想い果てなく

 

 通りすがりざま利吉はきり丸の後頭部をどなぐりつけた。
 イッと顔をしかめたきり丸が、無言で抗議の目線を送ってくるのを無視する。
 もう、これで一週間だ。これぐらいの意趣返しくらいは許されていい。


 半助が厠に立ったすきに、利吉はきり丸に毒づく。
「なんだよ、おまえは。ラブラブ熱々の真っ最中じゃないのか」
 きり丸は唇をとがらせる。
「それって大人の汚い解釈じゃん。そう簡単に物事はこばねえよ」
「なんだ、乱太郎くんが嫌がってるのか」
「‥‥いや、そういう問題じゃなく‥‥」
 なら、と利吉が言いさしたところに半助が戻って来る。
「きり丸。風呂屋にでも行くか」
「うん! 行く行く!」
 ぱっと顔を輝かせるようにして立ち上がるきり丸を、利吉は知らぬ顔を装いながら、横目で見送った。


 利吉が友人の四郎と共に、きり丸をはじめとするは組と大立ち回りを演じて八日たつ。 手段はどうあれ、きり丸に自分の本当の気持ちに気づかせ、きり丸と乱太郎が特別な仲であるとクラス全員に認知させたのだから、十分な結果だったと利吉は思っていたのだが。まさか、その晩から、きり丸が半助の元へ転がり込んでくるとは予想もしていなかった。
 プロの忍びが、たとえ後に残るほどの傷は負わせなかったと言ったところで、忍たま相手に刀を抜いたとばれれば、利吉の立場は悪くなる。きり丸はそのことも十分承知の上でだろう、自分のケガを、は組内での大ゲンカのせいにした。
 だから、授業は我慢するけど忍たま長屋にはいたくない。乱太郎とも気まずいから、しばらく距離を置いていたい。そうきり丸は言って、半助に甘える素振りで「先生、おれ、ここに泊まっちゃ、だめ?」と聞いたのだ。
利吉と半助が同居に踏み切った際に自棄を起こしたきり丸が体を売り、夏休みも半助の家に寄り付こうとせず、いかがわしい色子宿に寝泊まりしていたのは記憶に新しい。
その上に、子供の域から大人の域へと変わりつつあるきり丸は、秋休み、冬休みと半助のもとで今まで通りに過ごすようにはなったものの、自分というものが出来つつあるのだろう、どこか半助との間に線を引くようなところが見えるようになった。
  おおっぴらにはしなくても、半助がどこか寂しげな色を浮かべて、
「親離れの時というのがあるんだなあ」
 などと嘆息しているのを利吉は聞いたことがある。
 そんな経緯があったうえでの、きり丸の「泊まらせて」のお願いだ。
 学園の規則違反になると、一応はしぶってみせたものの、半助は喜んできり丸の申し入れを受け入れ、今日にいたる。
 利吉にしてみれば、いまさらきり丸を恋敵として憎く思う気持ちはないが、一年を通して自宅から勤めに出るとは行かない身だ。こうして仕事と仕事の合間に、半助と過ごせる時間は貴重である。はっきり言って誰にも邪魔されたくない。
 きり丸が泊まりに来るのは勝手だが、どうせなら、自分が仕事に出ている間にしてほしい。‥‥いや、それはそれでちょっとひっかかる部分もあるのだが。
 朝、布団を上げているきり丸の足を踏み付ける。
 ‥‥これぐらいの意趣返しは、許されていいのだ。


 それにしても。
 なぜだ、と利吉は首をひねる。
 なぜ、きり丸は忍たま長屋に帰りたがらない。なぜ‥‥乱太郎を避ける。
 利吉は土井が当直の夜をねらって、その疑問をただすことにした。
 筆の先を嘗め嘗め、宿題に首をひねっていたきり丸が、ため息とともに筆を置いたところで、切り出す。
「おい。なにが問題だ」
「‥‥双忍の術と水月の術を組み合わせる場合の注意点」
「‥‥誰がそんなことを聞いている」
「あれ、教えてくれるんじゃないの」
 そう言ってきり丸はさりげなく座を立とうとした。
 ごまかす気だ。
 利吉はきり丸の腕をつかんだ。
「座れ。‥‥いいか、ちゃらかすな。なぜ長屋に帰らん」
「‥‥‥‥」
「‥‥おまえは乱太郎のことが好きなんだろう」
 瞬間、きついほどの眼差しを、きり丸は利吉に向けた。利吉はその視線を受け止める。
「好きなんだろう」
 睨み合うような数秒が過ぎた。
 視線をはずしたのはきり丸だった。どすんと音立てて、浮かしかけていた腰を下ろす。
「‥‥好きだよ」
 嫌いだ、と口にするのと同じ苦さを含んで、きり丸は答えた。
「好きだよ。‥‥おれはあいつが、好きだ‥‥」


