、小さい子だけでも‥‥きり丸としずちゃんだけでもちゃんとかくまったって。自分がちゃんと村に残ってたら‥‥」
 だんだんと勢いついてしゃべる八重を、きり丸の低い声がさえぎった。
「無理だよ」
「え?」
「無理だったんだよ。奥の村に住まう者を隠匿、あるいはその逃亡を手助けした者は、田畑没収の上、血縁の者も皆同罪とみなして処分する。‥‥そう布令が出てた。‥‥だから‥‥いくらばっちゃんでも、無理だったんだ」
 八重はしばし、肩で息をしていたが、やがて。
「‥‥で、でも‥‥きり丸としずちゃんなら‥‥ゆ、床下にだって隠せるし‥‥」
「やめろ!!」
 突然の、それはきり丸の大声だった。


「仕方なかったんだよ!おれたちは死ぬしかなかったんだ!そうなるしか、なかったんだ!かあちゃんもとうちゃんもにいちゃんも志津も‥‥みんなみんな死ぬしかなかったんだ!仕方なかったんだ!どうやったって助けられっこなかったんだよ!」
 乱太郎は初めて、きり丸がそれほどの大声で、それほど立て続けにしゃべるのを聞いた気がした。悲鳴、にそれは近い。
「仕方ないんだ!‥‥でなきゃ、でなきゃ、どうすりゃいいんだよ。もしかしたら、死なずにすんだ、おれは一人にならずにすんだ、もしかしたら、もし、もし‥‥そんな、そんなこと考えてたら‥‥おれは‥‥!」
 きっと一人で生きては来られなかった。
 すべてを仕方ない、と。当たり前だ、と。受け流し、片付けてこなければ、一人で生きる強さは得られなかった。いまさら「もし」を持ち出されても、それは残酷でしかない。乱太郎はきり丸の悲鳴の意味を理解した。
「‥‥く」
 突然。きり丸が駆け出す。乱太郎は声もかけず、引き留めもせず、見送った。
 きり丸は駆け通すのだろう。かつての故郷を。生まれた土地に、涙を風で吹き散らせながら。
 一年前、土井のことで泣くきり丸を、自分は受け止めることが出来た。が、今。その泣き顔を見せたくないのだろうきり丸は、生半可な理解で受け止められるのを善しとはしないのだ。
 乱太郎の胸が。きり丸の痛みに呼応するだけではなく、ちりりと痛んだ。
 

 泣きじゃくる八重からふかし芋の包みを受け取り、乱太郎はきり丸の走った道を辿った。どこまで走り続けたのだろう。芋が冷め切る前に追いつけるといいな、と思いながら。
 再び山道に入ったがきり丸の姿はない。まさか、学園まで駆けるわけではないだろうが。ふと乱太郎の脳裏に、わざわざ校門まで見送りについてきた土井の姿が浮かんだ。
 ‥‥土井に早く会いたくて‥‥?土井のところなら、泣けるから‥‥?
 胃のあたりから、重く黒いものがせぐりあげる感覚に、乱太郎は首を振った。そのどろりとした感触のものは胸をじりじり焦がしながら全身にめぐってゆく。
 嫉妬。
 きり丸がそれで救われるならいいじゃないか、そんな言葉のなんと空しい。
 知らずため息をついた乱太郎は、道のはしにちょんと盛られた五色米に気づいた。
 あわてて周囲を見渡せば、道から少し下った河原の大きな石の上に、きり丸の背中があった。


 水の中に足を浸しているきり丸に、はい、と竹皮の包みを差し出した。
「はい。おまえ食え、とは言わないよね」
 まだ少し目の赤いきり丸は、黙ってその包みを受け取る。
 乱太郎も黙って同じ大岩の上に腰掛けた。
 鳥のさえずりが聞こえる。周囲にせまった木々が緑の葉陰を落とし、川面を渡ってきた風が、少し汗ばんだ肌に心地いい。
「‥‥考えたんだけどさ‥‥」
 しばらくして、きり丸が言った。
「とうちゃんかあちゃんは、まあ、とうちゃんとかあちゃんなんだから当然としてさ、にいちゃんなんか、今のおれより小さかったのに、えらいよな、ちゃんと弟かばってさ。‥‥おれなら、絶対見殺しにして逃げてるね」
「‥‥そんなことないと思うけど」
「志津は死んでよかったよ。もし生きてたらさ、おれ、今頃、女衒になってさ、妹売ってその金で遊んでたよ、きっと」
「そんなことないよ。きりちゃんはそんなこと、しない」
「なんで言い切れるんだよ」
 きり丸が乱太郎を見上げる。乱太郎は笑った。
「わかるよ、そんなこと」
「‥‥わかる?」
「うん」
 自信をもってうなずく乱太郎をきり丸はじっと見つめる。
 乱太郎もきり丸の視線を柔らかな目線で受け止める。
 爽やかな風が吹き過ぎる。
 ごく自然に。ふたりの唇が重なった。

