恨みはらさで・・・<後編>

 

 

 手にする武器によって、間合いの取り方は変わって来る。
 互いの間合いをにらみながら、切っ先を制するに有利な位置を探りながら、四郎ときり丸はじりじりと足裏をにじらせる。
 動いたのはきり丸のほうが早かった。
 喉元めがけて飛ばされた棒手裏剣を、四郎は苦もなく避けると同時に、八方手裏剣を数枚放つ。
 その軌跡をよけると見せながら、きり丸は斜め前にある茂みに飛び込んだ。ざっと立ち上がったその手には忍び刀が握られている。
「ほう。準備がいいな」
 余裕の笑みを見せて四郎が言った。
「最初からその気か。なら、手加減はせんぞ」
 高い跳躍に、その身が舞った。


 

 四郎は苦無を手に戦う。きり丸は抜き身の忍び刀。
 刀と苦無では圧倒的に苦無が不利だ。防戦一方にならざるを得ない。が、そのえものの不利をものともせず、四郎はきり丸と切り結ぶ。
「は!」
 気合一閃。四郎の苦無がきり丸の頬をかすめた。つ、と血が垂れる。
「お返しだ。この前はよくも俺様の面に傷をつけてくれたな」
「ふん。今日はその鼻、そいでやる」
「口だけは一人前だが、刀使いはまだ半人前だな」
 またも四郎の跳躍。上に気をとられたきり丸の足に絡みついていたものがあった。細紐。その片端が宙に飛ぶ四郎の手に握られていることに気がついた時は遅かった。
 足を取られ、よろけたところに四郎が飛びかかる。
「きり丸!」
 叫んで駆け寄ろうとした乱太郎の足が、ふと止まった。四郎もきり丸も麓から続く道の方を見やった。地鳴りのような、雄叫びが聞こえる。
「うぉおおおおおっ!!」
 手に手に刀を振りかざして、は組の八人が駆け上がって来た。


 

 隙に、きり丸は四郎を蹴り上げ、その身の下から飛び出た。
「きり丸!」
 先頭の庄左ヱ門が叫んだ。
「助太刀する!乱太郎は連れて行かせない!」
 ばらばらっとは組の面々が四郎を取り囲むように散らばった。その時だ。
「十対一じゃ、不公平すぎるな」
 棚地のはずれの大きな欅の枝間から、声が降った。
 ざっと飛び降りて来たのは‥‥。
「利吉さん!」
「わたしは四郎に助太刀する。勝てば乱太郎くんはもらって行く」
「か、勝手なこと言わないで下さい!」
 にっこりと利吉は、叫んだ乱太郎にほほ笑みかけた。
「もちろん、君なりに抵抗してもらってかまわないよ。君の大事なきり丸も友達も、打ち倒された後だろうけどね」
 すらりと利吉が刀を抜き放つ。
「来い!忍たま!」
 利吉は不公平すぎると言ったが、すでに一流である忍び相手に、四年生が十人、束になったところで、敵う保証はない。おまけに、天才忍者と誉れも高い利吉が加勢するとなれば、状況はきり丸たちに厳しい。
「庄!」
 きり丸が庄左ヱ門の耳元に口を寄せた。
「二手に分かれて、同時にかかろう。連携されるとやっかいだ」
「うん。僕もそう思う」
 が、彼らが手を打つより早く、
「利吉さんっ!ごめんなさいっ!」
 伊助が刀を振りかぶって利吉に走り寄った。
「だめだ!一人ずつかかったら‥‥!」
 制止の声も届かず。
 利吉と伊助がすれ違った、と見えた時には、伊助の体は地面に倒れ込んでいる。
「すまないね。伊助くん」
 髪ひとすじ乱さぬまま、利吉が言う。
「‥‥くそ!」
 きり丸が短く吐き捨てた。
「庄、団蔵、兵太夫、金吾、行くぞ」
 声かけてきり丸は、四郎目がけて走り出した。名を呼ばれた四人が、やはり刀を構えて後に続く。
「えやあああっ!!」
 斬りかかるきり丸をすんでに避けた四郎に、庄左ヱ門、団蔵、兵太夫、金吾の四人がそれぞれに刀を繰り出し、攻め立てた。
 腕の立つ五人で、まずは四郎を確実に討とうという意図である。
 残った喜三太、虎若、三治郎は己の役目を悟り、利吉に向かう。
 が。
 こちらは核となる人間のいない集団の悲しさで組織的な攻撃には及べない。それでも、きり丸たちが四郎を討ち取る間に少しでも利吉の戦力を奪おうと、彼らは力を奮う。
 それも、暫時。
 喜三太が手裏剣で地面に縫い付けられ、虎若たちが峰打ちに倒れ伏す。
 えものを尽くした四郎を五人で取り囲み、最後の一打を加えんとしていたきり丸は、横目でその有り様を見ていた。
「庄左ヱ門」
 隙を見せぬよう、気を張り詰めながら、きり丸は早口で庄左ヱ門に耳打ちする。
「まかせられるか」
 四郎をにらみつけたまま、庄左ヱ門はうなずく。
「大丈夫、こっちはまかせろ」
 刀を上段に構え直しながら庄左ヱ門は答えた。そして低く付け加えた。
「‥‥利吉さんの紹介だった」
 四郎が学園に来た経緯だった。やはり、との言葉は呑み込んで、きり丸は目を光らせる。
「許さねえ‥‥」