「いったいなにが問題なんだ。好きなら好きでいいだろう。さっさと長屋に戻れ」
「‥‥戻れねえよ‥‥」
 うなだれてきり丸は答える。
 利吉は眉を寄せる。
「‥‥ワケがわからんな」
 きり丸は首を横に振る。
「‥‥おれ‥‥あいつが好きなんだ。‥‥おれ‥‥あいつの近くにいると‥‥あいつに口づけて、抱き締めたくなって‥‥」
「好きなら当然だろう」
「‥‥いやだよ、おれ‥‥」
 またもきり丸は首を横に振った。あげた顔が、苦しげだ。
「おれ‥‥あいつにそんなこと、したくない。おれ‥‥おれ‥‥乱太郎を抱きたいんだ。あいつを裸にして、おれも裸になって‥‥抱き合うだけじゃない。‥‥おれは、あいつに‥‥あいつを‥‥」
 言い淀んで切れた言葉の先が、利吉にはわかる。 乱太郎に、挿れたい、あいつを、自分のものにしたい‥‥。
「だから」
 静かに、利吉はきり丸の顔をのぞきこむ。
「それは好きなら、当然だろう?」
 きり丸は、いやだ、と吐き出す。
「おれ、乱太郎にそんなことしたいおれが、嫌だ。おれ、嫌だ。‥‥あんな、あんな、嫌な思いを乱太郎にさせたいなんて‥‥嫌だ‥‥!」


 誤って人の傷口に触れた思いで、利吉は息をのむ。
 うなだれたきり丸が地に向かって叫びを上げる。
「嫌なんだ!」
 と。
「‥‥あんなふうに‥‥からだ中、いじられて‥‥ひっくり返されて、いいように使われて‥‥人が苦しむと喜ぶ、痛がれば笑う‥‥いやなんだ‥‥いやだったんだ、ずっと‥‥なのに、なんで‥‥なんで、おれは乱太郎にそんなことがしたいんだよ‥‥!」
 利吉は唇を湿らせる。そしてようやく、声を押し出す。
「‥‥ちがうだろう‥‥? おまえがされたことと‥‥おまえが乱太郎にしたいことは、ちがうだろう?」
「なにがちがうんだよ」
 きり丸が上目使いににらんでくる。
「チンチンを尻に突っ込む。同じじゃねえか。‥‥同じなんだ、おれは。あいつらと」
「それはちがう」
 きっぱりと利吉は言い切る。
「情欲のはけ口にして、相手の意思もかまわず事をしたり、金で買った相手を好きにするのと‥‥好き合う同士が抱き合って情を交わすのは、全然、別のことだ」
「‥‥乱太郎‥‥」
 きり丸は再び顔を伏せてしまう。
「‥‥おれが、寄ると‥‥怖がる。‥‥わかるんだ。目の色が‥‥怯えて、かたくなって‥‥。おれ、たまんねえんだ。あいつにそんな顔させるの‥‥おれだって‥‥怖かった、逃げたかった、やめてほしかった‥‥怖くて、怖くて‥‥痛くて‥‥」
 乱太郎の怯えたさまに、過去の自分がだぶる、ときり丸は呻く。
「‥‥おれ‥‥なにをしようとしてるんだって思う。でも、あいつといると‥‥おれ、あいつが欲しくて‥‥」
 たまらない、と髪の間に手を突っ込んで握り締め、顔を膝の間に埋めてしまったきり丸を見つめながら、そっと利吉は詰めていた息を吐き出した。
 きり丸の言うことはわかる。‥‥しかし。きり丸は自分が何を望んでいるか、わかっているのだろうか。きり丸は初体験を前にしながら、乱太郎に緊張もせず、笑っていてくれ、と言っているのも同じだ。
 しかし。性的な被害者でありながら、その傷を今まで他人に見せたことのないきり丸が抱えていた嫌悪感が、好きな相手を前にして足踏みをさせている、それはなんとかしてやりたいと利吉は思う。
「‥‥なあ‥‥きり丸。確かにな‥‥おまえの言うようにチンチンを尻に突っ込むのは同じでも、でも、全然、ちがうだろう? それは‥‥相手を傷つける暴力にもなる、精を吐き出すためだけのことでもある、一方的に自分が満足する手段としてな‥‥でもな。同じことをしても、好き合うためにするのは、全然、ちがうだろう? 好きだから、相手が大事だから、自分の全部で相手にぶつかりたいんだ、受け止めてもらいたいんだ。‥‥そして‥‥相手も自分を好きでいてくれるから、全部を許して受け入れてくれるんだ。それは暴力でも快楽でもないぞ。好き合うから、抱き合うのは‥‥当然だし、悪いことじゃないんだぞ」
 きり丸は小刻みにうなずいた。
「‥‥うん。わかる。‥‥わかるんだけど」
 上げた瞳がかすかに、うるんでいる。
「頭ではわかるよ。‥‥でも、おれ‥‥いやな思いしか、したことないんだ」


