友の泣いた夜2

 

  きり丸が戻って来たのは夜の明ける前だった。
 山の中を、木々を抜けて帰って来たきり丸には緑の夜露の香りがまとわりついている。
その涼気はすがすがしくて、きり丸が過ごしたのだろう夜の町の淀んだ空気は払われている。出て行った時と同じように、音もなくきり丸は隣の布団に滑り込む。
「‥‥きりちゃん」
 一夜の後悔と逡巡の後、思い切って乱太郎は、小さく呼んだ。
「あ?なんだ、起こしたか?」
「きりちゃん‥‥今までなにしてたの」
「なにって」
 そこできり丸は大きくふわあっとあくびをし、
「バイトだよ、バイト」
「バイトって、なんの」
 きり丸はもう一度大きくあくびをする。乱太郎は、今度はしっかり、ことをごまかそうとする白々しさをそのあくびの声音にみてとった。
「いいだろ、なんだって。早く寝ろよ。俺だって授業がつれえんだから」
 そう言うときり丸は大きく寝返りを打ち、乱太郎に背を向けて布団にくるまってしまった。その背中はそれ以上の詮索を拒んでいる。
「きりちゃん!」
 乱太郎は呼びかけた。が、きり丸を振り返らせることはできなかった。

 

 

 露骨に、ではない。しかし、乱太郎にはわかる。きり丸は乱太郎を避けた。
 朝方の質問を蒸し返されるのを嫌がってる。乱太郎にはわかる。
 ごく自然に、でも、乱太郎が話に加われないほどの距離で、同級生としゃべっているきり丸を乱太郎は見ていた。
 ‥‥かっこいいと思う。
 細面で涼やかな顔立ちは、目鼻立ちが整って、きれい。
 それでもその印象があまり柔らかくなく、どちらかと言えばきつい感じがするのは一重に切れ上がった双眸のせい。‥‥眼鏡を外せばどんぐり眼で、いつまでもこどもっぽさが抜けない自分の顔立ちとはちがう。髪も。ふわふわの猫っ毛で、おまけにすこし色素が薄くて陽に透けると鳶色になってしまう自分とはちがって、今では背の半ばまで届くつややかに流れる黒髪。高く結い上げると若武者然としてキマるのだが、最近では無造作に首の後ろで束ねているだけなのが、またかえって大人っぽい。背も頭半分、乱太郎より高い。肩幅も広い。‥‥一年の時はさほど変わぬ体格だったのに。色白であまり日に焼けない自分と違って、適度に日焼けした肌は健康的。
 乱太郎が見るうちに、きり丸は‥‥風呂場で見慣れたまっぱだかになった。
健康的な褐色の肌、滑らかな背中‥‥その裸体に男たちの手がまつわりつくのが乱太郎には見えた。
 きり丸は、その肌を嬲らせて、その身体を抱かせて‥‥。
 乱太郎はたまらず首を振った。そんな想像はしたくない。
 不特定多数の男に、からだを‥‥。
 だん!!
 こみあげる不快さに、思わず乱太郎は机をこぶしで叩いた。
 近くにいた何人かが驚いて振り返る。きり丸は振り返らない。音のした方に乱太郎がいることを知っているからだ。 
 乱太郎は教室を飛び出した。


 