 

 冬の終わり、梅一輪二輪ほどの暖かさなどと言う。
 日中の陽差しにはもう春の暖かさがあるが、午後おそくの陽光は明るさのわりには熱がない。薄ら寒さがしのびだした空気の中で、利吉ときり丸は対峙した。
「ふん。刀の持ち方だけはまともだな」
 利吉の揶揄に、きり丸は無言で斬りつける。
 高く硬質な、刀と刀が激しくかち合う音が響く。
 そのまま刀の鍔(つば)に利吉の刀を受け、押し切ろうとぐっと前に出るきり丸を、力をうまく抜くことで、利吉は横へ流す。素早く身をひねり、再び斬りつけるきり丸の刃を、またも軽くいなした利吉が笑った。
「ずいぶん熱くなってるじゃないか」
 うるさい、とも言わず、きり丸はまたも斬りかかる。また、利吉が受けて流す。
「なぜ、俺を倒そうとする」
 きり丸が怒りもあらわに利吉をにらみつけた。
「決まってるだろう!いまさら、なにを‥‥!」
「決まってる、か?おまえとはずいぶん、いがみ合った覚えがあるが、俺は半助のことでおまえに切りかかられた覚えは一度もないぞ」
 きり丸の瞳がかすかに大きくなった。
「なあ、きり丸。おまえ、半助のことでここまで熱くなったことがあるのか」
 かすかに震え出した手で、きり丸は刀を握り締める。
「‥‥う、うるさい‥‥うるさいんだよ!」
 今度は下段から利吉を斬り上げようとしたきり丸の攻めを、利吉はまたも軽く、切っ先を跳ね上げただけでかわす。
 遮二無二投げ付けた苦無も弾かれて終わる。
「くそ!」
「冷静さを失ったら、勝ち目はないぞ。もっとも冷静になったところで、おまえが俺に勝てるわけはないがな」
 薄ら笑って言い募る利吉を、きり丸はにらみつける。
「四郎を学園に寄越して、乱太郎にちょっかいかけるように、仕組んだろう!」
「そう怒るな。俺が余計なことをしたと思ってるんだろうが、それは違うぞ。俺は理不尽な恨みを晴らしたかっただけだ」
「なに」
 ふと利吉が真顔になった。
「きり丸。俺は確かにおまえから大事な人を奪った。それでおまえに恨まれるのも仕方ないと思ってはいた。けどな、恨まれてるのが阿呆らしくなったんだよ。そうだろう?  俺はおまえの大事なものを奪ったが、おまえの一番大切なものを奪ったわけじゃ、ない」
「一番、大切‥‥」
 きり丸は小さく呟く。
「‥‥おれの‥‥いちばん」
 すっとその視線が横に流れた。その先には心配気に見守る乱太郎がいる。ふたりの眼が合う。
 一瞬、静寂が降りた。
 乱太郎はきり丸を見ている。きり丸は乱太郎を見ている。そのふたりを、それぞれに助け合って身を起こしていた喜三太たちが、見ている。四人がかりでようやく四郎を取り押さえた庄左ヱ門たちも、庄左ヱ門たちに組み伏せられた四郎も‥‥。
 その静寂を利吉の朗らかと言える声が破った。
「しかしな、まっとうな恨みなら受けてやる。大事な親友の望みだ!乱太郎くんはもらって行く」
「させるかぁ!」
 きり丸が再び利吉に躍り掛かった。