 いやな思いしか、したことがない、ときり丸は言う。
 橋の下で、職もなく日銭稼ぎでようよう日を送る男たちの鬱憤晴らしにされていた時も、親切の代償に好きにされていた時も‥‥自棄を起こして自分で自分の体を金に代えていた時も。
 本当はいつも嫌だった、と。
 そして、つらい思い出話を語る中で、ぽろりとこぼした。
「‥‥おれ‥‥一度だけ、先生にさせようとしたことがある」
 なに、と目をむきかける利吉である。が、眼前のきり丸の、自分が漏らした言葉とそれを言った相手との関係が、今はわかっていないらしい様子に、口をつぐんだ。
「学園に入ることが決まって、初めて土井先生のうちに泊まった日だった‥‥先生、すごく優しくて‥‥おれ、その優しい人が今までの奴らみたいに、いきなり変なことしだすのが嫌で‥‥だから、自分からいいよって言ったんだ。そしたら‥‥そしたら、先生、泣いてくれたんだ。そんなこと、しなくていいんだって。嫌ならそんなことはしなくていいんだって。先生‥‥泣いて」
 一度は飲んだ言葉があったが、今度は利吉は我慢がならなかった。
「‥‥おまえ、よく‥‥それでよく、半助に当てつけがましく体を売るなんてマネができたな」
「だって」
 と顔を上げたきり丸の瞳が、剣呑に光った。
「先生なんか苦しめばいいと思ったんだ。おれなんかどれだけぐしゃぐしゃになってもかまわない。なにもかも、もうなんでもよかった。‥‥半助なんか、苦しめばいいって思ってたよ、その時は、本気で」
 きつい台詞を口にしながら、その瞳がまた苦渋をはいて、揺れた。
「‥‥でも‥‥おれ、一度でいいから、先生に抱かれとけばよかったって、思うよ。‥‥先生なら‥‥おれを‥‥おもちゃみたいに酷くしたり、便所みたいに、道具みたいに使ったり、もとをとらなきゃ損だって‥‥客なんだからって威張って無理させようなんて、そんなことせずに‥‥抱いてくれたかもしれない‥‥。一度くらい、いやじゃなく‥‥そんなのが、一度くらい、あれば‥‥」
 一度だけでいい。モノ扱いではなく、大事にいとおしまれる経験が欲しかった。
 そう言って、再び顔を伏せてしまったきり丸を、利吉は見つめた。
 過去の、喜ばしくない性体験のせいで、今、好きな相手に感じるまっとうな性衝動すら自分に認めてやれない辛さを吐露したきり丸を。
 見つめるうちに、口が動いていた。
「‥‥なら、俺が抱いてやろうか」
 口に出すと、それが自分にとっても自然な提案であるのが意外だったが。え、とまじまじと自分を見返したきり丸に、利吉は言葉を重ねた。
「情欲の捌け口でもなく、使い捨ての商品でもなく‥‥抱いてやろうか」
 と。
 きり丸の驚きを含んだ視線を、利吉は静かな面持ちで受け止める。
 抱いてやれると思う。それは同情かもしれないし、間違っても恋心ではないけれど。慈しんで大切に、肌を触れ合わせるぬくみを感じながら、抱いてやることは、できる。
 利吉の気持ちをその目からくみ取ったのか、きり丸の表情が、初めて、笑みの形に似たものを浮かべた。
「‥‥うん‥‥でも、やめとく」
「‥‥そうか」
「うん。おれさ、土井先生にだけ一途なあんたって、けっこう、気に入ってるんだ」
 利吉も笑みを浮かべた。
「そうか」
 そしてきり丸は、利吉に対して初めて、その台詞を口にした。ぽつっと小さく。
 ありがと、と。


 なにもしてやれることはなかった。
 結局、それはきり丸が自分で‥‥あるいは乱太郎と二人で、解決せねばならないことなのだ。
 が、次の夜、利吉は土井と自分の布団をくっつけて伸べた。
 おやすみを言い合ってきり丸の夜具を用意してある部屋と、ひとつ奥の土井と利吉のやすむ部屋との境のふすまを後ろ手でしめて、声をひそめずに言った。
「今夜はいいですか、半助」
 い、と土井が顔を強ばらせる。
 挨拶を交わしたばかりのきり丸は、まだ起きている。
 きり丸が泊まる夜でも情を交わしたことはあるが、それはもっと夜も更けてから、静かに音忍ばせて行うことだったから。
 隣の部屋を気にする土井に、利吉は手を伸ばした。
「‥‥好きです、半助。好きだから、あなたを抱きたいんです、今夜」
 二人きりの時に口にするように、声をひそめず、利吉は告げた。
 土井はしばし、向かい合う利吉の顔を見つめ、それから隣の部屋を区切るふすまを見つめた。──きり丸が夜をこちらで過ごすようになって十日になる。いくらケンカを理由にしていても、クラスの雰囲気や生徒の言動から、別の理由があるのだろうと怪しむに足る日数だ。‥‥土井はなにを察したのだろう。
 利吉を振り仰いだ目がなごんでいる。
「‥‥わたしも、君が好きだよ」
 ささやき声ではないその応えは、二人きりの時には、やはり自然なもの。
 ‥‥いつもの流れにまかせて‥‥口づけあった。
 利吉の愛撫に上がる土井の声は、さすがに押しひそめた色が濃かったが。
 利吉はかまわなかった。好きです、繰り返して、まさぐる手に、唇に、舌に、熱を込める。
「‥‥ん、‥‥ああっ」
 殺そうとしていても、上がる土井の声は喜色に彩られ、利吉のさらなる抱擁を求める腕は睦みの気配を濃くする。
「り、きち‥‥」
「半助‥‥好きです‥‥」
 抱き合う腕に、力がこもる。腰がはね、腰がうねる。
 これは、なにも、悪いことじゃないんだ‥‥。
 かけらでも、この熱をわからせてやりたい、と利吉は思う‥‥。


