資質と経験。
このふたつが、特にものを言う。そう‥‥色事では。
「‥‥なんでかなあ」
口をとがらせて、ちょっと拗ねたような乱太郎に、きり丸が、ん?と聞き返す。
「今日もさあ、山田先生に注意されたんだ。頭巾から髪が出てるって。きのうも土井先生に襟元はきちんと締めろって注意されるし‥‥剣術の時間だって、戸部先生、わたしにだけ、厳しくない?‥‥なんでかな、そんなにわたし、たるんでるように見える?」
「‥‥いや‥‥」
この自覚のない、大事な親友兼深い仲の恋人に、事実を告げたものかどうか、きり丸は瞬間迷う。
「まあ、そりゃ、あれだろ。五年生ももう終わりだろ、次は最上級生なんだから、厳しくもなるんだろうさ」
「でも、そんなの、皆も同じだろう?わたしだけ注意されるの、おかしいよ」
拗ねた表情で、上目使いにきり丸に訴える乱太郎。その目元に、口元に。
なんでかな、と首をかしげるその仕草に。
同室なのをよいことに、夜な夜な乱太郎を独占しているきり丸でさえ、くらりと来るような色気が漂う。
いろっぽすぎるんだよ、おまえ。
そう教えてやりたいのはやまやまだが、これで自覚が生まれたらもっと怖い、と、きり丸は事実を伏せた。
痛い。
土井はしくしくする胃を押さえる。ここ何年かは治まっていたのに。この半年でしっかりぶり返してしまった土井の神経性胃炎である。原因は‥‥原因は‥‥。
思い返すだけで痛む土井の胃。
くのいち教室とは隔絶された、男ばかりの教室、長屋で、これまでにも生徒同士の色恋沙汰は数々あったが、こう、なんというか、あからさまに、周囲にまで色気の飛ぶ生徒は今までいなかったような気がする。
猪名寺乱太郎。今では、その名を聞いただけで土井の胃は痛む。
小銭から乱太郎に、執着の対象をきり丸が切り変えた五年の初めから、どうやらふたりが怪しいとは、土井もにらんでいた。しかし、実際に、いつ二人が一線を越えたのかは、きり丸と常の生徒より親密な土井も、特定できない。‥‥が。夏休みを迎える前には二人がそうなっていたのは間違いない。乱太郎がほのかに、いろっぽいものを漂わせだしたのが、その頃だ。
なんだかこいつ、きれいにならないか、と土井は最初に思った。
もともと色白なたちなのだが、その肌が透けるような透明度を増し、メガネの奥の眼が大きくなったように見えた。
その肌が血の色をほのめかせて上気したり、瞳がうるんで見えるようになったのは、それから間もなくで、まるで咲き初めた花が、時間をかけて、しかし大事に手入れされながら確実に花開いて、花びらの色は鮮やかに、香りは馥郁(ふくいく)と匂い立つように‥‥乱太郎は変化した。
「なんか、乱太郎、変わりましたね」
土井が山田に相談でもなく話しかけたのが秋の盛りで、山田がすぐにうなずいたところを見ると、その頃には誰の目にも乱太郎の変化は見てとれたのだろう。
その時、山田が言った。
「これは火種になりますな」
その時は山田の言う意味がわからなかった土井だが、それから間もなく、教室の浮ついた空気にはいやでも気が付かされた。
生徒達が、浮足立っている。野郎ばかりのむさい中に乱太郎が一人まじると、まるで少女が一人紛れこんだような異彩を放っているのがわかるようになって、初めて土井はあわてた。なんの気もなく乱太郎が笑って話しかけた相手が、真っ赤になって立ちすくむのも、何度か目にした。
4年から5年にかけての一年で、生徒の多くが、こどもの域を出て男になる階段の一段目に足をかけたような観がある。背は高くなり、筋肉が付き出し、声は低くなり‥‥それはもちろん、土井のような完全な大人の男とは比べものにならないが、これから男になっていくだろう、すべての萌芽を備えた少年の体には、皆、なってきているのだ。