 そのまま次の時限はサボタージュしてしまった乱太郎だったが、その次の時限は「体術実技」、担当は、今年になってようやく、教科担当だけではなく、実技指導もまかされるようになって張り切っている土井先生。さすがに土井先生の授業をすっぽかしては後で大変、また余計な心配も掛けたくない気持ちも働いて、乱太郎はすごすご教室に戻った。
 実技用の軽くて薄い忍術着に着替えて校庭に出る。
 実技はたいてい、二人一組の組体操による準備運動から始まる。そこで乱太郎にとっては不本意に‥‥相手方にとっても不本意だったろうが‥‥きり丸と組まされてしまった。
 乱太郎はしゃべらない、きり丸もしゃべらない。目も合わさない。
 ‥‥が。
 組み合って柔軟体操をこなすうち、乱太郎は見てしまった。
 きり丸の喉元から、襟元にかけて点々と散る紅い花びら。一目でそれは内出血によるものとわかる。‥‥キスマークだ。一瞬おいてそうと悟って乱太郎は顔から火を噴いた。
 自分の知らない行為の生々しさを突き付けてくるそれ。羞恥か狼狽か、怒りか。乱太郎は真っ赤になっていた。
「きり丸!」
 なにを言おうとしたのかはわからない。が、思わず乱太郎がかけた声に、きり丸は反応しなかった。わざと無視したのではない。友の様子に、乱太郎はそれを悟った。気づかなかったのだ。
 きり丸は立ち尽くして一点を凝視していた。
 生徒の間を回って、組体操を指導していた土井先生がすぐ間近に来ていた。
 きり丸はその土井先生の顔を挑戦的に睨み据えていたのだ。
 キスマークの散る胸元に、ぐいと手をかけ、あえてそれをさらすようにして。
 挑みかかるように、きつい光をその眼に見せて。
 乱太郎は見た。いつも明るく率直な土井先生が、何も言えずにただきり丸の視線を受け止めているのを。
 唐突に。乱太郎は思い出した。この光景は前にも一度、見たことがある。
 怒ったように土井先生を睨みつけるきり丸、困ったように、それでも真剣な顔でその視線を受け止める土井先生‥‥。見たことがある。
 あれは‥‥。乱太郎の脳裏に次々と情景がフラッシュバックする。
 あれは、この春。四年に上がってすぐの、やはり体術実技の時間。その頃、流れた噂を団蔵が質問した、『先生、利吉さんと一緒に住んでるってほんとですかぁ?』
 先生は堂々と答えたのだ、『二人で住んだほうが、何かと安上がりだからな。同居してる』。それからすぐに柔軟体操が始まったのだが、その時、かがんで屈伸運動する生徒達の中で、きり丸一人が今のように立ち尽くして、号令をかける土井先生をにらんでいた。そして、号令をかけながらも、土井先生もただじっときり丸を見ていた。そして、今のように‥‥眼を伏せて視線を外すのは土井先生のほうで‥‥。
 乱太郎は思い出した。
 その晩だ。きり丸が初めて夜の学園を抜け出したのは。
 誰も今度は支えてくれない。乱太郎はその場に座り込んだ。
 昔から‥‥利吉さんと土井先生は仲が良かった。その二人が同居を始めて‥‥そしてきり丸は自暴自棄な援助交際を始めて‥‥。
 今までなんの関連もなかった記憶の断片が、すべてつながって一枚の絵になっていく。あらわれた真実。乱太郎は言葉もなかった。


 