 

 力の差、とはこういうことを言うのだろう。
 利吉は立ち位置もほとんど変わらないのに、きり丸は一人であちらこちらと跳ね飛び、その息はすでに荒いでいる。
「やああっ」
 気合とともに振りかぶったが、疲れからか苛立ちからか、その振りが大きかった。
 すっと利吉の体が沈み、その拳がきり丸の鳩尾(みぞおち)にめりこんだ。
 きり丸の背が丸くなる。利吉の拳は、きり丸を跳ね飛ばしもしない、気絶もさせない、正確な意図と力で、きり丸の急所を突いた。
「‥‥ぐ‥‥あ‥‥」
 ふら、ときり丸の足が一歩二歩とよろめき、その口から胃の腑のものが溢れ出た。
 身をふたつに折って嘔吐するきり丸の背後で、利吉は立ち上がりゆっくり拳を開いた。
「腹筋の鍛え方が足りんな、きり丸」
「ぐえ‥‥」
 吐き気が治まらぬのか、きり丸は腹をかかえてふらつく。と、見るや。
 よろめいた、と見えたきり丸の手から何かが飛んだ。
「く!」
 瞬間に、確かに油断があったのだろう。咄嗟に腕で顔を庇いはしたものの、利吉はきり丸が懐に忍ばせていた目潰しをくらった。
 その瞬間。まるで打ち合わせでもしてあったかのような連携の良さで、乱太郎が利吉の足元へ滑り込んだ。視界のきかぬまま足を払われて利吉が転ぶ。すかさず、乱太郎は苦無の柄で利吉の手首を打ち、刀を取り落とさせた。
 そしてこちらも。乱太郎の助けがあるのを知っていたようなタイミングで立ち上がったきり丸が、刀の切っ先を利吉の喉元に突き付ける。
「‥‥さあ」
 肩で息をしながら、きり丸が言う。
「あんたの大事な親友に、乱太郎をあきらめるように言え」
 目をこすりながらきり丸を見上げた利吉が、降参、というように両手を上げた。
「さすがに息が合うな。‥‥四郎!力が及ばず、すまん!」
 庄左ヱ門たちに後ろ手に縛られていた四郎は肩をすくめて答える。
「仕方ないな」
 その利吉と四郎のやりとりに、喜三太たちが飛び上がった。
「や、やったあ!」
 わあいわあい、と抱き合って勝利を無邪気に喜ぶは組の面々。その中でひときわ高い声が上がった。
「乱太郎の床入りだ!」
 金吾だった。父を探して諸国を放浪していた彼は、色事に関しては経験豊富なうえにませていた。が、『床入り』の言葉の生々しさに、クラスの面々はとっさに反応しかねたようだった。素早くその空気を読み取った金吾が叫び直す。
「乱太郎の嫁入りだ!」
 その言葉ならお祭りごとにできる。
「わあい、嫁入り嫁入り!」
 喜三太を先頭にわっと乱太郎に群がる。
「え、ちょ、ちょっと‥‥!」
 乱太郎が慌てるのも構わず。彼らは乱太郎を抱え上げると「嫁入り嫁入り」、はやしたてながら山道を学園に戻って行く。
 きり丸は深いため息をつきながら、刀を鞘に納めて一人、歩きだす。そのきり丸を見やった兵太夫がつぶやいた。
「花婿忘れてどうすんだ」


