*それぞれの事情――きり丸――*
一言でよかったから、ときり丸は思う。
利吉と暮らす、とはっきり一言、云ってくれていれば。
そうしたら、自分は存分に叫び、なじることができたのだ。
どうして先生、あんな奴が好きなの。あんな、我がままでガキでずうずうしい、なん
であんな奴が好きなの。そんなに好きなの。四六時中、顔を見てたいの。一緒に暮らし
たいほど、好きなの、と。
先生は‥‥それに答えてくれなきゃいけなかったのだ。
好きなものは好きなんだよ、と。大事なんだよ、大切なんだよ、一緒に生きていきた
いんだよ、と。
あの野郎のことを先生がどう思っているのか、先生はちゃんと教えてくれなきゃいけ
なかったんだ。
そして‥‥。
そして、それから‥‥。
ちゃんと自分のことも抱き締めて‥‥。
抱き締めて。
―――そこまで思いが来ると、いつもきり丸の鼓動は早くなる。
‥‥なんだろう‥‥なんだか少し恥ずかしくて、少しイケナイ感じがする‥‥。
先生に抱き締められてる自分を想像すると早くなる拍動。
何とは知れぬ後ろめたさに、きり丸は思いの踵を返す。
―――ただ、先生に言ってほしかったのは。聞きたかったのは。
利吉が好きだ、一緒に暮らす。だけど、おまえもまた、大切な存在なんだよ、と。
これからも何も変わらないよ。利吉とおまえは別だよ。だから大丈夫。先生はなにも
変わらない、と。
そう聞かせてほしかった。安心させてほしかった。
先生、一言でいいんだ。
はねのけないでよ、オレを邪魔者にしないでよ。
―――オレが今まで利吉さんにいろいろ意地悪したから? オレがいっつも利吉さん
とケンカばかりしてるから? だから、先生、オレをはねんの?
せめて、せめて、せめて。
誰より早く伝えてよ。
誰より、大切なおまえにわかっててほしいんだって。
先生‥‥。
きり丸は願いが裏切られた瞬間の憎悪を覚えている。
団蔵が聞いた。
先生は答えた。
あっさり。
もういい、と思った。
薄暗がりで顔もよく見ていない、名前も素性も知らぬ男に、好きにさせる。
望まれればしゃぶってやり、尻を差し出す。
―――似合いじゃん。
髪をつかんで引っ張られる。
今の自分には、呼ばれる名すら、ない。
―――こうなるはずだったようになっただけじゃん。
自分には似合いの仕打ち。痛みと汚れと、嘲りと蔑み。
‥‥もし土井先生に出会っていなかったら。
ずっと自分はこうして生きていたのだろうから。
先生に大切にされない自分など。
もとからこうなるべきところに、堕ちてればいい。自分なんか。
そうだろ? 先生。
*それぞれの思い――半助、利吉、きり丸――*
どうすればいい。
半助は奥歯を噛み締めながら、思う。
きり丸の瞳が、暗い怒りをはらんでいる。
―――正直、おまえがここまでするとは思っていなかった。わたしが‥‥悪かった。
きり丸の教師であるからこそ、利吉とのことを言い出しかねたのだ、とはそれこそ、言い訳にもならない。‥‥それとも、あるいは‥‥自分はきり丸の自分に対する気持ちを‥‥ありていに言えば恋心に近いそれを‥‥恐れたのだろうか。
結局は、なにもかもにも及び腰になって、一番まずい事態を招いてしまった。
半助の後悔は、深い。
そして、逃げる相手としてのきり丸は、ひたすらに狡猾だった。
学園を抜け出す時間を変え、手段を変え、客を拾う町を広げ、いかがわしい若衆宿を使うことを覚え‥‥忍びとしての知恵や技を駆使しながらも、半助は出し抜かれることが多かった。首尾よくきり丸を捉えることができたときでも、短く痛烈に、家で待つ利吉のことを指弾されて、半助は二の句が継げなくなるばかりで。
―――どうすればいい。
―――半助は利吉と暮らして幸せなんだろ。ほっとけよ、オレのことは。
ほうってはおけない、と半助は思う。どうすればきり丸は、わかってくれる‥‥?