 ひやり。
 冷たいものを額に感じて、乱太郎は気づいた。
「‥‥あれ?」
 慌ててまわりを見回す。自分はまっぴるまの運動場で授業を受けていたはず‥‥なのに、いつの間にか、薄闇の立ち込める寄宿舎の自分の部屋にいるではないか。
「あれ?」
 首をひねる。
「あれ、じゃねえよ!」
 枕元できり丸が怒っている。その膝の前には水のはいった桶があり、どうやら、額の冷たいものはきり丸が絞って乗せてくれた手ぬぐいとわかった。
「日射病だか貧血だか知らねえけど、こぉんな季節外れに熱にやられるか、ふつう。貧血なら貧血でおまえ、食堂のおばちゃんにどの面さげて会う気だよ。ったく!気分悪いならちゃんと言え!ぶっ倒れるまで我慢すんじゃねえよ!」
「わたし、倒れちゃったんですか‥‥」
 はあ。乱太郎はため息をついた。情けない。授業の半ばまではみんなと一緒に飛んだり走ったりしていた覚えがあるのだが。時折、心配そうにきり丸を見る土井先生とそれからは頑固なほど、土井先生に目を向けようとしないきり丸を見ているうちになんだかだんだん、息苦しくなって‥‥。
 はあ。乱太郎はもう一度ため息をついた。するときり丸が、
「なんだ、まだ気分悪いのか」
 少し心配そうにのぞきこんでくる。
「ううん。もう大丈夫」
 答えてから、嫌みのひとつも言ってやりたくなった乱太郎は、
「寝不足のせいかな。誰かさんは強いけど」
 と言ってみる。が、それも、
「人の心配するのは百年早いってことだよ」
 ばっさり切って捨てられた。
 もう明かりが欲しいほどに暗くなった室内で、二人は黙り込んだ。
 乱太郎は額の濡れ手ぬぐいに手をやった。倒れてからずっと、きり丸は自分についていてくれたのだろう。半日も目を覚まさない自分の枕元で、手ぬぐいを換えながら。いくら憎まれ口をたたいても、本当はどれだけ気をもんでいたことか。
 同じなのだ。きり丸は変わっていない。乱太郎がきり丸を心配せずにはいられないように、きり丸も乱太郎を気にかけずにはいられない。
 安心感のようなものが乱太郎の胸に広がった。言葉が自然に流れた。
「もう夜でかけるのはやめてよ」
 ちぇ、ときり丸が舌打ちする。
「簡単に言うなよ。いい金になるんだぜ」
「じゃあ、そのお金をどうやって作るのか、ちゃんと言える?」
「‥‥おまえにゃあ関係ねえことだよ」
「関係なくない!言えないんだろ、きりちゃん。言えないようなこと、してるんだ。どうして言えないようなことして、そんなことして‥‥」
 突然に。きり丸は立ち上がった。会話を打ち切る激しさで。
 乱太郎に背を向け、開け放してある窓のそばでたたずむ。
 乱太郎も立ち上がった。窓からは、もう黒々と闇の色に変わった森と、まだ淡い明るさを残した薄墨色の空が見えた。
「‥‥ちぇ」
 やけくそなきり丸の声がした。
「ちょっと早いけど、今日はもう出掛けるかなあ。ここにいたって、うるさくされるだけだもんなあ」
 そこからはこどものケンカだった。
「きりちゃん、もうやめなよ」
「行く」
「行くな」
「行く」
「行くなってば!」
「うるさい!行く!」
「行くな行くな行くな!」
「行く行く行く!!」
 乱太郎の頭にかああっと血がのぼった。瞬間に、乱太郎にひらめいたのは、きり丸を一番、てっとり早く引き留める方法だった。乱太郎は自分の机に飛びつくと、その上にある貯金箱をひっつかみ、きり丸に向かって突き付け、叫んだ。
「じゃあ!今日はわたしがきりちゃんを買う!!」
 瞬間の、きり丸の傷ついた表情に乱太郎は自分が言い過ぎたことを知った。
