黒の遺伝子 [罪人たちの季節番外]

 

 目の前で、艶やかな黒髪が揺れている。
 濃緑の制服に、絹糸のようになめらかな、黒髪が流れる。
『立花……?』
 いや、そんなはずはない。
 自分が学園を卒業してからでも、すでに五年がたっているのだ。
 ……そうか。
 微熱のもたらすまどろみから、ようやく明瞭な意識が立ち上がる。
 あれは、きり丸か。
 ……こんなふうに、学園の保健室での寝たり起きたりの療養生活を余儀なくしてくれた、張本人――。





*仙蔵

 見られた。
 木の幹に上体を預け、後ろを長次に責めさせているところを。
 後ろに突き出す格好の腰を、長次の手にしっかりとつかまれ、菊門をえぐる肉棒に小刻みに揺さぶられているところを。
 木立の合間を通りかかった一年生に、見られた。
 その一年生は、ほんの一瞬目を見開き、驚きの色を見せたが。
 すぐと。
 ふい、と目をそらした。
 そして、あわてるでもない、そのままの足の運びでまた樹間に消えて行く。
 あわてず、騒がず、うろたえもせず、……かすかな嫌悪だけ、にじませて。
 その表情に仙蔵は知る。
 ――自分と、似たような経験をしてきている、と。


 さして興味のない一年生のことだったが、少し注意してみると、その一年生がなにかと学内を騒がせている三人組の一人だとすぐに知れた。福々しい頬をした丸い体型の一人と、ふわふわの茶色い猫っ毛頭もかわいい眼鏡の一人と、いつもつるんでは学内を騒がせている。
 そうやって友達とはしゃぐ顔には、仙蔵が自分と共通の体験をもっていると感じた陰りは、ない。
「……あの一年……あの釣り目のヤツ、おまえ知ってるか?」
 仙蔵は傍らの小平太に尋ねてみる。
「ああ、きり丸?」
 下級生に人気のある小平太は、入学間もない一年生の名前も覚えていた。
「摂津のきり丸って。戦で村ごと焼かれたとかで、自分で稼いだ金で学園に来てるらしいよ。だからすぐに、小銭に目の色変えるんだ」
「……なかなかの器量良しだな」
「えーそんな、器量良しって言ったらそりゃ仙ちゃんだよぉ。仙ちゃんさ、ほんと男にしとくの惜しいっていうか、美人って言ったら仙ちゃんっていうか……」
 仙蔵への賛辞を口にしながら一人で照れている小平太は放っておいた。
 仙蔵は楽しそうに大口あけて笑っているきり丸を見やる。
 ――戦災孤児で、あの器量……。
 かばってくれる腕のないところで、ある種の男たちの嗜虐性を刺激するだろう気の強さをにじませた器量良しが、どんな目に合うものか、仙蔵は身をもって知っている。
 自分と長次の濡れ場を見た時のきり丸の表情は、かつての日に、自分が浮かべたそれと同じ。
 ――きり丸か。
 仙蔵はその名を記憶に止めた。


