水底の泥はねて [曙光外伝]

 

 ショバ代を払わぬ奴がいると言う。
 見た目はけっこうきれいなガキで、先頃から辻に立つようになったというが、それがなんだかやたらキモの座ったガキで、エモノをちらつかせてみてもビビりもせず、言を左右にして、とにかく金を出さぬと言う。
「情けないねえ、おまえたちは」
 ポンと長煙管の灰を落とすと、芳乃は笑って腰を上げた。


「ショバ代払わねえクソガキってな、テメエか」
「‥‥なあ、あんた。人のケツの穴使って食うメシって、うまい?」
 殺したろか、と芳乃は思った。
 それがきり丸と名乗るガキとの出会いだった。


 殺さずにおいたのは、こいつはカネになる奴だと商売人の目が働いたためと、生意気を理由にいちいち殺していたのでは、すぐに商売道具に困ることになるためだ。
 筋を通してショバ代の意義を説明してやり、雨風の時には店を使える便宜も教えてやると、頭は悪くなさそうなそのガキは、右手で握り締めた左手をこじ開けるという手間をかけながら、銭を差し出した。
「は、早く取ってって!」
 と腕まで震わせて言うものだから、芳乃も慌てて手を出したが、殴ってもいないのに銭を取られる瞬間にびくりと身を震わせて顔を背けたきり丸に、なんだかひどい無体を働いたような気にさせられた。
「銭出すってのは、どうも慣れねえ‥‥」
 と呟くのを聞けば、若い衆が手こずったのも、案外、単純な理由のせいではなかったかと思われた。
「アンタ、おもしろいわねえ、きり丸」
 今度、店に遊びに来いと続けようとして、芳乃は何もない空間に向かってしゃべりかけようとしていた自分に気づいた。
 ついさっきまで、目の前にいたきり丸がいない。お、と上げた目に、月明かりにどんどん遠ざかって行く後ろ姿が見えた、と思ったのも束の間。ごぅっと風鳴りがしたかと思うと、芳乃のすぐ傍らを、町人風の男がものすごい勢いで駆け抜けて行く。
「待て!! きり丸!」
 と叫ぶのを聞けば、きり丸がどうやらこの男に追われて逃げたと推察がついた。
「‥‥なんだかねえ‥‥久しぶりにおもしろそうじゃないの」
 芳乃は形の良い唇に、笑みを刻んだ。


