六年生になると行われる閨房術の授業の中に、外部講師を招いての実技講習がある。
その実技講習については『とにかくスゴイ』とのみ言い伝えられていて、その詳細が明らかにされることがないところがまた、生徒達の好奇心を煽っている。
その――『閨房術の実技』という、思春期真っ盛りの少年たちをいやがうえにも刺激する特別なイベントを前にして、しかし、少年たちはただ単純にわくわくと楽しみに待つだけではすまない。想像してしまうのである、期待してしまうのである、そして、不安にもなってしまうのである。
――もし、失敗したら、どうしよう?
一年生の頃なら手裏剣の的を外しても、笑っていられた。しかし。この実習で『的』を外したらシャレにならない。だいたい、外れた手裏剣の的はなにも言わないが、今度は『的』になまぬるく笑われ、『初めてなの?』なんて聞かれてしまうかもしれないのだ。
――そんな恥はかきたくない!
……また、そこにも、問題があって。
みんながみんな横並び一列で、似たようなものなら、いいのだ。みんなで恥をかけばすむ。だが。クラスに数人、必ず、『こいつなら大丈夫だろう』と思わせる大人びたヤツがいて。そいつに、やっぱりなまぬるく笑われながら『大丈夫さ、昔は俺もそんな失敗しちゃったもんさ』なんぞと言われたら。言われたら。頭では、『昔というほど、おまえ、トシ食ってたのかよ!』とツッコめても、実際にはみっともなさに消え入りたいようなみじめさをこらえつつ、真っ赤になってうつむくしかないだろう。
――楽しみだ、でも、心配だ。
思春期の彼らは惑う。
さて。
まがりなりにも忍びの道を志して5年と少々。
手をこまねいて恥をかく日を待っているのでは情けない。少年たちは考える、どうしたら恥をかかずにその素晴らしい授業を楽しみ、かつ、級友たちに余裕の表情を見せられるか。ある者は図書室にこもり男女の媾合を描いた文献をあさり、ある者は経験のある者に体験談をせがみ……そうして、悟る。これはやってみなきゃわからないじゃないか、と。
かくして、彼らはなけなしの小遣いを手に、遊郭へと繰り出すのだ。
何軒か紅殻格子を覗いた後、兵太夫はえいやっと一軒の遊女屋に飛び込んだ。
適当に古く、適当にこざっぱりとし、適当に間口の広いその店には、初めてこういう場所に足を運んだ者を怯じさせない、気安い雰囲気があった。
中は存外に土間が広く、兵太夫は沓脱ぎに足を掛けたものかどうか迷って、入ったところで棒立ちになった。だが、そんな気詰まりも一瞬。
「いらっしゃいませぇ」
かすれた、年かさの女の声がして、すぐに奥から遣手婆が顔を出した。
「あ……」
こういう場合、なんと言えばいいのか自分が知らないことに、兵太夫は初めて気づく。
八百屋なら『大根一本』と言えばいい、魚屋なら『いいサバはいってる?』と聞けばいい。だが……ここではいったいなんと言えば……
その兵太夫の逡巡も一瞬だった。上がり框近くに膝を揃えた遣手婆は素早く兵太夫の様子を見て取ると、
「おにいさん、こういう店は初めてでいはる?」
もの柔らかく問いかけてくれる。
「は、恥ずかしながら……」
思わず頭に手をやりながら答えれば、
「なぁにが恥ずかしいことがありますかいな。その若さで遊び慣れてらっしゃったら、そのほうが怖いやおへんか」
そう言ってもらえると、なんだか立つ瀬がある気がする。少しほっとしたところに、草鞋を脱ぐように勧められ、兵太夫は今度は気楽に沓脱ぎへと足をかけた。
「誰ぞ、気になる娘がおりましたか」
玄関脇の、紅殻格子に面した座敷を示されて、兵太夫はかすかに顔を赤らめた。実際に肌を重ねる相手として値踏みする、そのことにたまらない恥ずかしさを覚えて、通りを歩きながらも一人一人の娘の顔をしげしげと見ることはできなかった兵太夫だ。