 ある日、仙蔵は梅雨に入る前にと町へ必要なものを買いに出た。
 辻に出たところで、仙蔵は、
「わぁらびぃもちぃ! 冷たぁあくて、おいしぃいよぉ!」
 聞き覚えのある声に足を止めた。
 見ると天秤棒をかついだきり丸が、季節には少し早いわらび餅を独特の節回しで売り歩いている。
 ……小平太に聞いた通り。学費稼ぎのバイトに精を出しているらしい。
 仙蔵はその小さな体に重い盥を支えたきり丸の姿を見送る。
 ――自分も幼少からいろいろあったが。
 仙蔵はきり丸に背を向けながら思う。
 金に困ったことはない。
 忍術のエリート養成に自信を持つ忍術学園の学費が、十かそこらの子供の稼ぎで払い切れるものなのか……。
「わらびぃい餅、冷たぁあく……」
 その時だ、きり丸の売り声が、不自然に途切れた。別の方角へと行きかけていた仙蔵は足を止め、振り返る。
 客ではない。
 一人の男がきり丸にかがみこみ、話しかけているようだ。
 仙蔵は足を速めて、その男の顔が見えるところまで回り込んだ。
 案の定、あまり人相風体のよろしくない男だ、顔に浮かんだ下卑た笑いが、いっそう男を人品卑しく見せている。
「……元気そうじゃないか」
 唇の動きで、男の言葉を読んだ。
 馴れ馴れしく肩に手をかけ、きり丸に話しかける男の笑いと対照的に、きり丸はいつものはつらつとした表情はどこへやら、顔を強ばらせ、地面の一点をじっと見つめている。
「みんなも心配してたんだぜぇ、おまえのことは。いきなりいなくなっちまうからさぁ」
 男の言葉にきり丸は押し黙るばかりだ。
 膝を折って男はきり丸の顔をのぞきこむ。
「おまえもみんなに会いたいだろう?」
 きり丸が顔ばかりか全身を強ばらせたのを、遠目ながら仙蔵は見てとる。
「おんや。会いたくないのか? そうなのか?」
 大仰に男は驚いて見せ、そして小狡そうに唇を歪めてきり丸に笑いかけた。
「おまえが会いたくないなら……黙っててやろうか。ん?」
 きり丸が初めていやそうに目を上げた。……これからなにを言われるか、知ってる顔だ、仙蔵は思う。
「黙っててやるよ。そのかわり、明日のこの時間、またここに来な。そしたらおまえがこの町にいることは、みんなには黙っててやるよ」
「…………」
 無言のまま、きり丸の全身はいやだと叫びを上げ、しかしまたその顔は、仕方ないと呟いている。
「……いい子だな、きり丸」
 男は薄汚れた手でぽんぽんときり丸の肩を叩き、「楽しみにしてるぜ」と念を押す。
 男が立ち去った後、きり丸はしばらくうつむいていたが。
 やがてその目が地面に置かれた盥へと移る。
「……売らなきゃ」
 きり丸が小さく呟いたらしいのを仙蔵はやはり唇の動きで読む。
 そしてきり丸は、肩を上下させて深呼吸し、天秤棒をかつぎ上げた。
「えー……わぁらぁびぃもちぃ、つめたぁあくて、おいしぃいよー」
 きり丸は腹の底からの売り声を辻に響かせる。
「…………」
 仙蔵はその声を聞きながら、人波にまぎれた。


「ねえねえ、今日の放課後、どうする?」
「お団子食べに行こうよ、お団子」
 次の日の昼の食堂。きり丸といつもの友人たちの席を背にした仙蔵は、彼らの会話を聞いている。
「あー、わりぃ、おれ、今日の放課後、バイト」
「そうなんだー。じゃあ今日は団子、やめとこうよ、しんべヱ」
 もう一度きり丸が、わりぃなと繰り返す。
「ね、ね、きりちゃん、今日のバイトはなに? わたし、手伝おうか?」
 無邪気な友達の声が言い、きり丸が、
「……あー、その、今日のはどうせすぐに終わるから……うん、おれ一人で全然平気だから」
 かわしているのを、仙蔵は背で聞いた。


 私服に着替えたきり丸を挟んで、一年は組の面々が校庭に走り出て行く。
 きり丸を校門まで送りがてら、そのまま校庭で放課後を楽しむつもりらしい。
 その一年生の屈託のない笑顔の中で、同じようににこやかな顔を保っているきり丸を仙蔵はやはり物陰からうかがう。
 そこへ、
「おーい、バイトも遊びもいいが、宿題はきちんとやれよー」
 彼らの担任である土井が声を掛ける。
 はーいだの、うえーだの、いろんな声が答える中で。
 仙蔵はきり丸がどうするかと見ていた。
 泣きつくか、土井に。
 おそらくは学園に来る前にいろいろな意味で搾取されていただろう相手に、また出会ってしまったと、土井に泣きつくか。
 助けてくれ、と。
 だが。
 きり丸は、「先生、行って来ます」明るく、おそらくは精一杯に明るく、声を張り上げて手を振った。
「夕食には遅れるなよ」
 土井の言葉に「はあい」手を振って返して。
 ふん、と仙蔵は鼻を鳴らす。
 わざとらしいけなげさは嫌いだが。
 まあ、仕方ない、学園の後輩だ。
 仙蔵はきり丸の後を追って学園を出た。