*      *       *        *        *         *          *


 好きだと言われたけれど、ほんとは嫌われたのか、と最初、乱太郎は思った。
 きり丸は土井先生のところに泊まるようになって、部屋に帰って来なくなかったから。
 避けられていると思うのは愉快なことではなかった。
 しかし、教室で校庭で、きり丸に話しかければ今まで通りに返事があったし、なにより、気にかけてくれている、いつも視界の中にとらえていてくれる、そんな気配があったから、乱太郎はすぐにその馬鹿な解釈を打ち消した。
 そして、気づいた。
 きり丸が避けているのはふたりきりになることだ、と。
 とにかくきり丸は放課になるとすぐに姿を消してしまって乱太郎との部屋には一歩も踏み入れなくなったから、長時間、ふたりきりでいることは全くなくなってしまったけれど。それでも、授業で使う物品を取りに用具室に行ったり、ふとした拍子に教室で二人きりになることはあった。
 そんな時。
 空気はその密度を増す。
 きり丸は努めてほかに注意をそらそうとし、なにか話題を作ろうとするけれど。
 その試みはいつも失敗する。
 乱太郎の方もそうだった。二人きりを意識するまいと思えば思うほど、ついこの間の口づけが、感触も雰囲気も生々しく脳裏によみがえる。
 そして‥‥その時と同じ。きり丸の視線が絡んで、その気配が重く固くなって。
 また口づけられるのかと、乱太郎は思い、緊張にからだが強ばる。とたんにぎこちなくなる自分にきり丸は何を思うのだろう、部屋を飛び出して行ってしまう‥‥。
 一度だけ、棚の在庫を気にしていた乱太郎は、後ろからきり丸に抱きすくめられたことがあった。体にまわった両の腕に、ぎゅっと力がこもって。顔の脇に、きり丸の顔が押し付けられて。
 その突然の密着に、乱太郎は柔らかく対処する術を知らなかった。決していやだったのではないし、怒る気持ちもなかった。が、乱太郎の身体は慣れぬその抱擁に、まず、すくんだのだ。
 全身が縮むようなその反応に、きり丸は傷つきでもしたのか。
「‥‥ごめん!」
 短く言い捨てて、やはり用具室を飛び出てしまった。
「‥‥ちがうよ‥‥」
 一人になって乱太郎は力なく呟いた。
「ちがうよ‥‥」
 でも、なにがちがうのだろう。なにを言えばいいのだろう。乱太郎にはわからない。
 好きだと言われた。口づけた。その後すぐに避けられて。
 抱きすくめられて。また、逃げられて。なにが自分たちに起きているのか、自分の気持ちがどう変わっているのか、乱太郎にはわからない。きり丸と話し合えばいいんだろうか。‥‥なにを、どう、話せばいいのだろう。第一、自分はなにをきり丸に伝えればいいんだろう、伝えたいんだろう‥‥?
「きり丸‥‥」
 乱太郎はひとり、友の名を呼ぶ。


 日はぎこちなさのなかに二人を取り残して過ぎ、季節は確実に春の暖かさを運び、四年の三学期は終わった。
 春休み。
 たかが二週間余。しかし、その休みが始まってすぐに、乱太郎はその休みの長さに悩まされることになった。‥‥きり丸が、いない。家へと帰るために学園の門をくぐった時から、乱太郎はなにかが欠ける寂しさを感じ、それは時が経つにつれて強くなった。
 きり丸に会いたい。
 無性にそう思った。
 十日やそこら、夏休みならもっと長い期間、顔を合わさないことはざらにあった。
 今までは平気だったのに。
 吹く風に、彼の人の声を聞き、梢の影に、彼の人の姿を見た。
 一度くらい来ればいいのに。
 今までにあったように、バイトの都合で不意に訪れてはくれないか、と乱太郎は待つ。
 軒先に父母以外の人の声がすればきり丸の声に聞こえ、林を抜けて来る人影があれば、きり丸かと胸が躍った。
 不思議だった。
 なんでこんなに会いたいんだろう。
 一日の終わりは、今日もきり丸は来なかったと当たり前の結果に落胆して、布団に入る。布団に入れば‥‥この半年、きり丸が触れ続けた腕が、足が、妙に薄ら寂しい。きり丸の息さえかかるほどの距離で、愛撫された腕と、足と、髪。もう一度、あのあったかい手で触られたいと思い、思ったことに乱太郎は一人で赤面する。
 これじゃあ、きり丸に会いたいんだか、触られたいんだか‥‥。
 布団の中で膝を抱えて丸くなりながら、乱太郎は胸の中の人に問いかける。
 きり丸はわたしに会いたくない? もう、わたしに触りたくない?
 きり丸の面影は、黒い髪を揺らすばかりだった。