答えはある、と半助は思う。それですべてが丸く収まるとは思えない。しかし、そうすれば‥‥きり丸は少なくとも、話は聞いてくれるようになるだろう‥‥。もし‥‥自分が利吉との同居を解消し、関係を断てば。
だんだんと狂おしい光りさえ帯びるようになった、自分の背を追う利吉の視線に、半助は気づくまいとする。
‥‥年若い、まだ子供の域を出たばかりのきり丸の危うさに比べれば、利吉なら‥‥。
‥‥この手を離しても、彼なら大丈夫なのでは‥‥。
朝帰りばかり、会話らしい会話もほとんどない今の状態に、利吉がつらさを覚えながらも懸命にしのぎきろうとしているのがどこかでわかっていながら‥‥半助のまた一部は、待っているのだ。その状態に利吉が業を煮やして、自分から去って行ってくれるのを‥‥。
なにを馬鹿なことを考えるのだ、自分は。
半助は自分を叱る。これでは得手勝手も極まる。きり丸を持て余し、利吉にすべての解決を望むような‥‥だいたい、自分は利吉との別れに耐えられるのか。本当に彼が去って自分は平気でいられるのか。馬鹿なことを考えるな、望むな。
それなら、どうすれば‥‥。
答えの出ぬままに、半助は夜の町を‥‥彼の養い子の姿を求めて駆ける‥‥。
いっそのこと、きり丸がいなくなれば。
狂おしく、利吉は思う。
やっとのことで半助を同居に踏み切らせ、勝った、と思っていたのに。いや、もちろん、あんなガキがマジで恋敵になるなぞと思ってはいないのだが。
‥‥それにしても、きり丸、やってくれるじゃないか。
捨て身で半助を取り返しに来るか。
ああ、おまえの思惑どおりだよ。半助はもう俺のことなど見向きもしない。
きり丸きり丸きり丸、半助はもうおまえのことしか考えてない。
どうしてやろう、きり丸。
おまえが捨て身でくるのなら。半助がいくらおまえを追おうとも、手の届かぬ所へおまえをやってしまおうか。三途の川の向こう側へ、おまえを送り付けてしまおうか。
利吉の瞳は乾いて光る。
その瞳は、しかし、すぐに苦しげに伏せられる。
―――だめだ。それではだめだ。半助から‥‥大事な‥‥そうだ、半助にとっては大事な愛し子を‥‥奪ってはいけない‥‥。
そう、今の半助が‥‥今の半助が、自分から別れを切り出すのを待っているのだろう半助が、いくら憎くても。憎い、と思う反面、彼に触れたくて、彼の視線と言葉が欲しくて、焦がれている以上‥‥。望みどおりに別れてやれない自分の未練がある以上。きり丸を、半助から奪ってはいけない。
―――くそう。きり丸。いつかきっと、貴様に血反吐を吐かせてやる‥‥。
なんでそんな傷ついた顔をするのかな、いまさら。
冷めた瞳できり丸は思う。
いまさら、だよ、半助。
なんで今頃になって、そんなに必死に追いかけてくるの。若衆宿の連中にからかわれて。馬鹿な男に土下座までして。なんで、いまごろ、そんな必死?