*鉢屋

 食堂だった。
 三郎は六年の立花仙蔵が、十分に自然体ながら、なにかに耳を澄ませているらしいのに気づいた。 
 ――なにを探っている?
 立花のかすかな気配の変化に気づいていると知られぬよう、目線ひとつ、不自然がないように配りながら、三郎はそっと立花をうかがう。
 ……これが、ほかの六年生なら。
 まず、放っておく。
 三郎はそれほどヒマなわけではなかったから。
 だが、立花だ。
 三郎にとって目の上のたんこぶとも、不倶戴天の敵とも言える、立花。
 いまや同学年には向かうところ敵なしの三郎にとって、多くの六年生は単に学年に数字がひとつ多くつくに過ぎない、カスばかりだった。
 例外は、立花の回りにいる六年生たち。中在家、潮江、善法寺、七松、さすがに立花とつるんでいるだけのことはあると思わせるものを持っている六年生たちについては、当たれば手ごわいだろうと思えた。が、彼らが相手でも、三郎は負ける気はしなかった。
 だが、ひとり、立花は。三郎の前に立ち塞がり、しかも己の優位を確信し、それをおもしろがっているようなのだ。
 ――その、三郎にとっては学園でただ一人とも言える、『勝てない』相手である立花がいったいなにを気にしているのか。
 三郎は興味を持った。
 食堂では確信にまでは至らなかったが、放課後もなにげなく立花をうかがい続け、立花の注意する先が一年のドケチ坊主と知れた。
 ……その一年生については。
 戦災孤児で自分で稼いだ金で学んでいると知っていたが、それについては三郎は『なんとなくいけすかない』という感想を持っていた。さらに、その友人がやたらと三郎の親友である不破雷蔵になついてくるについては、はっきり『うざい』としか思っていなかった。
 その、一年生に。
 やはり、その存在が邪魔でしかない六年生が。
 いったいなにを。
 三郎は、きり丸の後を追うように学園の門を出た立花のあとを、ひそかに尾けた。


 一瞬、見失ったかと思った、直後。
 立花は後ろ姿にも華のある娘に化けて、再びきり丸と同じ道へと出て来た。
 三郎は目を細める。
 ……変装までして、なにを、と。


 町へ入った。
 きり丸は裏口から一軒の甘み処に入り、「わらび餅」と染め抜かれた旗とともに、両天秤を肩にかついで出てきた。
 わらび餅の行商らしい。
 大通りの交差する広い辻に出たきり丸は、一人の男に呼び止められる。
 振り向いたきり丸がさほど意外そうな顔をせず、かすかに嫌悪の色を浮かべたところを見ると、歓迎しない約束でもあったのか。
 立花はと見れば、こちらもそれが予想のうちのことなのか。
 辻の手前の露店をのぞくふりで、きり丸と男の動きを見守る様子だ。
 男がなにか言う。
 きり丸が両天秤を指さしてなにか言う。
 男が首を横に振る。
 すると。きり丸が。卑屈な笑みに唇を歪めながら、妙な動きを見せた。
 顔の前で、指をなにかを握るふうに丸め、そしてちろりと舌を出す……。
 男が身体を前後に揺らして笑った。
 きり丸が両天秤をかつぎ直す。
 男がそのきり丸の肩をたたく。
 ……なるほど。
 唇の動きも読み取りにくい距離だったが、見ていた鉢屋は二人の間に交わされた言葉を理解する。
「行くぞ」
「ちょっと待ってよ、今日の分、売っちまわないとバイト代がもらえない」
「そんなの俺が知ったことか」
「頼むよ……後でさ……ちゃんとアンタのもしゃぶるから」
「へ。おまえはやっぱりもの分かりがいいぜ」
 そんなところか。
 ――じゃあ、立花。
 鉢屋はゆっくりと動き出した娘姿の立花に目をやる。
 おまえは、この『約束』のことを知って?