「いえ……その……特には……」
「では、こちらでよい子を選んで……」
婆が言いさしたところだった、奥から幼子のかん高い声が響き、手鞠がひとつ転がり出て来た。タタタッと、軽い足音がそれに続いたと思ったら、おかっぱ頭の童女が鞠を追って飛び出して来る。
「これ!」
婆の叱責の声にも慣れているのか、童女は鞠を拾い上げても、きょとんと兵太夫の顔を見上げてその場を動こうとしなかった。
そこへ。
「こら。店には出るなって言われてるだろ」
張りのある少年の声がして……
兵太夫が自分の耳を疑うより早かった。
奥への入り口に垂れた暖簾がふわりと動いた。
「きり丸!」
思わず兵太夫は声を上げていた。え、と暖簾の間から顔を上げたきり丸が、すぐに笑顔になった。
「よー珍しいとこで会うなー」
「な、なんで、きり丸……」
別に悪いことをしているわけでもないのに、心拍が上がった。きまりが悪い。
「子守のバイト頼まれちゃってさあ。奥でまとめて見てんだよ」
「へ、へえ……」
その兵太夫の気まずさを見て取ったのだろう、きり丸は冷やかしめいた素振りは毛ほども見せず、鞠を手にした童女を軽々と抱き上げると背を向けた。
「ダチなんだ。おばさん、いい子を頼むよ」
一言、言い置いて。
遣手婆はわかっているよと手を振って答えている。
「それじゃあ、まず、お部屋のほうへご案内しましょうかねえ」
頭の中が真っ白なまま、兵太夫は二階へと通された。
なんで、なんで……頭の中がぐるぐるした。
なんできり丸がここにいるんだ。よりにもよって、筆下ろしをしようってその現場に。
ぐるぐるする頭の中に、これまたぱっぱっと浮かぶのは、かつて、ほんの一瞬だけ触れたきり丸の唇だ。……一度だけ、キスした。その相手だ。望みがないとわかっていても、でも振っ切れたわけではない、その相手だ。……今でも好きな、その相手だ。
よりによって、なんできり丸が、ここにいるんだ。
兵太夫の混乱が収まりきらぬうちに、さらりと襖が開いて妓娼が顔を見せた。きり丸の口利きが聞いたのか、ふっくらした頬が可愛い娘だったが、兵太夫には敵娼(かたき)の顔を吟味するゆとりなどない。ささやかなつまみで杯をやりとりしながらも、兵太夫は落ち着くことができなかった。
その困惑は、敵娼が「では、そろそろ」と、床の用意してある衝立の向こう側を指し示した時に頂点に達した。赤い襦袢姿もあだっぽい遊女、ひとつの床にふたつ並んだ枕、今から行われる、男女の……
――きり丸が、いるのに。同じ屋根の下に。きり丸がいるのに……
その、こわばりきった兵太夫の表情に、女は考え深げに小首をかしげた。
「おにいさん……わたし、ほかの子と代わりましょか。遠慮はいらんのよ?」
はっと兵太夫は顔を上げた。……代わる? 誰かと?
「じゃ、じゃあ! こ、ここで子守をしてる、き……!」
つい勢い込んで言いかけて兵太夫は口を押さえた。
女が誰かと代わると言うのは、敵娼を替えるということで……そんなところにきり丸の名前を出して自分はどうしようと言うのか。
「子守……ああ、きり丸」
女がいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「なぁにぃ、おにいさん、そっちが好きやったん?」
「あ、ち、ちがうっ! そ、そうじゃなくて……」
「ええよ。綺麗な子やもんねえ。おにいさんとはお似合いやわ。床入りまではできひんかもしれへんけど、話相手にはええと思うわ。呼んでくるね」
そう言うと、女は裾からちらりと白い足首を見せて部屋を出て行ってしまった。
――ど、どうしよう……!