 

 高揚して乱太郎をかつぐ仲間に、腹が立った。
 庄左ヱ門は苦々しささえ感じながら、先を行く集団を見やる。
 馬の轡を取りながら、並んで歩く団蔵が、その肩を叩いた。
「しょうがないよ」
「団蔵‥‥」
「きり丸さ‥‥がんばったよ」
 兵太夫に肩を借りながら山道を下りるきり丸は、繕いが必要なほど制服もぼろぼろで、大小の傷から血を滲ませている。馬に乗るほどのケガじゃない、と強がってみせたが、やはりまだ痛むのか胃を押さえながら歩く様子から、四郎も利吉も、ほかの生徒に対するほどの手加減をきり丸にはしなかったのがわかる。
「‥‥うん‥‥」
 うなづきながら、庄左ヱ門は思う。もし、もし同じチャンスが自分にも与えられたのなら。自分もちゃんと‥‥がんばれたのに、と。


 

 生徒が去って行くのを見送って、四郎は縛られていた縄からするりと手を引き抜いた。
枯れ草の間に横になっている利吉の顔をのぞき込む。
「よお」
「おー」
 利吉が手を上げた。
「ひとつ、聞きたいんだが」
 四郎が言った。
「俺がいつからおまえの大事な親友になったんだ」
「なんだ、知らんかったのか。昔からだ」
「ふむ‥‥。おまえは大事な親友に、馬に蹴られて死ぬ役を振り当てるのか」
 四郎に助け起こされながら、利吉は笑った。
「おまえには別口で恨みがあったからな」
「恨み?」
「三年の二学期と四年の一学期と三学期、五年の二学期と六年の一学期」
 四郎が眉を寄せて首をひねった。
「なんの謎掛けだ、それは」
「覚えてないのか。おれから首位を奪ったろう?」
「‥‥‥‥」
 四郎が固まった。利吉は真面目な顔でうなづいて見せる。
「よかったなあ、これでおまえももう恨まれないぞ」
「‥‥利吉よ‥‥なにも言わず、一発殴らせろ」
 脱兎のごとく逃げ出す利吉と追う四郎であった。


 

 踊る阿呆に見る阿呆、などと言う。さらに、同じ阿呆なら踊らにゃソン、ソンと唄は続く。これは一年の頃からは組にとっては行動信条の一のようなものだった。
「おれ、メシ、はいらね。悪い、兵太夫、食堂のおばちゃんにうまく言っといて」
 そう言って、学園に着くとすぐ食堂にも寄らず自室に戻ったきり丸以外、庄左ヱ門たちも不本意ながら乱太郎の「嫁入り」騒ぎに巻き込まれた。
 金吾の音頭取りで、乱太郎はみんなで寄ってたかって湯浴みだ、着替えだ、化粧だ、とおもちゃにされている。
 普段から「乱太郎、好きー」と好きを連発している喜三太を、庄左ヱ門は捕まえた。
「喜三太、いいのか!乱太郎がきり丸と‥‥」
「えーだってー、きり丸と乱太郎は昔から仲いいもぉん。お似合いだよぉ、ふたり」
 結局、こいつの「好き」はその程度か、と今度は団蔵をつかまえる。
「団蔵!止めなくていいのか、こいつら‥‥」
「庄左ヱ門‥‥止めても止まらないよ‥‥」
「あー!」
 団蔵の言葉が終わらぬうちに、庄左ヱ門が大声を上げた。見ると、小松田さんから借りてきたらしい、薄桃色の肌襦袢をみんなが乱太郎に着せようと大騒ぎしている。
「こら!裾が床にすれてるよ!あ、ほら、引っ張ったら、破れるだろ!」
 見かねて口を出してしまうところが、庄左ヱ門に染み付いた委員長根性であったろう。
「紅!?紅ひくの!?それじゃあ、筆は?筆も借りてこなきゃ駄目じゃないか!」
 庄左ヱ門もいつの間にやら輪の中である。
「あーあ、手伝っちゃってるよ‥‥」
 兵太夫が呟いた。横で団蔵がため息をついた。
「後で落ちこまなきゃ、いいけどなぁ」
 ぽん、とその肩を兵太夫が叩いた。