遅いよ、遅いんだよ。
―――やめなよ、半助。
見てたくないよ。
もう、遅い‥‥。
今頃になってかまうなと、きり丸は吐き捨てる。
*それぞれの涙*
その夏は三人のうち、誰にとっても、同じくらい長くて暑くてやり切れない夏だった。
きり丸は馴染みの宿を使っては昼夜なく客をとり自分を痛め付け、半助は彼の大事な生徒が男に責められている最中に踏み込むほどに追い詰められ、利吉は押すばかりではない、引いて待つことを無理に学ばされる苦行を味わった。
誰もが‥‥爆発寸前の火薬玉のような状態で。
夏が過ぎた。
そして、ある夜。
半助は夜の色街をうかがう学園の生徒たちを見つける。
その時は‥‥彼らがそこにいることがどういう結果をもたらすのか、知らぬままに、半助は彼らを叱って学園に帰らせた。
それからも、二度三度と半助は彼らと夜の辻で出会い、叱り‥‥そして。
半助は昼時の学園の大屋根にいる、彼ら、三郎次と左近たち、そして乱太郎を見かけ。
そして間もなく、きり丸の夜の外出はぱたりとなくなったのだ。
つい先日まで、客がつけた吸い跡をこれみよがしにさらしては、おまえのせいだとにらみつけてくるようだったきり丸が。
抜け出さなくなった。
それでも半助が安堵の息をつけなかったのは、この数カ月のきり丸の荒れぶりがあまりにひどく、それが不意に収まったのが信じられなかったせいだった。
また何か、新たにしでかすつもりではないのか。この次はなにか取り返しのつかないことを、と思えば気も休まらぬ。
学園内できり丸をつかまえて話をしようと思っても、これはこの数カ月と同様に、ぷいとあさっての方を向いて、人の話を耳に入れようとはしないから、半助の不安は増すばかりだ。
だから、当直の夜に、きり丸がその部屋にいないのを半助は、不安の的中した嫌な感触で受け止めた。一人、深い眠りの中にいる乱太郎の夜着の袖がまくれあがっているのを起こさぬように直してやってから、半助は暗い気分で夜回りを続けた。
物思いに沈んでいたせいで、当直室前の廊下の暗がりに人がいるのに気づくのが、一瞬遅れた。
「誰だ!」
誰何の声と同時に灯りを向ける。
手燭の淡い光の中に浮かんだのは‥‥。
「‥‥オレ」
白い夜着に身を包んだ、きり丸だった。
「‥‥きり丸‥‥」
夜の町にさまよいでていたのではなかった。安堵しながら、半助は次の言葉が出ない。
きり丸もしばし視線を泳がせ、しかし、
「あのさ‥‥」
としっかりと半助の目をとらえて、口を切った。
「‥‥あのさ‥‥オレ、もう馬鹿な真似はしないから」
「‥‥え」
「‥‥だからさ。馬鹿な真似はしないから‥‥半助、もうオレを見張らなくていいよ」
「きり丸‥‥」
その言葉より、正面から視線を合わせる、そのきり丸の瞳が‥‥もう大丈夫だと半助に告げる。
なにか言ってやりたいのに。半助はただ、そうか、とうなづくしかできなかった。
「うん‥‥もう、しない」
「そうか‥‥」
きり丸は少し言い淀むふうを見せた。
「あ‥‥その‥‥乱太郎にばれちゃってさ‥‥。あいつ不機嫌にしとくの、ヤだし、あいつに心配かけんのも、なんかさ‥‥」
どこかはにかむ風に言うきり丸に、半助は再び、そうか、とうなづく。
そうか‥‥乱太郎か、と。
―――無二の親友である乱太郎の制止の言葉なら、きり丸も聞くのだと、半助は深く納得しながら。‥‥きり丸にいい友人がいてくれてよかった‥‥と。
半助は腕を伸ばすと、まだ一年だった頃のように、きり丸の頭をぐりぐりと撫でた。
もう絶対あんな真似はしないと約束させるより、どうしてあんな馬鹿な真似を続けたのかと問い詰めるより、半助にはもっと大事な、今、きり丸に聞いておかねばならないことがあったのだ。
「‥‥秋休みは、戻ってくるな?」
きり丸は一瞬、目を見張り、そして淡い笑みを‥‥半助が数カ月ぶりに見る笑みを、浮かべた。
「‥‥またお邪魔虫するっきゃないかな」
「邪魔じゃない」
きっぱりと半助は言った。もっともっと早くに、言わねばならなかった言葉を。
「家は変わっても、わたしの住む家はおまえの家でもあるんだ。邪魔なんかじゃない」
半助を見るきり丸の瞳が大きく揺らぎ‥‥きり丸は慌てて下を向いたが。
あたたかな灯火の光に、透明な滴がきらめき落ちていった。
ぽつぽつと雨音がしだしていたが、部屋に戻るきり丸の背を見送り、半助はそのまま戸外へと出た。