兵太夫は落ち着きなく立ち上がった。
廊下に出て女を呼び止めようか。それとも、また来ますと言って帰ろうか。だいたい自分はなにを考えてきり丸の名を出したのか。咄嗟だった。それだけだ。あ。いや。きり丸にきちんと話をしたい気持ちもあった、うん。自分はただ筆下ろしをしたくてここに来ただけで、別にやましい気持ちじゃないってちゃんと伝えて……いや、そんな弁解をきり丸相手にしたって意味はない、それはわかってる、でも、自分は伝えておきたくて、だからきり丸の名前が出ただけで……あ、だからってなにを期待してるとかじゃなくて! ちがう! 自分は実習の下準備になればって……それだけ!
もう自分がなにを考えればいいのかすら、見失っている兵太夫である。
うろうろ落ち着きなく部屋を巡れば、いやでも用意されている床が目に入り、落ち着きのなさにさらに拍車がかけられる。
そのさなか。
「よー」
声とともに襖が開いて、兵太夫は飛び上がった。
振り返って今度は目を見開く。
なまめかしい緋色の襦袢、唇を彩る鮮やかな朱。
部屋に入ってきたきり丸は、その一瞬、兵太夫の目には確かに絶世の美女に見えた。
「おまえももったいないことするよなあ」
呆れたようなその声に、兵太夫ははっとする。
よく見れば……よく見るまでもない、きり丸は肩から襦袢を引っ掛けているだけ、その下の着物は先程見たのと同じ、当然、男物の小袖に袴。唇の朱も、殴り書きのようにはみ出て歪んでいる。
「こんなところまで来て、同級生の顔見て、どうすんだよ」
まあ座れと促されて兵太夫は再び膳の前に腰を下ろす。勝手にふたつの杯を満たしたきり丸は、にやっと笑った。
「緊張したんだろ、え」
確かに緊張はしたけど、きり丸がいなければ、こんな恥さらしなうろたえかたはしなかった。誰のせいだと思ってるんだよっ。ぶつけ返してやりたいその言葉を胸に、兵太夫はぐっと杯を空ける。
同じように杯を空けたきり丸は、べとりと杯についた紅に顔をしかめた。
「ったく。姐さんたち、おもしろがって」
「……それ」
「座敷に上がるんならきれいにしろって、おもちゃにされかかったから逃げて来た」
そう言って乱暴に口元をぬぐうきり丸を、兵太夫は見つめた。
――もし……もし、それがかなうなら……もし……
ダメでもともとでいい。
「……この店では……」
声が自分のものではないように強ばって低くなっていたが、兵太夫は続けた。
「この店では……子守もお客に売るの……?」
きり丸が黙って見返してくる。兵太夫はひるみそうになりながら、黒い切れ長の瞳を見つめる。
「……おまえさ、女買いに来たんだろ。実習の下準備じゃないのかよ」
「……そのつもりだったけど」
「なら、ちゃんと姐さんたちに相手してもらえよ」
「……できないよ」
そうだ、できない。兵太夫は腹を決める。
「おまえがここにいるのに、女の人なんか、抱けない」
「じゃあ、おれが帰れば……」
「忘れたの」
笑おうとしたけれど、口元がどうしてもこわばった。
「ぼくはおまえが好きだって」
ふう、ひとつ大きくきり丸が息をついた。
「……どう考えたって、不毛じゃん。遊女屋で同級生買うなんざ」
その言葉に兵太夫の頭に浮かんだのは学園での風景。食堂でも教室でも長屋でも、いつでも二人、余人につけいる隙を与えない親密さを隠そうともしていないきり丸と乱太郎の姿。
「じゃあ、どこでならきり丸、ぼくに買われてくれるの」
考えるより先に兵太夫は切り返していた。
きり丸の眼が丸くなり、すぐに兵太夫は自分の言葉を後悔した。一時期、きり丸が自分の躯を売り物にしていたのは、誰も公然とは口にしないけれど周知の事実で……――自分はなんてことを言ってしまったのか。きり丸の視線が痛い。空気が固まって、ピシピシとひび割れそうな気がするほどだった。