 後一日というところが、我慢の限界だった。
 どうせバイトに血道を上げているだろうきり丸が学園に来るのはいつもの通り、新学期の始まる当日の朝ぎりぎりだろうと思いながら、このまま家で悶々としているよりいいだろうと、乱太郎は春休みの終わる一日前に家を出た。
 ‥‥確実なのは。
 土井先生の家を訪ねることだとわかっていたが。
 なぜかそれはためらわれた。
 土井先生に会って、きり丸のバイト先を教えてもらって、あるいは、土井先生といるきり丸に会って、話をする‥‥。なぜかそれがいやだった。
 きり丸に会いたい。それはじりじりと胸焦がすほどに。
 しかし、どうしても乱太郎は土井の家にきり丸を訪ねる気にはなれなかった。
 それぐらいなら。
 もう一日。明日になればきり丸が来るのは間違いないのだから。
 家で待つよりは近い気がして、乱太郎はまだ誰もいない忍たま長屋に戻った。
 しん、と冷えて静かな廊下を行き、自室の戸を開けた。
 すうっと風が通ったのが不思議で顔を上げれば。
「乱太郎‥‥」
 信じられないように驚いた顔をしたきり丸が、窓辺から振り返った。


「きり丸‥‥」
 会いたかった。会いたかった。
 会いたかったのに会えなかった時間の埋め合わせに、視線はきり丸の顔に張り付いて動かなくなってしまった。
 同じように乱太郎の顔に視線を張り付かせていたが、きり丸のほうが若干早く、驚きを処理できたようだ。
「‥‥どうしたんだよ、おまえ。一日間違えてんじゃん」
「‥‥き、きりちゃんこそ。いっぱいいっぱいまで、バイトじゃないの」
「え‥‥あ、バイト。うん、まあ、予定の分は稼げたし‥‥」
「へえ、そう、すごいねえ」
「うん‥‥」
 この場合に自然な言葉ばかりを選んでいるはずなのに、会話は妙な不自然さに満ちて、すぐに途切れてしまった。
「‥‥あ、そうだ」
 途切れた会話を続けるきり丸の声がまた、不自然に上ずる。
「おまえ、食堂のおばちゃんとこ、寄った?」
「え、あ、まだ」
「あー、じゃあ、おれ、今日の夕飯、頼んで来るわ。ついでに風呂はどうなってるか、見て‥‥」
「うん‥‥」
 うなづいて、きり丸の背を見送りかけた乱太郎は、不意に襲った感情に、声を上げた。
「きり丸!」
 呼び止められただけのきり丸がびくりとした。
「‥‥きり丸」
 乱太郎はその背に向かって、言った。
「もう逃げないでよ」