 
 優しい口づけを終えて、きり丸は奇妙な目で乱太郎を見た。
「‥‥なに?」
「‥‥いや。おれ、おまえのこと、好きだなあと思って」
「わたしもきり丸のこと、好きだよ?」
「うん‥‥でもさあ、おまえ、いい加減にしとかないと、そのうち、ほんとに、おれに売られるぜ?なんかおまえ、加減知らずだからあぶなっかしいよ」
 乱太郎にはきり丸の言う意味がわからない。
「あぶなっかしい?」
「‥‥うん。おれみたいなのに、深入りしないほうがいいんとちゃう?」
「‥‥なんでそうなるの。わたしがきり丸といるとまずいの?」
「‥‥うん‥‥」
 うつむいたきり丸がため息をついた。
「あのさあ‥‥おまえ、知ってる?飲み屋で一番客が喜ぶ酒のサカナ」
 意外な問いに乱太郎は首をひねる。
「え?煮干しとか?」
「ちがうちがう。おかみの昔話だよ。ほら、二世を契った相手に死なれて流れ流れてこの地に来たとか、生き別れたこどもがいるとか、そういうおかみのいわく話に客は弱いんだ」
 乱太郎にはきり丸の言いたいことがわからない。
「‥‥それで?」
「じゃあ、次な。うぶな堅気の娘がいるだろ、で、それを与太者が口説くとき、なんて言うか知ってるか。俺はまじめないい奴です、付き合ってください、なんて口が裂けても言わねえの。俺に近づくな、痛い目見るぜって。そうすると世間知らずの娘はぽおっとなって一発で落ちちゃう」
「へえ。そういうもん」
「感心するなって。落ち着いてよく考えてみろ。おまえ、おれにそういう手管使われてんだよ」
「へ」
 乱太郎は驚いた。恋の手練手管。話には聞くが自分が使われていると思ったことはなかった。
「へえ‥‥でもさ、きりちゃん。そういう手管を使うってことは、それだけ、わたしのことが欲しいってことでしょ」
「‥‥おまえな」
 ため息をついてきり丸は岩から滑り降りた。
「そういう寝ぼけたこと言ってると、そのうち、ほんっとにおれに売られるぞ」
「うーん」
 乱太郎も岩から滑り降りた。
「でもきりちゃんなら、きっと高く売ってくれるよね。損はなさそう」
「ばか。おまえ、いいかげん、おれの忠告ちゃんと聞けよ。ガードがあまいって言ってんのに注意しないから、おれに押し倒されるわ、おまえがあおってるってクギ刺してるのに聞かないから、ずるずる続くわ‥‥」
 乱太郎は歩みかけていた足をぴたりと止めた。きり丸が振り向く。
「らんたろ?」
「‥‥だから。それがまずいの、きり丸。わたしは、いいよ。きり丸とこうなってること、嬉しいし喜んでるよ。それが、まずいの?」
 きり丸が目を丸くしながら、ゆっくりと両手を上げた。
「‥‥まずく、ありません」
「じゃあいいね。行こう。暗くなる前に街道に出たいから」
 そう言って歩きだしながら、足を止めたのはまた、乱太郎のほうだった。
「‥‥ごめん、きり丸。どうしてもひとつ、聞きたい」
「なに」
「土井先生は、もう全部、知ってるの。今日、わたしが聞いたこと」
 きり丸がじっと乱太郎を見つめた。
「‥‥土井先生が知ってるのは‥‥おまえも知っているように、おれが時々、悪夢にうなされてるということ、うなされるような目にあったこと。それから、おれの村に起こったこと。歴史的な事実ってやつ。‥‥それだけだよ。今日、初めて、話したんだ」
「‥‥信じるよ」
 「信じるよ」それは「信じたい」と同義語で。
 きり丸の黒い瞳は、嘘をつく時にも揺らがないと知っているから。嫉妬。その黒々とした固まりは、いくら飲み下そうとしても喉につかえる。
「うん。信じときな」
 ぽん、ときり丸は乱太郎の頭に手をやった。
「おれ、おまえをだますときは精根こめてやるから。おまえが気がつかないように」


 黒い、黒い闇。
 でも、その中は居心地がよくてあたたかい。
「きり丸。好きだよ」
 闇も。
 はじきだされるくらいなら。
 その中で染まっていたい。
「きり丸‥‥」

 

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