兵太夫は自分のせいで重くなった空気に負けて、うつむいた。
「……お願いだから……」
そんな眼で見ないで。
「……お願いだから……」
優しくしてくれなんて言わない。好きになってくれなんて言わない。ただ、ただ……。
「おまえのこと、もうあきらめるから。ほんとにほんとに、あきらめるから、だから、」
だから……一度だけ、一度だけ。
『一度だけ』その最後の言葉だけが、どうしても口にできない。もう兵太夫にはわからない。今までの自分の言葉をどうやったら冗談にできるのか。どうやったら……最初で最後の一度きり、それをきり丸にねだれるのか。
退くことも進むこともできない。うなだれているしかない兵太夫の耳に、かすかなため息の音が届いた。
「おまえの気持ちはわかるけど」
そうきり丸が切り出すのを聞いて、とっさに頭に浮かんだのは『ウソつけ』、だった。うまくなだめすかそうとしているのだと思った。片思いのつらさ、切なさを本当には知りもしないで、口先で丸め込もうとしているのだと思った。
が。
「おれ、客としてしか、相手してやれねえけど?」と、きり丸の言葉は続いて。
兵太夫は眼をまん丸に見開いて顔を上げた。
「……え?」
「だからさ」
きり丸は噛んで含める口調になった。
「好きとか、そういうんじゃなくてさ。買われてやるのはいいよ。おまえがそれを最初で最後の思い出にするって言うんなら、それはおまえの勝手。おれには関係ない。おれは客の相手するだけ。そういうんでもいいっておまえが言うなら……」
さすがにそこできり丸は口ごもり、視線を横に投げた。
だが、それで兵太夫には十分だった。
「い、いい! そ、それでいい!」
きり丸の気が変わらないうちに? それとも、自分のしてることが怖くならないうちに? 兵太夫はきり丸に抱き着いていた。
せっかく布団があるんだからさ、移ろうぜ? きり丸が言った。
衝立を回り込んだところで、兵太夫はもう一度、きり丸に抱き着いた。今度はそれだけではおさまらなくて、唇も重ねた。話に聞いたとおり、舌も差し入れようとして、勢いが余って歯がぶつかった。
ガチ。無粋な音が口の中に響く。
「……あせんなくていいから」
ちょっとあごを引いて、きり丸が囁く。
「もう一度……ゆっくり……」
ゆっくり……兵太夫は再び唇を重ねた。軽く、吸う。それは頼りないほど柔らかくて。感触を確かめたくて、兵太夫は重ね合わせを変えて、何度もきり丸の唇を吸い上げた。
唇の合わせがほどける。
誘いに、今度は歯をぶつけないように気をつけながら、舌先を熱い口腔に忍び込ませる。
初めて味わう、他人の口の中。歯列をなぞって、歯の並ぶ、堅くて整然とした感触に身震いした。柔らかに弾力のある頬の内側に、躯が熱くなった。ぞろりと、やっぱり舌に舌が絡んで来て、頭の中が真っ白になった。
口づけた。舌を絡ませた。
「……ふ……」
かすかな息継ぎを耳にして、もう、こらえきれなかった。
兵太夫は布団の上に、きり丸を押し倒した。
触れ合った頬のあたたかさに目がくらむ。首筋の滑らかさとあごの下の柔らかさがたまらない。
夢中で、頬を擦り寄せ、ところかまわず唇を押し付けた。
「ちょ……たんま!」
制止に、初めてはっとして兵太夫は顔を上げた。態勢にも初めて気が付く。
「え、あ、ぼく……!」
慌ててきり丸の上から飛びのく。
「いや、それはいんだけど」
きり丸は苦笑している。
「痕がつくとまずいから」
「痕?」
「吸うと痕になるから」
言われて初めて、自分の行為と、友人たちの肌の上に時折目にする、赤紫色の小さな鬱血の関係に気づく。
「あ!」
かっと顔が熱くなった。
「ごめ……!」
「謝らなくていい。悪い、こっちもバレたくないんだ」