 芳乃の世界に、謎はない。
 店に来る男たちは少年を買いに来るのであり、どれほどの身分の男であれ、腰にぶら下がっているものは同じで、布団の中ですることも、同じだ。明解。
 店で身体を売るのは、親兄弟に店に売られた少年たちで、辻で身体を売るのは、親に売られる前に自分を売りに来た少年たちで、最初は泣き叫んでいる彼らが数カ月で水になじんで男相手に平気で秋波を送り、腰をくねらせて客を引くようになるのも、見えている。単純。
 その中で、才があり、頭角を表せるだけのものを持ち、さらに、実力者の寵愛を勝ち取ることのできた者が、この世界で生き残り―――自分のように、そしてかつて自分がそうされていたように、少年たちをメシのタネにして生きていき―――そうでない者は最初そうなるはずだったように、食い詰めることになるだけのことだ。整然。
 そして今のきり丸より幼いころよりこの界隈で生きて来た芳乃は、人を見る目を持っていた。一見でも、金のある奴かそうでないかという商売に直結する大事から、どんななりわいを持つ奴か、どんなタチの奴なのか、大体の目星をつけるのはたやすかった。
 が、そのなかで。
 きり丸は芳乃にとっては珍しい謎だった。
 誰かに強要されている様子はない。自分から辻に立っているのだろうに、その割に、貧乏くさいところがない。肌も髪も清潔で、栄養が行き届いた自然な美しさがある。こういう状態で、なぜ身体を売る必要がきり丸にあるのか、芳乃にはわからない。
 ごくごくまれに、男の味を仕込まれその快楽なしではいられぬという理由で、この苦界に身を置く奴もいるが、きり丸はそういう輩が持つ爛れた雰囲気とは無縁だ。興味から二、三度客と寝ている現場を覗いてみたが、明らかに楽しんでいるのは客のほうで、きり丸のほうはシラケぬ程度に淡々と応じている、と見えた。
 ―――そんなきり丸がなぜ、客を取るのか。
 そして、夜毎、きり丸を追い回す若い男。
 謎を芳乃は楽しんだ。
「‥‥アンタ、旅の役者でしょ」
「へ?」
 暇つぶしに将棋の相手をさせていた時に芳乃は聞いた。きり丸は目を丸くする。
「旅の役者でしょ。そうでしょ‥‥で、一座の花形なの。それが‥‥うーん‥‥芸につまって‥‥いや、アンタはそういうことに深く悩むタイプじゃないわね‥‥舞台で恥をかいて‥‥そう、そうね。舞台で恥をかいたのね、だから逃げ出してきた。ね。そうでしょ! 旅役者なら、身体を売るのも慣れてるし‥‥それでぇ‥‥花形のいなくなった一座は困って、一生懸命、追うわけよ。それがあの町人風の男! そうでしょ!」
「‥‥推理はいいんだけど、芳乃サン。王手」
「あら? ちょ、ちょっと待った!」
「待ったなし!」
 言いさしたところへ、下からなにやら騒ぎが聞こえる。
 なにやらもめ合う気配がして、階段に大きな足音が響いた。
「きり丸! きり丸! いるんだろう!!」
 声と共に、襖を次々あけるぴしゃん! ばしゃん! という音が響き、少年たちのキャアという叫び声と、邪魔された男たちの怒声が続く。
「‥‥やべ」
 首をすくめたきり丸が、
「芳乃サン、この勝負、オレの勝ちね」
 言い置いて窓際へとすっとんで行くのと、その部屋の襖が開いたのが同時だった。
 瞬間に、刺すようなきつさで侵入者を睨みつけたきり丸は、そのままするりと窓の外へと身を踊らせた。
「きり丸‥‥!」
 さらに追おうと窓際へ駆け寄った男の胸倉を芳乃は掴みながら、タン、と軽い音だけさせて着地したきり丸が、なんの痛痒も見せずに駆け去るのを横目で確かめる。
「‥‥あらぁ、二階よ、ここは」
 そして芳乃は芳乃の腕を振りほどこうと身構えた、若い町人風の男を見る。
「じゃあ、あんたに聞かせてもらおうか。おまえら、いったい、なにもんだ」


 店の商売を邪魔されたと、怒る素振りでその男に縄を打つ。
 見せしめだと、店の土間に座らせて、若い衆に水をかけさせる。
 こういう時には容赦ない極道者たちは、てんでに口汚くののしり嘲りながら、男をなぶる。頃合いを見て、芳乃は男の前に立つ。
「‥‥ねえ、あんたたち、いったいなにもんなわけ」
 男は答えず、きっと芳乃を見上げる。
 ‥‥縄を打たれ、極道者たちに回りを囲まれ、ツバさえはきかけられていると言うのに、男の目にひるんだ色さえないのを芳乃は見る。―――きり丸と同じ、冴えた瞳の色。
 着流しの前をぱんと割って、芳乃は男の前に座り込む。
「なにもんなのさ、あんた」
「‥‥きり丸に客を取らせるな」
 それを言うためにわざと捕まったな、と芳乃は思う。
「‥‥言っときますけど。あの子に客を“取らせた”ことはないのよ。あの子が勝手に“取ってくる”の。確かに場所を提供しちゃあいるし、歩合を取らせてもらっちゃあいるけど、こちとら、客を強制したことは一度もないのよ」
 ぎ、と男の奥歯が鳴った。
「‥‥客を取らせるな‥‥頼む‥‥」
「あらあ、頼まれても困るわあ。客を無理に取らせるのは簡単よ。けどねえ、客をとらせないってのはねえ、至難の業なわけ。あんた、犬猫がサカるのを止められる?」
 男は喉の奥で呻いた。
 人が泣くのなど、何度も見てきた。許して、と必死の懇願も何度も無視して来た。
 が、その男の目の色に。芳乃は小さく息を漏らした。
「‥‥止められないわよ、悪いけどさあ。けど、ひとつだけ、約束しといてあげる。あの子にこちらから客を強制することはしない。それだけは守ってあげる」
 それじゃあ駄目なんだ、と言うように男は首を横に振った。仕方ないだろ、と芳乃は立ち上がり、横を向きざまため息をつき、そしてまた男に目を戻すと‥‥男は消えていた。男の身を戒めていたはずの縄が、ぐにゃりと地面に丸い形を残しているばかりで。
「おい! あの男はどこに行った!」
 回りの若い衆に聞いても、皆の一瞬の隙を巧妙についたように、男は消えていた。
「‥‥だから、なにもんなのよ‥‥」