 答えはすぐに出た。
 きり丸が大声でわらび餅を売り歩きながら離れて行くと、すぐ。
 市女傘に顔を隠すようにして立花が、人込みにまぎれて男に近づき、とん、と肩をぶつけたのだ。
「あ、すみません」
 とでも立花は言ったか。
「なんでえ、気をつけやがれ……」
 とでも言いながらだろう、振り返った男が一瞬、ぽかんと口を開けた。
 立花はおそらく、その花の顔(かんばせ)に臈たけた笑みを浮かべているにちがいなく。
 思わぬ美女との遭遇に、つい男の顔にゆるみが現れる。
 そこへ、立花は足元を気にする素振りを見せ、男が立花の足元にかがみこむ。
 ……わざと鼻緒を切れやすくしておいたな。鉢屋には簡単に見てとれることだが、そうとは知らぬ男は、鼻の下を伸ばして道から少し外れた木陰へと娘を誘う。
「まあ、助かりますわ」
 鉢屋の耳には届かぬはずの立花の作り声が聞こえるようだ。
 男がいそいそと、木の根元に座る立花の前にかがみこむ。
 鼻緒をすげてもらいながら、娘姿の立花はあれこれと男に話かけるふうだったが。
 やがて。
 かがみこむ男はそのまま。
 娘だけがすらりと立ち上がり。
 さしてあわてるふうではなく、しかし、足早にその場を去り。
 すっと物陰にその姿が消えた瞬間。
 ひとりしゃがみ続けていた男の身体がぐらりと揺れ。
 仰向けにどうと倒れた男の胸には、小刀の柄が生えていた。


「人助けのつもりですか」
 辻の騒ぎを遠く聞きながら、悠然と道を行く、若武者姿の立花に三郎は声を掛ける。
「……もう終わった」
 答える立花の声は冷ややかだ。
「昼からずっとうっとうしい。もう後は尾けてくれるな」
 気づいていたと告げられたが、三郎はひるまなかった。
「らしくもない。あれであの一年が救われるとでも?」
「まさか」
 立花は鼻で笑う。
「救い? そんなものがどこにある。わたしはノミを一匹、退治しただけ」
「そう」
 と三郎は受ける。
「どうせ次々とノミはわく。あの一年はすぐに次のノミに食いつかれる」
「だろうさ」
 立花の白い顔には愉快そうな色がある。三郎に対しては、十分に挑発的な……。
「自分の手でノミを叩き潰せるようになるまでは、しゃぶられるしかないのさ。……だが、いずれ、あいつも覚える。ノミの払い方、叩き潰し方……おまえやわたしのように」
 三郎はこみあげる苛立ちを飲み込もうと深く息を吐き出す。
「そうだ、自分で覚える。こんなふうに甘やかされたヤツは、いつまでもハンパなままだ」
 その三郎の言葉に、にぃっと立花の唇の両端が持ち上がった。
「……なるほど。なにを絡むかと思えば……」
 立花の顔が、三郎が引くより早く、三郎の顔に寄せられた。
 近々と目を合わせながら、立花はささやく。
「そんなにきり丸が妬ましいか? わたしに守られたあいつが?」
 細くしなやかな指が三郎の頬を撫でる。
「可哀想に。おまえのためには、誰も手を汚してくれなかったのか」
 衝動のまま、三郎はその手を払いのける。
 払いのけたとたんに、その行動がそのまま立花の言葉を肯定していると悟ったが、三郎はしっかりと立花の瞳をにらみ返した。
「俺は守られる必要など、ない」
「…………」
 立花の顔からは薄笑いが消えぬままだ。
 三郎の苛立ちなど、怒りなど、怖くもないと。
「仕方ないな。だっておまえはかわいくないもの。わたしのすぐ後ろについて、剣呑な瞳を向けてくる。それではかわいがりようがないだろう? わたしにかわいがられたかったら……」
 再び、立花の指が三郎の頬にかかる。
「わたしより5年遅く生まれて来るか……わたしに跪いて(ひざまずいて)見せるか」
 そして、立花はにっこりと……あでやかこの上ない笑みを見せ。
「できるか、おまえに? もしもおまえがわたしに跪くなら……おまえをかわいがってやるよ? おまえを汚す者を、わたしがこの手で屠ってやるよ? おまえだって、学園の後輩だもの、きり丸にしたと同じように、おまえにもしてやるよ?」
 甘くささやいた。
 が、三郎は顔を背けて立花の指を払う。
「余計な世話だ」
 ふふん、と立花が薄ら笑う。
「鉢屋三郎。だからおまえはかわいくない」
 学園へと去る立花の背を、三郎は睨みつける。
 誰が貴様などにかわいがられたいと思うものか。相手が誰であっても願うものではないが、貴様相手ならなおのこと。たかるハエぐらい、自分で叩き潰せる。今までもそうしてきたし、これからもそうする。
 誰が、貴様になど……。