 今の一言は、きり丸が夜な夜ななにをしていたのか、はっきり自分が知っていると告げていた。
 授業で習わなかったか。一対一で逃げる敵を追う場合、追い詰め過ぎてはいけない、と。敵に一本の逃げ道を残しておいてやらなければ、追い込められた敵から思わぬ反撃を食らうことがある、と。
 今の一言で、乱太郎は完璧にきり丸を追い込んでしまった。
 まずかったと乱太郎は悟ったが、咄嗟にそれを言い繕う言葉もない、ただ手にした貯金箱が、内心の動揺を映してカタカタなる。重苦しい沈黙のなか、うつむいたきり丸がその口元に今まで見せたことがないふてぶてしく悪ぶった笑みを浮かべた。
「そうかあ、おまえが俺を買ってくれるのかあ」
 ちがう!と叫びたいのに、乱太郎の喉はひりつき、声が出ない。
 ゆらりときり丸が乱太郎に近づく。
 思わず乱太郎は後ずさる。
 きり丸の手が伸びる。
 乱太郎は再び、びくりと後ずさる。
「なに、びびってんだよ。商談だろ」
 ヤケ気味に言い捨てて、きり丸は乱太郎の手から、ブタの貯金箱を取り上げた。
 耳元で振る。それはきり丸の特技のひとつ。財布でも貯金箱でも振っただけで、中にどの貨幣が何枚あり総額でいくらになるのか、瞬時に当てる。そのいかにもきり丸らしい仕草は、いままでよく見知った友のもの。乱太郎はようやく、
「きりちゃん‥‥」
 呼びかけることができた。が、その安堵も一瞬。
「これっぱかしの金で、俺を一晩、買いきりかぁ。安く見られたもんだなあ」
 再び、乱太郎の喉はひりつき、ちがう!の一言が出ない。
「まあいいや。友達がいに安くしといてやるよ。‥‥おら」
 どん、と肩を突かれ、硬直していた上に足を布団に取られた乱太郎は尻餅をついた。その上にきり丸がのしかかる。顔を間近に寄せ、
「さっさと脱げよ。こんなはした金でサービスはしねえぜ」
 低く言い募りながら、さらに体重をかけてくる。
「‥‥き、きりちゃん!ち、ちがう‥‥!どいて、どいてよ!」
 泡をくって乱太郎はきり丸を押しやろうとしたが、
「なにがちがうんだよ。おまえは俺を買うんだろ。俺がどうやって稼いでたか、なにをしてたか知ってんだろ。知ってて買うって言ったんだ。なにがちがう」
 自暴自棄の上に開き直りを見せてきり丸は、その手を乱太郎の忍び装束の合わせに差し入れてくる。乱太郎は驚いた。慌てた。軽い実技用の装束だったせいで、常なら着けている鎖帷子もないせいで、きり丸の手はやすやすと乱太郎の素肌に触れる。
 乱太郎には平常心のかけらもなくなった。
「やめろ、やめてってば!き、きり丸!!どいて!どい‥‥」
 平常心がなくなっていたせいか、音からの連想だったか、今度は追い詰められた側の起死回生の一打だったか。乱太郎は自分でも思わぬことを叫んでいた。
「土井先生が好きなくせに!やめろってば!」
 その言葉に、きり丸は凍りついた。図星を指された者の一瞬の空白。乱太郎は見逃さずに、きり丸の体の下からするりと這い出た。とりあえず安堵の息をつく乱太郎をじっとり不機嫌に目を光らせてきり丸がにらみ上げる。
「‥‥なんでここで半助が出てくんだよ」
 今度は負けじと乱太郎もきり丸をにらみ返した。
「へえ。きりちゃん、土井先生のこと、半助って呼んでるの」
「‥‥わりぃかよ」
 きり丸はふてたように口をとがらす。
「悪くないよ。別に。でも、土井先生が好きなくせに、あんなことやこんなこと、するのは悪いよ。きりちゃんが悪い」
 悪いと決めつけられて、きり丸はそっぽを向く。すねてしまった親友の横で乱太郎も言葉もなく、ただ座っていた。