 一度ならず芳乃は、その男がきり丸の腕をつかんだ男に土下座までしているのを見た。
客についたのだろう男に、蹴られさえしても、まだ頭を上げないのを。
 ‥‥辻で身体を売るゲスな男娼のために、土下座までする男。
「父親、じゃないわあ。あの若さじゃ」
 と言って、恋人にも、見えない。
 不自然だ。芳乃は思う。
「‥‥ねえ。親父さん」
 義理の“父”に芳乃は言う。
「きり丸ね‥‥売値、上げといてよ。今の倍でもあの子なら、売れる」
「ふん‥‥おまえがそう言うなら、そうしよう」
「きり丸に渡す分は、今のままでいいわ」
「‥‥おまえがそう言うなら」
「あの子ね、そう長続きしないわよ。稼げる間にこちらも儲けさせてもらわなきゃ」
「おまえが言うなら間違いはないだろう」
 芳乃はうなづく。
 あいつはそう長続きしない。
 こんな商売、ちょっとでも逃げ道がある奴がはまるもんじゃない。親にしろ、兄弟にしろ‥‥赤の他人にしろ、あそこまで親身になって追う奴がいるってのに、いつまでも泥水すすってられるわけはない。
 アンタがここにいるのは。
 芳乃は思う。
 不自然なんだよ、きり丸。


 年の割に世知に長け、思い切りのいいきり丸だった。
 水商売と呼ばれるだけあって、浮き沈みの激しいなかで、いつの間にやら“売れっ子”になっているきり丸を見て、芳乃は複雑な笑みを浮かべる。顔が奇麗だから売れるというほど単純な世界ではないのだが、時々捨て鉢な物言いをするきり丸には、それを有り難がる気持ちはさらさらないらしい。
 才に恵まれぬ奴ほどしゃかりきになって無様をさらし、才に恵まれた者はその恩恵をあっさりと投げ捨てるような真似をする。とかくこの世はままならぬ、と芳乃は思う。
 きり丸がこの世界で生きていくつもりなら、それなりに引き立ててもやるのに、と。
 それでも、きり丸がここを去るのは時間の問題だろうと思っていたから。
 だから、ある夜、真夏の盛りは過ぎた、しかも夜中だと言うのに、その夜は路傍で客をとったらしいきり丸が、ばしゃばしゃと水音も荒く川で体を洗うのを見た時にも不思議はなかった。
「‥‥よう」
 は、と振り返ったきり丸の瞳が殺気ばしっている。
 芳乃は唇を歪めて笑った。
「‥‥どうした。きのうきょう、客を取り出した新鉢でもあるまいに」
 揶揄された意味がわかったのだろう、きり丸はプイと横を向いた。
「‥‥今日の客、やたら汗くさい奴だったんだ」
「おまけに腐れマラで?」
「‥‥‥‥」
 ふてたようにきり丸は、またばしゃりと顔に水をかける。
「いいけど早く上がってらっしゃい。風邪ひくわよ」