 もう関わりなど持つつもりもなかったが。
 事の顛末だけを見届けたくて、鉢屋は男の死体がころがる辻の外れへともう一度足を向けた。
 遠目にも、その木の下に人だかりがしているのが見えた。
 ……どれほど探しても、犯人は捕まるまい。
 人込みの中で、鼻緒を切った娘と、風体のよろしからぬその男が一緒にいるのを、何人が気づいたか。そしてまた、何人が娘の顔を覚えているか。……覚えていたところで。彼らはこの世に存在しない娘を、下手人候補として捜し続けるのだ。
 ふ、とため息をつきかけて、三郎は軽い足音とともに、ひとりの子供がその人込みからこちらへと駆けてくるのに気づいた。
 きり丸だった。
 思わぬ事態の展開に、だろうか、きり丸の顔は強ばっている。が、その足取りは軽快で、憂いから解放された人の軽さ嬉しさがにじんでもいるようで。
 そのリズムよい駆け足の音を聞いたとたん、三郎の中に黒いものが沸いた。





*きり丸

 声を掛けられた瞬間から、殺すしかないと思っていた。


 男は昔の仲間には声を掛けずにいてやると言った。
 ウソだと直感した。
 いや……最初の二、三回は、男は自分一人で愉しむつもりかもしれない。だが、その後は。どうせ前と同じだ。忍術学園に入る前と同じだ。……みんなで寄ってたかって……。
 もういやだときり丸は思った。


 忍びになりたいと願ったのは。
 一生くいっぱぐれない商売だと思ったから。そして。自分の身は自分で守れるようになれると思ったから。
 その道を歩きだしたばかりだと言うのに。いやだ。また前のように……そんなのは、絶対、いやだ。
 殺してやる。
 そう思った。


 だが、きり丸がその決意を実行に移す前に、男は誰かに殺された。


 ムシロがかけられる直前に、くわっと見開いた目が見えた。
 それは驚きの表情とも、絶命の瞬間の苦しみの表情とも見えた。
 男の胸に、小刀が一本、深々と突き立っているのも見えた。
 それはまるで、きり丸の殺意が形になったもののように、見えた。
 うれしいのか、こわいのか、せいせいしたのか、それとも余計に不安になったのか。
 自分でも自分の気持ちがどちらに転んでいるかわからぬまま、とにかく学園に帰ろうと、そればかりを思ってその場を離れようとした。
 駆け出してどれほどもたっていないように思えたのだが。
 どん!
 きり丸は誰かにぶつかった。


「すいませ……!」
 顔を上げてきり丸は驚いた。
「雷蔵先輩!?」
「ちがう」
 突き放したような口調にか、それとも微動だにせぬ表情にか、きり丸は悟る。
「……三郎……先輩……」
 なぜ学園の先輩がこんなところにという疑問と、後方に残して来た死体と自分との関係
を微塵でも疑われてはまずいということが、同時にきり丸の頭を占めた。
「あ、あ、先輩、見ました!? あそこ、あそこ、仏さん! 胸をこう、ぐっさりやられて!」
「……ほう」
 動かぬ顔の中で、目だけが動いてきり丸をきろりと見る。
「その仏はおまえの知り合いか?」
 なにか試されているような。きり丸の背をたらりといやな汗が流れた。
 こらえてきり丸は、胸にあごがつくほどに深くうなずいた。
「学園に入る前に、ちょこっと世話になったことがあって! きのう、久しぶりに会って! 元気か、がんばってるかって声かけてくれて! 今日も、ようやってるなって、声!」
 にや、と鉢屋が笑ったような気がした。
「いいだろう。それだけのことなら、香典の心配をしてやることはないな。……学園に戻るぞ」
 そう言ってくるりと踵を返した鉢屋の後に、きり丸はおとなしくついた。