その中で大人びた雰囲気をいち早く身につけたのがきり丸で、まだ華奢な少年体型ではあるのだが、クラスの中では背も高く、肩幅もあるほうだ。いつも、そのきり丸の横にいるせいで余計、そう見えるのか、男に向かって変化していく同級生たちの中で、乱太郎だけは少女めいた特質に向かって開花しているようで、ことさら、目立つ。
「きり丸に、生傷が絶えませんね」
見かねたのか利吉すらそう言ったほど、きり丸がよく傷を負うようになっていた。
「‥‥まあ、無理もないというか。この前、6年の、あれは三郎次でしたっけ。乱太郎を誘ってるんですよ。町に軽業師が来ているから、一緒に見に行かないかって。けっこう思い切って誘ったんだと思うんですよ、あの様子じゃあ。乱太郎くん、どうするかと思ったら、にっこり笑っていいですよって答えてるんですよ。そりゃ三郎次は喜びますよね、待ち合わせの場所まで決めて、小躍りせんばかりで。ところが、そこで乱太郎くん、きり丸も連れてっていいですかって言い出すんですよ。そりゃあないですよねえ、三郎次もひきつってましたが、いまさら駄目だとは言えない。‥‥あれは、相当、きり丸に恨みを持ちますよ。乱太郎くん、あれはけっこう、悪女の素質がありますね、きり丸も大変だ」
そんな話をしたあとで、
「まあ、あと一学期無事に過ぎてくれれば。上級生がいなくなれば、きり丸もずいぶん、楽になるでしょう」
落ち着いてコメントする利吉はしょせん、気楽な部外者だが、土井はそうもいかない。
きり丸が。上級生、いや、同級生、下級生とすら‥‥乱太郎をめぐって。色恋ゆえの喧嘩沙汰‥‥。ふうっと気が遠くなるのを覚えた土井である。
土井はしくしくと痛む胃を抱えながら、きり丸は常でもきつい眼をさらにきつく光らせながら、自覚もない乱太郎は周囲にフェロモンを撒き散らしながら、虎視眈々と「卒業前の思い出作り」を狙う六年生と対する、緊張の弥生が過ぎた。
ほっとしたのか、気がゆるんだのか、思わぬポカを土井がしたのは、春休みに入ってすぐのことであった。
「‥‥なに、これ」
きり丸がひらりと手に取ったものを見て、土井は青ざめた。
「う、うわあ!か、返せ!きり丸!見るんじゃない!!」
「‥‥なんなんだ、これは」
きり丸の眼がすわりだす。
「‥‥そ、それは‥‥」
「新六年生の部屋割り表?なに、これ、ざけてんの」
「き、きり丸‥‥」
「なにって、聞いてんじゃん、え、先生」
見ればきり丸の眼は座布団ひいて正座している。
「そ、それは‥‥」
丸めた半紙でつんつんとあごの下をつつかれて、土井は泣きたくなった。
「し、仕方ないだろう!おまえと乱太郎をこれ以上、同室にしておけるか!」
「‥‥なんで」
「‥‥な、なんでって、おまえな‥‥」
ち、ときり丸は舌打ちする。
「まあ、しゃあねえか。学園だもんな」
あっさり引っ込むきり丸は、彼は彼なりに状況を把握しているらしい。ほっとした土井に、しかし、きり丸は再びきつい眼を向けた。
「部屋替えは仕方ねえ。百歩ゆずってよしとしてやらあ。けど、これは許せねえ。なんで乱太郎と庄左ヱ門が同室なんだよ」
「え。あの二人、仲が悪いのか?庄左ヱ門なら乱太郎と仲良くやってくれると‥‥。どうした、きり丸!頭が痛いのか!?」
「‥‥ずきずきしてきた」
頭を押さえながら、土井をにらむきり丸である。
「庄左ヱ門と乱太郎を同室なんざにしてみろ。刃傷沙汰が起きるぞ」
「‥‥え」
考えた土井である。
「誰と誰で?」
きり丸が深々とため息をついた。
「案外と先公ってのは生徒のことがわかってないな。おれと庄左ヱ門に決まってんだろ」
「え。えー!そ、そうなのか」
「そうだよ」
「え。じゃあ、誰と同室に‥‥そうだ!団蔵はどうだ、あいつなら‥‥」
「‥‥殴るぞ、半助!」
大声を出したきり丸が、しかし、後ろから殴られて頭を抱えた。
「ってえ!」
「まったく。先生になんて口をきくんだ」
きり丸の後ろから現れた青年を見て、土井が笑顔になる。
「あ。利吉くん、おかえり」
「ただいま帰りました、半助」