うん、そうだね……。兵太夫はうなずく。きり丸の肌に、自分がつけたものではない痕があったら……乱太郎はものすごく怒ると同時、傷つくだろう。
乱太郎ときり丸は、恋仲だ。両思いの。……それを、知っていて。わかっていて。それでも。今、目の前にいるきり丸が、欲しかった。学園に戻ったら、もう二度と、絶対に、二度と、こんなチャンスはない。
「……でも、これは……」
きり丸の腕が伸びてきて、腕を引かれた。
真っ黒な瞳が痛ましいような色をたたえて、見上げてくる。
「これは俺にとっては、商売だ。働きに来た店で、俺を望む客がいた。そういうことだ」
兵太夫。
きり丸の唇に名を呼ばれた。
「おまえ、本当にそれでいいか? それでもいいのか?」
こくりと兵太夫は唾を飲む。
きり丸の艶やかな黒髪が、乱れて床の上に広がっている。意志の強そうな、黒い瞳。きついセリフを紡ぐ、形のよい唇。伸びやかな手足。
――欲しかった。触れたかった。
そう思うことすら自分に禁じてきたものが、今、無防備に、自分の躯の下にあった。
「……いい。……それで、いい」
震える声で兵太夫は答えた。
それで、いい。それでも、いい。――おまえが、欲しい……
小さなため息が聞こえたような気がしたけれど。 体重をかけたら、きり丸の躯が柔らかくなった。
腕がふわりと弧を描いて、背中に回った。
受け入れられているのを感じながら、兵太夫はのめりこんだ。
自分に向かって開いている躯に向かって……
なんだか、やたらと、頭が熱くて。 ふわふわと熱でもあるような状態に、時折、激しすぎる刺激が加わって、意識が千切れる。
切れ切れな記憶の中、兵太夫の脳裏に残るのは…… 笑みを浮かべていたきり丸の唇。 腰のものを含んで上下していた、艶やかな黒髪におおわれた頭部。
かすかにひそめられた眉間。耐えかねたように漏れた呻き。 ……なめらかな太股の内側の白さ。 ……己のものを飲み込んだソコの、きつさと熱さ。 それから、それから……
果てた自分を抱き締めてくれた、腕の優しさ。 初めて見るきり丸の顔と、初めて聞くきり丸の声が、兵太夫の初めての交情の、記憶のすべてだった。
気だるげに躯を起したきり丸が、首に絡みついた髪を払う。ありあう紐で高く髪を結うその姿に、兵太夫は夢の終わりを知った。
きり丸は小袖を手に取る。その手触りが、まだまざまざと残る背中が衣に隠れる間際、後ろから抱きつきそうになった。 必死でこらえる。 せめて、せめて。
かなわぬまでも、せめて。格好を、つけたかった。 今一度、しっかりと抱き締めたい衝動をこらえて、兵太夫は、 「ありがとう…」 礼の言葉を搾り出した。
「ああ、うん」 応えたきり丸が、金額を口にする。 「あ…ちょっと待ってね、今……」 慌てて衣の中から財布を引っ張り出し、中を探る。
……かなわぬまでも。せめて。少しは。格好を。なのに、視界がじわりとにじんだ。
ああ、だからか、と思った。 だから、きり丸は何度も聞いてくれたのだ。商売だぞ、と。それでいいのか、と。 初めて交わった。好きな人と、交わった。
それを金で購うみじめさを。つらさを。むなしさを。きり丸は知っていたのだ。 それでもいいと答えたのは、自分。 自分だ。 わかっていても、涙は止まらない。
ふわりと後ろから抱き込まれた。
「忘れな」 優しい、でも、残酷な声が囁いた。 「金で買ったヤツのことなんか。店出たら、忘れろ」
――忘れたくなんかないと思った。覚えていてやる。おまえの熱さも、柔らかさも、なめらかさも……吐息の震えも、放った声も。忘れるもんか。
でも、それを言ったら、後ろから回る手は、すぐさま離れて行きそうで。 ……今だけ。……今だけ。 金で買った最後の時間。 兵太夫はきり丸の腕の中で、
涙をこぼした。
了 |