 その次の夜、客と共に階段を上がるきり丸の背を、芳乃は静かに見送った。
 もうやめておけ、と言ってやってもよかったが、たぶん、この数カ月続けたそれを止めるには、きり丸自身にも何かふんぎりが必要なのだろうと言う気はしたし。
 しかし、さほどの間も置かず、
「主人だ! 主人を呼べ!!」
 と廊下で怒鳴る大声には額を押さえた。
「‥‥こういう騒ぎを起こしちゃうところが、ガキなのよねえ‥‥」
 ため息交じりで階段を上り、部屋から身を乗り出し顔を真っ赤にして怒鳴る客の前に膝をそろえた。
「この店を任されております芳乃と申します。何か不都合がございましたか」
「ある! おおありだ! 食えん皿なら、客に出すな!」
 部屋をのぞき込めば、案の定、きり丸がいる。怒る客の背後から、ゴメン、と言うように小さく肩をすくめて見せる。‥‥わかってるんだろう、賢いお前のことだから、と芳乃は返す。
「お客様、まずはお部屋にお入りください。ほかのお客様のお耳もあります。中でゆっくりお詫びとお話しを‥‥」
 芳乃も共に部屋に入ると、中には安っぽい生地にくるまれた布団が、乱れて敷かれたままになっている。その布団の向こう側にいるきり丸は、怒る客の前でそっぽを向いてみせている。
「こいつだ! こいつがワシの言うことをきかん! こ、こいつは‥‥!」
「あんたみたいに汚ねえおっさんに触られたかねえんだよ!」
 芳乃はずい、ときり丸に近寄ると、その頬を思い切り、張った。
 胸倉をつかんで、また平手を二発、三発と張った。
 ―――殴られ慣れてる。
 最初の一発以外は、音だけ高く鳴るようにして、それほど痛みは与えぬように殴ったが、それでも最初の一発で下手な奴なら口の中を切るぐらいはしているだろうに。
 咄嗟に奥歯を噛み締めてうまく平手に合わせたらしいきり丸は血の混じった唾を吐くこともなかった。
「申し訳もございません」
 芳乃は客の前に平伏してみせる。
「こちらのしつけが行き届きませず‥‥後で必ずきつく仕置きをいたします。今、酒など調えさせていただきますので、どうぞ、お腹立ちをお納め下さい」
「ふん」
 客がどっかりと腰を下ろすのを見て、芳乃は手をたたき、やってきた若い衆に酒を命じる。‥‥これで収まれば恩の字だが、と。
「では‥‥いかがいたしましょう。当店にはほかにもいろいろ見目よい若衆がおりますよ。お客様のご希望の者に、お相手をさせますが」
「ほかの奴などいらん」
 と言うのが客の答えだった。
「ワシは、そいつ、そいつに相手をさせたい」
 やはりそう来るか、と芳乃は歯噛みする。まあ、わかってはいたが。
「仕置きするんだろう。どうせだ。ワシの目の前でやってくれ。おお。ちょうどいい。酒も来た。酒のサカナがわりに、そいつに裸踊りでも踊らせてやってくれ」
 芳乃が答えるより、早かった。
「け」
 ときり丸が吐き出した。
「そんなに踊りが見たけりゃ、てめえでどじょうすくいでも踊りやがれ」
 わかった、と芳乃は立ち上がる。そんなに引導渡してほしいか。そんなにケリをつけたいか。わかった。手助けしてやろう。
 芳乃はきり丸の脇腹に、足蹴りをくらわせた。


 ぐう、と呻いて丸まるきり丸に、二度三度と蹴りを入れる。
 ―――奇妙な感じがした。
 ここまで来て手加減してやるつもりはないのに、蹴りがあと一歩のところで決まっていない、そんな感じだ。
 うまく力を吸われているというのか、かわされているというのか。きり丸はいちいち体をひくつかせ、小さく叫びを上げてみせるが、どうにもそれほどの打撃を与えているとは思えぬのだ。喧嘩なら、相当の場数も踏んでいる芳乃だからわかるが、そうでなければわからぬほどの蹴られぶり、と言えた。
 ―――だから、なにもんなんだよ、おまえは。
 心の中でいつもの問を繰り返して、芳乃はうずくまるきり丸を引き起こす。
「ほら、お客様の御所望だ」
 きり丸の合わせを握り込んで一気に引きはぐ。ツボを押さえてまっぱだかに剥くのは得意だから、ついでに後ろ手に縛って客の前に突き出した。
「‥‥さあ、いかがいたしましょう、お客様」
 目の前にさらされた若い裸体に、中年男の喉がごくりと鳴った。
 ―――若い。
 15歳と言っているより若いだろうと思っていたが、改めて明かりの中でしげしげと見るきり丸の身体は、芳乃が思っていたよりさらに幼さを残していた。
 14どころか。13になるならずといったところじゃないか。しかし、乱れた黒髪の間からのぞく瞳はなにやら激しい感情を秘めて輝いて。‥‥なるほど、と芳乃は納得する。これは売れるはずだ、と。まだ華奢な骨組みに、筋肉と言えるほどのものはついてはいない。全体にまだこどもの丸みを思わせる柔らかさを残しながら、すらりと伸びた手足に薄くきれいに肉付いた胸から腹‥‥淡い草むら。そして極め付けに男をそそる、きつい瞳。
 男がなにかに憑かれたようににじり寄り、きり丸の身体に手を伸ばす。
 芳乃に腕を捕まれ、膝立ちの態勢でふくらはぎを踏まれて身動きままならぬきり丸の身体に、男が触れる。首筋を撫で、胸を撫で下ろし‥‥首筋をべろりと嘗めあげ、乳首をつまんでひねっていく。
 客の手が触れるたびに、きり丸の表情に演技ではない嫌悪が走るのを芳乃は見る。
 今まで、覗き見たきり丸がこんな顔をしたことはなかった。間違いなく、おまえはもう潮時だ。芳乃は心の中できり丸に告げる。
 ならば、最後に。しっかり仕事はして行け。
 こんな世界に足踏み入れた、その落とし前はきっちり、つけていけ。
 せめて、せめて、その手助けだけはしてやるから。
 芳乃はきり丸の髪をつかむ。
 客が前をはだけている。
 半分だけ、勃ちあがったそれの、中途半端な柔らかさと、口の中で体積を増して行く不快さを思い出すのだろうきり丸が、本気でいやがって顔を背けるのを髪をつかんで引き戻す。
「さあ。ちゃんとしゃぶれよ。歯なんざ立ててみろ。川に簀巻きにして放りこむぞ」
 あごに手を添えて口を開けさせる。
 そこに男が、まだ力無いそれをねじりこむのを、芳乃はただ、見ていた。