 

 「嫁入り支度だ」とみんなは叫んでいるが、実体験のない乱太郎にも、それは「床入り支度」に思えて仕方がなかった。ざぼん、と湯の中に放り込まれ、よってたかって磨かれて、湯から上がれば薄桃色もいやらしい肌襦袢を着せられた。これが最後の命綱、とばかりに下帯を奪い取ったのが唯一の乱太郎の勝利で、後は金吾のなすがまま、紅をひかれ、眉まで細く引き直され、肩先まで伸びた髪はほどかれて梳きあげられた。
 嫁入りなら、この後、打ち掛けの一枚も着せられて、髪もそれなりに結い直されるのが本当だろうに、肌襦袢一枚、髪は長く流したまま、
「嫁入りだ、輿入れだ!」
 と再び皆に担がれて廊下を行っても、気分は「床入り」だ。
 誰か助けてくれないか、と一人一人の顔を見回すが、兵太夫は皮肉な笑みを浮かべて肩をすくめるだけだし、頼りになりそうな庄左ヱ門も団蔵も、顔を伏せて目を合わせてくれない。後は喜三太をはじめとして‥‥、
「だめだ‥‥みんな、楽しんでる‥‥」
 乱太郎は肩を落とした。


 

 がらり、と勢いよく戸が開けられ、乱太郎は部屋の中に押し込まれた。
 窓際に座って外の闇を見ていたらしいきり丸が目を丸くしている。
「いや、あの、これは‥‥」
 しどろもどろに弁解する乱太郎の横に立った金吾が胸を張って大声を張り上げた。
「花嫁さんをお連れしましたあ!」
 わあっと後ろに詰め掛けたみんなから歓声が上がる。
 金吾はにやりと笑った。
「お後はどうぞ、ごゆっくり」
 ごゆっくり、ごゆっくり、どうぞどうぞ、と意味がわかっていない者たちは囃し立て、
意味がわかっている者たちは居心地悪げに顔を赤らめる。
「今日は兵太夫と三治郎はおれたちの部屋に泊めるからさ。‥‥どうぞ、ごゆっくり」
 小声で付け足した金吾が、もったいぶって室内の二人に一礼して見せてからそろそろと戸を閉めだしたが、好奇心もあらわに部屋の中を覗き込もうとする視線は最後まで途切れなかった。
「‥‥なに考えてんだ、あいつら」
 きり丸が呆れたように呟いた。
「えっと、あの、その、きりちゃん‥‥」
 思わぬ展開で部屋に二人残された乱太郎は、なにか言おうと口を開く。
「えっと、その、痛くない?」
「どってことねえよ」
 ぷいときり丸は横を向く。
「えーと、その‥‥」
 なにか言わなければ、と乱太郎は焦る。何か言わなければ。「おれの乱太郎に手を出すな」「おれの乱太郎」「おれの」きり丸の低く叩きつけるようだった声が耳によみがえる。そこにかぶさるのは利吉の声。「おまえ、半助のことでここまで熱くなったことがあるのか」「おまえの一番大切なもの」頭の中で響く声とその意味が、乱太郎からすべての落ち着きを奪う。
「あ、ありがとって、そう!ありがとうって言わないと、そうそう、ありがとうって」
 とりあえず、口にできることを見つけてほっとした乱太郎を、冷たくきり丸がさえぎった。
「なにが」
 見れば。かすかに眉をひそめたきり丸は、不機嫌そうにすら、見える。
「な‥‥なにって‥‥」
「おまえに礼言われるこっちゃねえんだよ。‥‥ありがとうなんて‥‥言うな。‥‥おれは‥‥」
 呻くように言葉を切ったきり丸は、頭を抱えてしまう。
 何を予想していたわけでもない。乱太郎には事態を予測できるほどの余裕はなかった。しかし。これは、ちがう。自分が聞いた言葉は、何かの間違いだったのか‥‥?
「きり丸は‥‥やっぱり土井先生が好きなの?」
 自分でも思わぬ言葉が出ていた。
「え?」
「だって‥‥わたしがありがとうって言うのがおかしいなら‥‥だって‥‥」