 

 もう真っ暗になった部屋で、二人は黙り込んだまま、どれほど座っていたろう。
 やがて。
「俺には土井先生だけ、いればよかったんだ」
 低く静かな声が言った。
「お金持ちの父親がいて、根性つけるためだけにこの学園に来てたしんべヱや、父親みたいに立派な忍者になりたいってちゃんと目的持ってたおまえ‥‥おまえらとは俺は違う」
 乱太郎にはきり丸の言いたいことがわかる。戦で家も両親も失ったきり丸は、好むと好まざるとに関わらず、学園にいるしかなかった‥‥。
「おまえたちには見守ってくれる父親がいて、休みには帰る家があって‥‥俺にはない。でも、俺がおまえたちをやっかんだりうらやんだりしたと思うか」
 乱太郎は黙って首を振る。
「俺はおまえたちをうらやんだりしなかった。どうしてだかわかるか。‥‥俺には、俺には土井先生がいたからだ」
 乱太郎は黙って聞いている。
「休みになって、おまえたちが故郷に帰って、学園に誰もいなくなっても、土井先生が自分の家に俺を連れて行ってくれた。いつも、いつも土井先生が、俺を見ていてくれた。俺には、土井先生がいればよかった。‥‥なのに、なのに土井の野郎‥‥」
 静かな声が初めて乱れた。
「俺には先生だけだ。だけど先生はちがう‥‥!先生の一番は‥‥」
 そうだ。土井先生の一番は利吉さんだ。ふたりが一緒に暮らしだしたというのはそういうことなのだ。
「なんで、なんで俺じゃないんだ!なんで!俺の一番は先生なのに、なんで俺は先生の一番になれないんだよっ!」
 それは‥‥報われぬ思いが絞り出す、悲しい叫びだった。
 同じ部屋に寝起きしながら、きり丸がそれほどつらいものを抱えていたのに、乱太郎は気づかなかった。きり丸がきづかせなかったのだ、自分の感情を押さえ込んで。が、今、気取られぬよう、隠されていたそれが、あふれ出していた。
 不意に。乱太郎はきり丸に抱きつかれた。
 とっさに先刻のことが思い出されて体が固くなったが、乱太郎はきり丸の息の乱れと肩先の震えにすぐに気づいた。きり丸は乱太郎の肩口に顔を埋め、漏れる嗚咽を懸命に殺そうとしている‥‥。
「きりちゃん、きりちゃん」
 我知らず、友の体を抱きかかえながら、乱太郎は懸命に言葉を探した。
「わたしがいるよ。ね。きりちゃんはひとりじゃないでしょ。しんべえもわたしもいるよ。ね。きりちゃん、きりちゃん‥‥」
 聞こえているのか、いないのか‥‥。
 きり丸はその頭をぐりぐりと乱太郎に押し付けながら、喉の奥から溢れそうになる泣き声をなんとかこらえようとしていた。‥‥乱太郎の忍び装束の襟元が乱れたが、今はただせき上げる感情を抑えようと、こどものようにきり丸は自分にすがりついているだけなのだ、乱太郎はきり丸の背に回した腕に力を込めて、繰り返した。
「わたしがいるよ。ずっときりちゃんと一緒だよ。‥‥ね、ずっと一緒にいるから」
 そう繰り返しながらも。
 乱太郎は思う。土井先生と利吉さん‥‥。二人は昔から仲が良かった。そばにいると、二人がお互いに信頼しあい、尊敬と好意をもっているのが伝わって来た。それはもう、ずっと昔から。そう、乱太郎がきり丸と知り合った、あの忍術学園1年は組の頃から。
 もし、いや、もし、ではない。その頃から二人が二人の間にあるものを大事に思い、育み、そして、長い年月のあとに、同居に踏み切ったのだとしたら‥‥。乱太郎はまだ恋を知らない。人を好きになることの意味も真実も知らない。だから、大人である土井先生と利吉さんがなにを考え感じていままで付き合って来たのか、どんな付き合いをへて、世の常識に反して二人で暮らすことに踏み切ったのか、乱太郎にはわからない。しかし、しかし。短くない年月、付き合い続けたふたり、共に暮らすことを選んだふたり、これは“本物”と呼ばれるものではないのか。ふたりの互いに対する思いは、揺るぎないものなのだと、言えるのではないのか、と乱太郎は思う。
 ならば。きり丸は。そのふたりをいつからそうと知りながら、見続けていたのだろう。
自分には土井先生しかいないと思い詰めながら、寄り添い合う土井先生と利吉さんを見ていたのか。
 土井先生は‥‥知っていた気がする。一途に自分を慕うきり丸の思いを。知りながら、でも、土井先生は踏み切った。利吉さんとの生活に。
 きり丸の肩は小刻みに震え続ける。
 ‥‥ずっと見ていたのだ、きり丸は。
 乱太郎は自分の目頭がじわりと熱くなるのを感じた。
 初めて、きり丸の痛みに触れたと思う。と、同時に。その深さに、暗さに、乱太郎は唇をかむ。こうして泣くきり丸を慰めながらも、そのすべてを受け止められるわけではない。
「そばにいるよ。‥‥わたしがいるよ」
 繰り返しながら。その言葉できり丸を救いたいと思いながら。乱太郎は自分の無力を思う。土井先生を思うきり丸が‥‥それで救われるのだろうか‥‥。


 次の夜。
 き、と鎧戸が、内から外へ向けて軋んだ。
 今日の昼、利吉さんが土井先生の忘れ物を届けに学園に来た。
 きり丸が夜の闇へ滑り出て行く。


 乱太郎は枕に顔を埋めた。
 その枕が涙を吸って、濡れた。 

                                                                了

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