 きり丸の口の中でエラ張らせたそれを、男はきり丸の中に入れたがる。
 往生際悪く暴れるきり丸の上体を抱え込んで、芳乃は客にきり丸の下半身を好きにさせた。
 どれほどおもちゃにされようと。どれほど好きにされようと。
 傷を残さぬことなら。
 文句を言うな。
 おまえは商品だ。
 おまえは客の好きにさせて、それでおまんま食っていくんだ。
 義父の言葉が耳の奥に甦る。
 酒の入った客のしつこさ。なぶりのねちこさが耐え難くても。
 きり丸の滑らかな尻の肌に頬をすりよせていた男が、ようやくのことに狭い肉壁に自分を押し込み、満足げな吐息を漏らす。
 芳乃の膝の上で、きり丸は必死の息をこらえている。
 客のたるんだ腹の皮が、きり丸の臀部に当たってぺちりぺちりと音を立て、客は、
「ほら、泣け、泣け」
 と突きを繰り返す。
 揺すられながら、きり丸は唇を噛み、芳乃にしがみつく‥‥。
 芳乃にとっても短くない時間が過ぎて、ようやく客が「うー」と言う声とともに、きり丸の腰をつかんで果てた。
 べたりと客にもたれかかられながら、きり丸の目頭に、つ、と光るものがある。
「‥‥ら、ん‥‥」
 きり丸につかまれた芳乃の腕には、くっきりと爪の跡があった。