 何を言いたいのだろう、自分は。乱太郎は頭の片隅で思う。きり丸にとって、自分が大切な、特別な存在なのだと思えた‥‥それが、間違っていたのだと思うだけで‥‥胸が痛い、体の中を棘だらけの枝で引っ掻き回されているように痛い。この、この痛みがなければ、もっとちゃんと考えて、ちゃんとしゃべれるのに。
「‥‥おれは‥‥」
 静かなきり丸の声がした。乱太郎は顔を上げる。
「おれは、おまえが好きだよ。‥‥乱太郎が、いちばん、好きだ」
 あまい、あまい告白のはずなのに。何故だろう、なぜきり丸はこんな苦しそうな顔をするのだろう。
「おれが、おまえを好きで‥‥だからやったことだから。おまえが感謝する必要はない」
「‥‥でも‥‥わたしもうれしいと思ったよ?連れて行かれたくなくて、きり丸が止めてくれて‥‥うれしかったよ?うれしいから、ありがとうって言ったんだよ?」
 ジジ、と灯心の燃える音だけが響いた。きり丸の視線を乱太郎は精一杯受け止める。
 ゆっくりときり丸が立ち上がって来る。近づいて来る。
 視線が、重い。
 突然に、乱太郎は悟っていた。好かれる、とはこういうことなのだ。抱かれるのを望まれるというのは、この視線の重さ、相手から絡み付くように発されるこの気を受け止める、そういうことなのだ。きり丸の視線が絡んでくる。‥‥この前の晩、唇を求められた時と同じ‥‥きり丸が別人に見える。
 きり丸から発される熱と緊張が耐え難かった。
 我知らず、乱太郎は後ずさっていた。
 その背が、とん、と壁に当たった時、ふ、ときり丸が笑った。‥‥この前と同じ。下を向いて息を吐く。上げた顔はいつもの顔。あの絡み付く重さが消える。
「‥‥ばあか。なんて格好させられてんの、おまえ」
「え‥‥あ、金吾たちが床‥‥じゃない!嫁入りだって」
「嫁っていうより、おてもやんだな。なに、この化粧」
 笑いながら、きり丸は首のスカーフをほどくと、ごしごしと乱太郎の顔をこすった。
「あーあ。眉まで剃られてやんの」
「きり丸‥‥」
 乱太郎は間近の、頭半分、自分より背が高いきり丸を見上げる。
 目が合った。きり丸の瞳が揺らいだ。数瞬。
「ごめん」
 きり丸が小さく言ったような気がした。
 顔が下りて来て、唇が重なった。


 

 妙な気がした。
 今まで、これほど近くにいたのに。
 夏の水辺で、広い湯殿で、裸でじゃれ合ったこともある、肩を組んだり、もたれあったり、体を触れ合わせることは多くあったのに。
 唇と唇を触れ合わせたことは‥‥なかったのだ。
 ‥‥ただしっとりと唇を吸われているだけのそれは‥‥しかし、裸でじゃれ合うよりもっと近しくきり丸を感じさせ‥‥乱太郎の胸に早鐘を響かせた。
「‥‥乱太郎‥‥」
 呼ばれたような気がしたのだから、一度は唇は離れたのだろうと思う。
 頭の中に霞がかかったようで、のぼせているようで‥‥。
 ただ乱太郎は、きり丸が優しく唇を吸うにまかせ、柔らかな舌が忍び入ってくるのを許していた。
 いつかきり丸を抱き返しているのにも気づかずに。


 

 どれほどの時間だったのか‥‥初めての抱擁と口づけがいつ終わったのか、乱太郎は知らない。
 静かに身を離したきり丸が無言で部屋を出て行くのをぼおっと見送ってから、乱太郎はずるずると壁にもたれて座り込んだ。
 戸の閉まるかすかな音が、こどもの友情時代が終わりを告げる音に、聞こえた。


                          了

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