そして物語り

 

「よろしい。入園を許可する」
 忍術学園園長のその一言で、きり丸の人生は大きく変わった。
 冗談でも比喩でもなく、それはきり丸の実感としては「地獄から天国」であった。
 その一瞬、きり丸は確かに学園長にお釈迦様を見た。そして‥‥。
「なら、入学までわたしの家に来るといい。学園長、わたしにこの子の面倒を見させて下さい」
 そう言った若い教師は、観音様に見えた。‥‥観音様にしては、ちょっとごつい感じがしたけれど。


 が、それまでの短い人生で、きり丸はすでに「この世に神も仏もない」というのが真実だと、学んでいた。
 だから、いくら“観音様”がご飯を食べさせてくれたうえ、着物をあつらえ、風呂に 入れてくれても、油断はできない、と思っていた。そうだ、この前のあのヒヒおやじの ように、布団にはいったらいきなり妙な真似をしだすかもしれない。‥‥でも、別にか まわないけどな、ときり丸は思う。それで食べ物と暖かい寝場所が確保できるなら、ど うってことはない、と。ただ、ちょっと、そう、ちょっとあれは痛すぎる。それが難点 だ。あとひとつ、それまではどうってこともない相手が、事後、ものすごく嫌な相手に 見えて来てしまうのが、不思議と言えば不思議で、きり丸はこんなに優しくていい感じ のこの先生がやっぱり嫌いになってしまうとしたら、悲しいな、と思った。
 だから、寝具の用意を手伝いながら、きり丸は言ってみた。
「‥‥なあ」
「ん、なんだ」
 先生は顔を上げる。こんな風に笑える人でも、やっぱりああいう真似が出来るんだろ うか。疑問に思いつつ、きり丸は言う。
「あのさあ、おれにも覚悟のつけようってのがあるからさ」
「うん?」
「だから、今日、いろいろ親切にしてもらったじゃん。おれ、うれしいんだけどさ、今からきっちり、そのツケ払えってんなら、早目に言ってくれよ」
「‥‥ツケって、別にわたしの家にいるのに、授業料や雑費は関係ないぞ」
「知ってるよ。金を払えと言われるとは思ってないけど‥‥ほら、かわりに‥‥」
 先生が少し眉を寄せた。
「‥‥かわり‥‥?」
「夜鷹のまねごと」                             
#夜鷹:ゴザを持って客を引く流しの娼婦
 一息に言い切ったきり丸の顔を先生はしばし、言葉もなく見つめた。
「やなことは、おれ、さっさとすませたいし」
「‥‥そ、そん‥‥そんなことは‥‥しない。しないよ、きり丸」
「どうして」
「どうして‥‥どうしても。しないんだ」
「じゃあ、先生にはなんの得があるの」
 先生は小さく首を振った。
「損得じゃあない。わたしは、わたしは、教師で‥‥おまえは生徒じゃないか‥‥。なんで‥‥わたしは、教師で‥‥損得なんか‥‥」
 先生は片手で両目をおおってしまった。
「‥‥先生」
 とても、不思議なものを見た思いできり丸は尋ねる。
「先生。どうして泣くの?」


 その記念すべき土井半助宅での初日の夜。
 結局、自分を大事にすることの意味だとか、性的な交渉の情緒的な大切さだとか、過 去の傷にとらわれない人としての強さだとか、そういうことをこんこんと先生に諭され ているうちに、それを子守歌代わりに眠ってしまった。
 そうか‥‥。きり丸は思った。この世には神も仏もいないけど、観音様はいるのかも しれないな、と。


 いよいよ明日は入学式という日。先生が慌てて言った。
「髪!忘れてた。その頭、なんとかしないと」
 きり丸は自分のぼさぼさ頭に手をやる。耳の高さで結わえてあるが、これじゃあマズ いのか?
「散髪だ!」
 土井先生は器用にはさみと櫛を使ってきり丸の頭を整えてくれる。
「‥‥お。おまえ、なかなかいい髪してるなあ。ちゃんと手入れしてみろ。いいぞ」
 ほら出来た、と渡された鏡を見れば‥‥髪を高く結わえ上げ、前髪をきちんと中央で分けて立たせた、これは‥‥。
「げえっ!おれじゃないみたい!」
「うん、なかなかいい出来だ」
 一人満足そうな土井先生にきり丸は食ってかかった。
「なんだか変だよ、こんな髪!」
「変なもんか。これは忍術学園指定の立派な髪形だぞ」
「け。ガキの頭なんだ」
「こら。一人前のかっこいい忍者だってこういう髪形をしてるんだ。山田先生の息子さんだって、おんなじ髪形だぞ」
「‥‥げえ。あのこわそうな顔したおっさんの息子?おれ、やだな」
「いや、息子さんはお母さん似だそうで‥‥こら!ほどくな!」
「じゃあ、先生は?先生、少しちがうじゃん」
 はは、と土井先生は笑った。
「わたしの髪はたちが悪くてな、まとまらないんだ。すぐはねるし。油をつけまくればなんとかなるんだが、そうするとまた、匂いが立つし‥‥」
「あ。じゃあ、おれがやってやるよ!」
 きり丸は勇んではさみと櫛を手に取った。


 入園式の緊張の中、きり丸は前列に一列に並んだ教師の中から土井先生を探した。
 いた。すぐ見つかった。
 すぐ見つかるに決まっている。
「大丈夫だ、忍び頭巾をかぶってしまえばわからないよ」
 仕事の結果に青くなっているきり丸に、土井先生はそう言って笑ったけれど、頭巾から出ている前髪だけでも、土井先生は目立った。あんなに、ぴんぴんと前髪がはねている先生はほかにいない。
「気にするな。すぐに伸びるよ」
 先生はそう言ったけれど。あんなにざんばらに、ぼさぼさにあっちこっちはねまくっ た髪形が、そうすぐに直るとは思えない。
 でも。
 あれで怒らないんだから、ほんとに先生は観音様かも。‥‥おれの。おれだけの。


 教室に入るために廊下を歩いている時だった。
 きり丸は後ろから髪を引っ張られた。いきなりイタズラか、いい根性してるじゃねえ か、と振り向いた先に、メガネがあった。
「あ。ご、ごめん」
 さっと顔を赤くしたそのメガネは、それでもきり丸の束髪を握っている。
「‥‥髪、放せ」
「あ!ご、ごめん!」
 ぱっと手を開いたその素直さに、きり丸の警戒心も緩む。
「なんだよ、おまえ」
「え、あ、あの、き、きれいな髪だなあと思ってたら、つい、手が勝手に‥‥」
「なに」
「ほ、ほら、わたしの髪はこんなで‥‥なんとか入園するまでに後ろで束ねられるようになりたかったのに‥‥」
 確かに。頭巾からはみ出した毛は茶色のふわふわした猫っ毛だ。
「おまえな。後ろからいきなり人の髪、引っ張って、ぶん殴られても文句言えないぞ」
「そうだね。ごめんね。ほんとに」
「‥‥おれはきり丸。おまえは」
「あ。わたし、わたしは乱太郎。猪名寺乱太郎!」
 頬を染めて乱太郎は叫ぶように名乗った。茶色い猫っ毛、桃色の頬、そしてなによりその無邪気な表情。南蛮渡来の絵の下手な複製画に、似たようなのがなかったっけ。
「みつか‥‥?」
 神の御使い、天使の絵。
「え、なに?」
「‥‥なんでもない。教室、行こうぜ、乱太郎」


 そうして、物語りは始まる‥‥。

 

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