年下の男の子

 

 どういうつもりもなかったけれど。
「おごってあげる」
 そう、誘っていた。
「へ?」
 目を丸くした不思議顔に、
「臨時ボーナスが出たの! いやならおごらないわよ」
 と、返した。


「なーんかさあ、おまえのおごりって、裏がありそうだよなあ。とんでもなく高くつくんじゃねえか」
「なによ。わたしはあんたほどのケチじゃないわよ。おごるって言ったらちゃんとおごるんだから」
 いつも通りの憎まれ口には、いつもの調子で言葉を返せた。‥‥わたしはなにも変わってない、わたしは大丈夫、自分でもそう思える、いつもの調子で。
「おれのはケチじゃないの。節約なの。だいたい意地の悪さでいけば、おまえの勝ちじゃんか」
「そういうこと言うなら、おごらない」
「ちぇ。おごるおごるって、どうせ団子だろ?」
「なんでも好きなものをおごるわよ!」
 軽口に軽口で返そうとしたのに。言い返した口調が不自然にきつくなった。わかっていたが、口のほうが止まってくれなかった。
「なんだっておごれるんだから!」
 目尻の切れ上がった瞳を、年下の少年は一瞬、見張った。
 ついで、ふい、と伏せられた目から、こちらの表情を盗まれたのを知った。
「‥‥そっかあ。くのいち一年生ってけっこう儲かるんだ」
 じゃあなにをおごってもらうかなあと、天を仰いで呟く横顔に、この少年もまた‥‥世の荒波にもまれているのを痛感した。


 ずるずるとうどんをすするきり丸に、ユキは毒づいた。
「なんでもおごるって言ってんのに。なんでうどんなのよ」
「へ。タダより高いものはないってさ。用心にこしたことはねえや」
 そしてまた、丼にかがみながら、きり丸が低く言った。
「‥‥金は大事にしときな」
 その一言で‥‥自分が懐にしている金の出所もその訳も、すべてを見抜かれているようで。その上で、金は金だとなだめられてもいるようで。
 アンタじゃないわよ、と返したいのに、ユキは声が出なかった。



 町をはずれ、どんどん人寂しい野のほうへ出て行く自分に、きり丸は黙ってついてきた。
 不意に、その言葉が口をついた。
「男なんて嫌い」
「‥‥‥‥」
「男なんて大嫌い」
「‥‥そっか」
 そこで、おまえ昔から女のほうが好きだったじゃん、などと言われたら、切れてきり丸を殴りつけ走りだしておしまいだったかもしれない。だが。
「嫌いなんだから!」
「うん」
 とうなづくきり丸に‥‥涙があふれた。


「嫌い、嫌い、だいっきらい!! くのいちなんかやめる!!」
 あふれる涙をこぶしで押さえ、ユキは叫んだ。
「やめる! やめるのおっ!」
 ふう、と小さなため息が聞こえたように思え、あんたなんかあっちに行って、と続けようと思ったところを‥‥抱き締められた。