 もういやだと、思った。待つのも、こんな風に背中を向けられるのも。
 会いたかった、近くにいたかった。
 それも伝えられずに、また避けられるのは、いやだった。


「きり丸」
 振り返らぬ背中に問いかける。
「どうしてわたしが一日早く帰って来たのか、聞かないの? 理由、知りたくないの?」
 振り返らぬ背中に、言葉を重ねる。
「わたしは知りたいよ。きりちゃんがどうして一日早く戻って来たのか。どうしてわたしを避けるのか、知りたいよ」
「‥‥乱太郎‥‥」
 振り返ったきり丸を乱太郎は見つめ、ゆっくりとさらに言葉を継いだ。
「‥‥わたしはね‥‥きり丸に会いたかったんだ。とっても、とっても。会えないのが、すごく寂しくて‥‥だから、一日早く戻って来たんだ。きり丸が学園に戻って来たら、すぐに会えるように」
「らん‥‥」
 乱太郎はきり丸を見つめる。次は、きりちゃんの番だよ‥‥。
「‥‥おれも‥‥おれも、同じだ‥‥。‥‥おまえに、会いたかったから‥‥」
 気弱げに消える語尾。なんのためらいか、なんにきり丸が怯じているのか、それはまだわからないけれど。乱太郎はひとつ大事なことを聞いた、と思う。
「じゃあ‥‥同じだよね。わたしたち。会いたくて、ふたりとも今日、ここに来たんだ」
 きり丸に向かい、乱太郎は腕を伸ばした。
「ねえ‥‥きりちゃんは、もうわたしに触りたくない?」
 半歩下がりながら、きり丸の目は、自分に向かって差し伸ばされた、着物からのぞく白い腕に吸い寄せられる。
「‥‥ねえ、触りたく、ない?」
「だめだ‥‥!」
 ぐっときり丸は顔を背ける。
「なにが、だめなの」
 萎えそうになる気持ちを励まして、乱太郎は声を上げる。
 聞かなきゃいけない、と思う。あれほど悶々と過ごした夜があったのだから。寂しかった、あの肌の冷たさは、きり丸に伝えなきゃいけない、と思う。
「きり丸はわたしに触るのが、もう嫌になったの? わたしは‥‥きりちゃんに触られたいと思うよ。‥‥きりちゃんの、近くにいたいよ」
 伝えたいことを伝えるのに、なぜ、足が震えてくるのだろう。差し伸べた指先まで震えては、きり丸に嘘をついていると思われてしまうのに。
 きり丸が顔を上げた。その瞳が、常の気の強さを取り戻して光った。
 ずい、ときり丸が近づいてきて、乱太郎は思わず引きそうになるのをなんとかこらえたが、次の瞬間には、肘のあたりをつかまれて、きり丸に抱き寄せられていた。
「‥‥じゃあ、おまえ、平気かよ‥‥おれに近寄られて、おれに‥‥口づけられて。おまえ、平気かよ」
「へ、平気‥‥」
「嘘つけ。今だってびびってんじゃねえかよ」
 乱太郎は頭半分高いきり丸の顔を、間近に見上げた。
 黒目がちの、大きな瞳。‥‥きれいだよね、きりちゃんって‥‥。
「‥‥びびってるけど‥‥でも、うれしいよ」
 自分を見つめる瞳に向かって、乱太郎は本心からの言葉を紡ぐ。
「こわいよ‥‥どうしていいかわからなくて‥‥ドキドキするよ‥‥でも、いやじゃない。いやじゃないよ、きり丸‥‥きり丸に触られるの、気持ちいいよ‥‥」
 さらに、言葉が流れ出ようとしていたのに。
 その言葉は吸い取られてしまった。
 きり丸の、唇に。
 だから、絡んでいた舌がほぐれ唇が吸うのをやめて離れていった時に、乱太郎はその言葉を改めて口にした。
「好きだよ、きり丸」
 そうだ、と乱太郎は納得する。‥‥一番、伝えたかったのは、この言葉だ‥‥。


*      *       *        *        *         *          *


 新学期が始まって、利吉には平穏な日々が戻って来た。‥‥つまり、誰にも邪魔されない半助との生活が、だ。
 そうなって逆に今度は仕事が立て込み、くそ、と思ってみたりもする。
 それでもその仕事の合間に、五月の薫風の中、忍術学園に行ってみたのはやはり、きり丸のことが気掛かりだったからだろう。‥‥もちろん、半助の顔を見に寄るついでだが。
 実技授業の途中、言葉を交わす乱太郎ときり丸を見る。
 食堂で並んでご飯を食べている二人を見る。
 どうせだから、夜中の二人も見てやろうかと思ったが、阿呆らしいのでやめておいて、かわりに放課の図書室で、本の整理をしていたきり丸の後頭部を、どなぐってやった。
「って!」
 頭を押さえるきり丸に、
「修行がたりんな。敵だったら首を落とされてるぞ、おまえ」
 とうそぶく。
 どっから湧いて出るんだか、とぶつぶつ言うきり丸の額を、さらに弾いた。
「色ボケしてるんじゃないのか。‥‥いい雰囲気じゃないか、乱太郎くんと」
 きり丸はちょっと顔をしかめて見せる。
「‥‥それって大人の汚い解釈だよ」
「まだそれを言うのか、おまえは」
 だってさ、と軽く舌打ちしてうつむき加減になるきり丸に、利吉は問題がまだ解決しきってはいないことを悟る。
「‥‥やっぱり、いやか」
「‥‥いやってんじゃ、ないけど‥‥」
 言い淀みかけたきり丸は、しかし、すぐに顔を上げた。
「でもさ、おれ、今のままでも十分だと思うんだ」
「ふむ」
「おれたち、好き同士なわけじゃん。好き同士さ‥‥無理しないで一緒にいられれば、それが一番じゃん」
「まあ、そうだな」
「おれ‥‥あいつといて、あいつとくっついてるだけで、もう、十分っていうか‥‥」
「‥‥そうだな」
 利吉は改めてきり丸を見る。
 ずいぶんと背も伸び、体格も出来ては来ているが。子供ではないが、大人でもない。やはり落ち着きどころのない青臭さをこいつも持っているのか、利吉は思う。それが一過性の、不安定な状態でしかないと、きり丸は知っているようにも思うのだが。
 でも、ここから先はきり丸自身の問題だ。
 ぽん、と利吉はきり丸の頭に手を置く。
「しんどくなったら、来いよ」とでも言ってやるつもりで。
 が。
 利吉が口を開く前に。
「あれ。利吉くん、来てたの」
 奥まった書棚の、さらに一番壁際で、利吉ときり丸、ふたり立ち、さらに、利吉の手はきり丸の頭の上‥‥その状況で、掛けられた声に恐る恐る振り返れば、通路には土井が世にも恐ろしい「にっこり笑い」を浮かべて立っていた。
「‥‥あ‥‥あ、ち、ちがうんです、半助。こ、これは、ですね‥‥」
 あたふたと言い訳めいた言葉を口にする利吉に、土井は笑みを崩さない。
「来てたんなら、声をかけてくれればよかったのに」
「え、も、もちろん、そのつもりでした!」
「つもり」
 たった一言で、どうしてこの人はここまで見事に相手を追い詰められるのだろう‥‥。利吉は感心しながらも言葉が出ない。
「悪かったね、話の邪魔をして。大事な用事がすんだら、後でいいから、山田先生にもご挨拶しておくといいよ。気にかけてみえたからね。もちろん」
 にっこりとさらに穏やかに土井は言い放った。
「君は最初から、その“つもり”だろうけどね」
 そしてすうっと書棚の陰に見えなくなった土井を、利吉はあわてて追った。
 ふう、と一人になったきり丸はため息をつく。
「‥‥やっぱ、おれは今のまんまがいいなぁ‥‥」