ちゅ、と挨拶を交わす二人にきり丸が毒づく。
「ったく、自分だって色恋のさなかだろうに、なんだって人のことになるとこう、鈍感になれるんだよ」
利吉が振り向く。
「きり丸。それは仕方ない。この人の鈍感さには俺もどれだけ泣かされたか‥‥」
「‥‥だから」
土井がため息をついた。
「誰と同室ならいいんだ」
「‥‥喜三太か金吾、だな。喜三太は天然のオクテだし、金吾は女一本だし」
きり丸の言葉に利吉が、
「おい。オクテと言うのは気をつけないと色気づくと見境ないぞ。それに女一本ってのも、近くにいい男がいれば転ぶからな、気をつけないと」
と口を挟む。
「‥‥もう、いい‥‥」
呻くような声を出したのは土井だ。
「もう、ほんとに、あ、ててて」
腹を押さえてうずくまる土井を利吉が抱える。
「大丈夫ですか。ほら、見ろ、きり丸。おまえのせいだぞ」
「なんでおれのせいかな?」
「乱太郎くんがああなったのは、おまえのせいだろう。あれはなあ、どうみたって、肉の喜びを覚えた少女の変化だし、ああなるまでかわいがったのは、おまえだろうが」
「‥‥た、頼む、利吉くん‥‥」
弱々しい土井の手が利吉の肩にかかった。
「そういうことを、堂々と大声で言わないでくれ‥‥。き、きり丸も、ら、乱太郎も、生徒なんだよ、わたしの‥‥」
「‥‥すいません」
うずくまる土井の前にきり丸がしゃがみこむ。
「‥‥なあ、先生。おれも困ってんだよ、ほんとは」
「‥‥え?」
「だってさあ、乱太郎の奴、これから卒業してやってくのにさあ、あれじゃあ、まずいじゃん。おれがかばうって言っても限度があるし」
「そうだな」
口を挟むのはまた、利吉である。
「かばうどころか、おまえだって結構、標的になるぞ。城勤めなんざした日にゃ、二人並べて犯られるのがオチだな」
「‥‥だから、利吉くん‥‥頼むから‥‥ふたりとも、わたしのかわいい‥‥」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
「うーん、手っ取り早く効果があるって言えば、やっぱり女を抱かせるんだな」
「‥‥げ」
「おまえがそういう態度なら、乱太郎くんはあのままだぞ」
土井が弱々しく手を上げた。
「い、いや‥‥と、とりあえず、きり丸と部屋を分ければ‥‥乱太郎も落ち着いて‥‥」
「そうか!」
ポンと、利吉は手を打った。
「別れればいいんだよ、おまえら。抱く奴がいなくなれば、乱太郎くんも本来の男らしさを取り戻せる」
瞬間。部屋の空気が凍りついた。
「‥‥っさまぁ」
きり丸の目が剣呑に光って利吉を射る。
「ま、まあまあ、きり丸‥‥利吉くんも心配して言ってることだから‥‥」
間を取ろうとした土井の言葉が終わる前に‥‥きり丸のこぶしが利吉の顔を目がけて飛んでいた。
「あ、ててて‥‥」
顔のアザを押さえて、呻くきり丸に、乱太郎が濡らした手ぬぐいを渡す。
「もう、きりちゃん、またケンカ?このところ、多すぎるよ」
「‥‥あたた‥‥」
「でも今度のはひどいねえ。そんな強い相手?」
「‥‥うん、まあ‥‥それと、積年の恨みつらみがお互い‥‥」
「‥‥もう」
乱太郎の声音に、微妙な色が交ざった。‥‥かすかな、沈みと甘さ‥‥。
「明日からわたしも家に帰るのに‥‥こんなんじゃ、心配だよ」
「大丈夫。夜の勤めはちゃんと果たせるから」
「‥‥もう。誰もそんなこと言ってないでしょ」
少し拗ねた口調に、あまい響きの声。ほのあかく、染まる頬。
「‥‥まあ、確かにおれのせいかな‥‥」
「え?なに?」
「なんでも」
抱く奴がいなくなれば。利吉の言葉がよみがえる。
なあ、乱太郎。おれのせい?
悩みながらもねっとりと、乱太郎が熱い吐息をもらしながら、身をよじるまで、そのうなじを愛撫しているきり丸であった。
了
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