 ぶあ、という感じに、また涙があふれてきた。
 きり丸といい勝負の自分には。くのいちをやめたところで、帰る故郷も家もない。
 だからと言って。またあんな男に抱かれ、またあんなおぞましさをこらえなければならぬかと思うと‥‥。
『ほら‥‥気持ちええやろ‥‥おまえのここも、ごっつうよろこんどる‥‥』
『欲しいなら欲しいって言いや‥‥もうぐしょぐしょやで?』
 よろこんでなど、いない。
 気持ちの悪い粘膜など押し付けて来るな。
 わたしの躯を使って、楽しむなら勝手に楽しめ。
 足を開いて我慢していてやる。
 ‥‥なのに。
 男は卑猥な表現で、さらに汚そうとしてくる。
 自分の下卑た感覚を、押し付けてくる。
 男を知らなかったわけではない。
 汗くさい体でのしかかられ、乳房に吸い付かれ、股間のひそみを指でまさぐられることも‥‥程度を知らぬいじくりに眉をひそめながら、ただ男が埒を明けて離れてくれるのを待つことも‥‥知っていた。
 それでも、若くまだ少年の域を出ない彼らの抱擁は、今から思えば自分勝手な分、一途で、その身勝手な愛撫の数々も、懸命な純粋さを持っていた。
 汗くさい、男くさいと思った彼らの体臭すら‥‥今から思えば青草のすがすがしさをまだ持っていたのだ。
 ‥‥ユキは思い出す。
 脂肪をその下にまとわりつかせたぶよついた肌。濁った粘膜。その体から立ち上る饐えたような脂ぎったような、嫌な匂い。その匂いは鼻について、いくら肌を清めた後にもユキを苦しめた。
 遮二無二、押し入ろうとしてくる若者の余裕のなさをいまいましく思ったのは、あまりに自分が無知だったせいだ、とユキは思う。
 エラの張ったそれで、入り口だけを何度も行き来する男の、いやらしさ。
 花の芽を指の腹だけで決して力は入れずにこすりながら、音が立つまでそれを繰り返した男の、下品さ。
 男はそうして力を抜いた長い愛撫を加えながら、ユキの密壷に軽く浅く侵入を繰り返した。
 ユキがもどかしさに身をよじりだすまで。
『ええ感じになってきたやないか。ほれ、奥までずずうっと、欲しいやろ』
 男の言葉にユキは唇を噛んで頭を横に振った。
 ちがう! ちがう!
 が、また浅い穿ちだけで虚ろにされた腰は、そこだけ勝手に躍り上がった。
『せやろせやろ。おまえみたいなんはなあ、ごっつ好きもんなんやで。‥‥ほうら、この指、舐めてみや。おまえのもんでどろどろや』
くのいちになった以上。
 好きでもない男に身をまかせるのも、仕事のひとつ、手段のひとつと割り切っていた。
 出会った少年たちと遊び、求められれば躯を開くのと、大差はないと思っていた。
 けれど。
 こんなふうに、ねちこく体を弄ばれ、反応を引き出され、それを舌なめずりせんばかりに喜ばれるのは‥‥中年の性を愉しむいやらしさにさらされるのは‥‥若い男たちの性の対象に躯を投げ出すのとは全然ちがうことなのだと、思い知らされるようだった。
 そして、一番大きな違いは。目的を遂げるまでの一カ月近く、ユキにはその男を拒む術がなかったことだった。
 男は何度もユキをその寝所に呼び付け、ユキを好きにした。
 気に入らなかったからもう会わないという自由は、なかったのだ。
『しゃぶりたいやろ』
 口元に押し付けられたものの、たまらぬ臭気とぬらりといやなぬめり。
『歯ぁ立てたら、お仕置きやで』
 唇を割ったそれは、口の中でびく、と震えて‥‥。
 それがどんなに嫌なことであっても、次の晩にもユキはその部屋の戸を自分で開けねばならなかった‥‥。
『よくやりました』
 短い褒め言葉と、ずしりと重い銭袋が、その報酬。
 ‥‥たまらない、と思った。
 命じた者たちは知っているのだ。自分がどんな目に合って来たのか。いや、どんな目に合うかを知っていながら、その汚辱にまみれることを命じたのだ、最初から。
 こんな世界は‥‥耐えられない。ユキは思う。
 思いながら‥‥ユキは泣いた。
 大声を上げて。
 ずっと子供扱いしてきた年下の少年の胸と腕は、存外とたくましくあたたかく、ユキを好きに泣かせてくれた。


 きり丸の手は、怯じることもなく、あつかましくなることもなく、ユキの髪を撫で続けた。ユキの泣き声が、甘えを帯びたすすり泣きに変わるころ、その手は髪を撫でる自然さで髪をくぐり、首筋を愛撫しはじめていた。
 その手のあたたかさにユキは目を閉じる。
「‥‥みじめだった‥‥」
「‥‥おう」
 きり丸の返事にユキはかっとして身体を離した。
「気安く、おう、なんて言わないでよ! 男にはわかんないわよ! す、好きでもない奴に、い、いいようにされて‥‥!」
 感じてのけぞり、同類だと泥の底に引きずり込まれた、そのみじめさは。男にわかるわけがない、とユキはきり丸に叩きつける。
 きり丸は‥‥歪んだ笑みを見せた。
「わかんねえだろって、わかられたくねえならいいよ、わからないままでいてやるよ。
けどさ、おまえだって‥‥男でそれがわかるみじめさ、それこそ、わからねえだろ」
 ‥‥ああ、そう。だからだったんだ‥‥きり丸の言葉の意味が腹におさまると同時に、ユキは納得していた。だから、会いに来たかったんだ。こいつに。
 ユキは抱きとめてくれる胸の中に、もう一度もたれかかった。


 キスさせてやる、というおこがましさなしに、口づけを許したことはなかったし、自分から他人の唇を望んだこともなかった。
 が、そうしてきり丸の胸の中に抱き締められていると、自然に顔が上向いて口づけを望む形になっていた。
 ユキがそれに気づいて恥ずかしさを感じる前に、唇はきり丸のそれに柔らかに吸われていた。絡め合う舌さえ自然で‥‥こんな口づけもあるのだ、とユキはぼんやり思っていた。


 涙は一度は乾いたはずなのに。
「ユキ‥‥きれいなからだしてるじゃん」
 前をはだけた着物を布団がわりに横たわり、きり丸の目に素肌をさらした時にそう言われて。また、涙がこぼれた。
 少年たちも狒々おやじも‥‥ユキのからだを褒めてはくれたけれど。その言葉の端から、よだれが垂れるのが見えて‥‥ユキは鳥肌をこらえねばならなかった。が、きり丸の言葉は‥‥性の対象として今からむさぼる躯に対する感想として漏らされたのではなく、見知った人間のひとつの属性として新たに見つけた事実を述べただけの淡泊さがあって。
 むしゃぶりつかれて熱気を浴びせられるより、よほど自分という人間を見ていてもらっているようで。
 ユキの目尻から涙がこぼれた。
 その涙を吸ったきり丸の唇が、耳朶へと滑り、首筋をなぞる。きり丸の手が、胸のふくらみを押し包む。
 ―――人は、こんなふうに交わることもできるのだと。
 一方的に強引に、飢えを満たす性急さで躯を重ねるのでもなく、淫猥を愉しむ道具のように弄ばれるのでもなく、親しい人間がお互いを慈しみあうために、あるいはより親しくなるために、交わることもできるのだと。
 きり丸が教えてくれているような気がした。
 躯が芯からほぐれて、溶けてゆく‥‥。
 あたたかで力強さを備えつつある腕に抱き締められながら、物柔らかで気持ちのよさを引き出してくれる愛撫に、ユキは身をまかせた。
 ―――きり丸に、抱かれた。