 利吉に言った言葉にウソはない、きり丸は断言できる。
 今のままで十分、幸せだ。
 満ち足りている。
 春休みの最後の日に、互いに求め合っていると、互いに知った。
 許された唇は、あまく柔らかで。
 触れたくて焦がれていた肌は、なめらかで。
 口づけて、触れ合って、抱き合って。
 着衣が不自然に思えて、脱いで。
 ほとんど裸に近い状態で抱き合い、素肌を触れ合った。
 肌寄せ合うあたたかさと気持ち良さにひたって。
 見上げてくる乱太郎の瞳が優しげで、ささやいてくれる言葉がうれしくて。
 もう、なにもいらない、と思った。
 それは今も、変わらない。


 髪をすくって、鼻を埋める。
 かすかに日の名残を感じさせるその匂いは、乱太郎に似合う。
 同じように髪をすくわれて、笑みがもれる。
「‥‥きりちゃんの髪、さわると気持ちいい」
 さらさらして、ほら、流れるよ、と乱太郎はきり丸の髪をすくっては流して、笑う。
 ──互いの下帯を取り、その全身に触れ合ったのは、いつだったっけ。
 最初は、勃ちあがっていると知られるのも恥ずかしがっていた乱太郎も、それが許せない汚い領域に近い行為のような気がして、どうしても乱太郎の手を拒まずにいられなかったきり丸も、今では互いの高ぶりに手を添えて、互いに快感の吐精を導くのに、ためらいはない。
「なんで恥ずかしがるんだよ、おれは嬉しいよ。おまえがさ‥‥おれ相手にこうなるの」
 きり丸はそう言った。自分でも不思議だったが。自分相手に勃起するものを見て、うれしいと思ったのは初めてだった。それでも、自分のものに乱太郎が手を伸ばしてくるのには抵抗があったけれど。
「きりちゃんに‥‥触ってもらうの‥‥気持ちいいよ。自分が気持ちいいから、触りたいの、おかしい?」
 言葉ではっきり過去の嫌な思いとためらいを話したわけではないが、肌を合わせ、言葉を交わす中で、きり丸の踏み出せぬ理由をおぼろにだろうが理解しているらしい乱太郎は、そんな言葉できり丸のものを求めた。
「‥‥なんだか‥‥でも、ものすごく‥‥ドキドキするね‥‥」
 堅く大きくなって天を向く若茎を互いの目にさらした時に、乱太郎がかすれる声でそう言った。
 肌とは違う、柔らかな粘膜で覆われながら、体の外部に突出したその器官が充血したさまは、きり丸の嫌悪する生々しさを思い出させもしたが、おずおずと互いに伸ばし合う手と乱太郎の言葉が、それは強制された今までのこととはちがうと教えてくれる。
 ‥‥そんなふうに。
 あの春休みの最後の日から、自分たちは互いを愛撫して慈しみ合うことを、ひとつひとつ、学んできたのだ。 恥じらいを、ためらいを、ひとつひとつ、互いに拭い去りながら。
 だから‥‥十分、しあわせだと‥‥。
 利吉に言ったのに、ウソはない。
 ないけど。
 乱太郎。
 きり丸は自分のものが、堅く充血するわけを知っている。
 気持ちいいから。
 抱き合うのがうれしいから。
 それも、そうだけれど。
 自分の全部でぶつかりたい、自分の全部を、受け止めてもらいたい‥‥好きだからこそ。そう語った利吉の言葉に、今ようやく、きり丸はうなづくことができる。
 乱太郎の手が、絡んでくる。たどたどしく、懸命な、その愛撫。
 目を閉じて、与えられる律動に酔う。
 ‥‥酔おうとするけれど。
 体の、奥底が、熱い‥‥。
 その熱は、乱太郎の内部の熱を知りたがって、疼く。
 ‥‥乱太郎。おれは‥‥。