雨雲に覆われた空には月も星も見えない。
しかし、その雲が風に吹き払われれば、月も光る、星も光る。
そして朝になれば、日が上り、夜の闇は散る。
―――闇に覆われている時には、そんな当たり前の自然が、信じられなくなって。無闇と苦しいばかりだけれど。
どれほど、今この夜の闇が深くても。光はまた、さす。
雲の彼方の月を眺めるように、半助は夜空を仰いだ。
その顔に、最初は小さな雨粒があたり、すぐにそれは大粒で激しいものに変わった。
ざあざあと降りしきる雨の中に、仰向いて半助は立ち尽くす。
雨が、次々とあふれる涙を、次々と洗い流してくれるにまかせながら。
早出の教師に後を頼み、半助は授業前に一度家に戻ることにした。
戸をかたりと鳴らして開ければ‥‥いつものとおり‥‥利吉がすぐに土間に降りてくる。そう‥‥いつものとおり。
ああ、いつも、なのだ。
半助は気が付いていなかったそのことに、初めて気がついた。この数カ月、自分がどれほどこの若者に心配をかけていたのか、その心配を顧みる余裕も失ってどれほどこの若者に不安を与えていたのか、半助ははっきりと思い知った。
「おかえりなさい」
努めて平静に明るく、迎えの挨拶を口にしながら、利吉の瞳には憂慮の色が濃い。
―――こんな顔を、させ続けていたのか。
「‥‥すまなかったね」
利吉の肩に手を置く。瞳をのぞきこんで、もう一度ゆっくりと繰り返す。
「‥‥すまなかった」
「半助‥‥」
探るように半助の顔を見つめた利吉は、その表情からなにかを読み取ったらしい。
「‥‥終わった、んですね。もう‥‥大丈夫、なんですね」
「うん」
半助は大きくうなづいた。
「もう大丈夫だよ。‥‥すまなかったね。本当に、君には‥‥すまないことをした」
「いえ‥‥いいえ、半助」
利吉は首を横に振る。
「いつかは‥‥終わることだと思ってましたから。‥‥待つだけの‥‥ことだったんですから‥‥」
半助はそう言って笑顔さえ浮かべた利吉の肩に、頭をもたせかけた。
「‥‥君が今、ここにいてくれて‥‥本当にうれしいよ。‥‥わたしは、ひどい男だ。正直に言うよ。君が出て行ってくれれば、すべてが丸く収まる、そんなふうに思っていたこともあるんだ‥‥。」
利吉が大きく息を吸い込む音がした。
「‥‥半助」
利吉の手が半助の両肩を挟んだ。半助の目の前に、秀麗な面立ちと深い‥‥眼差しがあった。
「半助。でも、もし本当にわたしが出て行ってしまっていたら‥‥後悔していませんでしたか? もし本当にわたしがいなくなっていたら‥‥泣きませんでしたか? 笑ってそれからも、暮らせてましたか?」
半助は小さく笑った。
「たぶん、すぐに後悔の嵐だったろうな。‥‥君のいない生活も‥‥君のいない人生も‥‥そうだね、これも正直に言うよ。たぶん、わたしには耐えられない」
「‥‥なら‥‥いいです。もう、いいです。全部‥‥もう‥‥」
くしゃっと、その端正な顔がゆがみ‥‥その目から涙があふれ出てきた。
―――この、若者が。この数カ月、どれほどの不安に苛まれていたのか。それでも、己を律して待つのに、どれほど足掻いたのか、その涙がすべて語っているようで。
半助は胸をつかれる。
それでも、半助の狡さ身勝手さを赦すという利吉を‥‥失わないですんだ幸運を半助は思わずにはいられない。
「利吉‥‥」
利吉を胸に抱き込み、半助はもう一度繰り返す。
すまなかった、と。
そして、その耳元でささやく。
これからも、一緒にいてくれ、と。
鼻の頭を少し赤くした利吉が、顔を上げる。
いつもの強気な視線が、少し大人びた色をともなって戻って来ている。
「‥‥朝ごはんも食べたいところですが‥‥あなたを抱きたい。半助」
半助は利吉の視線を受け止める。ただ愛しいだけではない、新たに自分の理解者として傍らにいてくれもする、その若者に、返す言葉は。そう、本音でいい。
「‥‥うん‥‥わたしから言おうと思っていたよ。‥‥君に、抱かれたい‥‥」
窓からのぼりそめた朝の光がさす中で、唇が重なる。
数カ月をおいて、いまようやく始まるふたりの生活の幕開けにふさわしい、ただただひたすらにあまく、互いを求め合う熱に満ちた‥‥口づけだった。
了
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