 町を出たところだった。
「懐になにを入れてる」
 きり丸はぎくりと来た。
 さっきぶつかった時にバレたのだろうか。腹には男を刺すための懐剣を忍ばせてある。
「出せ」
 有無を言わさぬ命令。
 しぶしぶきり丸は、懐のものを差し出した。
 受け取って鞘を外し、鉢屋は小馬鹿にしたようにその刃をはじいた。
「……ふん」
 嘲笑を帯びた笑みが鉢屋の顔に広がる。
「ガキだな、おまえは。これでなにをするつもりだった? 竹トンボを作るのか? それとも水車でも回して遊ぶか」
 ちがう!! 大声で叫び返したくなるのを、きり丸は唇かんでこらえる。
 おれはそれで人を殺そうと思ったんだ。
 生まれて初めて、人を殺すために刃物を用意したんだ。
 うまく刺せたかどうだか、わからない。
 でも、自分はやるつもりだった。
 竹トンボや水車や……そんな子供だましな遊びのためじゃない!
 だが、鉢屋はあざ笑うのだ。
「遊ぶのもいいが、せいぜい自分の指を切らないように気をつけろ」と。
 それはまるで。
 きり丸の必死の決意を、笑われているようで。
 初めて持った、本気の殺意を、馬鹿にされているようで。
 きり丸は飛び上がるようにして、鉢屋の手からその懐剣を取り返す。
 しかし、それにすら。
「ドケチのきり丸」
 鉢屋は言うのだ。
「そんな刃の薄い安物など、ものの役にも立たん。わたしが欲しがるわけがないだろう?」
 言葉にできぬ悔しさをこらえて、きり丸は駆け出した。









 ――竹トンボを作るつもりかと尋ねたら、噛み付きたそうな顔をした。
 継ぎの当たった着物を着た、デカい目ばかり目立つ一年坊主。
 その一年坊主が……やってくれるじゃないか。
 鉢屋はさらしの上から、そっと腹の傷を押さえる。
 あと数寸、ずれていたら、命がなかったと新野が言っていた。
 ……新野から聞かされるまでもなく。
 身に抉りこんで来た刃の勢いには、明らかにこちらの命を奪う意志があった。……立派に、自分の手で『ノミ』を叩き潰そうという意志が。
「おい。水」
 三郎は横柄に、後ろ姿のきり丸に言い付ける。
「……何様だ、あんた」
 嫌そうな表情を浮かべてきり丸が振り返る。
「おまえの恩人だ」
 三郎は意識して薄笑いを浮かべてやる。
「わたしが死なないでやったおかげで、おまえはいまだにデカい顔して学園にいられるんだぞ? 痴情のもつれの果てに学園の先輩殺しという不名誉を、おまえが犯さずにすんだのはわたしのおかげだ」
「…………」
 さすがに口を閉じるのを忘れたらしいきり丸が脱力するさまに、胸がすく。
「……あんたな……昔から憎たらしい人だと思ってたけど、磨きがかかったな」
「お互い様だ」
 返した言葉にきり丸がふと、動きを止めた。
 黒々とした瞳が、三郎の顔を見つめる。
「……あんたも、俺のことを昔から、憎たらしいと思ってたのか?」
 三郎もまた、瞬時、きり丸を見つめたが。
 目に浮かぶかもしれない光や、よぎる波を見られたくなくて、三郎はすぐにその目を閉じた。
「……いいや」
 俺が勝てない相手だった……俺を嘲笑った……あの、黒髪のあの人が、かわいがったおまえ。
 あの人の手に、そうとは知らないまま、一度は助けられたおまえ。
「……憎たらしくなどなかったさ」
 あの人と同じ、緑の黒髪流れるおまえ。
 ……充分に冷酷に、人の命を断てるおまえ。……断てるようになったおまえ。


 三郎は目を開く。
 きり丸を見つめる。
 事実のひとつを、嘘偽りなく告げるため。


「――おまえは、わたしたちの、かわいい後輩だよ……」





                                  了

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