「おまえと、ひとつになりたい」


 きり丸が言った。
 いつものように、裸で抱き合って、口づけをかわしていた時だった。
 ‥‥こうして、抱き合って互いを愛撫しあいながら、いつかは言われると思っていた言葉だった。‥‥いつかは、きり丸が、自分を怯じさせ、ひるませずにはおかない、あの絡み付くような視線とその重さを取り戻すだろうと‥‥あの、怖いほどに真剣ななにかを、取り戻すだろうと‥‥思っていたけれど。
 いざ、その言葉を口にされ、上からきつい目で見つめられて。
 乱太郎は今までのように返事を口にすることが、できなかった。
 笑って腕差し伸ばし、「いいよ」と答えることが、できなかった。
 下腹部にあるきり丸のものが、熱く脈打っている。
 それは‥‥乱太郎の手を待っているのではなく、乱太郎の身を貫き、乱太郎の身内に深く抉りこむための‥‥熱さと堅さに脈打っている。
 いちどきに、口の中が渇いていく。
「おまえと、ひとつになりたい」
 きり丸が繰り返して、抱き締めてくる。
 頬が触れ合う。‥‥熱があるの、きり丸、熱いよ‥‥熱いよ、きり丸、ほっぺたが熱い‥‥肌が熱い‥‥ソコが、熱い‥‥。
「‥‥だめか? いやか? 乱太郎‥‥いやか?」
 そんな‥‥泣きそうな声で、そんなこと、聞かないでよ。
 ずるいよ。こんなふうに、逃げられないように上から押さえ付けてるくせに、そんな切なそうな声で、そんなこと聞くの。ずるいよ、きりちゃん‥‥。
 近くにいたい、寄り添い合いたい、抱き合って素肌の心地よさを分け合いたい‥‥その行き着く先に、それがあるのは知ってるよ‥‥知ってるけど‥‥まだ怖い。
「きり丸‥‥」
 間近で瞳を見つめ合った。
 ‥‥まだ、怖い‥‥。
 そう思っていたのに。
「だいじょうぶ‥‥いやじゃ、ないよ‥‥」
 乱太郎は、自分が答える声を聞いた。
 だから、きり丸、そんな目を、しないで。


 固い肉棒を押し付けられる圧迫に、まず、体がこわばった。
 ぴしっと裂ける痛みに、反射的に身がよじれた。
 上から抱き締める形で乱太郎の自由を奪っているきり丸は、しかし、すぐにまた、すぼんで小さな入り口を見つけて、自身を押し付けてくる。
 ぴりりと裂ける痛みに、押し広げられる重い圧迫感と痛みが加わり、乱太郎はアァッと声を上げた。
 いたい‥‥いたい。
 その痛みが、まだほんのとば口のものであるのが、本能的な恐怖すら呼ぶ。
 ‥‥入って、来る‥‥入って。
 固くて大きなものが、自分を引き裂きながら入ってくる。
 うわぁっ。あっ。あっ。
 断続的な叫びを漏らしながら、乱太郎はなんとか逃れようと必死になった。
 固いものが、腹部を押し入ってくる‥‥からだの中心を穿ってくる‥‥。
 耐えられぬと思うほどに、飲みこまされた口はいっぱいに広げられてピシピシと裂け続け、同時に、からだの奥深くまで突き行ってくる重い塊が、脳天にまで響く痛みと灼熱感をもたらす。
 背中ごと反らせて、乱太郎はこらえきれぬ声を上げた。
 そこが、きり丸を受け入れたそこが、からだのすべてになったような感じがした。
 手で握っていたそれよりも、遥かに大きくて圧倒的なものが体内にあるような、からだの半分まで、きり丸が入って来ているような、そんな気がするほどの、痛みと被侵入感。
 そこに心臓があるように脈が感じられると気づいたことで、乱太郎は、自身のすべてをきり丸が埋没しおえたことに気づいた。
 優しい手が、額にかかる髪をかきあげ、頬を撫でて行く。
 乱太郎は、なんとか目を開けた。
 眼前に、きり丸の顔がある。
 ‥‥なんで、きり丸も汗かくの‥‥なんで‥‥きり丸も、そんな痛そうな顔‥‥。
 ああ。きりちゃんも痛いんだ。
 ‥‥不思議だね。きりちゃん、さっきはわたしより怖がった目をして、今もわたしより痛そうな顔をしているよ‥‥。
 大丈夫だよ、と言ってあげたいけど、それはちょっと嘘になる。
「‥‥きり丸‥‥」
 やだな。声が掠れてる。ちゃんと伝わる?
「きり丸‥‥好きだよ。大好き」
 ああ。腕を上げて抱き締めたいのに。なんだか、力が入らない。とにかく痛すぎるんだ、これは。でも。伝わるよね? 頬を撫で返した、わたしの手の意味。
「‥‥好きだよ‥‥」
「乱太郎‥‥好きだよ、おまえだけ‥‥ずっと」
 乱太郎を抱き締めようとするきり丸の動きが、もう一度、乱太郎に喉の奥から悲鳴を上げさせた。

抱きしめ合って、口づけよう。
ささやきに乗せて、告げ合おう。
好きだよ、好きだよ。
想い、果てなく。

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