     おれらさ‥‥淫乱でもなんでもない‥‥
     だから、おれら、汚くねえよ‥‥
     ‥‥からだ、売ってさ‥‥それだけじゃねえじゃん
     おまえだって、ちゃんと仕事はしたんだろ‥‥
     そういうさ‥‥技が、おれら、あるじゃん
     ならさ‥‥おれらさ‥‥ちょっとかっこいいじゃん‥‥
     食うためじゃなく‥‥
     淫乱するためでもなく‥‥
     鼻を明かしてやれる技は持ってて‥‥
     そいで、ちょっと好きにさせてやってんだぜって‥‥
     なあ、おまえ、そう思えよ‥‥


 きり丸の言葉が‥‥その体温とともに、からだの奥まで沁みていくようだった。



 腕を枕に、ユキは初めて『心地よい余韻』というものを味わっていた。
 以前、腕を絡めるようにされて逃げ出すことも出来ずに、むりやりに『事後のけだるげな時間』というのを共有させられた時に、相手の男が「これでぼくたち、ひとつだね」とうっとりした声音で言うのを聞いた。その時には全身が気持ち悪さに粟立ったものだが、もし今、きり丸が同じ言葉を口にしたら‥‥なんだか喜んでしまいそうな気がする。
 なるほど、世の恋人たちはこういう時間に絆を深めているのかと、ひとつ勉強になったような気がした。
 が、きり丸がそんな言葉を口にするわけがないのも、ユキにはよくわかっていた。
 相手に焦がれるつらさをともなわない自分たちは‥‥恋人同士ではない。
 その時になってようやく、ユキは自分がなにげなしに指でつついていたものの正体が頭に入ってきた。今までそれは見えてはいても、意味が通ってこなかったのだ。
「これ‥‥」
 きり丸の胸についているそれを指でつつきながら、ユキは間近のきり丸の顔を見上げた。
 よく見れば、それは胸から下腹にかけて点々と散り、内股の柔らかいところには、特大のものがひとつ、歯型つきで残っている。
 赤紫色した鬱血。キスマーク。
「だれ」
 にや、ときり丸が笑った。
「乱太郎」
「え! ウソ! いつから!」
「‥‥5年になってからだよ」
「じゃあ半年以上じゃない。えー、全然知らなかったぁ‥‥。ああ、もういやになるなあ‥‥」
 ユキは半ば本気で頭をかかえた。
「なんでいい男ってみんな男とつるみたがるのよ!」
「‥‥お。おれもいい男ってやっと認める気になったかよ」
 そう言うきり丸には舌を出して見せてから、ユキは毒づいた。
「忍術学園でちょっとかっこいいって言ったら、土井先生じゃない。その土井先生は水もしたたるいい男の利吉さんとくっついちゃうし、ちょっとムサいけど、でも、あ、もしかしたらカッコいいかもって大木先生はなーんか野村先生と怪しげだし‥‥そうよ!  先輩たちだって、ちょっとよさげなのは、みんな相手が男なのよ! で、わたしみたいなかわいくてイカシた女の子がカスばっかりつかまされて‥‥」
「カスばっか?」
「そうよ!」
 力いっぱいうなずいたユキの髪を、きり丸がふわりとすくった。
「もったいねえ話だな」
 不意にまたじわりと涙ぐみそうになるのを、ユキははしゃぐことでなんとかこらえた。
「ああ、もう、くやしいったら。くやしいから、わたしも跡、つけちゃお!」
「え、おい、こら!」
「いいじゃない、ひとつくらい増えてたって気がつかないでしょ、乱太郎は」
「いや、ちょ‥‥おい、マズイってば!」
 唇を寄せたきり丸の肌からは、若い汗の匂いがした。



 今日中に城に戻ると言うと、きり丸は峠の別れ道まで送ってくれた。
「くのいち、やめんなよ」
 けったくそ悪いおやじなんかのせいで、忍術学園の6年間を棒に振るな、と。
「‥‥うん! あんたが卒業したときには、社会の厳しさをビシバシ教えてあげなきゃいけないもんね」
 年下の少年は、年の割りには大人びた顔でまたにやりと笑って、あばよ、と手を振った。
「またしような」
 背を向けざまに言われたのは空耳だった気もするのだが。
 ユキは足早に歩きだしながら、頬が赤くなるのを感じていた。

 

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