 終わってみればあっさりと、きり丸は自分を取り戻した。
「おれ、もうここには来ねえよ、芳乃サン」
 異存はない芳乃だったが、聞いておきたいことはあった。
「ひとつ、聞いときたいの。らんって、いっつもアンタを追っかけてる、あの男?」
「え」
 明らかな狼狽をみせて、きり丸は逆に問い返してきた。
「なんで‥‥芳乃サン、それ」
「なに言ってんのよ。アンタがさっき一番いい時に呼んだ名前じゃないの」
「えー、ウソだろー。呼ばねえよ、おれ、あいつなんか、そんな時に」
 そしてきり丸は、乱太郎は一番仲のいい友達なのだと、言った。
 ニ、と芳乃は笑った。
「それ、あんた、気づかねどってやつよ。あんた、その子に惚れてるよ」
 ちがうよ、ときり丸は唇をとがらせる。
「乱太郎は友達だって言ってるだろ」
 言外に、こんなところの水に染まり切っているから、物事をすぐ色眼鏡で見るんだと、きり丸は言っていた。自分たちは、純粋に、ただ、友人同士なのだ、と。
「いい奴なんだぜ。すんっごいさ。あいつはさ、こういうこととは全然関係なくてさ。
ほんと、いい奴で‥‥こないだわかったんだけど、気持ちだけじゃなくて、肌なんかもすべすべで、ホントあいつは綺麗なんだ‥‥」
 おやま、と芳乃は思う。こんなところの水に染まっていながら、自分がなにを言ってるのかわかってないらしいわね、この子は、と。気持ちに惚れて、カラダにも惚れかけてるって、今自分が言ってる意味に。
 まあいいわ、これも先々の楽しみにしておきましょう、と芳乃は言って裏口まできり丸を送って出た。もう戻ってきちゃだめよ、と決まりの文句を言ってから、は、と心づいて芳乃はきり丸を呼び止める。
「うわ、まずい。俺、約束破っちまった」
「約束?」
「ほら、おまえをいっつも追いかけてる奴とさ。絶対におまえに無理に客は取らせないって約束、してたんだ」
「先生と!? いつ、そんな芳乃サンが‥‥」
「先生って、あいつ、おまえの先生?」
 ば、と慌ててきり丸が口を押さえたところを見ると、どうやらばれたくないことらしい。
「先生ってなんだよ。なに、なにかの道場とか‥‥」
 きり丸はふるふると首を横に振る。
「気になってたんだよ! なんだかおまえら、やたら身は軽いしさ。いったい‥‥」
「芳乃さん!」
 がし、ときり丸に両手を握られた。
「世の中には知らないほうがいいこともあるんです! オレも黙ってます! だから、芳乃サンも今日のことは絶対に、黙ってて下さい! 先生‥‥ほんと優しくてあったかい人なんだけど‥‥その‥‥やっぱ怒らすと怖いっていうか‥‥その‥‥墨染めの衣ななか着ちゃって、ここに来ちゃったりしたら‥‥オレ、芳乃サンに申し訳ない‥‥」
「墨染めの‥‥」
 と言えば。お寺の坊さんか‥‥あるいは‥‥。
 確かに聞かないほうがよさそうだ。
「でも、ねえあれ、ほんとにただのあんたの先生?」
「‥‥ただって言葉、好きだけど、なんかむちゃ引っ掛かる‥‥」
「だって、ふつう、あれだけ必死になってくれないわよ、先生なんかが。アンタの肉親かなにかかって、アタシ、思ったもの」
「肉親‥‥」
「もし本当に先生ならね。アンタ幸せ者よ。だめよ、もう、心配かけちゃ」
 うーん、と考え込むふうだったきり丸が、顔を上げた。
「‥‥だめかな、心配かけちゃ」
「ダメ」
 と芳乃は首を振った。
「あれだけ心配してくれる人に、心配かけちゃ、駄目」
「だって‥‥」
 きり丸は言葉を探すふうだったが、
「先生、結婚しちゃったんだぜ、勝手に」
「あら、新婚さん? それであれだけアンタのために駆けずり回ってたの? あらあ」
 芳乃が軽い気持ちで吐き出した次の言葉に、きり丸は硬直した。
「アンタ、恨まれてるわよぉ、きっと。その相手に」
「‥‥‥‥‥‥‥‥う、恨まれてる‥‥かな」
「新婚でしょ? そりゃ恨むわよ」
 うわーまずー忘れてたよすっかりーあいつ根に持つとしつこそうだよなー。本気で青くなったらしいきり丸は、しかし、すぐに落ち着きを取り戻した。
「なんだかんだ言って、とってったのはそっちなんだから、いいじゃん。恨まれる筋合いはない、うん」
 芳乃はきり丸の頬に手を添えた。
「アンタ、いい子だから教えといてあげる。先生にとって、アンタは大事な子よ。そりゃ男だもの。女ができればそっちにいい顔しちゃうもんだけどさ。それは仕方ないの。だからもう馬鹿な真似はしないのよ? いい? この次はアンタ、アンタの好きなランちゃんに顔向けできないことになるわよ」
「‥‥うん」
 うふ、と芳乃は笑ってみせた。
「でも、その気になったらいつでもいらっしゃい。アンタならいつでも高値で売ってあげるから」
「うん。落第でもしたら、また来らあ。芳乃サン、元気でね」
 手を振り合った。


「落第って、だからアンタは何者なのよってば」
 薄ら明りのなか、去って行く背に、芳乃は呟いた。

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